かなり疲れていた僕は、さすがに観念して空港のホテルに泊る決心をし、ホテル紹介窓口まで行った。

先のブログで述べたように、タイの駅や空港にはマフィアが仕切っている旅行代理店がいくつもある。

今回僕は、観念してそこに行った。旅行代理店嬢に空港内のホテルの値段を聞くと、2300バーツ(7000円ぐらい)だと言う。

僕が、ではそこにしてくれ、と言うと(相手がマフィアの手下だと思うと、つい横柄な態度を取る僕であった)、代理店嬢はホテルに電話した。すると、満室だと言う。代理店穣は何を思ったのか、僕に受話器を渡し、私の言っていることは本当なんだから、聞いて確認してくれ、と言う。

一体、何言ってんだろう、この人は? と僕は思った。受話器を持たされたって、僕にタイ語など、わかるはずないではないか。

その後彼女は、しきりに別のホテルを僕に勧め始めた。なんでも、空港のすぐ裏にあるホテルが、タクシーで100バーツだし宿代ももっと安いから、そこにしろという。

しかし普通代理店の人間が、私の言っていることは本当だから、直接聞いて確認してくれ、などと、客に言うものだろうか? 僕はそこで何か裏があるんじゃないか、と疑心暗鬼にかられ始めた。

何も身の危険を感じたわけではない。ただ、空港の裏に行くタクシーが100バーツだと? ざけんな。せいぜい40〜50バーツぐらいだろー。タクシー代をマフィアにボラれるのが、どうもしゃくだったのだ。

それに繰り返しになるが、僕に、タイ語でしゃべっているフロントと電話をかわらせようとするなんて、何だか妙に怪しいではないか。

まあ、かつてのいろいろな旅で、怪しい人間たちといろいろあったりしたこともあって、僕は妙に勘ぐることがある。それは、旅のサバイバル術の1つと言えなくもないが。

“やっぱり後でまた来るわ”。代理店嬢にそう言った僕は、荷物をがらがらと押して一旦そこを離れた。

それで日本に電話をかけて空港近くのホテルの電話番号を調べようとしたりした。

が、何だかんだでうまくいかず、結局、荷物を押して空港内のホテルまで行ってみたら、果たして満室だった。

そこでとうとうあきらめた僕は、白旗をあげた。そして再び観念してホテル斡旋窓口に行ったら、何とすでにしまっていたのである。

ウソだろー。前は24時間開いていたじゃないかぁ、と思ったが、まさに「後の祭り」である。どうやら、どうしても僕をバンコクまで行かせたい、というエネルギーが働いているようだ。

リュックを背負った僕は、ギターを片手に荷物を押して、空港駅まで移動した。そしてホームで列車を待ち、約1時間かけて、やっとバンコク中央駅まで行ったのである。

<長い長い1日の果てに、やっと列車に乗り込んだ>

<1時間後、中央駅に着く。ここからホテルまで信号効かない道をくぐり抜けて行った>

泊った宿は、タイ大会の後夜祭として考えていた、中央駅近くのバンコクセンターホテルであった。

駅付近は現在再開発中だった。信号はろくに使えなかった。荷物抱えて車が通る道を渡るのは、タイ人的なテクニックが必要だった。まあようするに、タイ人の後をくっついて、荷物を抱えて一緒に走って渡ったというだけのことだが。

チェックインして荷物を置き、遅い夕食のためにホテルを出たら、すでに夜10時。

それでも僕は、チャイナタウンで安くて美味しい夕食を食べようと勇んで出かけた。しかし再開発中のチャイナタウンは、半ばゴーストタウンだった。少し歩いてもシャッター通り、工事現場しかなかった。

あきらめた僕は、中央駅前に戻った。そして、ようやく屋台のテーブルに腰を落ち着け、やっとビールと遅い夕食にありついた。

それにしても先ほどチェックインしたバンコクセンターホテルは、タイ大会の後夜祭として、あらゆる点で不合格だということがわかった。

ビールを飲みながら、ははーん、と僕は気づいた。僕がどうしても空港付近のホテルに泊れなかったのは、バンコクセンターホテルを、タイ大会の後夜祭候補からはずすためだったんだな、と、、、。

ただの負け惜しみかも知れないけど、まあ今日は、そういうことにしておこう。

 

 

 

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本当に長い1日だった。

眠りが断続的で、明け方に目が醒めてしまう、という日がなぜか続いていた。

実は、今日もまだ暗い内からブログ原稿をやっていた。読めば30秒で終わるブログでも、書く方はそういかない。

やがて日も上がり、僕はキーボードの入力をやめた。そして朝食を済ませると、ネットで飛行機の予約を入れ荷物をまとめた。

出発前にガイドブックで地図を見ると、そこには来たときとは別のバスターミナルが掲載されていた。

それはホテルの近くにあった。昨日モタサイ(バイクタクシー)でホテルに来る途中、チラッと目にしていた。

このバスターミナルからウドンラチャタニまで戻るバスが出ているに違いない。僕はなぜかそう思った。

そして英語の通じないフロントでチェックアウトを済ませると、身振り手振りで“ここ(近くのバスターミナル)まで歩いてどれくらいかを聞いた。10分ぐらい、という返事だった。

“なら歩くか”、と僕はギターを片手にリュックを背負い、荷物を転がして歩きはじめた。しかし一向に着く気配はなかった。

やがて道端に座っていたモタサイ(バイクタクシー)のおじさんが僕を見つけた。そして、バスターミナルなら乗って行け(パイ・バス・サタニーロトファイ、とかなんとか)としきりに勧めた。

