東京で、「氣の悟りータオ指圧&念仏・願望実現ワークショップー」というタイトルのものをやった後、翌日成田に向かいウィーンへ。

こんなテーマでワークショップをやるなど初めてのことなので、始まる前はとっても緊張した。

実は、氣と経絡で症状を取る、というのは願望実現と同じ宇宙のメカニズムが「働いている。それから念仏修行は、願望実現を可能とする気と心を創っているようなもの。

 

それで、タオ指圧&念仏ワークショップというタイトルになったわけ。

「氣の悟り」という副題がついているのは、「そんな、まさか、、、」と思われてしまうので、ちょっと言葉で説明が長くなるので省略。

 

簡単に言えば、実は「悟りというのがどんな素晴らしい体感のものであるかを、誰でもその場で実際に体験できてしまう」メソッドを発見したからなんだけど、、、。(これまでこんな表現は避けていたんだけど、最近はまあいっかという気になったので言ってしまった。へへへ、^ ^;)

 

そんなのをやって、最後はその場で痛みの症状がある3人ほどの人の施術デモンストレーション。数分で「痛みが取れた!」というのを観てもらって、終わりである。

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で、性懲りもなく、ウィーンでも同じテーマで行った。金曜日の夜と土日は一日中である。それでめっちゃ驚いたのは、念仏体験が初めての人が数名いたのにも関わらず(参加者は30人ほど)、全員がとても高度な仏教的体感をその場で体験したからである。

 

ああこれは新しい時代が来たんだな、と思った。

 

そしてここが本当に面白いところなんだけど、僕が教える内容は、最初は西洋人の方が受け入れ易いのである。(表面か深いかは別として)きっと過去の仏教のイメージにとらわれないで済むからだろうなあ。

 

ところで今日から中東。テルアビブでワークショップをやった後、来年のアースキャラバンの準備のためにパレスチナ各地も回る。

 

ヘブロンにも行くことになっているけど、イスラエル軍による主要道路封鎖の可能性もあるかも、とのことで、その場合はえらく時間がかかることになるらしい。

大使館も、今の時期旅行はおススメしない、とのこと。まあそれは来月に行くことになっているバングラデシュだってそうだろう。

 

パレスチナから送られて来る記事で、毎日のように各地で出ている負傷者や死者がいることを知っている。

 

だから、イスラエルのネタニヤフ首相と会談しているオバマ大統がマスコミを通じて一方的に語る、パレスチナ側への一方的な非難を聞くと、まるで与太話だったり作り話に聴こえる。(ノーベル平和賞もらったんだから、ちっとは仕事して欲しい)


もちろん、この目で見ても、あきれるほどそうなんだけどな。

とにかく、ああなんかまた行くことになっちゃった、、、。

 

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アースキャラバン準備・テーマ曲篇

あとで振り返ると、「一体、どうしてこんなことができたんだろう?」と思うようなことが、アースキャラバンの準備中によく起こった。

例えば、テーマ曲のCD。

テーマソングがあった方が良いだろう、ということになった。

それで、誰に歌ってもらおうか? と考えていた。そしたら何となく、世界各地の音楽家たちに歌ってもらおう、という話になった。

当てなど全くない。

しかも基本、手弁当やってもらおう、という考え。

にもかかわらず、1、2ヶ月の内にやっちゃおう、と安易に考えてからが、まあ大変。

曲そのものは、以前からできていたが、歌詞は、昨年夏にパレスチナで、イスラエル軍の爆撃で足を失った少年を前にした時の体験をもとに書いた。(話はライナーノートになっている。興味のある方は→ http://www.earthcaravan.jp/share_lnotes.html )

 

中東での準備から帰って来て9月も中旬を過ぎてから、CD作成の準備を始めた。

まずはサンプルを作ろうということで、スタジオでレコーディングした。あとはもう死に物狂いだった。

 

何せCD作成が終わらないことには、広島で動けないのだ。

中東のイベント準備も、手がかりがまったくないところから始めたが、その時点では広島でイベントやる可能性などないに等しかった。

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アースキャラバンに、「広島からエルサレムまで」という副題をつけてはみたものの、最初はどちらも当てなどなかったのだ。

 無謀といえば無謀だが、それはテーマ曲のCDを創るというプロジェクトだって、まったく同じだったのだ。

振り返ってみれば、18か国の音源が集まっていく過程の1つ1つには、物語があった。

 

カミーロとの出会い 

例えば、台湾、、、。

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<カナダ在住のカミーロは台湾出身>

2年と少し前、トロントのタオサンガ・センターのオープニングで出かけたことがあった。

 

セレモニーの合間に控え室で休んでいた時だ。突然、部屋を尋ねて来た人がいた。

モンテリオール在住で台湾出身のカミーロという人だった。

 

タオ指圧を学び、センターで念仏修行もしているようだったが、僕は会うのは初めてだった。

 

カミーロは青黒く深刻な顔で、「悩んでいることがあります。」と話し始めた。悲痛な声だった。

、、、「数年前にモンテリオールの漢方医に”あなたの耳の形では長生きできない。あと数年前だろう”と言われたのです、、、。

 

その時は、聞き飛ばしたのですが、最近、夜眠れないようになり、何だか体調も悪くなって来ました。」さらに話は続いた。

 

「やがて僕は、彼の言う通り自分が死ぬのではないかと思い始めました。今は毎日、心身ともに苦しくて苦しくて仕方がありません。僕は一体どうなってしまったのでしょう? 彼の言う通りの状態になって来てしまいました。僕は死ぬんでしょうか。」と訴え始めた。

 

僕は、いろいろと話を聞いた上で、自分の直感に耳を澄ました。

、、、やがて僕の直感は、彼が死なないことを告げた。

 

