一般社会では何の役にも立たない、“旅のサバイバル術”
ちゃんとした睡眠が取れないまま、夜明けを迎えた。主な原因は、蚊の猛攻だった。蚊取り線香を日本から持ってくるのを忘れていた。
もっとも、東南アジアで安宿を泊るなら、日本製の蚊取り線香は必需品だった。ついウッカリしたのだ。
もっとも最初はかゆみの原因が、のみかナンキン虫かと思った。昔の東南アジアの安宿では、かつてそういうことが、ままあったからである。でも、さすがに今はそういうことはないだろうとは思うけど、、、。
余談だが、虫対策の場合には、まず、薄いビニールシートをベッドの上に敷く。その上に持参のシーツを敷いて寝れば、ベッドにいるのみなどが上がって来ないので、バッチリ大丈夫である。
まあ今ここで、こんな旅のサバイバル術の講釈を垂れたところで、聞かされた方にしてみれば、“はあ、そうですか。で?” みたいな話で、何がどうだということもないだろうけど、、、。
朝食後に出発
夜中にあまりにも痒かったので、“もしかしたら、蕁麻疹? そうだったらどうしよう〜”、と一瞬嘆きモードに入りそうだった。
だが、明け方に蚊の羽音が聞こえ、かゆみの原因がわかってホッとした。(←こんなことでホッとする自分が少し悲しかった)だって、ホッとしたところでかゆみが消えて、すんなり眠りに入れるというわけでもないんだから。
結局、まだ暗い内から起きだした僕だけど、 それでも練気2体操のお陰か、普通に元気だった。(皆さん、練気2はお勧めですよ〜)
それで、原稿を途中で切り上げて朝食を食べるやすぐに、宿のおじさんにエイズホスピスの行き方を教えてもらい、パバナプ寺院へと向かった。
目的のパバナプ寺院が歩いて行ける距離だというのは、僕のまったくの思い込みだった。まずはバスでふもとまで行き、そこからモタサイ(バイクタクシー)に乗り換えくては行けない所だった。
ゲストハウスのおじさんは、タイ語のわからない僕のために、モタサイに見せろ、と親切に紙に書いてくれたり、そっち方面行きのバスを停めてくれ、僕の行き先を車掌に伝えてくれたりした。
<中央が親切なおじさん。家族経営のゲストハウス>
市街を出てしばらく走った。近くに来たら、車掌が親切に教えてくれた。田舎の人は親切だな〜。
バスを降りた後は、道でたむろしているモタサイ(バイクタクシー)に声をかけた。そして行き先を伝え、バイクの後部に乗り込んだ。モタサイは、万事了解しているようだった。
モタサイは畑を右手に見ながら、山の上目がけて走り出した。やがて山上の入り口で停まった。どうやらここらしい。仰々しいチェックポイントまであって、門番に、何しに来ましたか? と聞かれる。
上座仏教では珍しい“開発僧”(かいほつそう)
僕が事情を説明すると、門番は電気自動車のカートを呼び、それに僕をに乗せた。そして、事務所まで連れて行ってくれた。何だか、すごい所だなー。
僕が何冊か読んだ、ここに関する本での情報は、約10年前のものであった。本から受けたイメージでは、ここは僕にしてみれば、マザーテレサがカルカッタに創った、「死を待つ人の家」の仏教版というものであった。
実を言うと、まあこういう言い方も何なんだけど、上座仏教(タイの仏教もこれに入る)には基本的に、人を救うという思想がない。(じゃあ、大乗仏教を標榜する日本の寺は何しているんだ?と言われて返す言葉もないだろうし)
/注:大乗仏教とは、人々の救済や利他を修行の目的とする、お釈迦さまの死後500年ぐらいしてから生まれた教えで、チベット、中国、韓国、日本は大乗仏教です。
しかしタイにも、近年になって、民衆に対する慈悲の施しを実践する、「開発僧」(かいほつそう)という人たちがわずかながら顕われた。ここパバナプ寺院にエイズホスピスを創った僧侶も、その内の一人だった。
書籍等によれば、ここは医療差別され、家族からも捨てられたエイズ患者を看取るエイズホスピスだった。寺の中に、独自に施設を創り、安らかに死を迎えられるような看取りを実践しているということだった。
共感した僕は、何かお手伝いできることがあればと思って、NPOユニの寄付を多少携え今回のリサーチを始めたのだった。
何ごとも自分で確かめることが大事
一方では、ここも最初の頃とはずいぶんと変わり、すっかりシステマチックになっている、という話や、いやー、あそこはもう観光地になっていますよ、などというバンコク在住者からのウワサも聞いた。
しかしまずは、実際に現場に行ってみなくては、何ごともわからない。人は良いものを悪く思うこともある。
実はそれ、自分の体験からもわかる。なにせ僕のことを悪く言う人がいることを、僕自身が知っているのだ。(タハハ、とここでけっこう虚しい笑い、、、別に、自分が良い人だなんて思ってはいないけどさ、、、 (☍﹏⁰) 、、、実は涙)
