前回のブログに出てきた、収容所記念館が語ってる無言のやり取り、「てめえら忘れんなよ」、「はい、忘れません」について、少しだけ補足説明をしておきたい。(はじめて本ブログをお読みになる方は、前号を参照して下さい)

「オレたち忘れないからな」が、人間としての自らへの戒めであるなら、それは意義深いことだ。自らの痛みを知っているからこそ、他の人を傷つけるようことはしないからだ。

しかし、これがある特定の国籍の人間をカテゴリーに分けて罪の意識を感じさせるならば、また、わずかでも怒りを内在させているならば、そこにどれほどの意味があるだろう? 結局、被害者の顔をしながら他を傷つけるような真似をしてしまうのではないだろうか? (イスラエル政府によるパレスチナ人弾圧のように)

それに、「てめえら忘れるなよ!」を言い続けるならば、犯罪加害者の子孫は、被害者の子孫に対して永久に顔を上げられないことになる。

そして、こうした精神構造を、歴史という神話が作り出すならば、それは人類にとって、健康的なこととは言えないのではないか、と思う。

例えばTTという著名な知識人が、「日本は東南アジアで酷いことをしたのだから、広島のことで文句を言うな」などということを書いていた。僕は、「何とバカなことを言う人だろうか?」と思った。

もしその論理がまかり通るならば、以下のようになる。

TTの祖父が人を殺したら、その被害者の子供がTTの子供を殺しても、TTは警察に訴えず、何の文句も言わずに泣き寝入りしなければならない。

一体TTという人には、日本軍によって起きたことと、広島の子供たちが原爆で苦しんで死ぬことが、何ら因果関係をもたせるべき話ではないことが理解できないのだろうか?

僕は、この収容所に漂う無言のやり取り、「てめえら忘れんなよ」、「はい、忘れません」には、TTのようなアホな理屈に陥る危険性を感じたのだ、、、。

もうホントに人間をカテゴリー分けにするのは、ばかばかしいから止めにして欲しい。そう、つくづく思う次第です。

と、ここまでが前回のブログの補足説明でした。

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<収容所を後にした時の写真。僕はガイドとも率直に疑問点を話し合った。彼女は公平で、わりとものわかりの良い人だった、、、>

 

さて翌朝、僕はホテルからセンターまでの10分ぐらいの道行きを歩いていた。ウィーンの街並をゆっくりながめなら、テクテクと歩いた。

そして歩きながら僕が何てつぶやいたかと言うと、“ああ、旅したいなぁ〜”である。(タハハ、、、)

僕がヨーロッパ3カ所を巡回していると聞くと、あっちこっち旅行ができて良いですねー、と思う人がいるかも知れない。

しかし僕にとって、旅は自由気ままに歩き回ることだ。だから、今は「旅」ではないんですよねー。例外的に数時間のぶらぶら歩きができることもある。でも通常は、ホテルとタオサンガ・センターとレストランしか知らない。

しかもやっていることはミーティング、念仏、法話、ワークショップと、日本とまるで変わらないのだよん、、、。使っている言葉だってタオサンガ用語だし、英語でしゃべっていることも忘れてしまうから、感覚としてはまるで金太郎飴のように同じなのである。

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そんな僕のささやかな願いは、海外でもチャリティックス・プレイヤーが増えて、みんなが僕より強くなったり ^ ^ ;)、あるいは互角で気ままなプレイできるようになることである。

というわけで、金曜日は気心道と念仏ワークショップを一日中。夜はアリスが、「チャリティックスやろう、やろう! みんなでやろう!」とアルフレッドに詰め寄り(おお! アリスはやっぱり親友だ)、チャリティックス研究会になった。

そこで知ったのだが、ドイツ語で戦車は「パンツァー」なのだ。(子供のころ、ドイツ軍のパンツァー戦車のプラモデルを作ったような気がするけど、あれって、「戦車の中の戦車」という意味なののかなー? まあいいや。とにかくアリスは、いい奴である。さぞかし、医者としても立派に違いない。アハハ)

注:チャリティックスとは、僕が考案した戦略ゲームのことである。

アルフレッドは、最初は頑固者よろしく「戦争ゲームなんて、、、」などと、ぶつくさ言っておった。(そのため「この頑固もの!」 とか、「全国良い子ちゃん協会会長!」などと僕にからかわれており、本気でイヤそうだった。ふはははは)

しかし次第に熱中していき、突然才能が開花。なんと天才的な技を見せ、毎回勝ち続けたのである! これにはビックリ!

 

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<オリバー(左手前)もなかなかやり手である>

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<左がウィーン生まれのトシさん。ただ今、チャリティックス練習生>

 

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<チャリティックス大好きっ子のアリス(右)>

 

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<観音くん(5才)もチャリティックス・デビュー>

 

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<天才的な技を発揮したアルフレッド。日本チャンピオン高山豊希氏との試合が望まれる>

 

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<ウィーンにもあった、反モンサントの看板。同社のラウンドアップという除草剤は危険だというので、ヨーロッパだけでなく、スリランカでも正式に使用が禁止された。でも、日本のホームセンターでは普通に売っている。- – ;)>

 

さて話は戻るが、土日の2日間はタオ指圧ワークショップだった。(一応、チャリティックスだけでなく、こういうこともするのだ)

ワークショップでは、念仏行における心の集中とタオ指圧の心のあり方が同一であり、両者が不即不離の関係であることを体験してもらった。(これは、最近生まれた全く新しいタオ指圧の技法に基づいたものである)

タオ指圧もやっとこさ、完成の領域に入って来たようだ。あとは、皆さんが念仏三昧と利他行に生きるかどうかですね、、、。(僕はチャリティックスに生きるぜぃ!)

月曜日は、4時まで観光客になれた! うぅ、超うれしー。
方向音痴には、ずば抜けた才能を持つ僕だが、地図を片手に歩き回り、ステファン寺院を目指した。

バスに適当に乗って、降りるときに払おうとしたら、バスの上では払わないらしく、トルコ人っぽい運転手が、親切に無賃乗車させてくれた。

トルコ人は日本びいきである。というのは、トルコは日露戦争で日本が勝ったためにロシアから独立することができたからだ。僕もトルコびいきだ。なんと言ったって、トルコ料理はうまい。バスの運転手も親切だし。^ ^) / (←勝手にトルコ人と決めつけるな)

火曜日は、やっと夏らしくなって来た!
今日は一日ミーティングである。

 

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<数時間の自由を満喫する>

 

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<お上りさんは、わけもわからず写真を撮る>

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<やっとついたステファン寺院(ウィーン観光の中心地)>

 

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<いくらお上りさんでも、馬車に乗る勇気は、、、。ちょっと恥ずかしいもんな>