しかし万が一、ということもある。

実は僕も、自分が口を開く前に一瞬考えた。その人の言ったことが万が一本当なら、どうしよう?、と。

 

最悪の場合のことだって、考えておかなくてはならない。

僕には覚悟を決めておく必要があった。

 

僕は腹を決めた。もし彼が本格的に病気になった時は、僕はモンテリオールに行こう。そして彼が治るまで彼の家に泊まり込んで、ずっと治療しよう。最悪の場合だって、僕は責任を持とう、と。

 

その上で彼に伝えた。「あなたは死なない。病気にもならない。僕が絶対の保証をする。」、と。

 

すると彼は、泣き出した。「ありがとう、ありがとう、ありがとう、、、」、と。嗚咽する彼の背中を僕はずっとさすっていた。

カミーロはしばらくすると、「すっかり気持ちが楽になりました」と微笑んだ。そして、部屋を後にした。

 

その後、「夜も眠れるようになり、すっかり体調も良くなりました」とメールをくれた。

 

、、、1年後、そのカミーロに僕は相談した。アースキャラバンのテーマ曲を歌ってくれる台湾のミュージシャンを知らないか、と。

 

そしていろんなやり取りのあげく、彼の子どもの頃の同級生に、グロリアという中学校の音楽の先生がいること。

 

またそこの合唱部は、コンクールに優勝するような子供達であることなどがわかった。

 

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<左がグロリア、右が台湾在住のともこさん>

さらに、ちょうどその頃、タオサンガのまさとさん&まひろさんカップルが台湾に行くことにもなっていた。

 

それで、カミーロには歌詞を英語から中国語に翻訳してもらい(もともと歌詞は英語で作っていた)、急遽、そこの子供達に歌ってもらうのを、まさとさんたちに録音してもらうことになった。

 

台湾には、それに合わせてカミーロも行くことになった。

僕は、彼のその心意気に応じななかったら、かっこ悪いな、と思った。

それで僕も台湾に行くことになったのである。飛行機を予約したのは、前々日だった。 

 

台湾では、後ですっごくお世話になることになる、ともこさんと出会ったりなど、いろいろ素晴らしいことがあった。

 しかし台湾のホテルでも、僕は何時間パソコンの前で過ごしていたかわからない。それは、ただひたすらいろんな国へ、テーマ曲の録音と録画依頼のやり取りをしていたのである。、、、

延々と朝早くから、深夜も尚。何時間も何時間も続いた。(そして何日も何日も)

歌ってくれた台湾の子供達の動画。

http://www.earthcaravan.jp/share01.html

<続きは、「アースキャラバンのテーマ曲に、いかにワンダのバージョンが入ったか?」>

追記:.SHARE! のアルバムは、ほとんどがプロのミュージシャンたちの手によって本格的にレコーディングしたもの。

台湾など、そうでないところもあったが、それはそれでとても素朴な良さがあった。最終的には誰に対しても、自信を持ってお勧めすることができる、クオリティーの高いCD作品になったと思う。

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興味のある方はこちらだが、映像は素人の方が歌っているもの。プロが演奏しているのはCDの方なので、ご注意を!

    ↓

http://www.earthcaravan.jp/share_cd.html

 

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アースキャラバン2015が終わった。

僕は時間を一年戻し、昨年の夏にパレスチナ入りしたところから、ブログを再開するつもりでいた。なにせ、あそこ(ストップしたところ)からが良いところだったのだ。

ところが、、、、ない。

 

なぜか当時の写真が、サーバー上からすっかり消えてしまっている、、、。

しかも元データを保存しているSDカードは、アースキャラバン広島の立ち上げのために動き回っていたときに、i-pod など他の諸々と一緒に紛失すみ。

、、、ああ無情!

 

いくつか書こうと思っていたことがあったのに!

 

<1>

例えば、だ。

「今からは、イスラエル当局から盗聴されていると思って話して下さい」

そんな言葉を突然聞いたのは、ベツレヘム大学のマージン教授にだった。

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 <マージン教授・世界各地でパレスチナ問題の講演をしている>

僕らは面食らった。

それはパレスチナで、サミーたちとアースキャラバンについて話し合って、一時間ほどしたときだった。

 

ジョークではない。、、、マジである。恐らく、携帯かパソコンに盗聴を知らせる何らかの信号が入ったの

だろう。まるでスパイ映画のような現実に、僕はとまどった。

 

 

<2>

さて、、、、その他。

イスラエルに残して来たタオ指圧の生徒さんたちのことも書きたかった。

僕は7年前、「苦渋の決断というのは、こういうものだったのか」と思うような体験をした。

 

話があまりにも複雑なので、多くを述べることはできない。

でも、反省のために少しばかり述べてみたい。

 

かつてイスラエル・タオ指圧というものがあった。

そこを運営していた人物のあまりにも大きな問題が発覚し、

僕は、果たしてそれを公表すべきなのかどうか、ずいぶん迷った。

 

まず僕は、人のことを悪く言いたくはない。(反面、好意を持っている人に対して、いくらでもからかったりできるのだが)

 

いくら善意とはいえ、任せていた自分に責任がある。(もっとも、今にして思えば公表すべきであったかな、という想いも、あるにはある)

 

さんざん悩んだ末に、「“遠藤は金取り主義者でヒトラーのような奴だ。本当に悪い人間だとわかったので縁を切った”」と生徒さんたちに伝えて良いから」とその人物に伝えた。

そして僕は、黙ってイスラエル・タオ指圧の生徒前から姿を消したのだった。

 

僕はまあ、何か問題があれば、とにかく自分が悪いことにしておいて、姿を消せばいいか、みたいな手法を取ることが時々ある。

 

