2017/02/07 Categories: 未分類

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30年以上もの間、ずーっと懸案事項だった問題がようやく解決したのが、今日だった。

一体何の話だ? と思われることだろう。

僕のスピリチュアル・ヒストリーの話である。(人によっては、なんだそんなことか、と思われるかも知れないけど)

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僕は、19才の頃に念仏修行を始めた。そしてそれから数年の間に、様々な体験をした。

それは、念仏三昧による霊的な浄化作用(諸霊救済の体験)だったり、阿弥陀如来の実在に触れて身心脱落するという、圧倒的な宗教的体験だったりもした。

 

その後はその裏付けとなるものを求めて、弁栄上人の説かれた教学や経典を読んだりしていた。

しかし自分の霊的体験にどのような仏教的整合性を持たせて、その後の修行を進めて良いのか、皆目見当もつかなかった、、、。

だから、その後の修行が進まず、ずっと足踏み状態が続いているような気がしていた。

 

仏教的整合性がなければ、霊的浄化作用などのメソッドはできない。それは自分の心身にとって、かなりの死活問題だった。

このため、これにどう仏教的な整合性を持たせて自分を納得させるが大きな課題だった。

僕は、自分より先に進んだ人にぜひとも教えて欲しい、自分を導いて欲しいと切実に思った。が、あいにくそういう人は見つからなかった。

 

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19歳で念仏に出会ったとき、自分の心身の絶不調が霊的世界の影響だった、ということがわかった。子供の頃からずーっと背負って来た重苦しいものが、すっかり晴れわたったのだ。

 それは、そこの道場で聞いた、現象世界が霊的世界の様々な影響を受けているという説明で理解できた。また自分でも実際にそう感じた。

 僕の場合は、霊的なものが心身の調不調とかなり密接に結びついているようだった。もっとも、誰しも気づかないだけで、実際にはそうなのかも知れないのだけど。

 そこの道場での経験から、どのようにしたら救われない諸霊が救済されたり、魔が消えたりするのかは、ある程度分かるようになってはいた。

 そして、自分の所に来ていた救われない霊が天上界に救われると、心身が本当に楽になった。

 

やがて指圧臨床でも、患者さんには何も言わずに、密かにそういう治療をすることなどしていた。

 スエーデンボルグも言っていたけど、実際、霊的なことが原因で起こっている健康の問題は多い。(経絡指圧の創始者、増永静人先生もそう言っていた)

 救われない諸霊は存在し、それらが自分の「気のからだ」や「霊のからだ」<注:参照>にくっつけば、心身の不調が起こる。

重苦しくなったり、頭が痛くなったり、脳みそが痒い感じがしたり、イライラしたりするのだ。

<注>:人間には、肉体以外にも目に見えないそういう四種の体がある。そしてこれらは、タオサンガのワークショップで誰でも体感してもらえます。興味がおありの方は、拙著「気の幸福力」(法蔵館)をご覧下さい。

 

僕は子供の頃から、先に述べたような症状に苦しめられて来た。

 それらが、たった3か月間、毎日のように道場に通い、一回2時間の念仏行に参加することで、すっかり晴れわたった。

 しかし、やがてまた諸霊が救いを求めて自分に頼って来るようになる。すると再び重苦しくなったりした。

それで自分なりに、霊的救済の方法を学んで行ったのだった。

 一度、心身が晴れ渡った快適さを知ってしまったらもう後には戻れない。霊的メソッドは、自分が日々気分良く過ごすためになくてはならないものになって行った。

 

ただし霊的メソッドには、”こうしたらこうなる的”なマニュアルがなかった。

マニュアルがなければ、他の人にシェアできない。

 繰り返すが、僕が19才から数年間修行していた道場は、そういう霊的なことを専門でやっている所だった。

僕はそこで、それらの霊的メソッド(マニュアルはないけど)を学んだのである。(ああ、ついにカミングアウトしてしまった!、という気分で、今これを書いている)