仕方なく僕は値段交渉した。(田舎はあまりボラないけど、ついクセで)交渉が成立っすると、再びリュックを背負い、おじさんにギターを預けた。

そして荷物を片手に抱えながらモタサイ後部に乗った。再び、“ああ、これだけは自分を誉めてやりたい”状態(前々回のブログ参照)である。

“ずいぶん遠いなあ”と思ってると着いたのは、昨日と同じバスターミナルだった。しかし窓口で確認したら、ウドンラチャタニ行きのバスがあるという。

何ということはない。フロント嬢の言う10分は、モタサイに乗って10分という意味だったのである。

実は、ここからがストレスだった。英語の通じない窓口で、“ウドン行き”と言ったら、“ウボンタニか?”と聞かれて、つい“、そう”、と答えてしまった。

だが、何だか妙な気がした。それで慌てて調べたら、ウボンタニという所もあって、それは正反対の方向だった。

だから僕は、その後、ウドンラチャタニまで、と言い直したのだが、果たしてちゃんと通じたのか? どうも、心もとなかった。

15歳の頃からヒッチハイクで日本を旅していた僕だが、方向音痴のため行き先をよく間違えた。

野宿した翌朝、再びヒッチハイクして何時間もかけて着いた所が、その前にいたところだった、という信じられないようなドジを、何度も体験した。つまり朝なると、正反対の方向の車に乗っていたのである。

あのときの悪夢が、僕の脳裏をよぎった。

僕は、ターミナル事務所で英語のわかる人を探し、何度かチケットの行き先を確認したりして、うろうろしなければならなかった。

なぜ落ち着かなかったのかというと、チケットの値段が、来たときと比べてずい分と安くなっているからである。

果たして同じところに行くチケットなのか? 行き先もすべてタイ語で書いてあって読めない。それで僕は、疑心暗鬼にかられていたのである。

やがて小1時間ほどでバスが来た。確認作業に忙しくてトイレに行く間がなかった僕は、出発直前に運転手にことわりトイレに行った。そして、ほぼ最後の乗客として乗り込んだ。

来たときと同じように、当然、席は確保されているだろう、そう思っていたのが甘かった。何と僕も含めて、立ち乗りが10人ぐらいいたのである。

「1時間半の立ち乗りかあ、まあ修行だと思えばいいか。」こういう時は、日頃、礼拝行など肉体的な行をしている者は、得である。すぐに、頭を切り替えることができるからである。

シャワーが冷たければ、滝行している、と思えばいいし、バスの立ち乗りは、まあそういう修行でもしていると思えば、1時間半など軽いもんだ。

しかし問題はそれではない。来たときは、どこにも停まらずにひたすら走り続けたバスだった。しかし今度はそうではない。やたら街のあちこちで、人を降ろしたり乗せたりし始めた。

果たしてこれは、ホントにウドンラチャタニに行くのか? 僕は再び疑心暗鬼にかられた。

仮に正反対のウボンタニ行ったとしよう。まあ、考えようによっては、そこでまた適当な宿をとり、翌日から別のルートでバンコクまで戻っても良いのだ。僕は、そう頭を切り替えることにした。帰国便は、まだ1週間ぐらい先なんだから。

では、なぜ僕はここまで神経質になったか? それは昨夜、バンコク行きの飛行機をネットで予約し、それは払い戻し不可のチケットだったからである。

実はそれ、旅の資金を節約することに血道をあげ、少しでも旅を長引かせようという、セコいバックパッカー的な感覚なのである。

バックパッカー的感覚では、旅の資金5000円をパアにするなど、とんでもない話だった。それだけあれば、インドに2週間滞在できてしまう、と恐らく無意識が考えるのだろう。

ともあれ、やがて席があいて僕は座ることができた。そして1時間半ぐらいたってから、近くの人にタイ語の地図を見せて、ウドンラチャタニに行くかを再び確認した。

どうやら行くらしい。やがて、親切なおじさんが、バスターミナルはもうじきだ、と身振りで教えてくれ、とうとうバスは無事に到着した。

午後1時前だった。空港のカウンターが開くまでは、まだかなりの時間があった。僕は、インターネットが無料で使えるホテルをガイドブックで調べ、バスターミナルからタクシー(今度は車)に乗った。

タイの田舎では、1000円で泊れるホテルでも、レストランでネット無料という所がいくつかあった。僕の作戦は、そのホテルのレストランでお昼を食べ、あとはお茶でも飲みながらネットでもやろうか、というものだった。

ホテルでお昼を食べて、本でも読んでしばらくのんびりしたら、もう時間だった。僕は再び荷物を背負い、道に出てタクシーを探した。

しばらくしてタクシーがつかまった。ドライバーは、3年間、日立の工場で働いていた日本語を話す人だった。妹が日本人と結婚して横浜に住んでいるという、気のいいあんちゃんだった。

空港に着いたが、閑散としていてまだカウンターは開いていなかった。それで30分ほど、お茶を飲みながら本を読んで静かに過ごした。

やがて空港のカウンターに電気がついて明るくなり、タイ語の放送があった。どうやらカウンターが開いたらしい。

僕は荷物を持って、カウンターまで行った。僕の前には、すでに一人チェックインしている人がいた。

そしてチェックインを済ませた前の人が、振り返るなり、ああ! と叫んだ。何と、ランサンだった。またまた偶然、同じ飛行機に乗り合わせたのである。

何という偶然であろう! また会えてうれしいよ、というランサン。彼は、さっそく僕らが隣同士になるようカウンター嬢にアレンジしてもらった。そして僕らは、連れ立って喫茶コーナーに行き、お茶を飲んだ。

<チェックインカンターで、僕の前に並んでいた人が、なんとランサンだったとは!>

 、、、その後、さんざん待ってから搭乗になり、飛行1時間でドンマン空港に着く。そして彼とは、“じゃあ21日に会おう”と言い合って別れた。

さて、これからどうしよう? 僕は思案した。

僕にはまだ、ロッブリーのHIVホスピスを訪問するというミッションが残っていた。

選択肢がいくつかあった。空港からバンコクまで列車に乗り、1時間かけて行き、翌日ロッブリーに出発する。しかし時刻表を見ると、列車が来るまで1時間近くまたなければならない。