本当に縁があるなら、またいつかつながることもあるだろうけど、とりあえず僕は永遠に姿を消したつもりだった。

 

僕としては、二度とイスラエルの地に足を踏み入れるつもりはなかった。トラウマみたいなものにもなっていた。

 

6年前、初めてパレスチナに入ったときも、空港からすぐにパレスチナ側に入り、それは戻るときも同じだった。イスラエルは僕にとって、二度と足を踏み入れるはずのない地だったのだ。

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<マガリ>

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<タマール>

ところが、だ。2年ほど前からイスラエルの元生徒からポツリポツリと連絡が来るようになった、、、。そしてなんと、昨年の夏には、二度とやるはずのなかったテルアビブでのワークショップを行うことにした。

 

もっとも、それを企画してくれたイスラエルの生徒さんたちには大変申し訳ないのだが、実はその時の僕の一番の動機は、とても純粋とは言えないものだった。

 

なぜならワークショップをやる1番の動機は、”アースキャラバンの準備でパレスチナに行くのに、イスラエルの空港で入国拒否されたくない”というものだったからだ。

 

以前のブログでも書いたが、昨年の夏にパレスチナ側に入っていたことが空港でばれて拘束された。その時の記録が当局に残っていて、入国拒否されないかが、僕は心配だったのだ。

 

先に述べた、”今から盗聴されるから”と言われたのも、平和活動家への入国拒否についての問題だった。

 

実は3年前に、マージン教授もかかわったイスラエルのパレスチナ占領に反対する大がかりな平和活動がパレスチナで行われた。

それは封鎖の続くガザに向けて行進するというもので、世界各地の活動家を巻き込んでのものだった。

ニューヨーク在住で、元アウシュビッツの収容者80歳を越えている女性まで参加することを、僕は耳にしていた。

しかしその時も、多くの活動家が空港で入国拒否にあった。

オリバーの知り合いの医師団20人も、パレスチナに医療奉仕に行く予定でテルアビブの空港まで行ったが拒否されて帰って来たそうだ。

 

それでまあ僕としては、テルアビブでする念仏ワークショップの公式のチラシがあれば、保険になるなー、と考えたのである。(ひぇ〜、皆さん動機が不純でごめんなさい!)

 

その時は、ガザ空爆中であったが、ワークショップのチラシを見せなくても無事入国することができた。しかしパレスチナ側に入っていろいろ動いていても、ワークショップを企画してくれた元生徒さんたちには、僕はなかなか会おうとしなかった。

 

何にせよ、僕はおっかなびっくりだったのだ。

先に述べたように、彼らは僕がいかに悪い人間かを聞かされているはずである。

そして僕は黙って姿を消したのだ。

それなのに、なぜ連絡して来たんだ。なぜワークショップなんか企画すんだろう?



僕は混乱していた。

 

そしてワークショップの前日、いつまでも逃げるわけにもいかず、ついに5人と対面したのである。

 

僕は、彼らがどれほど再会を心待ちにしていてくれたかを知り、何だか胸が痛くなった。僕は申し訳なさで一杯になった。この気持ちは、僕にはとてもうまく表現できそうもない。

 

そしてワークショップ。

その当日は、なんと空爆を受けているガザに向けて支援物資を届けるピースバスが出る日と重なってしまった。うぅ、なんという間の悪さ。正直、思わず歯を食いしばって天を仰いだほどだ。

 

まあ今さらそれは良い。

結局、僕とローレンスでワークショップを勤め、オリバーがアースキャラバンを代表してピースバスに乗り、ガザへ支援物資を届けることになった。

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<ピースバスの看板/隣人を愛せよ>

 

、、、とまあ、いろんなことが連日のように満載の日々だった。

でも、これぐらいにしておいて、これでアースキャラバン中東準備篇(昨年夏の続き)は、終わったことにしよう、っと。

最後につけ加えたいことは、再会したイスラエルの元生徒のタマールが、後にイスラエル念仏会を担当するようになり、マガリが、後にアースキャラバン中東の実行委員として大活躍してくれることになった。

、、、、すべてはみほとけのはからいだったか。

南無阿弥陀仏。

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アメリカ・和田寺タオサンガ道場のマイルス君に、デボラを通じてクリスマスに帽子を贈ったら、お礼にビデオを送ってくれた。

わおー! 才能のある少年だと思っていたけど、映画監督までやるとは!! まだ会ったことないけど、なんだか同じ魂を感じてしまったぜい。^ ^) 動画→ My Movie 14

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<わが友、マイルスくん>

ところで、マイルス君のお母さんのすみこさんから、さらに届いたメッセージは、以下のようなものだった。

——————————————————————————————-

こんにちは。うちの近所にメキシコ人の障碍者のおじさんがいます。

脳卒中になって医者に見離されたのですが、「マイルスが励ましてくれるからがんばる」と一生懸命生きてます。

ものすごい貧困やら、差別やら、従兄弟にうらぎられるやらで大変です。

デボラとは、数ヶ月前のマイルスの誕生日会で知り合いました。

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<左がメキシコ人のおじさん、中央がマイルスくん、右がデボラ>

それからというもの、デボラがお金を取らずに指圧をして差し上げてたりと、ものすごくものすごく感動的に親切に差し上げています。

カソリックで、週に3回教会にかよっていましたが、神父さんも信者も、特に親切ではないようです。

それで思い切ってタオサンガに誘ってみました。「デボラの先生はね、キリストのお話もするし、だれでもウェルカムなんだよ」って。

とても喜んで、仲間に入りたいっていってます。

働けないし、お金もほとんどないのですが、デボラはもちろん喜んでくれています。

ケブンもテレビやDVDをあげたり、他のデボラの友人も、家具などをくださいました。

デボラが、マイナス40度の日に彼の様子を見に行ってくれたことは、ほんとうにうれしくて涙が出るほど感動しました。

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<左がすみこさん、マイルスくんの後ろにいるのが、そのおじさん>