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<この辺もウロウロ>

 

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<街の間のレストランに1人そっと入って、ランチを注文する。ふふふ、ビバ自由!>

 

 

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<前回の続き>

収容されていたのは、ユダヤ人だけではない。ナチに反対したドイツ人やオーストリア人などや共産党員などもいた。当時の政治犯もいたし、殺人事件を起こした犯罪者もいた。戦争で捕虜になった人や、何の罪もないのに、ナチによって社会不適格者の烙印を押された人たちもいた。

それにも関わらず、記念館には、ユダヤ人強制収容所のイメージがどこまでもつきまとっていた。それは、ハリウッド映画で観た、ユダヤ人強制収容所のイメージそのままなのだ。

もちろん悲惨であることに変わりはない。しかし、広島の原爆ドームと訴えているものが、どこか違うのだ。

というのは、原爆ドームのように平和への願いや戦争をすること自体の否定よりも、むしろ「てめーら忘れるなよ」。「はい、忘れません、、、」という感じ。そんな無言のやりとりが為されているような気がしてならなかったのだ。

 実際まあそうだろう。ドイツ人やオーストリア人はうなだれ、ユダヤ人や戦勝国は、「オレたち忘れないからな」状態になる。

 

 

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<ガイドの説明は続く。ここは人が縛られて長時間立たされていたところ>

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<沈痛な顔で説明を聞くアルフレッドとウィーン在住のトシさん>

 

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<シャワー室。といっても冷水をかける拷問の道具にもなったそうだ。右はイスラエルから来た訪問者>

 

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<柱にヘブライ語で「復讐」と落書きされている>

 

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<遺体焼却場>

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<ガイドの説明は尚続く。このときのイスラエルからの訪問者は、ガイドの話をろくに聞いていなかったので、”失礼な奴!”と僕はちょっとムッとしたが、、、>

 

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<収容者、全員の名前を刻んでいる。「殺人犯の名前も刻んであるんですか?」という僕の問いに、ガイドの女性は、「そうです」と。悪いことではないが、イスラエルにあるホロコースト記念館とまるで同じなので、僕は???>

 

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<ガス室。もちろんここは、、、。ところでオーストリアでも近年、ヘイトスピーチが盛んで、「トルコ人はガス室へ」という落書きがこの収容者の塀にしてあって、ニュースで大問題になったそうだ。パレスチナの分離壁にも、「アラブ人はガス室へ」というイスラエル側からの落書きがあったのを思い出した。僕は、”てめーが行けよな!”と返事を出したいぜい。もっともヘイトスピーチは、裏で政治的な意図をもって操っている奴がいて、それに踊らされている困ったちゃんたちが、少しはいるという構図だと思う。だから収容所の落書きも、裏で誰かがやらせているのかも知れない>

 

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<絞首台、、、。>

 

収容所記念館の建設には、政治的意図があったのではないか? という疑問が僕にもたげて来たのは、これが作られたのが、戦後わずか3年と聞いてからだった。

戦後の荒廃した状況の中で、食べ物さえまともに供給できなかったときに、なんでまた? 敗戦国であるオーストリアのどこにそんなものを造る余裕があったというんだ!? 一体、そのお金はどこから出て来たんだ?

そんな疑問が湧いて来て、「記念館を作るお金を出したのは?」とアリスに聞いたら、「アメリカのユダヤ人協会でしょう。」との返事、、、。

そもそも、強制収容所の跡地なんて、ドイツの一部だったオーストリアにとっては、恥の象徴みたいなものである。(も し、そういう建造物を作るのが当たり前だったら、先住民族虐殺記念館が、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドにできていなければならな い。)言わば、南京虐殺記念館※を、日本が自ら率先して作ったようなものだ。自国の恥をさらすようなものを率先して作る国があるはずないではないか?

※ 日本軍によって30万人が虐殺されたとされる南京事件だが、歴史的照査に関しては、9. 11のように疑問点が多い。(一例として上げると、国際委員会の活動記録で南京陥落時の人口は20万で、翌月には25万人に増えている)

中国には南京虐殺記念館があるが、こ れが作られる経緯には、反日教育によって国民の意志をまとめるという政治目的があったのではないか?とも思う。

9.11によってブッシュはテロとの戦いを宣言し、国民を自由に拘束できる法案などを可決させた。ブッシュはこの時、自らを十字軍に例えたが、これは人々にアンチ・イスラムの イメージを刷り込むためだろう。

これはまさにナチによる反ユダヤ・キャンペーンと同じ手法である。おそらく彼は、敵を作ることが人々を思い通りに動かすのに、最も都合が良い方法だと思ったのだろう。

さて話は戻るが、そもそもここはユダヤ人強制収容所ではない。いわば網走刑務所のような収容施設だ。そこを記念館とした。そして「ユダヤ人強制収容所」というイメージで誰もが見に行っている。僕には、その不自然さが、どうしても否めない感じがした。

だからか、収容所の中にヘブライ語で、「復讐!」と落書きがしてあった。おそらくイスラエルからの訪問者が書いたものだろう。

おいおい、これは歴史的展示物だろう。落書きなんかしちゃって良いのかね? と思いながら、僕はうんざりするような気持ちだった。

だって、収容所を作ったのも人間だし、入っていたのも人間だろうが。一体、誰が誰に復讐するっていうだよ。人間が人間に復讐するのかよ? まったくもう!

この収容所記念館は、もしかしたら政治的意図があって作られたものではないのだろうか? 僕はふとそう思ったのだ。たとえば日本政府は、中国から教科書問題を出されるたびに、まるでパシリのように中国にお金を出し続けたが、ヨーロッパ人もまた、過 去のユダヤ人への罪悪感があって、イスラエルがパレスチナをいじめ続けるのを横目で見ながらも強いことが言えない。

ヨーロッパは昔から、キリスト教会が 率先してユダヤ人を迫害して来た歴史がある。大戦中もバチカンは、ナチのユダヤ人虐殺を知りながら見て見ぬふりをしていたのである。

ホロコーストの結果、あるいは強制収容所を見せつけた結果(なのかどうかはわからないが)、西欧の支援を受けてイスラエルは建国された。そしてナクバ(注)が起こり、多 くのパレスチナ人が殺されたり難民となったりした。

そして今もなお、占領と空爆その他で苦しんでいる。パレスチナ自体が大きな収容所みたいなものになって いるのである。しかしマスコミは、あたかもパレスチナが独立国でイスラエルと対立しているというイメージを人々に刷り込んでいる。

※ナクバとは、アラビア語で「大惨事」という意味。だが今では、イスラエル建国によって80万人〜100万人のパレスチナ人が家を追われて難民になった、その歴史的なできごとの代名詞となっている。

