悲しみと悟り
「悲しみを懐に抱き続け、遂に悟りに目覚める」ということばが、法華経に出て来る。
“悲しみ”と“悟り”とは、一見、全く別の心のように思われるかも知れない。しかし、宮沢賢治が愛してやまなかった法華経の、この言葉は、「利他」の本質をするどくついている。
利他とは、シンプルにいって、他に幸せを与えることだ。他に喜びを与えると、同時に自分の無意識にも幸せを与えている。
自分も他人も、深いレベルでは無意識を共有しているから、利他とは、自他共に幸福になる道なのである。
ところが、だ。利他の道を歩む人間は、悲しみを体験することは避けられない。
法華経でいう「悲感」だ。利他は幸せの道だと言っておきながら、“悲しみを体験する”ってどういうことだ? と思われることだろう。
与える者と受ける者
そこでまず述べておくが、利他においては、“与えるもの”と“受ける”ものが生じる。
それはそうだろう。与えるものは幸せになる。これは間違いない。
しかし受けるものは一体どうなるのだろう。利他というからには、「与えない人」の心配までしなくては片手落ちである。
でないと、金持ちが道楽で慈善事業を行い、何か自分が良いことでもしたような満足感に浸っているのと変わらないものな。
無意識へのメッセージが未来を創る
例えば、天台宗の開祖などは、“与えるものは天に生まれ、受けるものは獄(地獄)にいく”とまで言っている。えーっ!? 与える側に回らす、受けてばかりいれば、地獄行きかよ〜。
それじゃあ、与える側は、地獄行きの切符をせっせと渡しているだけじゃないか〜!? と思う。
もっとも、自分は与えずに、他からもらっているだけの人は、“ラッキー! 得しちゃった〜”と思っていて、まさか自分が地獄行きの切符を手にしているとは思わないだろうけど。
ただし、もらうだけで与えなければ、“自分は、他に幸せを与えるほど幸せではない”というメッセージを自分の無意識に送ることになる。
自分の未来は自分の無意識が創るのだから、そのメッセージを受け取った無意識がどんな未来を創るかは、ちょっと考えてみればわかるだろう。
本当の利他、その行き着くところは?
さらに考えてみよう。先に述べたように、利他とは他に喜びを与えること。しかし、自分が喜びを与えた相手が、ただそれを享受するだけで、与える人にならなかったらどうなるだろう? 繰り返しで申し訳ないけど。
地獄行きの人を創ることは、本当の利他でもなんでもない。だから真の利他の道の行き着くところはどこか? と言えば、それは利他をする人を育てることにならざるを得ない。
繰り返しになるが、人間、利他をすることでしか幸せになれない。
だとしたら、本当に人間を幸せにしようと思ったら、利他する人になってもらうしかないのである。
ここに先の命題である、“利他の道を歩むものは、悲しみを体験せざるを得ない”が、密接に関わってくる。
利他とは誤解されて傷つく道
例えば誰かに、利他をすることで幸せになってもらおうとする。これは頼んでも無理だし、命令しても無理である。相手に良かれと思うことをひたすら行い、祈り続けるしかないのである。
ところが、だ。
相手にとって良かれと思うことをやり、“こんな一銭の得にもならないようなことをするのは、何か別の魂胆があるに違いない”と思われたり、相手の幸せを祈りながら、その当の相手からネガティブな目を向けられたりする。
そして人間は、そんな簡単に利他するようにはならない。利他を勧めても、“何かをさせようとしているんじゃないか”となどと勘ぐられてしまったり、義務を負わせられたように感じる人もいる。
時に僕が、本人が自分の内面に向き合わざるを得ないようなことを言えば、その人が反発したり、言い訳したりすることもある。
その結果生まれた、自分自身との向き合いや葛藤から逃げるため、エゴを正当化して利他の道を歩くのをやめる人もいる。
また中には、やめる前後に、陰であるいは面と向かって、僕を非難する人もいる。にわかには信じられないだろうけど、僕にはまるで身に覚えがない言動を、あたかも僕がしたかのように陰で言われことすらある。
それは、自分のエゴと向き合わせた人(僕)に、その葛藤の苦しさをぶつけたり、その原因を責任転嫁したためだ、と思う。僕もそれは頭では理解している。
しかし僕は傷つく。これで悲しくないわけがない、と思う。それに時には、僕に対する非難を聞いた他の人が、それを真に受け、妙によそよそしくなることだってある。
こんな時は、まるで冤罪で警察に連れていかれ、それまで親しいと思っていた人から、白い目で見られたかのような、寄る辺のない想いにかられてしまう。
まるで、親を気づかった幼い子供が、余計なことするな、と家族みんなに舌打ちされた時のような、傷のつきかたである。
利他とは悲しみを受け入れる道
古には、愛をかなしと読んだし、イエスを悲しみの人と呼んだ。
そのイエスは、「狭き門より入れ。滅びに至る道は広く、生命に至る道は狭い」と説いた。
滅びとは、エゴを優先させ、自分の快適さを追求する道だし、生命とは利他に生きる幸福な道である。
しかし利他に生きる人を育てる、真の利他の道とは、幸福ではあっても、狭き門である。
それは、エゴにとっては受け入れ難い厳しい道だからである。
そしてそれが故に、他者と道を分かち合おうとする人は、時に人から言われなき非難を受ける。その悲しみを体験することは、避けられないのである。
マザーテレサのハウスでも、エゴと向き合い乗り越える利他の道について行けず、去って行く人は多かったと聞く。
利他の道を歩むスタッフは、ケアーを受ける側ではない。ケアーを実践する立場だ。だからマザーも、彼らスタッフに対しては、厳しくならざるを得ないだろう。なぜなら、自らに対するその内的な厳しさこそが、真の幸福をもたらすことを知っているから。
しかし中には、そのことが理解できず、かえって反発して去って行くスタッフも出てくるだろう。でもマザーだって人間だ。本人の幸せを願うその気持が理解されず、スタッフが利他の道を捨て去って行くたびに、深く傷ついただろう、とは思う。
マザーのハウスで、途中からスタッフを簡単には受け入れなくなったのは、エゴを捨てた利他のワークを、長時間行うことに耐えられなくて逃げる人がたくさんいたためだ、と聞いた。
イエスも最後は、弟子たちがみな逃げた。そして罪人として死んだ。さぞ切なく、悲しかっただろう。その直前には、弟子たちの足まで洗ってあげていたのに、、、。
たった一人になっても、人間への夢を捨てられない人。利他にしか生きられない人。そんな人だっているんだ。
「悲しみを懐に抱かずして悟る人はいない」という法華経の言葉が、優しくたしかな重みをもって、心に響いてくる。
※ところで、今タイのバンコクに来ている。明日からバングラデッシュに向けて出発。