ただただ、先生にデボラのやさしさをお伝えしたくてメッセージしてしまいました。

 

ところで、マイルスが制作した、おフランスなビデオは、私も笑っちゃいました。

彼は学校も行かないで、一日中、あーいうことしてます。ハハハ。。

マイルスは、タオサンガの気ワークショップ、ブッダの学校、念仏会、どれも楽しいみたいです。

他のタオサンガメンバーのケブンのお子さんたちとも仲良しです。

あっ、メキシコ人のおじさんのお名前、Jesusでーす。

————————————————————————————————————————————-

、、、嬉しかった。

そして、自分のやってきた道は間違っていなかったんだ、と思えた。

デボラ、僕はあなたを誇りに思うよ。

ありがとう!

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<デボラ>

 

 

 

 

 

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アースキャラバンの準備のための中東での活動報告が、すっかり途中でストップしてしまい、申し訳なく思っている次第。^ ^;)     とにかく写真を使って、レポートを進めていくことにしよう。

前の晩は、ガザからのロケット弾を撃ち落とす音をBGMに夕食を食べ終えた。その次に僕らが向かったのは、ハイファの田舎の村。アラブ人とユダヤ人の子供達が一緒に通う幼稚園である。

今振り返ってみると、手当たり次第、いろんなところにアースキャラバンの話をもちかけていたのだなあ、とつくづく思う。

この幼稚園もその1つだった。“子供達にエルサレムのイベントに参加してもらい一緒に歌ってもらおうか”なんて、オリバー、ローレンスと僕の3人で話し合った上での訪問だった。

何せ田舎でバスが不便な上、さんざん迷ったあげくようやくたどり着いた。

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幼稚園は、子供達が快適に過ごせるように造られていた。

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子供達は、アラビア語の歌もヘブライ語の歌もみんなで一緒に歌う。

ギターを持っていた僕は、“何か歌ってよ”と言われ、、、、。ビートルズか何かを弾いて歌ったんだけど、この時の経験は、僕にアースキャラバンのテーマ曲を創らせることになった側因の1つになったと思う。

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園長先生。アースキャラバンのバスが来ると思っていたらしい。    ^ ^;)

 

一体、この幼稚園の訪問で何が成果だったのかはわからない。キャラバンへの協力を要請し、OKと言われても、じゃあ具体的な話が何か生まれたというわけではない。

でも僕たちは結果は考えない。タオサンガ主催のアースキャラバンが潜在的に持っている意味を直感的に理解し、責任を持ってワークを担ってくれる無私の人たちと出会うために、僕らは中東を動いているのだ。

無私の行動が取れる人は、日本や欧米などセンターのあるところにだって、そうおいそれといるわけではない。

もしいたとすれば、それは千年に1度花開く白連のように希有で尊い存在だと僕は思っている。なぜなら、そういう人たちこそが世界の希望だからである。

この幼稚園の先生の1人は、テルアビブで行うことになっている念仏ワークショップに来ると言っていた。(実際に来られた)

このハイファからエルサレムまで直通のバス(2、3時間)があると聞いた。園長先生が停留所まで送ってくれるという。エルサレムには夕方着くことになる。カナダからローレンスもその頃、着くことになっているのでちょうど良い。

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エルサレムのヤッフォ通りに着き、ホステルに向かう。

ここからわずか40kmしか離れていないガザでは、連日の空襲で人々が命を落としているのだけど、、、。

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僕が、ユダヤ教原理主義と呼んでいる黒づくめの人々。彼らもストリート音楽やるんだぁ、、とちょっと驚いた。

 

ホステルにチェックインして、ローレンスの置き手紙を発見。「空港で携帯電話をレンタルしたから、この番号に電話してくれ」と書いてあった。

さすがユダヤ人! ローレンスは、こういうところは実に賢いのである。日本の携帯を持っていた僕は、空港でSIMカードの交換ができず断念。オリバーはそんなことを思いつきもしなかった、と言う。(2人とも後で、目が飛び出るような請求書を受け取ることになる。うぅ、、、)

ローレンスに電話をかけ、いるというカフェを探しに行く。

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僕は会うなり、” おい、ローレンス。幼稚園も行ったし、もう仕事は大半終わっちまったぜ”、と時差ぼけのローレンスをからかう。けなげに引っかかって、ちょっと焦ったりするところがカワイイ奴なのである。

 

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ローレンスは、心理ワークショップか何かをやっているというエルサレム在住の友人に、アースキャラバンの実行委員になるように、必死に説得中だった。

後でローレンスに、“結果はどうだった?”と聞くと、「“もちろん、興味はあるわよ。でもね、、、。” だって、、、。」とのこと。

うーん、日本でも北米でもヨーロッパでも、耳にたこができるほど山ほど慣れ親しんで来た反応である。だから僕はまるで驚かない。このような反応にあうたびに、ヘレンケラーの「大勢の人が他の人の福祉に責任を持つようにならないと世界は変わらない」という言葉を、僕は思い出す。

僕らは、希有な存在を探しに中東に来たのである。これが簡単に見つかるようなら、ヨーロッパ、日本、北米の三方から、わざわざガザ空爆中の中東にまで3人で雁首そろえて来ることもないのである。

本当は、夕方からでもパレスチナに入りたかった、それもいろいろと検討したのだが、まずはローレンスも無事に着いたことだし、夕食ということになった。

今後の活動の進め方について、3人で話し合っておくことは山ほどあったし、パレスチナ側に連絡しておくなどの準備もある。それでパレスチナには翌朝向かうことになった。

 

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ホステルに入ってからは、ミーティングのアポイントを取るために電話をかけまくる。

現場では率先して動かなければならない僕だけど、電話だと自分の直接つながりのある関係以外は、“オレ、自分の英語通じるか自信ないしさー”とか言って頼めるので、ちょっと助かるな。

明朝は、テルアビブのデモで知り合った人が紹介してくれた、タメルというイスラエル人とパレスチナ人合同の平和団体の合宿に寄ってから、ヘブロンに向かう予定を立てた。

いよいよ、パレスチナ側に向かうことができる!