さて収容所記念館は、果たしてその意図の通りに(?)、一方では人に罪の意識を誘い、一方では人の怒りを誘っている。僕としては、今でも政治の道具として利用されている死者が、本当に気の毒だとおもった。

収容所記念館の礼拝堂で、僕は自分の疑問について話し、しばしディスカッションとなった。その後は念仏して、みんなもスッキリした。少しは死者の魂が休まったり、救われりしたのだろう。

やはり念仏は良いなー。来年、ここで念仏回向の法要をすることになる。タオサンガのキャラバンによって、この記念館が、人の怒りを誘うためでなく、人類の平和のために使われたのなら、死者も喜んでくれるだろう、と重く思った、、、。

 

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<まあじゃあ、ここらでボチボチ念仏でもしようか。それがいい、それがいい、と。>

 

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<ということで念仏>

 

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<では撮影>

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<「みんな、もっと明るい顔でとろうぜ!」と僕は言うが、なかなかならない。まあ無理もないか、、、>

 

しかし僕が思うに、本当に重いのは歴史ではない。歴史という物語を書く側の意図である。

歴史は戦争の勝者が作った夢物語と思った方が良い。僕はそう思っている。
(そもそも今日本に住んでいるわれわれ“日本人”は、おそらく百済から来た人間たちだろうしな。ネイティブな純日本人は、アイヌ人なのである)

ビルマでの英軍の虐殺も、フイリッピンでのマッカーサー軍による虐殺も、酷いものだったらしいが、実際に歴史として残っているのは、日本軍の酷い行為だけである。

だから日本人の僕は、「わーれーは海の子〜♫」ではなく、「わーれーは罪の子〜♫」なのだ。16歳の頃の僕は、東南アジアの人たちに、本気で土下座して謝って回りたいと思っていたぐらいである。(当時これを言っても、誰も僕が本気だとは思ってくれなかったが、、)

このブログの最初の書いた、この収容所の「てめーら、忘れんなよ」という言外のメッセージだが、僕には以下のように聞こえてしまうのだ。つまり、、、。

かつてA人はB人を殺した。だからB人の子孫は、今後もA人として生まれた人間に対して、「おめえら忘れんなよ」と言い続けるぞ。そしてA人の子孫は、代々これからもずっと、B人として生まれた人間に対して、罪の意識をもたなければならないのだぞ、と。

かつて知の巨人として日本で有名な人間(名前は伏せる)が、「日本は東南アジアで酷いことをしたんだから、広島のことをとやかく言う権利はない」などと書いていた。全くむちゃくちゃな話である。まるで、「日本人の父親が東南アジアで酷いことをしたから、広島の子供たちは原爆で殺されても文句は言えない」と言っているのと同じようなものだ。「加害者の子供は死んで当たり前」ということなら、まず、自分が切腹すべきである。(あっ、ちょっと怒っちゃった)

しかも、話が飛んでしまった、、、。(反省!)
人間をカテゴリーに分けるのは、一番愚かなことだ。
「何々人」という民族カテゴリーや、その他、様々なカテゴリー分けがある。性別、年齢、学歴、出身、その他もろもろ、、、。

あぁバカバカしい! 分別ゴミじゃああるまいし。人を分けて観る奴はバカだ、と心底思う。だいたい、そんなものの見方をしていると、運気が落ちるぜい。

世界のあらゆる問題は、そんな小さなところから生まれている。このことを人は意外と知らないのではないか? (これはとても大切なことなんだけど) だから、人をそんな風に見るのをやめよう、と僕は言いたい。

ほんとうに言いたいのは、「あたかも樹や花を見るように人を見て、運気を上げよう! 」である。

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第二次世界大戦当時、ヨーロッパには多くの強制収容所があった。その跡地の多くは記念館として残されているが、ウィーン近郊にもある。タオサンガで計画している来年のピースキャラバンで、法要を行う予定の場所である。

今日は、そこを訪ねた。英語のガイド付きである。ただし寒い! 雨も降っている。まあ寒さに震えるのは、当時に収容者の気持ちに、1億分の1でも近くて良いのかも知れない、と思った。

運営していたのはナチ親衛隊、悪名高きSSである。当時の収容人数は20万人で、10万人が亡くなったという。収容されていたのは、ユダヤ人だけではない。一般の凶悪犯罪者もいた。

また共産党員、政治犯、ジプシー、障害者など、いわゆるナチの教義では、社会人不適格者の烙印を押された人たち。その他、ロシア兵など、諸国の軍事捕虜も収容されていた。

広大な施設ではあるが、小学校の教室みたいなところに詰め込まれていた人数を聞いて驚いた。何と1000人である。半端な数ではない。狭いベッドに2人で寝かされていた。また、床で寝ていた人も多かったそうだ。

 

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<収容所の入り口に向かう、タオサンガ一行>

 

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<ガイドの女性から説明を受けながら周る>

 

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<ユダヤ教を象徴する燭台の形をしたオブジェ>

 

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<手前はアリス。寒く雨も降っていた。帽子をかぶっている>

 

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<収容所の中>

 

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<監視人用の入り口でも狭い>

 

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<この部屋に1000人が詰め込まれていた、というから驚きである>

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<狭いベッドに2人が寝かされていた>

 

ここは、すべてが当時のまま残されている。オーストリアの中高校生は、授業の一環として、必ず一回は見学に訪れることになっているそうだ。

この記念館(というか記念施設)ができたのは、大戦終了後のわずか3年後だという。

雨の降る寒い中を、薄着で3時間ほどガイドの女性につれられて歩き回った。(途中、アリスが防寒着を車から取って来てくれた)しかし時間がたつに連れ、やがて僕の中に、ある疑問が芽生えて来た、、、。

 <続く>

 

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着いたらすでに夜。もう5月中旬だというのにウィーンはまだ寒かった。

ウィーンの空港には、アルフレッドとアリスが迎えに来てくれていた。アルフレッドは、ウィーン・タオサンガセンターの道場主。アリスは、女医でタオ指圧をやっている念仏者だ。

 

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<アルフレッド/ 頭が大きいので地蔵というあだ名がある。元ジャズのピアニスト>

 

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<アリス /  チャリティックス大好きっ子>

 

最初にアリスに会ったのは、2003年。タイで開催された、第一回目のタオ指圧世界大会のときである。その時はまだ医学生だった。

また彼女は、無類のチャリティックス(僕が考案した戦略ゲーム)好き。だから僕にとって、親友みたいなものといえる。

本人曰く、2003年のタイ大会でチャリティックスやって、「ああ、私はタオサンガにいたい!」と思ったそうである。

タオサンガは、おマジメな修行集団でなかった(今もそう)。戦争ゴッコみたいに「バン!バン!」なんて、まるで子供まるだしである。みんなで遊んでいる姿が、彼女をホッとさせたとのことである。

