アースキャラバン2015が終わった。
僕は時間を一年戻し、昨年の夏にパレスチナ入りしたところから、ブログを再開するつもりでいた。なにせ、あそこ(ストップしたところ)からが良いところだったのだ。
ところが、、、、ない。
なぜか当時の写真が、サーバー上からすっかり消えてしまっている、、、。
しかも元データを保存しているSDカードは、アースキャラバン広島の立ち上げのために動き回っていたときに、i-pod など他の諸々と一緒に紛失すみ。
、、、ああ無情!
いくつか書こうと思っていたことがあったのに!
<1>
例えば、だ。
「今からは、イスラエル当局から盗聴されていると思って話して下さい」
そんな言葉を突然聞いたのは、ベツレヘム大学のマージン教授にだった。
<マージン教授・世界各地でパレスチナ問題の講演をしている>
僕らは面食らった。
それはパレスチナで、サミーたちとアースキャラバンについて話し合って、一時間ほどしたときだった。
ジョークではない。、、、マジである。恐らく、携帯かパソコンに盗聴を知らせる何らかの信号が入ったの
だろう。まるでスパイ映画のような現実に、僕はとまどった。
<2>
さて、、、、その他。
イスラエルに残して来たタオ指圧の生徒さんたちのことも書きたかった。
僕は7年前、「苦渋の決断というのは、こういうものだったのか」と思うような体験をした。
話があまりにも複雑なので、多くを述べることはできない。
でも、反省のために少しばかり述べてみたい。
かつてイスラエル・タオ指圧というものがあった。
そこを運営していた人物のあまりにも大きな問題が発覚し、
僕は、果たしてそれを公表すべきなのかどうか、ずいぶん迷った。
まず僕は、人のことを悪く言いたくはない。(反面、好意を持っている人に対して、いくらでもからかったりできるのだが)
いくら善意とはいえ、任せていた自分に責任がある。(もっとも、今にして思えば公表すべきであったかな、という想いも、あるにはある)
さんざん悩んだ末に、「“遠藤は金取り主義者でヒトラーのような奴だ。本当に悪い人間だとわかったので縁を切った”」と生徒さんたちに伝えて良いから」とその人物に伝えた。
そして僕は、黙ってイスラエル・タオ指圧の生徒前から姿を消したのだった。
僕はまあ、何か問題があれば、とにかく自分が悪いことにしておいて、姿を消せばいいか、みたいな手法を取ることが時々ある。
本当に縁があるなら、またいつかつながることもあるだろうけど、とりあえず僕は永遠に姿を消したつもりだった。
僕としては、二度とイスラエルの地に足を踏み入れるつもりはなかった。トラウマみたいなものにもなっていた。
6年前、初めてパレスチナに入ったときも、空港からすぐにパレスチナ側に入り、それは戻るときも同じだった。イスラエルは僕にとって、二度と足を踏み入れるはずのない地だったのだ。
<マガリ>
<タマール>
ところが、だ。2年ほど前からイスラエルの元生徒からポツリポツリと連絡が来るようになった、、、。そしてなんと、昨年の夏には、二度とやるはずのなかったテルアビブでのワークショップを行うことにした。
もっとも、それを企画してくれたイスラエルの生徒さんたちには大変申し訳ないのだが、実はその時の僕の一番の動機は、とても純粋とは言えないものだった。
なぜならワークショップをやる1番の動機は、”アースキャラバンの準備でパレスチナに行くのに、イスラエルの空港で入国拒否されたくない”というものだったからだ。
以前のブログでも書いたが、昨年の夏にパレスチナ側に入っていたことが空港でばれて拘束された。その時の記録が当局に残っていて、入国拒否されないかが、僕は心配だったのだ。
先に述べた、”今から盗聴されるから”と言われたのも、平和活動家への入国拒否についての問題だった。
実は3年前に、マージン教授もかかわったイスラエルのパレスチナ占領に反対する大がかりな平和活動がパレスチナで行われた。
それは封鎖の続くガザに向けて行進するというもので、世界各地の活動家を巻き込んでのものだった。
ニューヨーク在住で、元アウシュビッツの収容者80歳を越えている女性まで参加することを、僕は耳にしていた。
しかしその時も、多くの活動家が空港で入国拒否にあった。
オリバーの知り合いの医師団20人も、パレスチナに医療奉仕に行く予定でテルアビブの空港まで行ったが拒否されて帰って来たそうだ。
それでまあ僕としては、テルアビブでする念仏ワークショップの公式のチラシがあれば、保険になるなー、と考えたのである。(ひぇ〜、皆さん動機が不純でごめんなさい!)
その時は、ガザ空爆中であったが、ワークショップのチラシを見せなくても無事入国することができた。しかしパレスチナ側に入っていろいろ動いていても、ワークショップを企画してくれた元生徒さんたちには、僕はなかなか会おうとしなかった。
何にせよ、僕はおっかなびっくりだったのだ。
先に述べたように、彼らは僕がいかに悪い人間かを聞かされているはずである。
そして僕は黙って姿を消したのだ。
それなのに、なぜ連絡して来たんだ。なぜワークショップなんか企画すんだろう?
僕は混乱していた。
そしてワークショップの前日、いつまでも逃げるわけにもいかず、ついに5人と対面したのである。
僕は、彼らがどれほど再会を心待ちにしていてくれたかを知り、何だか胸が痛くなった。僕は申し訳なさで一杯になった。この気持ちは、僕にはとてもうまく表現できそうもない。
そしてワークショップ。
その当日は、なんと空爆を受けているガザに向けて支援物資を届けるピースバスが出る日と重なってしまった。うぅ、なんという間の悪さ。正直、思わず歯を食いしばって天を仰いだほどだ。
まあ今さらそれは良い。
結局、僕とローレンスでワークショップを勤め、オリバーがアースキャラバンを代表してピースバスに乗り、ガザへ支援物資を届けることになった。
<ピースバスの看板/隣人を愛せよ>
、、、とまあ、いろんなことが連日のように満載の日々だった。
でも、これぐらいにしておいて、これでアースキャラバン中東準備篇(昨年夏の続き)は、終わったことにしよう、っと。
最後につけ加えたいことは、再会したイスラエルの元生徒のタマールが、後にイスラエル念仏会を担当するようになり、マガリが、後にアースキャラバン中東の実行委員として大活躍してくれることになった。
、、、、すべてはみほとけのはからいだったか。
南無阿弥陀仏。