でも、タクシーでバンコクまで行くのは楽だが、車が込みそうだ。

一方、バンコクとロッブリーは方向が正反対だ。明日バンコクからロッブリーに行くということは、再び空港を通過することである。せっかく空港まで来ているのになぁ、とも思う。

しかし、すでに夜7時前である。今日は、明け方のまだ暗い内から原稿を書き、ホテルから荷物を持って歩いたあげく、ついにはモタサイに乗ってバスターミナルまで行った。さらにストレスを抱ながらバスに乗り、その後、飛行機に乗ってやっとここまで来た。さすがに僕は疲れていた。

もちろん、このままロッブリーに向かうという選択肢もないではなかった。ロッブリーまでは3時間ぐらいだろう。途中のアユタヤで降りて、ホテルを探すという手もある。いずれにしても、列車に乗るのは、1時間ほど列車を待った上だった。

今日は、このまま休もう。そう思った僕は、思い切って、「今夜は奮発して空港のホテルに泊ろう」と思った。これでついに、バックパッカー卒業である。

しかし僕のバックパッカー的体質は、そう簡単には消えなかった。自分に対する認識は甘かったのだ。

せっかく空港のホテルでやっと休めると思ったのに、長い1日は、まだ終わらなかったのである。

<続く>

 

 

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、、、モタサイ(バイクタクシー)は、やがてホテルに到着。

休む間もなく、僕は動き出した。遅くならない内に孤児院を探し当てたい。

 当初、孤児院を探し出す方法として、僕は以下のような作戦を考えていた。

まず市役所か何かに行き、英語の話せる人を探し出す。そして事情を説明し調べてもらう。

ついでに行き方を教えてもらったり、モタサイの運転手に場所を説明してもられえばグー。

 ところが僕には、10年近く音信不通で連絡先がわからなくなっていた、ソムミャットさんというタイ人の知り合いがいた。それが今回、いろんな方法を使った結果、運良くバンコクで再会することができたのだ。

 それで、ソムキャットさんには、タイ語で書かれた孤児院のサイトのURLを送り、住所を英語に直してメールで送ってもらったのだ。

<バンコクで再会したソムキャットさん>

ソムキャットさんからは、ウドンラチャタニ出発前夜に返信が来たのだが、それには、サイトについていたタイ語の地図も添付されてあった。

住所を英語に直してもらったし、タイ語だけど地図もある。これなら何とかなるのではないだろうか? まあ、さいあくの場合は、市役所を訪ねればいい。

まず僕は、英語はほとんど通じないホテルのフロントに、サイトからプリントアウトした地図を見せ、ここに行きたいのだが、、、と尋ねた。

すると、わかったようだ。そりゃ、良かった! しかしどうやら、とても歩いては行けない距離のようだ。

僕は、 タクシーがいくらで行くかを確認した上で、呼んでもらうことにした。数百円だったからだ。タクシーとは、もちろんバイクタクシー。車のタクシーなど、期待できるはずもない。

 乗るやいなや全力疾走を始めたモタサイの後部に乗りながら、“こりゃ、事故ったら命はないな”というつぶやきが、思わず僕の口からもれた。

まるでジェットコースターに乗っているような気分だ。全力疾走で車の間を抜けて行く上、ノーヘルメットである。

 やがてモタサイは、国道を折れて田舎道に入る。しばらく走り続けた後、学校のような施設の前で停まった。

とうとう辿りつく

 モタサイには、ここで待っていて欲しい、と身振りで伝える。向こうは険しい顔をして、身振りで、金を寄越せ、という。

 仕方なく、あらかじめ決めておいた額を渡し、僕は敷地内に入っていった。

 バイクの音がして振り返ると、バイクが去っていくところだった。待っていてくれ、という身振りが通じなかったのか、HIVに感染した子どもたちがいるから去っていったのか。それはわからない。しかし僕がこれで帰る手段を失ったことだけは確かだった。

 まあ仕方がない。何とかなるだろう。モタサイには、最初から甘い期待は持っていなかった。

さらに敷地内を進んでいくと、庭で女性と子供たちが座っているところに出た。

やはり場所は間違っていなかったんだな、と少しホッとした。

ほどなく僕に気がついた女性が、微笑みながら近づいて来た。僕は、“誰か、英語のわかる人はいますか?”と声をかけた。すると、ちょっと待って下さい。呼んで来ます、と言い、タイ人シスターを連れて来た。

もしかしたら、ここは教会関連の施設だったのかな、そう思ったけど、まあとにかく話を聞こう、と僕がここに来た理由を説明した。

“僕はユニという、インターナショナルNGOをやっている者です。この施設についてのお話しを聞かせて頂きたいと思って来ました。そして、何かお手伝いできることがあればさせて頂きたいと思っています。”

さらに、“少しですが、寄付も持って来ました” と、僕は、自分が単に興味本意で来たわけではないことを伝えた。僕は年末に「いちなん」という所でやったチャリティLive で、聴衆の皆さんから頂いたお金を持ってきていたのだ。

シスターは、お茶を出してくれ、こちらの素性について尋ねた上で、僕の質問にいろいろ答えてくれた。

<左/創始者。右/シスター。>

子供の数は現在69人で、その内の30人がHIVに感染していること。職員は15人で、また感染している子供たちは毎日薬を飲まなければならない。

子供が連れて来られた事情はさまざまで、わからない場合も多い。健常者もいれば、精神薄弱の子もいるとのこと、だった。

また、政府からの援助はなく、運営は寄付のみに頼っている。海外からの寄付はなく、タイ人によるものという。

キリスト教徒になるように育てているのですか? という僕の質問には、いいえ、子供たちを仏教徒として育てています。キリスト教に改宗させるようにはしていません、という。

