2012/04/27

 よみがえった、かつての悪夢

 バックパッカー、ひとむかし前の表現だと貧乏旅行者(大名旅行の反意語)にとって、日本大使館は、一番行きたくないところの筆頭だろう。

 ようするに日本人旅行者が困り果てて行くところでありながら、同時に、貧乏旅行者だと、けんもホロロの扱いを受ける、とされている所でもある。

 インドが今のような通信設備がなかった頃は、何ヶ月も日本のニュースを聞かない、なんていうことは当たり前だった。

 信じられないだろうが、僕は日本へ電話をかけにインドの郵便局で一日待ったことがあった。それで20ルピーだったかな? 宿代より高かった。

 そんな状態なんで、有名人の誰それが死んだとか、まことしやかなウワサが流布されたりもするので、真偽のほどはさだかではない。日本大使館の前で抗議の自殺をした人間がいるという話まであるのだ。

涅槃図(水間ゆかさん作品)

 まあ、これはウワサに過ぎないので、僕の体験を話そう。

 最初にインドに行ったとき、3ヶ月目にマラリアにかかった。僕は日本に帰るつもりがなく、ヨーロッパまで陸路で抜けてフランスの友人(香港行きの船の中で知り合ったフランス人)の家に居候して、バイトでもしようともくろんでいたから、帰りのチケットなんて持っていない。しかも、日本に帰る飛行機代なんてない。

 なおかつマラリアで、日に何度も高熱の発作で倒れるという、絶対絶命のピーンチ! であった。そして、デリーの日本大使館は、ウワサ通り、「ああ無情!」 なのであった。

 さて、なぜこんな古い話を持ち出したのか? それは今回、UNIチャリティフェスティバル http://npouni.net で講演してもらうことと、日本のお経を勉強してもらうため、ラジョーさんを日本に呼んだ。そのため、某国の日本大使館にラジョーさんのビザを申請した。その管轄は、日本外務省である。そしてその体験は、まるでデリーでのかつての悪夢がよみがえったかのようだった。ああ無情!

 苦難の日本入国ビザ申請                                             

苦難はまず、書類を書くところから始まった。

ラジョーさんを招聘するに至った経緯から、毎日の旅行日程、宿泊先、連絡先に至るまで詳細に亘って書き込まなければならない。

 あまりにも複雑な数々の書類の書き込みに、お手上げとなった僕は、日本から某国の日本大使館に電話して、担当者に聞きながら書くという作業を行った。(この時は、わりと穏やかで親切な人だった)

 そして膨大な提出書類の数々。パスポートのコピー、お寺の登記簿謄本から僕の住民票までだ。何でこんなものまで? とい言いたくなるぐらいであるが、法務局やら区役所やらを回り、ようやくすべてを揃えて、ラジョーさんに航空便で送る。

 すると今度は、ラジョーさん側で出す書類の書き方がわからないと言って、彼が電話してくる。「何て書いたらいいですか、エンドーさん」オレだってわかんないよ〜、と言いたいが、あの彼の人の良さそうな声で聞かれるとなあ〜、、、。

 結局、また僕が大使館に、2回3回と電話して聞くということになる。(ラジョーさんは、気が弱くてとても聞けない) さすがに3回目の電話になると、現地の受付嬢も、「また、あなたですかあ」とメンドクさそうな感じだし、今度の係の人は、ちょっと固そうで恐かったなあ。なんせ、外務省のお役人さまですから。

 こっちは何も悪いことしていないんですけどねえ。入国して不法就労なんか、するはずもないのに、疑われている感じですね。まあいいけど。

 それでも、気を取り直し、何とかかんとか四苦八苦して書類を揃え、ラジョーさんはそれを持って、夜行バスで12時間かけて大使館に向かう。

 さらに難題が                                                   

翌日、気をもみながら待っていると、今度は、“銀行の残高を出しなさい。遠藤のパスポートの全ページのコピー(!?)も出しなさい”と言われたという。何だと!?