 

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ただし、これには問題があった。

まず、”霊だ何だ”とやっているのは、実は悟りの世界とは無縁な話なのだ。

 もしかしたらあなたは、これを聞いて「えーっ!?」と思ったかも知れない。

 だって一般の人は、葬式で坊さんは霊を成仏(浄土往生)させている、と思っているだろうからだ。

だから通常、「霊と悟りは無関係」と聞いたら、「???」となるだろう。

 この辺は、仏教の中に深ーく入っている人でないと、分かりにくい話だろうと思う。

でも実際、霊と悟りは無関係だし、これは実に厄介なテーマなのである。

 

そもそも原始仏教のお釈迦様は、霊の救済などまるで説いていない。

それどころか、否定されているぐらいである。

これらのテーマについて誰かが質問しても、まず答えない。(これを無記という)

大乗仏教になってからも、基本的にはそうだ。(「天台小止観」には、魔の対処法が若干書いてあるけど)

 何せ悟りというのは、「無分別智」すなわち自他を分けない智慧から生まれる。

自己と世界(宇宙)とが一体であることが基本だ。

 だから禅であろうと念仏であろうと密教であろうと、宇宙大霊の仏(あるいは空)と一体となるのが目的である。

本来は、修行中に個別の霊などに目を向けていてはいけないのである。

 それに、大円境鏡智の哲学から言っても、世界はすべて自己の想念の投影だ。

量子力学的にもそうだ。霊だのなんだの言っても、所詮は自己投影の産物として、放下しなくてはならないのである。

 

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ところが、だ。

これまで繰り返し述べたように、僕が修行していた道場は、霊の救済などが専門だった。

 そして、約2時間の修行が終わったあとは、心身が本当にすっきりと楽になった。

めちゃくちゃ楽で、気分が良くなるのだ。

 だから19才だった僕も、“宗教なんてイヤだし、やめようやめよう”と思いながら、念仏にハマって行ってしまったのである。(まるでドラッグのように)

 やがて僕は、そこでの修行の結果、阿弥陀如来の実在を日常で体験するようになった。

 しかし霊の救済だけに専念していてはだめだ、と思わされた。

いかに心身が楽になるとは言え、いかに大きな宗教体験を得たとはいえ、それだけでは、真実の悟りに至る道を他と分かち合えるようにはならない、、、。

 霊的メソッドは悟りの道筋ではないし、何よりどうしても仏教との整合性が取れない。

悩んだ挙句、僕は一旦、その霊的修行の方法を捨てた。

 そして伝統的な仏教や、大乗仏教の最高峰とも言える弁栄上人の教えを学び、それらにしたがって修行し直そうとしたのである。

 

 しかし、だ。

教えに従って修行し直しても、また様々な修行法を試しても、さらなる悟りの世界には進めなかった。(修行が足りない、と言われたらそれまでなんだけど)

 さらに、悟り的体感を他にシェアする方法も得られなかった。

 そして霊的なことには一切目を向けないようにしようとしながら、僕は時折、霊的なものにやられ、心身に不調を来たした。

 そしてそのつど、諸霊救済や魔の光化などの霊的メソッドに頼らざるを得なかった。

 「ああ、”もうやらないようにしよう!”と思っていたのになぁ、、、。でも、霊的世界は現象界に影響しているんだから、どうしても無理だよなあ、、、」というのが、結局は本音であった。

 そして、指圧臨床の患者さんで、”どうしてもこの人には霊的なメソッドを行う必要があるな”と感じた場合は、そっと黙って陰でやって差し上げることもあった。(まるで星飛馬のお姉さんが、柱の影からそっと見ているみたいな話だな、、、)

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<柱の影から見守る星飛馬の姉、明子「巨人の星」川崎のぼる>

また時には、特別に諸霊救済の念仏や読経をして差し上げることもあった。(それは、何年かに一遍ぐらいのものだった。僕としては、なるべくそっちの世界には行かないようにしていたのだ)

 仏教の哲理や悟りへの道 vs 諸霊救済や魔の光化。

この両者の折り合いをどうつけたら良いのか? これは僕にとって、人生最大の課題といっても過言ではなかった。

 霊的なメソッドにしたがえば、心身がふあーっと楽になるのはわかっている。

しかしそれは、悟りの道でないのではないか?