シスターはいつからいるのですか? と聞いたら、教会が5年前に私をここに派遣しました。この施設を最初に創った彼女がクリスチャンなのです、という答えが返ってきた。

その後、子供たちが施設の中を案内してくれることになり、2人の子に手を引かれていろいろと見て回ることができた。

 

 

 

<日本の大使館が寄付した建物>

 <農園もやっている>

 <乳幼児の部屋>

 <クリスマスカードが貼っていた>

<遊び場もあった>

孤児として育った子供(精神的孤児も含めてだけど)は、例外なくスキンシップに飢えている。

子供たちに手を引かれて案内してもらいながら、僕はその手に、彼らの悲しいまでの“飢え”を感じ、内心胸が痛くてならなかった。

どうも気になったことがあった。それは、子供たちがおとなしすぎることだ。いってみれば何となく覇気がないというか、、、。

一瞬、病気のせいかな、と思った。でもスラムの子供なんかでもそうだけど、子供はどんな境遇にあっても、やんちゃで笑い、はじけるようなパワーに溢れているはずだ。

でもその理由は、あとで何となくわかった気がした。

教育観の違いにとまどう

ボランティアは受け入れていますか? という質問には、子供たちの遊び相手になってくれるボランティアはいつでも歓迎しています、とのことだった。

海外からボランティアは来ますか? と聞いたら、彼らは3日から1週間宿泊滞在していきます。日本人のボランティアは、子供たちに折り紙を教えたりしてくれました。3年前まで来ていましたが最近は見ていません、とのことだった。

シスターの次の言葉を聞いたとき、僕は返事に窮してしまった。

“海外から来てくれるボランティアには、私たちのルールを守って頂かなくてはなりません。私たちは、子供が悪いことをしたり言うことを聞かなかったりするときは、罰として棒で叩きます。

これがフランスの人などは、受け入れられないようです。しかしこれは、私たちの文化なので、海外ボランティアの人には、これを受け入れてもらう必要があります。”

僕は、どう返事して良いかわからなかった。

実は僕は、20代の頃に独自の幼児教育論を書きかけたことがあった。それは、体罰どころか、子供には否定語を一切使わずに育てる、というものであった。

たとえ子供が、まだ言葉のわからない内であっても、大人は説明だけを繰り返す。そして、子供は誉めまくって、肯定的な言葉だけで育てる、というものである。

また、子供が無意識に求めているもの(スキンシップ、一緒に遊ぶ、また優しく見守っている、など)は可能な限り与える。

つまり大人が自分の親や世間から受けた人為的ネガティビティを一切入れず、子供の無意識には、ポジティブしか入れないように「極力努力する」というものである。

そこにあるのは、徹底した性善説である。つまり否定を入れずに肯定だけを入れれば、子供に人間本来の佛性が顕われてくるはずだ、というのが、基本的な考えなのである。

ようするに僕は、どんな子供にも、“生まれてきて良かった。人生は良いものなんだ”、そう思って欲しいのだ。

だって子供の無意識に、人生に対する肯定的な想いやイメージを極力刷り込むことこそが、大人が子供に与えることができる、唯一で最大の財産なんだから。

もっとも、この教育法にも問題点がないわけではない。それは、実践する大人には相当の精神力が必要だということと、子供が父性を必要とする思春期(反抗期)にはどうするのか? などである。

実は、育てる側の大人は、子供の幼児期には父性を自身に内在させ、また思春期には外在させる、という風に切り替えなければならないが、これはあまりにも至難のわざなのである。(僕の教育論については、別の機会があれば、またあらためて論じたい)

それはさておき、僕はこんな考えを持っている人間だから、シスターの話に返す言葉を失ってしまったのである。

ヨーロッパで教会が運営する寄宿学校や孤児院では、しつけと称して体罰をもって厳しく規律を叩き込まれる、というイメージがある。それは単にイメージではないだろう。実際にそうだと思う。

ここには、あるいはそのような傾向があるのかも知れない。もしかしたら過去に、その現場を見たフランス人ボランティアたちが、彼らの体罰を批判したことがあったのかも知れない。そう僕は思ってしまった。

しかしだからといって、子供たちに罪はない。僕はその後、チャリティ・ライブで聴衆の皆さんから頂いたお金を寄付した。

彼らは、僕が住所もわからないままに来ることに決め、飛行機とバスを乗り継いでバンコクから訪ねて来たことを知って驚いていた。(半信半疑みたいではあったが) 僕が、ホテルまで帰る手段を持っていないことを知ると、車で送ってくれた。

年末にやった、チャリティLIVEで集まったお金をHIV 孤児関連に寄付するというミッションの1つが終わった。僕はホッとした。でも、胸は痛いままだった。

ヤソトン街の屋台に癒される

ホテルに帰ったあと、ヤソトンの街を散策し、屋台街を探して食べに行った。散策の途中、道に迷ったけど、おまわりさんらしき人が、バイクに僕を乗せて連れて行ってくれた。

 

 <道に迷っていたら、後に乗せて連れて行ってくれた>

 

 <夜の寺院、ライトアップ>

 

 <夜店>

 <家族でやっている屋台。旦那を写したら、、、>

 <おい、おまえも入れよ、と奥さんを呼び>

 <全員で写ることになった。この、ほのぼのした温かさにも、僕は癒された>

 屋台でビールを飲んだ。最初のひと口は、ほろ苦かった。でも、タイの田舎の屋台が持つ不思議な癒しの空気に、やがて僕は包まれていった。

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 このときばかりは自分を誉めてやりたい、と思った。住所がわからないところを、飛行機とバスを乗り継いで探しに行ったことではない。(では、このことは後で)