果たして僕たちは、白蓮のように希有な人たちと出会うことができるのだろうか?

 

 

 

 

 

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ブログ、ちょっと寄り道。

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この世のシステムを裏で支配している人たちがいる。
彼らは人びとを動かすことでシステムを成立させている。

それによって人が苦しむ。


一見これらのシステムは、国民のためにならない法案を通す政治家が作っているように見える。

また、実行部隊は、会社や行政に見える。

例えば、子どもに毒を食べさせる食品業界、原発を再稼働させる行政官、また電力会社の社員。

ワクチンや抗がん剤が“百害あって一利なし”、と知っていて打たせる医者や、それを販売する製薬会社。

彼らが一見悪いようにも見える。

システムの背後にいて、人びとをそのような行動をさせている者たちがいるのはたしかだ。

しかしシステムが成立しているのは、背後の人たちの力によるものではない。
彼らに力を持たせてているのは、あなたや私のような一般の人たちだ。

それは、「自分の利益になること以外は、他人事とする」生き方に支えられている。( 精神的利益か経済的利益かは問わない)

「責任を持たない」ことをかっこいいこととし、何の得にもならないのに、責任を持って人を世話するなんて、「バカみたいなこと」として、その事に痛痒を感じない生き方、である。

これこそが、人びとに毒を食べさせ、原発を再稼働し、ワクチンを打たせるのである。

言い訳は、「悪いとはわかっているけど、仕事だから」、、、。「責任追及されるとつらいんだけど、、、」。「上に言われたし、、、」。「生活があるから、、、」等々。

立派な言い訳である。

驚くべきことだけど、今一般には「自分の利益とは無関係なことに対しては、当事者感覚を持たないし、責任も感じない」ことが当たり前になっている。

だから、もし仮に世界を変えることに関心を持ったとしても、「わかりましたけど、どうしたら良いですか?」などという言葉が出て来る。

これは、「言われたからやるけど、でも責任はあなたにあるんだから、あなたが決めてね」という意味が言外(無意識)に含まれている。

 

人類を苦しめているシステムを操る人たちにとって、最高の良い子ちゃんたちとは、まさにこの「自分の利益になること以外には、責任を持って行動しない」人たちである。

ときに彼らは、世界の裏のシステムについて文句を言う。
でも、世界を変えようとする活動のために責任を持っては行動しない。

そして、「自分の生き方こそが、この世の背後にある闇のシステムを支えている」という事実に気づいていない。

 

 

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ブログの筆が止まった。

すでに、途方もない次のプロジェクトに動きだしてしまっていたからだ。

(、、、皆さん、一体、何だと思います?)

 

僕が書いたアースキャラバンのテーマ曲を、世界18カ国の人に歌って録音してもらおうというもの。

 さらに人々がその曲を各地で歌っている情景を映像に撮ってもらい、それをつなげて、1曲の音楽で世界をつなごうというものである。その結果はこちら

 

こんなのは、テレビ局がしかるべき予算と半年ぐらいの時間をかければ、できることなのだろう。

しかし僕は思ってしまったのだ。みんなに基本ボランティアでやってもらって、2週間ぐらいでまあ簡単にできるんじゃないかなー、と。

うぅ、なんとまあ安易にものを考える奴だろう。(←自分のこと)

 

中東でのプロジェクト(広島からエルサレムまで行くアースキャラバン)も、まあ現地に行けばなんとかなるだろうと、能天気にガザ空爆中に出かけたが、それとまったく同じ能天気さ、である。

こうして、24時間体勢の日々が始まったのである。

 

それはさておき、中東での活動の続きを語らなければいけない。

その前に、中東で僕とオリバーが動き回ったその目的を、もう一度、クリアー(明確)にしておこう。

 

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アースキャラバンの出発地は広島で、終着駅はエルサレムである。エルサレムでは、ピースコンサート、その他諸々を行う。

そのステージでは、四つの宗教(仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)が合同で行う礼拝と共同声明を出す。

 また会場では、ボランティア指圧や、去年まで開催していたチャリティーフェスティバルのようなことも、できればやりたい。(その他にもいろいろあるのだが、とりあえずは、ここまで書いておくことにする)

 

それを僕らと一緒に企画実践してくれる人たちと出会い、実行委員会を立ち上げるために僕らは中東に入ったのである。(わずか2週間でそんなことが可能か? などとは考えない。ただ、そうしよう、と思うだけなのだ)

 

さて7月25日、僕とオリバーはハイファに向かった。

ハイファには、ユダヤ人とアラブ人の子供が一緒に通う幼稚園があるからだ。すでに運営者とは、ローレンスがメールのやり取りをしていた。

ならば彼らに会って、キャラバンについて話しに行こう。そう思ったのだ。何がどこでどう、つながるかわからないからだ。

僕らとしては、あらゆる可能性にかけて、ただひたすら行動していくだけ。

 