中には、「戦争ゲームをするなんて、、、」と眉をひそめる人もいるだろう。なに、かまうもんか。そういうのでホッとする、粋な仲間だっているんだから。

また、アリスの念仏での神秘体験については、和田寺で発行している「寺がーる」というフリーペーパーで、三号に亘って紹介された。ご存知の方も多いと思う。

 

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http://taosangha.com/temple-girl/vol-04/

市内に入ってから、遅い夕食を食べに行った。まだ時差ボケだ。3人で四方山話をした後は、ホテルにチェックイン。

バスタブに浸かっていたら、いつのまにか眠ってしまった。ふと気づいてベッドに倒れ込んだつもりだった。すると今度は、電気をつけたまま眠ってしまった。日本でもギリギリまで、なんだかんだやっていたからなぁ、、、。

翌日からはミーティングで、夕方からは、法話と念仏ワークショップである。

ワークショップをやる前、「3時間もどうやって時間を持たせようかな、、、」なんて、ちょっと弱気になっていた。だが気づいたら、休みもなくいつの間にか3時間以上たっていた。

あれま、驚きましたね! きっと参加者が、集中力をつけて来たんだろうな〜。参加者が、あっ!と言う間だった、と言っていたから。

<続く>

 

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弁解じみていて申し訳ないんだけど、長い間、ブログを書かなかったのは人生をさぼっていたからではないんだ。

 逆にいろんなことがあり過ぎて、、、ということもある。別の原稿に時間とエネルギーを注いでいたということもある。「自分のやっていることを書くことに、果たして意味なんかあるのかな?」という疑問に少しばかり襲われていたこともある。

 しかし、まあお許し頂きたい。

 さて、バングラディシュの続き、、、、。その後、コックスバザールでさらに活動を続け、ダッカへ移動して一泊。市内をうろついてからバンコクへ飛び、パタヤで数日過ごして帰国した。

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 〈仏舎利塔の横で、チョコロンギー村の学校開設地を再検討〉

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〈校長先生(写真右)は課外授業として、チャリTXを取り入れると話す〉

ラジョーさんお別れ

〈コックスバザール空港で。悲しそうに見送るラジョーさん〉

ダッカ市内

〈そして、ダッカへ〉

だが!、、、暑かった東南アジアからいきなり大雪の東京!

(東京でタオ指圧のクラスを4日間やることになっていたのだ)

 

僕はアジアの旅の軽装。

雪のぬかるみに足首までつかりながら、朝、道場へ向かったのだった。

 

その後、京都へ戻り、”ああ、やっと休める!”と思ったら、なんと土日の念仏会。

けっこうハードなワークのリーディングをやってしまった。

いやワーク•リーディングだけやって、あとは帰って休めば問題なかったのだ。

 

しかし僕は、遊びにも手を抜かない主義という、この辺に関しては妙なこだわりがある。

それで、夜はみんなと居酒屋へ行って、チャリティックス•ゲームなんてやって遊んでしまったからもういけない。とうとう何年かぶりで風邪を引いてしまった。これではまるでバカ丸出しである。週末からは、博多でワークショップとライブまであるというのに、、、。タハハ。

 

金曜日に、風邪を押して博多に向かう。そして土曜日は、りーぶろという書店で、ブッダと気の幸福力のワークショップ。その後のライブまで、何とか無事勤めることができた。もう、感謝、感謝である。

 

博多では、懐かしい顔ぶれとも久しぶりに会うことができたが、ライブ後の打ち上げはさすがに大事を取って休むことにして、翌日、帰京。

 

さて今回の旅のすごろく。

博多→バングラディシュ→タイ→東京→京都経由→博多→京都(上がり)

 

京都に帰って、「やっと休めるぞー」、とは思ったものの、その後は、東京を行き来したり、僕のライフワークであるチャリティックス•ゲームに関する原稿に没頭していた。

 

そして気づいたら、いつの間にか、ヨーロッパ講習ツアーの日が近づいていた。

何と! あさってからである。

 

今は東京で土日のクラスを講習中。明日の夜、京都に帰り、明後日はもう関空からウィーンへのフライト。

 

というわけで、ブログの続きを書くのは、今しかなかった。

ヨーロッパから帰って来てから、バングラディシュの話なんか書けるわけないしね。

 

今回は弁解に終始してしまったブログでしたが、読者の皆さん、ごめんなさい。

では続きは、ヨーロッパで!

 

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クルスクル村の学校でも同じように活動した。子どもたちと会い、聞き取り調査をし、先生たちとミーティングを行うのだ。

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しかしミーティングをしていても、ラカインの人たちは慎み深いというか遠慮しいである。こちらから要望を聞いても、なかなか返事をしてもらえない。

僕は強く訴えなければならなかった。「僕たちの目的は同じです。それは、ラカインの子どもたちの将来のためです。そのために、お互いここミーティングしているんです。だから遠慮していないで、ちゃんと要望を出して下さい」

その結果、ようやく以下のようなものが出された。

1)親が助かるし、アイデンティティー形成にも良いので、学校の制服が欲しい。

2)独立記念日に運動会をやるので、賞品を買いたい。

3)卒業生だが、家が貧しいために上の学校の学費に苦慮している。サポートをして上げたいが、何とかならないか?

僕らは以下のように答えた。

1)制服については、予算を組みすので、見積もりをお願いします。

2)運動会の賞品は、ラジョーさんと一緒に買い物にいって下さい。

3)その子の写真、プロフィール等の詳細なデータを下さい。ラジョーさんが面接した上で、NPOユニが支援してくれる里親を探します。

その後、ラジョーさんが定期的にチャリティックスと念仏を教えに来ることなどや、今後のいろいろなことについても話し合った。

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<教室で、日本から持って来た“はちみつキャンディ”を配る>

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 <おみやげを喜ぶ子ども>

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<うあ、おいしい!>

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<いろんな年齢の子が通っている>

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 <実は校長もチャリティックス大好き!>

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次にチョコロンギー村を回った。クルスクル村から、さらに河を越えて行ったところだ。昨年は、ボートで渡った。でも、今年になってようやく橋が完成。思ったより短い時間で着いた。

ここは昨年、ラカイン仏教福祉協会の長老たちにサポートを要請され、調査に訪れていたところだ。

そのとき、村の主だった人たちが集まり、かなり具体的な話までした。しかしその後、進展がないままだった。僕は今年こそ、実現に向けて動きたいと思っていた。

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<この村には、河を越えて行く>

昨年、僕らは村のリーダーたちに、村の孤児たちのリストを集めることを依頼していた。今年行ってみると、それらのリストはすでにできていた。17人の孤児(片親のいない子も含む)がいるという。