 <ウドンラチャタニの朝市>

<ウドンの観光局/気の良い兄さんたちだったが、情報が間違っていたりして、あまり役には立たなかった>

 <お寺の広い境内で、練気体操をやった>

<ほう! 楽器屋があった>


 <バスターミナル>

 <バスの出発まで、そぼを食べて休んだ>

<坊さんたちもお昼>

 <このバスに乗った>

<出発!>

朝、ウドンラチャタニを散策し、ヤソトンに行く方法を調べた。その後、ホテルから長距離バスのターミナルに行き、ヤソトーン行きのバスに乗った。

乗ってしばらくしてから、車掌さんに時計を示して聞くと、どうやら1時間半で着くらしい。思ったほど遠くない。良かった。

先ほど、自分を誉めてやりたい、と言ったのは、ヤソトンのバスターミナルに着いてからのことである。

適当にホテルはみつくろっておいた。 だが、ホテルまで行く交通手段がないのだ。

あるのは、現地で“モタサイ”と呼ばれるバイクタクシーのみ。90ccぐらいのバイクの後に乗るのである。

 しかし僕は、ギターにパソコンの入ったリュック、さらに16Kgはあるカートのついた荷物を持っている。

 モタサイのドライバーと、運賃の交渉はついた。しかしこれをどうやって運ぶというのだろう。

結局、リュックを背負った僕が左手に16kgの荷物を抱え、運ちゃんが左手にギターを持つことになった。ヘルメットもなし。

まったく信じられない光景である。しかし、これが現実だった。ドライバーはギター片手にバイクを走らせ、後でリュックを背負った僕が、必死に荷物を落とさないようにと、険しい顔をしてしがみついているのである。

これをマンガと言わず、何と言おう。ああ、人生は喜劇である。少なくとも僕にとっては。

続く

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奇遇だな ぁ

500バーツほどの中級ホテル(1300円ぐらいかな?)でチェックインを終えた僕が “あれっ?” と思ったのと、向こうが、“ああっ!”と言ったのが、ほぼ同時だった。

 そこに、ウドンチャラタニの空港に着いて飛行機を降りるとき、荷物のことで声をかけ合ったおじさんがいたのだ。(英語のうまいタイ人だな、とその時ふと思った)

彼が、いやぁ、これは驚いた。どこから来たの? と聞くので、日本から、と答えた。すると、“日本には行きたいと思っているんで、あとで話したいなぁ”と言うので、“じゃあ、夕食でも一緒にしようか?” と提案した。

すると、“でもちょっと、僕の生徒が迎えに来ることになっているんだけど、彼と一緒でもいいかなぁ?”。“そちらが構わなければ”、と僕。“では、7時にロビーで待ち合わせよう”ということで話がまとまった。

 空港でのナゾに挑む

僕がウドンチャラタニの飛行場に着いたのは、その数十分前だった。

右も左もまるでわからない。空港には派手目のリムジンカウンターがあった。しかし僕はそこに何やら、イヤな気を感じたので行かなかった。

代わりに「インフォーメーション」と書いてある窓口に行った。こちらは地味なので、公共っぽい感じだ。

“英語話しますか?”と僕。“少しなら”とカウンター嬢が答えるので聞いた。“タクシーってどう乗ったらいいですか?”  “出口を右に500メートルほど歩いたら良いです。”

500メートル歩くのもダルい。“では、カウンンターあのリムジンっていくらですか?” 。 “250バーツから400バーツ (700円〜1100円)ですね。”

むむっ、やはり高い。礼を言って、取りあえず外に出てみる。

しかし右を見ても、タクシー乗り場みたいなところはない。

そこへ客を乗せたタクシーが来て、客を降ろし始めたので、乗せてくれ、というと、ここでは許可されていない。しばらく歩いてくれ、という。

仕方ないので、リュックを背負い、ギターを片手に荷物を転がしながら歩き始めた。ああ、なぜ自分はいつまでもバックバッカー的体質が抜けないんだろう、、、!?

普通に外国人旅行者らしく、高かろうがリムジンでも何でも乗りゃいいのに。まるでばかじゃん、と自分に毒づきながら、えっちらと歩いた。

 それで少しばかり歩いたが、乗り場などない。ど田舎の飛行場で車もほとんど通らない。

飛行場の敷地から出て、しばらくしたところでタクシーが1台通りかかったので、停めて乗った。

そしてドライバーにあらかじめ見当をつけておいた適当なホテルの名前を言った。着いたら、運賃40バーツ(110円)ぐらいで済んでしまった。

空港リムジンとは金額にして10倍以上の差があったのだ! そのからくりについては後でわかったのだが、ようするに空港内のリムジンはマフィアが仕切っていて、タクシーが客を空港で乗せないようにしているのである。

何のために? もちろん、バカ高いリムジンを使わせるためである。空港も警察も、マフィアからマージンをもらっている。彼ら三者でつるみ、このシステムを維持しているのだろう。

 タイでは、中央駅などでもツーリスト・インフォーメーションという看板をかかげて、旅行者からボルためのセットチケットを販売している。

また、国際空港でも似たようなシステムがあるが、これも同じからくりであろう。(しかし、これも裏技で対処できるのだ)

今回、僕が500メートル歩いて10分の1の金額のタクシーに乗ったのも、きっと裏技に入るんだろうなー。リムジンカウンターを見て何やらイヤな気がしたのは、このことを意味していたんだ。

そしてホテルでチェックインしたら、おじさんと偶然の再開があったのである。

旅では何が起こるかわからない

このおじさんの名前はランサン。大学教授だったが引退し、今は政府の公共運営に関するアドバイザーをしているという。アメリカに12年住んでいたことがあり、博士号も持っているとのこと。