 そこで離れ業を行う。全ページを京都でスキャンしてもらい、メールで送る。彼はインターネットカフェで全50ページをプリントアウトする。銀行の通帳コピーも、同じように奥さんにやってもらう。膨大なコピーの山だ。

 翌日持っていくと、今度は、“銀行口座の残高を過去3年分は、コピーではなく実物を出しなさい”と言われた、という。、、、苦労してスキャンして送り、プリントアウトした膨大な紙も、すべて突き返されてしまったという。

 おいおい、何だよ。何ひとつウソはついていないのに、日本に入っても姿くらますわけじゃないのに、なぜこうまで日本に入れようとしないんだ、、、。

 しかし、ここで怒ったら負けだ。じっと堪えて、忍ぼう。

ラジョーさん、また12時間かけて家に帰る。疲れたみたいだったな〜。そして電話で相談。「エンドーさん、僕あんまりお金ないから大丈夫かな〜。ユニのお金が僕の名義で入っているけど、僕のじゃないし」おいおい何言ってるんだよ。そんなの、みんな自分のもの、ということにしておけばいいじゃないか。

僕は電話で、日本在住のイギリス人クライブに相談。「いくら残高入っていたらいいかなあ?」 「5000ドル以上というウワサもあるけど、3000ドル入っていたらいいんじゃない?」

 ということで、ラジョーさんは親兄弟に借りて、何とか口座残高を4000ドルにすることに成功。

再び、夜行バスで12時間かけて大使館に向かう。それまで僕とは日に12回ぐらい電話で相談。5分後にかけても、電話は毎回、彼ののんびりした「コンにちわ、エンドーさん」で始まる。

 翌朝、大使館に3年間の口座証明書の現物を渡す。向こうの人は、何か言いたそうにしながらも、やっと受理したという。そして月曜日に取りにくるようにと言われたという。

 ああ! ホッとした。これでビザが下りる。「ラジョーさん、成田で会おう!」と言って、笑いながら電話を切ったのだった。

 痛恨の結果                                                    

日本行きのすべての荷物を持ったラジョーさん。再び12時間かけて、日本大使館へ。これで、通算で3往復目である。

そして今か今かと待っていると、やっと夕方に電話。「どうだったラジョーさん?」 と朗報を期待する僕。「ダメだったよ〜。」

 もう言葉もなかった、、、。大使館は、理由を告げない。彼は日本に行くつもりで持って来たすべての荷物と共に、再び12時間かけて戻らなくてはならなかった。僕は、胸がつぶれる想いであった。

 というわけで、今回ラジョーさんは、ユニフェスには来れなくなってしまいました、とさ。

 

 

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僕には“忙しいことはカッコ悪いことだ”という認識がある。だって考えてみて下さいよ。昔の貴族なんて、毎日遊んで暮していたんですぜ。それでひまだから、文化や哲学が生まれるわけ。汗水流して働いているのは下層階級だけ。

ましてや人生に疑問を感じて、生死の問題を解決しようという宗教的世界なんて誰が向かうのか? 王子さまだったお釈迦さまのように、ひまと感性がないと、なかなか向かわないだろうなあ。

手塚治虫の「ブッダ」のシッタルダも、”永遠の青春が欲しい”とお父さんに出家の動機を語っていた。ひたすら金や地位、また個人の生活を”後生大事”にしているなんて、すぐに青春を失うようなものじゃん。

 清和荘に住んでいたころ

ホントは僕はできれば、貴族のように優雅でいたい。だから、“忙しい”なんて口にしたくないわけ。

清和荘という三畳6千円のアパートに住んでいるときはヒマだった〜。ほとんど働かず(したがってお金はない)、念仏と本と手作りの戦争ボードゲームで遊んでいるだけで、夜は宴会(どこかの部屋で誰かがやっている)。考えてみれば、実に優雅な暮しだったのだ。