学校として使う建物の候補を見に行く。でも、うーん、ちょっと狭いなあ。という感じだった。その場でずい分議論した。しかし、最適な学校候補地についての結論は出なかった。(後日、仏教福祉協会を通してお寺と交渉。その結果、お寺に併設された建物を学校として使うことになった)

村でのミーティングのとき、村のリーダーの言葉が僕の心をついた。

「10年以上前まで、ワールド・ビジョンという団体の援助で、学校を開けていたこともあった。でも期限が来て打ち切られてしまったんだ。ワールドビジョンって、キリスト教の団体だろ。でもNPOユニは仏教の団体だ。ユニがラカインの仏舎利塔を修復してくれたことは、村のみんなも知っている。仏教の団体からの援助なら、たとえ1円だってオレたちは嬉しいんだ」

 チョコロンギー村。新しいラカイン・ユニ小学校の開校だ。

 

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<とことん話し合う>

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 <最初の話し合いで出た候補地>

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<これではちょっと、狭いですねー>

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 <仏教の支援団体が来てくれたのは初めて、と語る村長>

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 <孤児の1人。この子も里親が現れるのを待っている>

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ほんの1年前までは、毎朝5時に街中に鳴り響くコーランの大音響に起こされていた。それが今年からはすっかり静かな響きになった。

おかげで眠れるようになった。そんなところにも、バングラデッシュの最近の変化が感じ取れた。

 さて、朝起きて居間に行くと必ず見る光景は何か? ラジョーさんの息子セナ君(7才)が、熱心に研究している姿である。夜も寝るまで研究し、学校からから帰ったらまず研究。ひたすら研究の日々なのである。

研究って何を? ゲーム・チャリティックスの戦法である。一人で黙々と研究している様は、まるで将棋のプロ養成所、奨励会の少年のようである。そして実際、普通の大人ならまず勝てないほど強い。デフェンスなどは、チャンピオン・レベルである。

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<セナ君(左)は、朝から晩まで熱心にチャリティックスを研究している>

朝は居間で、ラジョー一家と日本からの一行の4人、総勢8人で念仏のお勤めを行う。(子どもたち2人も参加している)そして、簡単な朝食を済ませると出発である。 今日からは村をいくつか回り始める。

ガタガタと砂埃を上げて走って行く車の中で、まだかな? 着くのはもうじきかな? といろいろ思うのを諦めた頃。やっと着くのが、チョドリパラという村。

NPOユニが運営しているラカイン小学校があるところだ。片道3時間半の道行き。道が良いわけではないから、まあ楽な道程というわけではない。

子どもたちのお出迎えを受け、挨拶やお話しをしたり、お土産を渡した。またチャリティックスで遊んだりした。

その後は、新しく赴任した僧侶を交えて先生たちと懇談。そして、17人の孤児(両親、または片親のいない子どもたち)一人一人と会って、将来の夢などの聞き取り調査を行った。

このファイリングを元に、帰国後、この子たちの里親(月3000円+NPOユニの月会費500円)になってくれる人たちを日本、北米、ヨーロッパで募るのだ。

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 <車はただひたすら走る>

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<諦めた頃にやっと着く>

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<歓迎の花を差し出してくれる子どもたち>

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NPOユニは、2007年から、バングラデッシュの少数民族・仏教徒であるラカイン人のための小学校を支援している。

里親からの支援は、孤児たちの学費や食費の他、今後開校する新しい村の小学校の先生たちの給料(政府から援助はない)にも当てるなど、学校の運営費になる。

ユニセフなどの大きな団体だと、経費の占める割合が極めて大きいようだ。(まあ無理もないのかも知れないが)その点、NPOユニは違う。里親からの3000円は、そのまま孤児とラカインの小学校のために使われるのだ。

そしてここはさらに自信持っちゃうところだが、里親には3ヶ月ごとに子どもからの手紙、写真、先生からの簡単な報告等が届く。

ラカインの村は、全部で17。しかしその内、ラカイン小学校が開校しているのは、NPOユニが支援している2つの村だけ。

こんな辺鄙なところには、海外からの支援もあまり届かない。でも、NPOユニは、今後他の全部の村の小学校も開校していくつもりだ。

ミャンマーから来たという新しい若いお坊さんはマジメそうな人で、僕はとても好感を持った。今後、学校の運営にも積極的に関わって欲しいと思う。

僕は先生たちに、「必ず、子どもたちが英語を普通に話せるようにして欲しい」と要求した。そして、英語の先生をもう1人増やすことを提案し、以前いた年輩の先生を呼び戻して欲しい、とも伝えた。

村でお昼を頂いた後は、少し休み、家路に着く。再び3時間半の道行き。途中、ミスター演説ことカリム氏の事務所に寄って大歓迎を受ける。

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 <新規赴任のお坊さんを交えてミーティングする。僕は先生たちに、子どもたちにはぜひ夢を与えて欲しい、と熱心に伝える>

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<“NPOユニの皆さんには、心から感謝しています”と新しいお坊さんは語る>

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その後、孤児たちにも1人1人会って、夢を聞いたりなどのお話しする。以下は孤児たちの一部の写真。

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<“夢に向かって、走れ少年!”>

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 <この子らの“未来に幸あれ!”と願わずには、、、>

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<“この子たちの里親になって、夢を与えてくれる人を探そう”と思う>

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 <彼が裸足なのを見て、“靴のプレゼントを持って来て良かったな”と思った>

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<見送りに来てくれた子どもたちと、”また遊ぼうね!”>

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夜は、今後の展開についてのミーティングで話し込んだ。そのとき、まったく新しい発想が閃いた。

 それは、“ラジョーさんが定期的にラカインの小学校に、チャリティックスと念仏を教えに行ったらどうだろうか?”というものである。

 というのは、今後、コックスバザールの2つの小学校では、学校の課外プログラムとして、チャリティックスが始まる。ラジョーさんはそれの指導にも行くようになる。“ならば、ラカインの小学校でも同じことをすれば良いではないか!”と、僕は思ったのだ。

ベンガル人系の小学校では、チャリティックスの指導はできても、イスラム教徒だから念仏は無理だ。だが、仏教徒ラカインの小学校なら、念仏やその他、タオサンガでやっていることをいろいろ教えることが可能だ。

ちょっとイメージしてみたら、“きっと面白いだろうな!”と思った。それでラジョーさんに提案したのである。もちろん、彼も大賛成である。

 実はこれ、今までは全然考えつかなかった。というのは、僕には「キリスト教は、援助しながら布教する」というイメージがあった。(もちろん、そうじゃない人もいるだろうし、もしかしたら僕の偏見なのかも知れないが)