 迎えに来る学生というのは、結局来なくなったそうで、アウトドアの屋台街に2人連れ立って食べに行った。

<50店舗はあるだろうか>

<タイの屋台はくつろげて、僕にとっては最高の場所である>

こうしてランサンと屋台街のテーブルの一角に座った。彼は、ビールとか焼き鳥とかを注文していろいろ気づかってくれる。

二人でくつろいで飲んだり食べたり話していたら、そこに通りかかったバックパッカーらしき白人青年が、“今日タイに着いたんだけど、何を注文したら良いか、よくわからないんで教えてもらえないですか?” と僕に聞いてきた。

それで、じゃあ、一緒に食べようということになった。ランサンも大賛成である。

ということで彼が座に加わり、飲み始めたら、“実は彼女も来ているんだけど、、、”という。僕とランサンさんは、オマエ早く言えよな、という感じで、“じゃあ呼んで来たら”と言い、屋台街のそのテーブルは、4人の宴会場となった。

白人の2人は、案の定バックパッカーで、フランスから来たとのこと。名前をボリスとコラリーという。2人して日本のマンガが大好きで、セーラームーンとかは当たり前に知っていた。

彼などは、ドラゴンボールで育ったというのだ。それどころか、僕の知らないマンガまで、やたらと詳しかった。ひぇーっ!

<左がコラリー/右がランサン>

<優しげな男、ボリス>

<ランサンの注文した料理が次々と並ぶ>

ランサンは、食べ物もビールも機嫌良く次々に注文したあげく、最後には、すべての勘定を自分で持つという、まことに太っ腹な人であった。

結局、またバンコクで4人で会おうということになった。バックパッカーの2人は翌日からバンコクにしばらくいる予定で、僕の帰国前日の21日は、ランサンも地方から帰って来るという。再開はその日に決まった。

ランサンが、“よし、みんなをチャオプラヤ河のクルーズディナーに招待する!”と宣言し、ヤンやの喝采を浴びて、その夜は解散となった。

まったく、旅は何が起こるかわからない。

 続く

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 帰国するまゆさんのタクシーを、ホテルの入り口から見送った。さらばまゆさん、また会う日まで(尾崎紀代彦)♬ 海ゆかば〜(海軍歌)♩。 うぅ、古い!

 

 午後、バンコクナイト(タイ大会の前夜祭)のホテルに移動。やっぱり実際に自分が泊ってみないとなー。

すると、チャオプラヤー河沿いに建つこのホテル。骨休めするには実にうってつけの所だということがわかった。前夜祭をこのホテルにしたのは、本当に正解だったと思った。

ここで2、3日ぼーっとした。することと言えば、せいぜい1日数時間のメールやFBとブログ原稿の作業。

 あとは、プールで泳いだり本を読んだり、参加者のために付近をリサーチしたりして過ごした。

 時には、自分で考案した「練気二」という太極拳みたいな体操を20分ほどやった。

 そうしたら、その後何だか突然歩きたくなり、超スピードで40〜50分ほど歩いた。いや〜我ながら驚くような気の効果だった〜。これはお勧めですよ、皆さん!

下記は、大会前夜祭バンコクナイトのホテルの写真。

 

 

 

 

タイのHIV患者

なぜタイのHIV患者のことが気になったのか? これには理由がある。

 タイにはHIV患者が多い。それはバンコクが世界三大、性風俗都市の一つと言われていることと無縁ではない。

その他、タトゥーの習慣とタイ国境のゴールデン・トライアングルと言われる三角地帯(ミャンマー、ラオス、タイ)が、有名なアヘンの産地であることも原因として上げられる。

すなわちタトゥーを入れる器具と、ヘロインの注射針からの感染である。そこから夫婦感染が起き、さらにその子どもが感染した状態で生まれるという負の連鎖を生む。

子どものことを想うと、思わずため息をつきたくなるような話である。

さらに加えて、最近はまだ減ったようだが、かつてはHIVというだけで病院が診療拒否するなど、タイではHIV は差別の対象だった。

 だからHIV患者を出した家は、大変なことになる。まるで中世のヨーロッパで流行ったペストのようなものである。

そしてその支援は、極めて限られているというのが現状で、親がHIVに感染した子供(といっても成人だが)を放り出さざるを得ないことも普通にあったらしい。

しかし、かつてどこの国でもハンセン氏病(ライ病)患者が差別されたように、HIV 患者への差別もまた、どこの国でもあり得ることだと僕は思う。

旅の第三ラウンドの始まり

 旅の第三ラウンドは、タイのHIV患者サポート関連施設をネットでチェックしていることで突如始まった。

 HIV 孤児や親に虐待された子どもたちを100人ほど世話している、タイ人が民間で始めた施設があるというのである。

 場所は、ヤソトーンという。調べてみると、タイ東北部のイサーン地方。さっそくガイドブックで地図を見る。

 カンボジア国境に近い「ウドンラチャタニ」という所まで電車か飛行機で行けば、そこからバスで2時間ぐらいで行けそうだ。

 住所はわからない。英語が通じるのかもわからない。それでも僕は迷わず行くことにした。

 夜行列車で行くと、出発する夜までバンコクで時間をつぶし、さらに一晩かかって朝到着することになる。飛行機の値段を調べに行ったら五千円ぐらいだったので、その場で、翌日の飛行機の予約を入れた。

 住所もわからないのに、よく行くことにしたなあ、と思われるかも知れない。

 ところが僕は思わないのである。なぜかというと、これまでの人生の経験上、自分が決めたことは必ず起こるからである。

 というわけで、まずはウドンチャラタニへ出発!