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<左がガイ・ダビデ、右がマイケル・ムーア>

ハイファに向かう前、テルアビブで映画監督のガイ・ダビデと会った。彼は、「五つの壊れたカメラ」というドキュメンタリー作品を撮り、それがオスカーにノミネートされたことで、イスラエルでは有名人である。(そういえば、アメリカのTIME誌の表紙になったという話も聞いた)

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<タマール>

 

また彼に紹介してもらった、タマールというバリバリの女性活動家とも会った。

数時間、それぞれ別々に話し合ったあと、僕らは電車に乗り、夕方のハイファに着いた。幼稚園の訪問は明日だ。

ハイファにはアラブ系の住民も多い。イスラエル建国後も、そのまま残った人たちだ。(多くのアラブ人は故郷を捨てて難民になった。この地がイスラエルの領土になった現在、彼らは多くの差別の苦しんでいると聞く)

 

夕食を取りに出かけた。久しぶりに何もスケジュールがない夜だった。庭にディナーテーブルを出している店に入った。なるべくアラブ系の人たちが多い店に入った。

このアラブ系住民が経営しているであろう店で夕食を食べながら、今も尚、丸腰で爆撃されているガザの人々や子供たちのことを想った。胸が痛かった。

ディナーを囲んでいるアラブ系住民の人たちの顔を見ても、やはり暗かった。それはそうだろう。同胞が今夜も殺されているのだ。

 

最初は花火でも打ち上げているのかと思ったが、、、

 

奇妙な音を聞こえた。遠くで花火をやっているような音だ。最初は花火だろうと思って気にも留めなかった。タイなどではよくあることだ。

でも、とふと気がついた。これは、ガザからのロケット弾を撃ち落としている音ではないか?、と。

ガザからのロケット弾なんて、イスラエル軍の兵器に比べりゃ、花火みたいなもんだろう。距離を考えたら、まさかガザを爆撃している音ではあるまい。

、、、そして食欲の失せた僕らは、ホステルへと戻って行った。

 

早くパレスチナ側に行きたい。気持は焦るが、まずは明日の幼稚園をクリアしなければならない。活動は、まだ始まったばかりなのだ。

 

それにしても、僕らうまく人々と出逢えるのだろうか?

明日から一体どうなるんだろう?

 

続き

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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そのホテルにはたった1晩泊っただけで、僕らは午前中にはもう荷物をまとめた。そして、急遽テルアビブに向かったのだ。 

 それは、多くのイスラエル人活動家が集まるであろうデモに参加するためだ。

 また、入国招待状を書き、空港に迎えに来てくれたイランにあらためてお礼も言いたかった。

 

僕らはまずイランの家に行って荷物を置き、夕方にはデモの広場であるラビンスクエア(ラビン首相が右翼のイスラエル人に暗殺された場所)に向かった。 

 

以前からやり取りしていたイスラエル人女性活動家からは、「デモで右翼に襲撃されたら、西側に逃げるように」という情報が回って来ていた。ああ、そうか。やべーな、、、。

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<遠くに見えるのは、デモ隊を狙っている右翼集団。警察がいるので襲撃して来ないが、、、>

 

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<ベレ/キャラバンの協力者の1人>

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<ヒッピーっぽい奴がいると、何か安心するな>

5000人は集まっただろうというデモだった。広場には、歌や踊りをするグループがいたり、ガザの空爆で殺された子供たちの写真と名前を並べているグループもあった。プラカードには、「子供たちを殺すことは防衛ではない!」と書いてあった。

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<踊りと太鼓とグループ/デモに必ず出てくるバンドだという。リーダーと話し合った>

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<「子供を殺人するのは、防衛ではない」と書いてある>

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<「ガザを痛めつけるな」と書いてあるようだ>

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<イスラエルとパレスチナの融和を訴えている>

僕らは運良く会場で、前日のデモで会った、サラにも再会することができた。

そしてサラは会うなり、「来週、火曜日に何人か呼んで、家でキャラバンのミーティングすることにしたわよ」とこともなげに言い、僕たちを、「おお! それサイコー!」と驚かせたのである。(そういうとき、オーストリアでは、なぜか“スーパー!”という。)

デモは熱気に溢れていた。そして以前は、右翼チックなイスラエル人しか知らなかった僕をして、「こんなまともな人々が、イスラエルにも大勢いたんだ!」と感嘆させた。

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<爆撃で亡くなったガザの子供たちの写真を並べている。人の死を悼むというのは、まともな人間として、基本的なことであろう、と僕は思うが>

前の週のデモでは、右翼に襲撃されて怪我人まで出たそうだ。この日は警官隊が見張っていた。そして右翼たちはヘイトスピーチのようなことを叫びながら、デモを睨みつけていた。 

 

僕たちは手分けして、テルアビブで翌週に行う「念仏ワークショップ」のチラシとキャラバンのチラシを配ったり、また参加者に話しかけたりした。

 

さらにデモの主催者にもコンタクトを取ろうとするなど、いろいろと動いていた。

 

会場の中をそうしてウロウロしていると、何年か前に僕のタオ指圧ワークショップに参加したことがある、と言って話しかけてくる人や、中には、イスラエル在住の日本人の方で、拙著を読んで下さっている、という人にも会った。(後日、娘さんが念仏ワークショップに参加された)

 

2時間ほどでデモが終了し、喉の乾いた僕とオリバーは、ビールを飲もう、ということになって、付近をウロウロした。しかし実は、問題があった。

 

2人ともユーロは持っているが、イスラエルの通貨であるシェケルが少なかった。せいぜい帰りのタクシー代ぐらいしかないのである。そりゃまあ、そうだ。

 

すでに一週間ぐらいいる気分とはいえ、昨日着いたばかりなのだ。(かつ、1日中走り回っていて、まともに両替する余裕などなかったし)

うぅ、、、。どうしよう。普通の人ならここで諦めるのかも知れない。しかし、こんなことで諦める僕らではない! (特に、楽しいことはね ^ ^)

 

周囲のビアカフェは、道端にテーブルや椅子を並べている。

そして人々は、ビールを飲んだり食事をしているのである。

 

おお、喉か湧いたぜー。何せ、中東の夏なのだ。

 

で僕らは、何をしたか? 話は単純である。

テーブルに座っている人に、この近くに両替できるとことないですか?と聞いたのである。

 

しかし夜も10時である。

 

「まあ無理だろう」、「遠い」などの返事の中で1人、「じゃあ、僕が替えて上げるよ」と言ってくれた人がいた。やった!

