気仙沼の唐桑町の災害対策本部にやっと着いた時は、すでに夕方5時近くなっていた。
朝は、仙台駅近くでレンタカーを借りたり、必要な救援物資を購入したりと、あたふたする。そして、昼過ぎにやっと出発。
天才的方向音痴の僕は、“果たして無事に着けるのだろうか?”と、実は内心、緊張しまくりである。2時間ほど(?)で高速を降りると、そこは壊滅した気仙沼市だった。
あまりの光景に圧倒される。くらくら目眩がするほどだ。街そのものが崩壊している中を疾走しているなんて、とても現実とは思えない。なぜか一瞬、脳裏をよぎったイメージ。なぜかそれは、映画「猿の惑星」に出てくる、核戦争で都市が壊滅した後のシーンだった。
しばらく行くと、女子高校生たちが集団登校しているのに出くわす。はた目には、健康的に見える女子高校生たち。彼らが、壊滅した街を歩いている。そんな街の光景を写真に撮ろうかと、一瞬は思った。しかし壊滅した街を撮るなんて、人の不幸を撮るようで、どうしてもできなかった。
今回、写真が少ないのはこのためである。でも、明日からは思い切って、少しは撮影もすることにしよう。それが、現場に足を踏み入れた者の勤めかも知れないと思うから。
さて途中、家が無事だったアビスさんという人の所に寄って、放射能対策の食事療法のコピーなどを頂く。災害対策本部に到着したのは、その30分後である。
対策本部の小川さん、穀田さんらと顔を合わせて、お話しを聞く。また、持って来た救援物資をお渡しする。
NPOユニでは募金活動等も行い、すでに相応の物資を送っているのだが、それらの荷物は、まだ届いていないらしい。やはり直接、来て良かったと思った。
またNPOユニが、各避難所に、合計で10台の洗濯機を設置する旨をお伝えすると、皆さん、本当に喜んで下さった。
これからでも、何人か施術できると思っていたのだが、電気の復旧していない唐桑町の避難所でのボランティア活動は、夕方には終了とのことだった。
宿泊は、避難所の片隅にでも寝かせてもらうか、車中でという覚悟だった。しかし唐桑町には、タオ指圧の生徒さんが住んでいて、(歯科医のアキラさんである)彼の家に泊めてもらえることになった。彼は、レゲエバンドで、パーカッションをやっているそうだ。
また、同じくタオ指圧の生徒さんである、泊さんも来ていた。彼はすでに3日ほど、避難所でハセさんと共にボランティア指圧を行っていた。(泊さんは、ウワサでは、元ブルータスの編集者だったそうだ。後に、東大卒と判明するが、本人曰く、今はプータローとのことである)
佐藤家で、ろうそくとランタンの明かりの下で出してくれたお握り。これがまた実に格別で、本当に美味だった。おかずは缶詰だが、貴重な食料の中から分けてくれた食事だから、美味しくないわけがない。
明日からはボランティア指圧の予定。時おり断続的な余震がある中、被災地の4月4日は暮れた。
被災地への支援活動が、新聞に掲載されました。