いずれにしても、そのようなやり方に僕は違和感を持っていた。援助者は、その土地の文化を尊重し、それ以上は立ち入るべきではない、という思いを強く持っていたのだ。

しかし、そう思ってずっと接して来たラジョーさんが、いつの間にかタオサンガの念仏者になっていた。僕からは一言もいわなかったのにも関わらず、、、。

そして今やコックスバザールで念仏を広め、「念仏していると幸せだ」という人たちまで生まれているのである。

 ならばいっその事、ラジョーさんが念仏の坊さんになって、この地で念仏を広めたらいいやん、僕はそう思ったのだ。(ラジョーさん、すでにラカインの坊さんを一度やっているし)

※ところでラカインの子どもたちを援助する里親になってくださる人がいらしたら、ありがたい! ぜひご連絡下さい。僕のFacebookメッセージでもいいし、NPOユニのウエブサイトを通じてでも。

 

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  こんなに大ごとになるとは思っていなかった、というのが最初の僕の感想である。会場には何百人といる上、花や壇上まで用意されている。

そして学長、教頭先生など主だった大学関係者たちと一緒に、僕は壇上に上げられた。その上、スピーチまで求められたのだ。

 

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<来賓の祝辞>

 

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<学生たち>

 

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<学長のあいさつ>

 

これでは、“ねぇ、面白いからみんなで遊ぼうよ〜”なんて、言ってられない。

さて、開会式が始まり、来賓は次々と祝辞を述べる。

 

学部主任は、“これはかつてないイベントです”というようなことを英語でスピーチした。さらに、“GAMEチャリティックスは数理をイメージ化するゲームであり、これの哲学的な世界云々”と語る。    

僕を、“そこまでチャリティックスについての理解が進んでいるのか!”と驚いた。 

それにしても、冷や汗どころの騒ぎではない。いつまでも終わらないのは、カリムの延々と続くチャリティックス論の演説だった。    

そしてそれに耐えている自分は、何だかインドのコメディ映画の役者にでもなったような気分になって来た。今にもダンサーたちがまぎれ込んで来て、みんなで一緒に踊り出すのではないか、と思ったほどである。

 

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<チャリティックスとは〜、というカリム氏の演説が止まらない>

 

やがて指名を受け、僕がしたスピーチは、カリムの100分の1にも満たない短いものだが、それは以下のようなものだった。

 

“人生は目標に向かって戦略を立て、選択を決断していくことで成り立っています。僕が、このゲームを創ったのは、人々に、人生で成功するための戦略や決断のスキルを磨いて欲しいと思ったからです。さらに人と人が、国境を超えて友だちになって欲しいと思ったからです。

 

僕は皆さんに、このゲームを通して、国境を超えてたくさんの人と友だちになって欲しいと思います。また、自己実現に必要な、戦略や決断力を磨き、ぜひ良き未来を創って頂きたい。そう心から思っています。今日は参加してくれてありがとう”

 

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<ラジョーさんがベンガル語に通訳>

 

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<開会式に立ち上がって拍手する人>

 

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<さあ、いよいよか?>

 

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<始まるぞ〜!>

 

いやはや大変な1日になった。300人以上もの学生たちが入り乱れての対戦である。勝った回数での順位戦なので、誰が勝ったかなどの統計も取らなくてはならない。もう、“わいわい、ガヤガヤ”どころの音量ではない。

 

講堂の半分は、もはやマイクの声だって聴こえやしない。にも関わらず、マイクを使って演説をがなり立てているカリムと、その部下。講堂は、僕たちに“バングラデシュの選挙って、きっとこんな感じなんじゃないかな〜”と思わせるほどの騒然ぶりであった。

 

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<講堂全体が熱気に包まれている>

 

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<女子学生も負けていない>

 

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<一見地味だが熱気はすごい>

 

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<数理をイメージ化しての読み合い>

 

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<哲学的理解をしていそうな女子学生>

 

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<真剣である>

 

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<まず一勝したわ!>

 

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<緊迫感と楽しさが入り混じった空気>

 

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<やったー!>

 

勝敗の統計は、モングやナイナイなど、ラカイン人(NPOユニが支援している少数民族仏教徒)のボランティアたち数人で走り回って行っている。しかし、300人以上もの人数が相手では、とても人手が足りない。

 

また中にはルールを間違えて憶えている人もいて、僕らも走り回って、直したりした。(英語が通じない人もいて、そうなると怒鳴ってボランティア・スタッフを呼ばなければならない。しかし講堂は、カリムの演説とみんなのガヤガヤ声の音量のため、それも聞こえない)

 

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<汗だくで走り回る、ラカイン人ボランティアのナイナイ>

 

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<僕らも大声でどなりながら(講堂全体が大音量のため)、必死にルールを訂正して回った>

 

1時間後、先生が走り回ってストップをかけた。そして勝敗を計算し、4位までの入賞者が決まった。

しかし、すったもんだが始まったのはこの後である。なんと発表後に、勝敗統計の見落としが見つかったのだ。あっちゃー!

 

そこで壇上で、先生が発表を訂正した。ところが、女学生を含めて何人もが手を上げて、「先生! 統計の発表に間違いがあったのなら、私はもう一度、最後のトーナメントを行うべきだと思います!」などの主張が次々と繰り広げられた。

僕は驚いた。と いうのは、僕はてっきりイスラム教の女性は、「慎み深く、男性の先生に反対意見を言うことなんてない」と、思っていたからだ。

しかしこれは、「日本の女性 がみな大和撫子である」とイメージする、西洋人男性の精神構造と同じ勝手な思い込みだった、と気づいた。(東西変わらず、男性というのは自分好みのイメー ジを女性に投影するものなのだ)

 

まあ結局、感じの良い熱血先生がうまく話をまとめてくれた。そして最短の時間で、最後のトーナメントを、やっと終えることができたのである。

 

またその頃には、学長たちなど主賓が再び壇上に登り、授賞式が行われた。11時から始まったイベントは、かくて無事終了したのである。時間は、すでに昼の3時ごろであった。

 

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<“上位入賞者を発表します!”>

 

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<学長から賞状の授与>

 

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<優勝者の授賞式>

 

大学からラジョー家に戻った僕たちは、ボーッとあまりものも言わずにお昼を食べた。そして、各自しばらく昼寝して休んだ。ナイナイなどのボランティアたちも、センターで寝ていたらしい。

そりゃそうだろう。無理もないな、と思った。300人以上がガヤガヤと騒然とし、その上マイクががなり立てている中で、ずーっと走り回っていたのだから。

 

夜には、翌日から回る、ラカインの学校や村についてのミーティングを行った。朝昼夜、バングラデッシュ滞在中はフルに活動するのである。

 

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これ以上の簡素さはないだろう、と思わせるコックスバザールの空港には、満面の笑みを浮かべたラジョーさんが待っていた。

会うのは、7月にタイで行われた「タオサンガ・タオ指圧世界大会」以来。約半年ぶりである。

相変わらず人力車が走り回っている。1年ぶりに見るコックスバザールの街並だ。やがてラジョー家に到着。

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少し休んでから、NPOユニの援助で、ますますきれいに整備されていく仏舎利塔の状況を視察。(会員の皆さん、ありがとう!)丘の上にある仏舎利塔は、夕日の眺めが素晴らしく、快い風が吹いている。

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<次は、ここを改善しようと相談>

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<仏舎利塔の整備を担当している”花のおじさん”と僕らが呼んでいる人>

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その後、タオサンガセンターに行くと、「なんだこれは!?」と思った。何人もの人が作業に追われて、ごった返しているではないか!?