 続く

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タイでは、まだ未完了のミッションが、まだいくつもあった。

ところでこの「ミッション」だが、軍隊で言えば作戦(または命令)で、宗教用語だと使命になる。(僕は、ここで軍隊用語的に使っているのですが)

僕のミッションは大きく分けて二つあった。

[ミッション 1]  7月にタイで行う、タオ指圧&サンガ世界大会の準備

 チャイルド・ケアーの場所や、大会でのバンド演奏のためのアンプ等機材をどう調達するか? なんていうのまで含めて、いろいろとある。

 [ミッション2] タイのHIVホスピスや患者、また孤児などをサポートしている所のリサーチ

 NPOユニの支援先として発表もしているので、これは実際に行ってみなければならない。

昨年末に、タイのHIV患者のためのミニ•チャリティLIVEもやった。その時、聴きに来て下さった方々から集まった約3万円だって、現地に寄付してこなければならない。

発表した後で支援先を確認しに行くというのだから、まさに見切り発車。行き当たりばったりである。

そして人様から頂いた寄付という責任の重さは、実際に現地へ身体を運び、ミッションを遂行することで果たすしかない。

だからこそ、軽いフットワークで自ら身をもって動くのである。

でも僕は、今まで何ごともこうしてミッションを果たして来たのだ。

カムアン氏

まずは ジョムチェン・ビーチに移動し、大会の会場となるシグマ・リゾートホテルに投宿。

そしてサブ・マネ−ジャー、カムアン氏と会い、子どもたちが楽しめるレジャー施設について相談。彼とは、10年前のタイ大会のときからのつき合いだ。泊まりがけで一緒にサメット島に遊びに行ったこともあった。

 親切にも彼は、自分の休日を変更し、明日1日かけて車で各地を案内してくれるという。やはり持つべきものは友だちである。

 夜は、ホテルの仕事の終わった彼を夕食に連れ出した。海の見える桟橋のシーフッド・レストランへ行く。友だちが働いているという。

<カムアン>

 

 <友だちに言ったら、代金を割り引いてくれた>

 まゆさん、観光施設を回る

 翌日は朝から、まゆさんはカムアン氏と調査に出かける。彼女はチャイルドケアの企画担当でもあるからね。

おかげで僕は、ホテルでブログ原稿を書けることになった。

 ところが午後3時、ウィーンで会った、マイクというシンガーから電話が入る。昨夜、ウィーンから着いたという。

彼はタイ人と結婚していて、奥さんの実家が偶然パタヤ。それで大会準備の相談に会うことになっていたのだが、お互い連絡がつかなかったのだ。

 彼が言うには、すでにホテルに4回も電話してくれていたという。

今どこにいるの? と聞いたら、チャーミング イン という僕も良く知っているホテルだった。これから出るから、30分以内に着くと思うよ、と答えてホテルを出る。

 しかし実際には、着くまでに1時間もかかってしまった。最近のパタヤはロシア人観光客が多い。それで、すっかり車が込むようになってしまっていたのだ。(大会の会場は、ジョムチェンで静かなんだけど)

 よもやま話をした結果、彼の家の近くで夕食を一緒にすることになり、再びホテルへ帰る。ホテルに着いたら、まゆさんたちは少し前に帰ってきていた。

ところで以下は、まゆさんとカムアンが1日がかりで回った4カ所の施設の写真である。暑い中を水分をろくに取らずに1日歩き回ったまゆさんは、日射病ぽく、ぐったりしたようだった。

 

 

 

マイクたちと夕食

 シャワーを浴び、再びカムアン氏が車で送ってくれる車で出発する。

マイクの家は、15分で着くと、本人から聞いていた。

 しかし、なぜか田舎の暗い道をあっちこっち移動し、40分かかってやっと到着。どうやらカムアン氏は、僕と同じように方向音痴らしい。

 彼にも、一緒にどう? と誘ったのだが、村でパーティがあるから、と帰って行った。

 ビール飲み、4人で話しながらの遅い夕食を終える。奥さんに知り合いの白タクを呼んでもらい、ホテルに戻って荷物をまとめる。

まゆさんは翌々日に帰国なので、明日はバンコクへ移動なのだ。

ひぇー、何だか慌ただしい旅の第二ラウンドだったなぁ。

 

 

 

 続く

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ダッカからタイへ

 ダッカからバンコクに向けて出発する朝、思わぬアクシデントに見舞われてしまった。

 というのは、一週間に亘って朝昼晩ラカイン料理を食べ続け、少々食傷気味だった僕は、ダッカの中級ホテルの朝食メニューに、ダル(豆カレー)があるのを目ざとく発見した。

 思わず、“今日が最後だしなー”と注文して食べたら、これに二人とも当たってしまったのである。

 まゆさんは、食べた直後に戻したので軽症ですんだ。が、男の僕にそこまでの生物的本能はない。ちょっと悲しかったな。うぅ、くそー。

 と言っても、その後2、3日お腹の調子が悪くて日に何回か下した、といった程度で済んだのだけれど。最近飲んでいるmmsサプリメントのお陰かも知れないなあ。

<ダッカの空港>

<銃を持って警備する人もいる>

<代書屋にボラれた。くそー>

ダッカの食あたりを挽回

タイに来たら、さすがに3日ほど休んだ。プールで泳いだり、ダッカの食あたりを挽回する、と称して豪華な夕食を食べたりして、落差があるだけに、一転して至上のぜいたく気分。土埃のない快適なところに自分がいるのが、何だかラジョーさんに申し訳ないような気もしたが。

それでも僕のモットーは、「1.面白いことは見逃さない 2.悩む前にまずやってみる 3.人生何ごとも万遍なく楽しむ」なのである。

<アジアでワインを注文するなんていう贅沢(?)まで。落差に何だか少し申し訳ないような気もしたが>

パタヤの床屋 

床屋にも行った。刈ってくれた理容師さん(?)が男か女か、僕は最後までわからなかった。(前にパタヤでよく行っていた床屋さんもニューハーフだった)