 

それがガイ。聞けばそのグループはデモ参加者であった。

そして僕らは、そのテーブルに一緒に座り、晴れて念願のビールを飲みながら、僕らが来た目的、キャラバンの話をしたのである。

 

皆一様に、こんな時にまあよく来たねー、という感じを話を聞いてくれた。

またグループの中には、リサという人がいた。

 

リサは、パレスチナの活動家に協力なコネを持っているヨガ指導員の人だった。

彼女に、「タメル」というイスラエル人とパレスチナ人の合同の活動団体につないでもらえることになった。また、パレスチナのヨガ指導員にも僕らを紹介してくれるという。おお!

聞けばタメルは今、数日間の合宿をやっているという。

そこで僕らは、パレスチナにほど近い場所にあるその会場に行くことにした。また、その合宿最後の日に行くのがいいだろう、ということになった。

 

(そういえば、後日リサと電話で話したとき、「あなたテレビに写っていたわよ!」と言われ、見てみたらホントだった)

※出てくるのは、4:20ぐらいのところです。http://tv.social.org.il/en/demonstration-against-the-war-in-gaza 

こうしてまた、不思議な縁がつながった。

 

広島からエルサレムまで、祈りと音楽で結ぶアースキャラバン。

これは、途方もないようなプロジェクトかも知れない。

 

しかし、こうして人と人を結んで、何かが生まれていく。

不思議な予感に支えられて1つ1つ、、、。僕らはやり続けるだけだ。

 

明日はハイファに向かう。イスラエル人とアラブ人の合同幼稚園を訪問するためだ。

ここは、ローレンスがやり取りしていたところだ。

 

どんな縁であっても、可能性があれば、全力投球でそこに向かう。

ものごとの実現は、これが原則である。

 

翌日、ハイファでの僕らは、

ハマスのロケット弾を撃ち落としているイスラエルの防空のミサイルの爆破音を遠くに聞きながら、夕食を取ることになったが、、、。


<続く>

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シェイク・ジャラ、、、。

5年前にパレスチナを旅した時、僕とローレンスがある家族にボランティア指圧をしていた所である。

その家族は、40年間住んでいた家をイスラエル政府に一方的に取り上げられ、マットレスと共に路上に放り出されていた。

このように、イスラエル政府によって不当に追い立てられていくパレスチナ人の家族は後を絶たない。

一方では、当然これに反対する、パレスチナ、イスラエル、国際活動家たちが集まった。

そして一時期この家族は、米国務長官のヒラリーが国連で言及するなど、国際的な注目を集めていたほどであった。

さて、僕とオリバーは予定していたビリン村のデモには行かず、シェイクジャラで毎週行われているという4時からのデモに、M女史に連れられて駆けつけたのだった。

行ってみたら、それは20数名〜ほどの小さなデモだった。

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あれっ?

ビリン村のデモに前回行ったときは、パレスチナ人、海外支援者、イスラエル人で合わせて数百人はいるのではないか、と思われるほどの規模だった。だから、少し拍子抜けした。だが、後で聞くと以前は500人が集まるほど大きなものだったらしい。

デモの大きい小さいは、まあいい。僕らの目的は、仲間探しだったから、問題はデモの規模ではなく”縁”だった。僕とオリバーは2人で手分けして、デモに参加している活動家にキャラバンの話をして回った。

その中の1人に、翌日にはテルアビブで大きなデモが計画されているということを聞いた。僕は即座に、「それに僕らも行くよ!」と言った。

デモのリーダー的存在であるサラとベレという2人の女性活動家たちが、キャラバンの話に興味を話を持ち、熱心に話を聞いてくれた。僕は、彼らならキャバンの中東プロジェクトを一緒にできるのではないか、と思った。

その後も僕らは、熱心にいろんな人にキャラバンの計画について説いて回った。

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<旗を持っているのがパレスチナ人のリーダー。このデモを続けているためだろうが、7ヶ月間とか刑務所に入れられることになったと聞いた>

 

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<「今のイスラエル政府がパレスチナ人にやっていることは、かつてナチスがユダヤ人にやっていたことと同じ」。そういって僕たちを驚かせたイスラエル人活動家のベレ>

 

ミサイルが飛来するこんな時期に、遠く日本やヨーロッパから来た、能天気で熱い連中と思われたのかも知れないなと、ふと僕はそう思った。(「こんな時によくまあ来たね!」というのは、その後も何度か僕らが耳にしたセリフだった)

デモが終わった後は、東エルサレムまで戻り、ドキュメンタリー映画作家の古居みずえさんと合流して食事した。エルサレム旧市街を少しうろつき、イエスが処刑されたゴルゴダというところの前で座っていると、もう頭を上げていられないほどの眠気に襲われた。

 

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<イエスが処刑されたゴルゴダの丘の跡地>

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<旧市街(パレスチナ側)の雰囲気が僕は大好きである>

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<迷路のようである>

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<“ラマダンが終わったんだ。食べて来なよ!”と誘われる>