そういう時、僕の頭の中には、一体何が鳴り響くのか? そう、それは昔ヒットした山本リンダのあの曲である。
“ウワサを信じちゃ、いけないよ〜♬。あたいの心はウブなのさ〜♩” (またしても、ふ、ふ古い!。流行ったのは、ニューヨークから帰って来た中学生の頃だったかなぁ。3年ぶりに聴く歌謡曲が、しばらくは懐かしかったので憶えているのかも)
まあとにかく、そんなんで僕は、何ごとも自分でたしかめるにこしたことはないと思って、やって来たのだった。
しかし正直言って、これほどとは思わなかった。
案内してもらう
僕を乗せたカートが事務所に着いたら、中から、患者兼スタッフらしき人が出て来て、応対してくれた。僕は彼に、自分が来た理由を話した。
最初は、この人は僕が来たことを、ちょっとメンドウくさがっているのかな? なんて思った。が、まあそんなことを気にしてもしょうがない。とにかく、彼が案内してくれることになった。
それほど大きな敷地ではないが、案内してもらうと、施設内には、たくさんのコテージがあり、喫茶店やコンビニ、また何と銀行のATMまであった。(後で、なぜATMがあるのか、その理由がわかった)
聞いてみると、現在160人が入居していて、スタッフは25人いる。医者はいないが、看護士はいるという。またHIV感染者で、発病していない人も何人かはスタッフをやっているという。
亡くなる人は月に10人ぐらいで、また現在、85km離れたところに1500人収容のエイズ村を建設中だという。
末期患者の病棟にも案内してもらった。部屋に入る前にはマスクをつけ、消毒液で手を拭かなければならなかった。
患者さんたちは10数名いた。ほとんどが寝たきりで、エイズ患者特有の斑点が身体に出ている人も多かった。
<末期患者の病棟>
ベッドに座って絵を描いている人がいたので、近寄って見せてもらった。声をかけ、少し他愛ない話をした。
ただ、マスクをしているし、タイ語が話せないので、盛り上げにくかった。なぜか、部屋の中に犬がいた。
その他、遺体をミイラにして集めた安置室があって、そこも公開されていた。
<ミイラとなるべく、献体された遺体>
患者の骨を集めた部屋もあった。どの部屋も大きく、きれいで掃除が行き届いていた。ウワサ通り、ここはすべてがシステマチックだった。
ボランティアは受け入れていますか? との質問には、“さあわかりません。申請してみないと”とのことだった。しかしボランティアが入る余地など、あまりなさそうに見えた。
一通り案内してもらった後で僕は、NPOユニからの寄付を置いてきたいのだが、と彼に言った。
バーツ(タイのお金)の持ち合わせが少なかった僕は、施設内にある銀行のATMでお金をおろした。彼は、ひときわ立派な寄付受付専用の事務所に、僕を案内してくれた。
<寄付受付の事務所>
<寄付の祈りが書いてあった>
<案内してくれたマスさん。こちらの気持が伝わったのか、途中からはずいぶん好意的になってくれた>
その後、事務所に戻って、モタサイ(バイクタクシー)を電話で呼んでもらった。チェックポイントで待っている間、大型バス二台が到着し、中から次々とタイ人観光客が降りて来た。
<入り口のチェックポイント付近>
<大型バスから降りて来た観光客たち>
それで僕は、ここが観光地だというウワサの意味を理解した。(タイの観光寺院にATMが置いてあるのは、よくあることだった)
ようするに、ツアーでやって来て見学した大勢の観光客が、寄付のお金を置いていくことで、ここのホスピスは運営されているのだった。もしかしたら僕を案内してくれた彼は、いつもはツアー客を相手にしているのかも知れない。それで、彼が一瞬、個人で訪ねて来た僕をメンドウくさそうに見たのではないかな、と思った。
それは、考えようによっては素晴らしい運営戦略かも知れない。いずれにしても、実際にエイズ患者を看取っていない僕に、何を言う資格があろうか。
バイクタクシーがやって来て、僕はエイズホスピスを後にした。こうして、旅の最後のミッションは、終わった。
<この人力車のおじさんは、“オジサン”と日本語で自己紹介した>
宿で荷物を受け取り、ロッブリー駅まで行く。歩いても問題なく行けるのだけど、人力車が誘って来たので、おつき合いで乗った。何ていうかさー。愛ですよ。人間、気持に余裕がないとなー。(←おまえ何、エラそうに講釈垂れとるんじゃ)
切符を購入し、列車を待つ間、駅前の屋台でそばを食べた。食べている途中、ふいに先ほど見た、遺体のミイラを思い出して僕の箸は止まった。
この日のランチで、僕は肉を残した。
、、、南無阿弥陀仏。