 この辺は、僕がタイの大好きなところである。

タイでは自分の性を、自分で好きなように選べるのだ。

<床屋さんを訪ねると>

<この人が刈ってくれた>

 例えば、顔はどう見てもおじさんなんだけど、女装してお化粧している人が、食堂の店員さんとかでも普通にやっていたりする。

 タイのこのおおらかさ! これは文化が発達している証だと、僕は思っている。続く

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1月3日 ダッカへの移動日

 ラジョーさんのお経の稽古をやった後、経理を済ませて空港へ行く。

 別れ際のラジョーさんは、いつも淋しそうな感じで、僕はつらくなってしまう。

 “タイのタオサンガ世界大会に、ラジョーさん呼ぶからさー。7月に会いましょうね”と励まさないと、とても彼を残して僕は帰れない。

 

<空港の別れ際でのラジョーさん。出迎えてくれたときと表情が全くちがうのがつらい、、、>

 ダッカでは、ナジャーというラカインの学生が出迎えてくれた。

ダッカ

 ところでダッカには、親も家もないストリートチルドレンと呼ばれるホームレスの子どもたち数多くいる。

 ゴミ集めを生活の糧にしているが、愛情に飢えている彼らは、大人の変態性欲者たちの餌食になる。

スキンシップが欲しいが故に、幼い少年や少女が、インドやパキスタンからやって来るヒヒ親父の性具にされるのだ。

<ゴミを集める少年>

<1>

<2>

<3>

<4>

なぜこんな子どもの内から、ゴミ集めをして生きなければならないのか。

なんでキタねー大人の餌食にならなきゃならないんだ。

 性具にされた結果、傷ついた身体の痛みを忘れるために、子どもたちは麻薬をやるようになるという。

 だから、ゴミ集めを生活の糧とする子どもの姿を見ては、僕は、ふと熱に浮かされたように夢みる、、、。

彼らのための孤児院を造りたい、と。

少しでも幸せな未来を作る手伝いができたら、と。

 痛みとも怒りともつかない、いたたまれないような感情を持て余し、ふと熱にうなされるように思ってしまうのだ。

 ダッカに行ったら、ストリートチルドレンが多く暮してるという、公園に行くつもりでいた。

だが、ホテルからは、かなり遠いところにあると聞いて、今回は断念する。

実は、 ナジャーに相談があると言われていて、夕食を一緒にしながら話を聞くことになっていたのだ。

 、、、、明日、ダッカを旅立つ。

<ダッカの街は、大通りでも信号がない>

続く

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1月2日  マレフン村へ

他のラカイン小学校を開校していくため、別の村を視察に行く。

片道3時間以上の道行き。1日仕事である。

 

やっと着いた!

村の中をいろいろ案内してもらう。大きな村ではないが、寺は3つある。

開校するならどこの寺が適しているかを、いろいろ歩いて検討する。

村長さんは、まだ若いけど責任感のあるしっかりした人とお見受けした。(やっぱり基本は、責任感だよなぁ)

<村を案内してもらう>

<村の子どもたち>

<銀加工の職人の家>

 <村の井戸>

 <動物も痩せているのが痛々しい感じ、、、>

 <村のインテリ風の僧侶>

 <寺の入り口>

<この寺には、青空教室に使えそうなスペースがあった>

 僕たちは、村の人たちと、ちゃんと正面から向き合って話し合う必要があった。

というのは、一番大事なことは、「本当に効果的な支援になるかどうか?」だからである。

 支援金を大きな団体に出すだけだと、経費として使われる部分が大きいと聞いたことがある。

また、現地の政府や行政を通すと、かなりの部分が現地役人のポケットに入ってしまう。これはすでに、別の国で経験済みである。

 だからこそ直接、現地の人と協力し合って支援するというのが、NPOユニのポリシーである。

村の人とミーテングしながら、たしかなことをやっているという実感と、あらためてこのポリシーの大切さを思った。

 NPOユニが村の人に求めているのは、たとえば、村の教育委員会を作って、責任をもって先生をさがしたり、授業内容を検討したりすることである。

その他、親への説明会を開いたり、計画的や教育方針を定めていくことも含めて、諸々、自分たちで動いてもらわないとならない。

 明確な行動の裏付けがあって、はじめて生きた支援になる。それがクリアーになった上での、ユニ小学校の開校である。

 村の主だった人たちに集まってもらい、述べた。

“僕たちはいくつかの条件を出します。単に、お金を出すだけはしません。いくつかが、ちゃんとがクリアーされたら、NPOユニは動きます。

ラカインユニの代表のラジョーさんと連絡を取り合いながら進めます。いつから始められるかは、皆さん次第です”

今まで教育支援が入ったことのない村である。半信半疑だったり諦めムードがあったりする。

加えて南半球特有のゆっくりした時間の流れがあり、どうしても動きが遅くなる。

でも、子どもは年々成長していくのだ。過去のムードに流されてしまっては、ラカインの新しい時代を創ることはできない、と僕は思う。(僕が焦っても、仕方がないのだが、、、)

しかしホントに、すべては村の皆さんの敏速な動きにかかっているのだ。

<話し合う内に、こちらの熱意が伝わったのか、村人たちも真剣になって来た。中央のピンクのシャツを着ているのが村長さん>

<NPOユニの理念を説明するラジョーさん>

村でお昼をごちそうになってから、再び3時間以上のドライブ。土ぼこりと共に、やっと帰る。

だが、僕たちにはまだ仕事が残っていた。

 医者夫婦をNPOユニ・ラカインに引き込むための、最終ミーティングである。

“タオサンガは、面白いですよ〜”とか言って、僕がご主人をのせた! そして話し合いは終わった。ははは、作戦成功! “ウエルカム トゥー ユニ!”が、別れ際の僕のあいさつだった。

 

 <ラカインの医者夫妻マレニンさん>

明日が最期の日、、、。

この頃からラジョーさんの様子がどことなく淋しそうになってくるのが、正直つらい。

 夜は、“ラジョーさん、飲もうよ”と誘って、3人屋上で少しばかり、しんみりと飲む、、、。

 続く

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