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<ダマスカス門は美しい>

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 <常にパレスチナ人を監視するイスラエル兵>

 

顔を上げていられないほど眠くなったのも無理はない。緊張し切った状態でタイの空港に行ってから、一睡もせずにすでに数十時間は経っている。入国してすぐ僕らは追い立てられるように、あっちこっちを動いて、今やっと座ったような状態だ。

安息日(金曜日)のため、もう市電の最終も終わっていた。僕らは、ずーっと歩いてやっとホテルへ戻ってきた。ああ、やっと休息が取れる。

先ほど「明日、テルアビブのデモで会おう!」 と言って、サラとベレと別れた。

実は、翌日デモで出会ったサラは、意外なことを言って、僕らを驚かせた。その意外なことというのは、、、。


<続く>

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イスラエル軍の路上封鎖によって金曜礼拝に行けないパレスチナ人たちの痛みを背中に感じながら、僕たちはバスターミナルに向かった。 

 

そして、ホコリにまみれたバスに飛び乗ったのだった。

最も荒れているという難民キャンプに視察に行くためだ。

 

物珍しげにこちらを見るパレスチナ人たちに囲まれてバスに乗っていると、僕は心の中からくつろぎを感じ始めた。

 

「どこへ行ってもお互い知った者同士」という、このアジア的雰囲気が、僕はたまらなく好きなのだ。

 

その上、パレスチナ人は、ボラない。適正の料金しか受け取らない。

しかも、お茶やパンなどのお店の売り物でも、ただでくれたりするぐらいだ。

だからゼンゼン緊張しなくて良い。

 

僕はバスの中で、周囲の人に笑ったり、「マハバ!(アラビア語で“こんにちは”)」とか、「キーファク(まあこんな感じの発音?)」(元気?)なんて言って遊んでいた。

 

しばらくすると、僕と笑い合っていた客の中の1人のおじさんが、M女史に何やら挨拶し始めた。そしてM女史も、ああっ! と大きく反応し、僕を振り返って言った。

 

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<このおじさんがUN(国連)診療所の所長>

 

「この人、私たちが行こうとしている難民キャンプのUN(国連)診療所の責任者なのよー!」

ラマダン中のため、もしかしたら、誰とも会えずに視察だけになるかも、と覚悟を決めていた僕は、一瞬キョトンとした。

 

M女史は2年ほど前に、この難民キャンプで日本の医師団のボランティア診療をコーディネートしたことがあり、その時の縁で、この人と知り合ったという。

 

タオ指圧のボランティア治療を企画している僕らが、ラマダン中であるにも関わらず彼に出会えたのは、実にラッキーなことだった。

 

でなければ、キャンプ内の視察で終わっている公算が大だったからだ。

 

難民キャンプに着くと、僕らはすぐに、国連診療所の事務長室に案内された。

そこで僕はキャラバンについて説明し、来年にはグループで来て、“ボランティア指圧”を行う件について話した。

 

でも彼は、タオ指圧がどういうものであるかを知らなかった。そこで事務長に、「どこか痛いなどの症状はありますか?」と聞いた。

すると、事務長は上腕に痛みがあり、もう1人の補佐官みたいな人は、慢性頭痛で、とのことだった。

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<まずは痛みのある部位を確認する>

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<上腕の痛みを頸部のツボで取る>

そこで、事務長はオリバーが、そして補佐官(?)を僕が施術することになった。

約10分後、事務長の上腕の痛みはすっかり取れ、すっかりご満悦な様子だった。

(オリバー、エラい!)

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<英語が話せないので通訳してもらう>

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補佐官(ということにしておく)の慢性頭痛は、数十年前、インティファーダ(パレスチナ独立のための総決起行動)の時に、イスラエル兵に銃の台尻で殴られ、頭蓋骨陥没の重傷を負ったための後遺症だった。

(実を言うと僕も、ビリン村などのパレスチナ人のデモに参加して、万が一、イスラエル兵に銃の台尻で殴られてメガネが壊れた時のためにと、日本から替えのメガネを、前回に続いて今回も用意していた。)

彼はそれからずっと、慢性頭痛に悩まされ続けて来たという。

恐らく16歳とかそのぐらいの頃のことだろう。

 

イスラエル軍への憎しみを煽るつもりはない。

だが、インティファーダの時にも多くの人が殺された。

また少年でも、2度と投石できないように腕を折られたという。

(その映像を見たことがある)

 

補佐官の頭痛も取れ、何とか面目を施したものの、完治するには1度の施療では足りない。多少、予後が気になりながらも、僕は治療を終えなければならなかった。

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来年の再会を約して、僕らは難民キャンプを後にした。

キャンプの視察はできなかった。

 

それは、シェイクジャラの「金曜デモ」の時間(4時)が迫っていたからだ。これは、イスラエル政府の土地収奪に反対するパレスチナ人・イスラエル人合同の活動でで毎週行われているとのことであった。

 

2日間、ほぼ寝ずの状態でやっと入国したのは、つい先ほどのことだった。

にも関わらず、まるで休むことなく、こうして僕は歩き回っている。

何だか不思議だった。

 

でも、イスラエル人がパレスチナ人と合同でやるデモならば、

絶対に外せなかった。

これは、アースキャラバン運動を一緒にやる、中東の仲間を探す旅なのだ。

 

もしかしたら、海の中に潜って真珠を探すような、幻のような行為かも知れなかった。

、、、でも、やるしかないのだ。

 

そして僕らは、まず最初の2人とそこで出会ったのだった。

見つけた、、、。

奇跡は、起きたのだ。

 

<続く>

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