それは、明日からコックスバザールの小学校や大学で開催される、チャリティックス大会の準備をしていたのだった!(注:チャリティックスというのは、僕が考案した戦略ゲームのことで、詳細は月刊タオサンガ「住職に聞く」をご参照下さい。taosangha.com)

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<サイコロを作っているところ>

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<チャリティックス大会のポスターまであった>

僕は少し前に、“ラジョーさん、大学でチャリティックスの大会やらない? そんでもって、優勝者には奨学金ということで賞金(日本円で3000円ぐらい)でも出そうよ”と持ちかけていた。それは、実はちょっとした思いつきでもあったのだ。

そしてこの提案によって、ラジョーさんは一生懸命にいろいろと動き回ってくれていた。その結果、大学と小学校での大会開催となったのである。(うぅ、ラジョーさんって、良い奴だな〜。涙)

聞けば前の週は、タオサンガセンターに100人以上が集まって、チャリティックスの練習会をしていたらしい。

実はチャリティックスには、オンライン・ゲームもあって、世界中で対戦できるようになっている(現在はまだ、テストプレイの段階だが、、、)

そして、それに参加しているコックスバザールのモングという人に、僕はオンライン対戦で二敗している。これからはバングラデッシュから強豪プレイヤーが生まれて来るんだろうな〜と、大会の準備を見て僕はわくわくした。

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<16才の高校生モング。チャリティックスがうまい>

夜には、大学でチャリッティックスの説明会を開いてくれた、パルスというバングラデッシュのNGOを主宰している、カリムという人が訪ねてくる。

彼はチャリティックスが、いかに子どもや学生たちに知的向上をもたらす素晴らしいゲームであるかについて、滔々と演説を始めた。

そして、「これは世界的なゲームになります! 全バングラデシュに広めるべきものです!」と力説して、僕らをびっくりとさせた。(実はこの時、ちょっと感動した)

 さて翌日。小学校での大会。小学生たち100人以上が入り乱れての対戦である。(こちらは文房具なんかの賞品)なんかもう、すごい熱気! 大学生までやって来て、別の部屋で明日の大会に備えて練習会をしている。

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<ウワサを聞きつけて、近所の子どもたちもやって来きたが、人数が多過ぎてとても入り切れない>

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<左が演説のカリム。右は校長先生。そして、みんなの熱気をぼーぜんと見ている僕>

面白かったのは、近くの別の小学校の校長先生(仏教徒の女性)も来ていて、すっかりチャリティックスにはまっていたことだ。

子どもたち相手にも、何度も何度も対戦し「ウチの小学校でもぜひ大会を!」と言われた。 大会のあった学校の校長先生も、子どもの知育に役立つと喜んでくれていた。

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<右がチャリティックスにハマった近所の小学校の校長先生>

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<右はNPOユニのまさとさん>

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<「このゲームが子どもたちの知育の発達に有効であることは間違いない!」という校長の弁で盛り上がる>

日本でもイベントに出展すると、チャリティックスに、はまっている子どものお母さんから、“ウチの子が、こんなに何かに集中しているのは今まで見たことない”とか、“子どもの思考力を高めるのにいいわね”なんていう声が上がるとは、聞いていた。

でも、教育関係の人からポジティブな感想を言われて、とってもうれしかったな、、、。僕の創ったゲーム、チャリTXが、やっと世界に理解され始めたんだ。

 

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“オマエ、もうちょっと楽な人生だってあるんじゃないの?”と、つい自分に毒づきたくなるのは、現地の人なら“寒いですね?”とでも言いそうな夜、バングラデシュで水シャワーを浴びているときだ。

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<ラジョーさんは、満面の笑みでコックスバザールの空港に迎えに来てくれていた>

  この2日前、僕たちNPOユニの一行は、非常事態宣言中のバンコクからタイ航空でダッカまで飛んで来ていた。(一行はまゆさんの他に、まさとさんと、2回目のバングラデシュ訪問のまひろさん)

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 <デモ隊によって占拠されているタイの首都バンコクの道路>

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<デモ隊のテント村だが、反タクシン派に雇われているというウワサ>

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 <デモの最中で、爆破事件があったりしても、市民の記念撮影にのんびりと応じる兵隊。この辺は、いかにもタイだな〜>

旅の裏技

 さて、ダッカへ着いた時は、コックスバザール行きの国内線に間に合う、ギリギリの時間だった。でも僕には、“まあいつものように、出発時間のスケジュールなんて、あってもないようなものだろう、遅れるに違いない”と、そんな楽観した気持ちもあった。

 しかし空港では、現地での援助活動のための円を、現地通貨のタカに両替する必要があった。その上、行ってみると入管審査は大勢の人でごった返していた。長蛇の列が並んでいて、1時間は猶にかかりそうな状態だった。

 国内線は日に1便しかない。ここで逃したら、車かバスで約12時間かけて行くことになる、、、。

 もっとも2、3年前までは、ダッカの空港から、命がけのチキンレースを走る車で、12時間かけて現地コックスバザールまで行っていたのだ。

 というのは、一昨年あたりまでは、バングラデシュ航空の国内線に乗るには、あまりにも信頼度(飛ぶかどうか)が低かったからだ。

 このままでは、もしかしたら乗り遅れることもあり得るかも、、、。そう思った。そこで僕たちは、空港をウロウロしている職員に“袖の下”を渡し、“税関を超特急ですり抜けさせてくれ”と囁いた。ようするに旅の裏技を使ったのである。  

 いつもならば、国境などでワイロを要求する、第三世界の役人や警官の腐敗ぶりに文句をつけている僕である。それでいて、こんな時には、職員にちゃっかりワイロを渡し、「旅の裏技」と称して悦に入っている。これは、バックパッカーの悪いクセではあるな。