もっとも冬はすきま風だらけで、とてつもなく寒く、眠れなくて深夜喫茶で過ごしたり、朝まで遊んでいたりしたけど。朝の出勤サラリーマンと入れ違いに帰り、ようやく朝日に温まって眠りにつくというわけ。

<ストリート・ミュージシャンしていた頃。「アリかキリギリスか?」もちろん働かないキリギリスだった>

ブログをさぼっていた言い訳か

さて、これは長い間、ブログをさぼっていたことへの言い訳かも知れないけど、実は、ふと疑問を感じてしまったんだ。自分のやっていることを書くなんて、そんなこと意味があるんだろうか?って。

自分の思想信条なら、書くことに意味があるのはわかる。それによって、人の生き方が変わることだってあるだろうから。でも、ただ、自分のやっていることを書いてもなあ、、、。“ああ、あいつ頑張ってるな”だけで終わり。なんか虚しいような気がしません? と、まあこれも書かなかったことの言い訳に過ぎないかも、ひぇ〜。

バングラデッシュから帰国して以来、さまざまな作業に追いまくられ、“この上パソコンに向かって文字を書くなど、勘弁してけれ〜”という感じだった。 一体、いくつのプロジェクトが同時進行しているんだろう?

新刊出版に向けて

新刊2冊の出版に向けた動き。リアル版として出る「気の幸福力」(法蔵館)と「タオ指圧、究極の経絡メソッド」(ヒューマンワールド)。後者はDVDを付ける予定なので、作業が大変である(と言っても、映像担当のゆかさんが一番大変なのだが)

写真は、法蔵館に打ち合わせ行ったときのもの。社長の西村さんと、担当編集の上山さんである。お二人とも、ものわかりの良い方で、僕は好きな人たちである。

 

シンポジウム

その他、気功文化研究所の津村喬さんからの依頼でシンポジウムに出席。実はこれ、東京の予定とダブルブッキングしてしまっていた。それで急遽、東京に詫びを入れて出席した。

シンポジウムは、中国の気功の先生の独壇場で、僕はほとんど話を聞いているだけで済んだのが良かった。 なんせ海外のこの手のシンポジウムだと、僕はいつも爆弾みたいな発言をしてしまう。それで物議をもたらしてまうのだ。経絡なんかの話だと、さすがに黙って聞いているわけにも行かないんで、困ってしまう。

というわけで、夜の懇親会は津村さんのプロの手料理で、和気藹々ムード。古い言い方で恐縮だが、「日中友好」である。

<写真は、中国からの来賓。右は気功の有名な先生(らしい)と、通訳氏(10年ほど前、これまた気功協会に招いて頂いた時に、中国でお会いしていた方だった)>

 

パレスチナイベント

パレスチナのイベントを京都センターで開催した。僕がナブルスの難民キャンプで会ったアラブ未来協会の田中さん、パレスチナ人のイヤス氏とボシュナック氏を招いて、講演とパレスチナ初のアニメ映画を上映。

その前日に広河隆一氏制作の「ナクバ」(イスラエル建国に伴うパレスチナ人虐殺を実証する映画)をイヤス氏と見に行ったのだが、彼の家族も犠牲者だったことは、そこで初めて聞いた。

アニメーションは、字幕が英語だったため、急遽僕が弁士(無声映画時代にいた人)を仰せつかった。2〜5秒でる英語の字幕を見て瞬時に通訳するなんて、、、。汗だくだった。ひぇ〜!