 だからやっちゃいけない、、、。

いやしかし、霊的なことは心身に大きく影響する。

それをしないままでは、時折、霊的なものに影響を受けてやられちまう、、、

いや、しかし、、、。

 この問答は、20代半ば以降からずーっと僕の無意識を支配していたのである。

 

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それが苦節OX年、やっと解決することができた。

諸霊救済や魔の光化を行いながら、真実の悟りへの道筋である門が生まれたのだ。

修行法をマニュアルとして体系化することができたのである。

それは実際には、レンガを1つ1つ積み上げて、でき上がるのかどうかもわからないビルを暗中模索のまま建てて行くような作業であった。

同時に、「まさか」と思うようなコペルニクス的転回があった。

 その体系が、「誰もが悟りを体感できるメソッド」として確立したのだ。

これができたとき、”僕は、これを創るために生まれて来たのかも知れない。もうこれで死んでも悔いないな”と思ったぐらいである。

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 これらはワークショップのプログラムとして成立させる予定だ。

もし人々がこのワークを通じてエゴを乗り越え、信仰と修行を内的に確立することができたなら、人生において智慧を増進し、幸福力を高め、潜在力を開発し、願いを成就することができるようになるだろう。

 人生の平和、幸福、歓喜、自由が得られるのだ。

さらに、経絡の診断や治療だって軽々とできるだろうし、霊的なメソッドも身に付けるも違いない。

 この修行法を体系づけることができたとき、僕はまるで、長年の苦労の末についに金鉱を掘り当てた「山師」のような気持ちであった。(やったぜ! みたいな感じ)


だって、このメソッドによって、誰もが悟り体感を得られる時代がやって来たのである。

こんな嬉しいことはないじゃないか。

 

ただ、ちょっと思う。

”こんな時代に、エゴを捨て、純粋に悟りを求める人なんかいるんだろうか?”

”三宝を受持し(我がこととして引き受け)、憶念し(愛し)、讃嘆し(喜び讃え)、決定する(自分よりも法を尊ぶ)人なんかいるだろうか?”って。

 いや必ず、これから僕の目の前に、そんな人たちがたくさん現れるに違いない。(キッパリ!)

 早く会いたいなあ。

、、、一日千秋の想いで僕は待っている。

 たとえ100年でも200年でも。

コメント(1)

  1. Rosaゆき より:

    喨及様、読ませていただきました。
    私が長年、人としての幸福を育もうとしている傍らで、内的に違う、これをあんたにやってほしいんやという声みたいな働きを感じ、言葉に発露出来ずにいました。
    発露出来ない理由は、また、責任逃れして、ただ逃げたいだけやろと単純に判断されることは、更に痛手を受けるので、内包してきました。
    喨及様、私は祖母がやり残した信仰の道を継ぐことと、わたくしにもたらされたご縁の体験を共存させ、また、体現することが天命であるというふうにどうしてもたどり着いてしまいます。
    結婚というものが何度も破局していくのてますがら破局の中身は違う。
    エゴや自暴自棄からの破局が若い私にあったと思いますが、今は切実な本質が訴えることかある。
    人間との共存であれば、わたしの想いだけを貫くわけにはいかない。

    学び、進みたい。

    ひとり理解されないまま、未完成品として判断されることが続き、その中にいると自分が苦しくて仕方ない。

    喨及様の発言がわたしに一筋の光を注いでくださいました。

    ありがとうございます。