九州での集まり

  今回、日本を発ったのは、福岡空港からだった。

  バングラデシュ行きの荷物を抱えたまま博多に行った。そして、北九州で土日の2日間に亘ってワークショップ的な集まりと念仏会を行った。その後、月曜日の朝には、福岡空港からのフライトでバンコク向かい、数日を過ごしたあとに、バングラディシュに飛んだのだ。

 九州での2日間だって、それはもちろん濃かった。ただ、ブログに書く余裕がなかった。

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<佐賀でのタオサンガ念仏。初参加のゆかさんも!>

 でも僕にとっては、とても意義のある発見があったので、それについてだけでも、記しておきたい。

 ご存知の方もいらっしゃるとは思うが、僕はタオ指圧の体験ワークショップで、治療デモンストレーションを行う。

 これは、“誰か痛みなどの症状がある人はいませんか?”と会場に呼びかけ、5?10分程度の施術によってその場で症状を取り去るというものである。経絡による指圧の治療効果を知ってもらうためだ。

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<宮崎から参加のスー>

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<頭頂のツボに触れているだけで立ち上がれないというワーク>

 もっとも、今回の博多での集まりの目的は、タオサンガの気と心の世界を体験してもらうことにあった。だから指圧デモンストレーションをするという考えはなかった。

 それに、タオ指圧も含めタオサンガは、すべて「気の念仏」が土台となっている。となると、念仏の効果をこそ体験してもらわなくてはならないなぁ、、、。   

 とまあ、こんなことをぼんやりと考えながら、僕は、博多のタオサンガ体験会をリードしていた。すると突然、脳裏に新しいアイデアがひらめいた。それは、「念仏による治療デモンストレーション」である。

 タオ指圧の経絡施術ではない。“念仏で治療デモンストレーションをしたらどんなもんだろうか?”ふと、そう思ったのだ。

 でも、念仏によって症状を取るなんて、果たしてできるのだろうか・・・? 

 内容としては、タオ指圧講習での治療デモンストレーションのときのように、何らかの症状を抱えている参加者に出て来てもらう。

 そして仰向けになってもらった、その人の周囲を囲むようにして参加者が座る。その後、参加者みんなでタオサンガ流の念仏をすることで症状を取る、というものである。

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<念仏治療のワーク>

 今までやったことはない。だから、本当にそれで症状が取れるのかは、正直言ってわからなかった。

 もしかしたら、何の効果もなく場がシラケるだけという結果になるかも知れない。“なーんだ”と言われるのがオチかも知れない。それは大いにあり得ることだ。

 本来ならば、一応、何度か試した上で、大丈夫だとわかってからやれば良いようなものである。

 しかし、ここで躊躇するほど、僕は大人になり切れない。そんなのは、自分が守りに入るようで、何だか格好ワルいような気がしてしまうのだ。

 ようするに、“ここで怯むなんて男じゃなねーよな”とか、“いいじゃん、面白そうだからやってみようよ!”とか思ってしまう。

 まあ体裁よりも好奇心。まるでガキ丸だしの感覚が、いつだって全開なのである。

 また、たとえ失敗したって、“えへへ、あっ、ダメだったか?”と、その場でみんなに言えばいいや、と思ってしまう。

 ただし、うまくいかなかった場合は、念仏の評判を落としたことになる。その点については、あとで阿弥陀さまによく謝っておこう、と密かに思う。(実に冷や汗ものである)

 それでも、“失うものなんてないぜ”と思って生きているためか、かなり気楽なところがある。

症状の原因は潜在意識(アラヤ識)

 もっとも僕が、“その場で、念仏によって身体的な症状を取れるのではないだろうか?”と思ったのには、一応の理由がある。

 それは、どのような症状であろうと、原因が、経絡の奥に存在する潜在意識の邪気だからだ。

 これはタオ指圧の講義で、常に僕が語っている最新の理論だ。また邪気は、術者が、「宇宙大霊である佛さま」の融合を受け、これの他力(威神力)が働くことで浄化される。その結果、潜在意識が転換し症状が取れる。

 ということは、みんなで囲んで阿弥陀仏をイメージし、タオ心を集中して祈り念仏すれば、たとえ指圧手技を行わなくても、症状は取れる「はず」である。

 また、僕にそれを思わせた理由は、まだ他にもある。タオサンガのワークショップでは、常識で考えたら、あり得ないようなことをやっている。それらは、はじめて体験した人は、みな一様にビックリするようなことだ。

 例えば、「一切手を触れずに、ただ念仏して気を送るだけで、横になっている人が、部屋の端から端まで転がっていく」というワークがある。

 ただ転がっていくだけではない。受けた人が、生まれ変わったような、身も心も癒されたような爽快な気分になる。これを、参加者全員が体験するのである。

 これはたしか、ウィーンの念仏ワークショップで、初めてやったものだった。この時も、ふとした思いつきでやったのだ。

 よくよく考えてみたら、こういうことって案外凄いことなのかも知れない。もっとも僕としては、こんなことをタオサンガのウリにするつもりは毛頭ないけれど。

「宇宙大霊の如来は実在するということ。そしてあらゆる幸福の源泉である大霊の融合を受けることにより、誰の人生も好転していくのだということ。」こちらの方が、よほど凄いことだと思うからだ。

だって、タオサンガの目的は、気の不思議なパワーを見せつけることにあるのではなく、人が幸福な人生を創造する「幸福力」をつけることにあるんだもの。 

自分が無意識にやっていたことだった!?

 さて、ごたくを並べるのはこのぐらいにして、念仏治療デモンストレーションを思い切ってやってみた結果、一体どうだったのかを述べることにしよう。

 まあ結論を言えば、タオ指圧の治療デモンストレーションと同じような感じになったのだ。いやはや、もうビックリ! である。

 僕はその時、気づいた。タオ指圧の治療デモンストレーションで、効果を上げていたのは、僕が無意識に佛さまを想って、潜在的に念仏していたからなんだ、と。

 経絡効果は、手技の力によるというよりも、阿弥陀さま(宇宙大霊)の他力によるものだったんだ、と。

 クラスや講習では、“自分の力ではないですよ。あくまでも宇宙大霊の力によるものですよ”と言っておきながら、案外自分自身は、心底わかっていなかったのかも知れないな、と反省した僕であった。

 だって、“果たしてうまくいくかな?”なんて思って、ギャンブルでもしているようなつもりだったんだもの。阿弥陀さま、疑ってすみませーん!

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<今回の九州の集まりは、3/1と3/2のイベントの前哨戦のためでもあった>   九州在住の方は、下記アドレスをぜひ。

https://www.facebook.com/events/247735855407117/?ref_newsfeed_story_type=regular

 さて、次のブログからは、バングラデシュでの驚くべき展開について述べようかな、っと。

 

 

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