(ところで赤塚不二夫を書いたおそ松くんの“イヤミ”の「シェー!」は、ひぇーが元だという。まあどうでもいいことだけど)

 

 UNIチャリティフェスティバル

昨年から始まったUNIチャリティフェスティバルが進行中。今年は4月29日に開催。40店舗以上の申し込みが既にあり、ライブ出演者も多い。

僕らのバンド「LAMANI」を聴くのを楽しみにして下さっていた方には申し訳ないが、そんなわけで、今年は出演辞退である。まあ、バンドの方は現在、秘密特別トレーニングに入っている。僕にしてみたら、熟成期間でもある。ちょうど良いのかも知れない。(ふふふ。大リーグボールを特訓中の星飛雄馬みたいだぜ)

それにしても、今年のユニフェスはすごい!  アフガニスタンからの留学生たちのブースなども含めて、実に、様々な人たちが関わっている。

障害のある方の写真展があったり、僕の友だち3人、作曲家の大森俊之さん、ヴォイスアーティストの竹中あこさん、天空オ−ケストラの岡野弘幹さんも出演してくれる。ダウン症の人たちのエンジェル・バンドも出演する。

その上、チベット仏教美術展まであるが、半端な展覧会ではない。美術館なみのものなのだ。

ユニフェスが、こんなに大きくなるとは思わなかったぜい。皆さんに大感謝である。UNIフェス。http://npouni.net

 

 もしかしたら、日本は共産国家か?  

UNIフェスに、バングラデッシュから、ラカイン人のラジョーさんを呼ぼうとして、ただ今、奮闘中。

ところで、実に驚いたことがある。バングラデッシュ国籍の人が日本入国のビザを取ろうとするのが、こんなに大変だったとは! 滞在中のスケジュール、宿泊先、連絡先、どこで何をしているかを全部書かなければならない、、、。これではまるで、共産国家を旅行するみたいだ、とか一瞬思ってしまった。

<ラジョーさん/電話でやり取りしていると、面白くて、つい吹き出しそうになる>

その他の進行中のこと? もうこれ以上、書いてもきりがないのでやめとこう。

ああ、かっこワルい! 念仏と音楽、それと気心道とTao Chess(清和荘時代に考案したゲーム。カナダにてオンラインプログラムが進行中)だけやって暮したいぜい、もう。

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 以前は、夜のミニバスで12時間全力疾走し、ダッカとコックスバザール間を行き来していたものだ。しかし今回から、バングラデッシュ国内便の事情も良くなったのか、飛行機で行けるようになった。おかげで時間が短縮できた分、現地での活動内容を増やすことができた。

 今日は、1時に空港に行くことになっていた。“ならば、、、”と僕は、午前中に仏教協会との会議を設定してもらった。朝、タオサンガセンターで数名で集まり、まずは念仏のお勤め、その後、ミーティングに入る。内容は、ラカインUNIと仏教協会の今後の調整である。

 なにせ人間が集まってのことなので、いろいろある。途中僕は、星一徹のように、ちゃぶ台を引っくり返そうと思った。しかし、ちゃぶ台はなく、最後は和気藹々の握手で終わった。ふうー。

 その後、再び仏舎利塔へ登り、次の整備に向けた確認作業を行った。すると、念仏堂に仏像を奉納に来られた方がいた。尊いことだな、と思った。

<仏舎利塔>

<仏像の奉納にいらした>

 ラジョーさんの家にランチを食べに帰る。ラジョーさんには、生まれて間もない娘さんの日本名をつけて欲しいと頼まれていた。それで数日考えた上、れいや(零弥)という名前にした。弥勒菩薩(マイトレイヤ)のレイヤは、たしか友情という意味だったと思う。

 零は0だから空を意味し。弥は、阿弥陀さまからもらったから、空=阿弥陀という意味だよ、と説明したら、とても深く神妙に喜んでくれた。

<奥さんと、れいや(零弥)ちゃん>

 1時になり、空港へ向かう。何ヶ月にも感じたこの6日間だった。それにしても、寂しそうなラジョーさんがいる。僕はつい何度も“ラジョーさん、大丈夫ですか?”と言ってしまった。

 ダッカの空港に迎えに来てくれるラカイン人の学生さんを、ラジョーさんが手配してくれた。ホテルも探しておいて、そこまで連れて行ってくれるという。期待していなかっただけに、親切が身に沁みた。

 心の通い合う人との別れは、いつもさみしいものだ。ラジョーさんも、日本に来れるようにして、差しあげたいものだなぁ。そう思いながら、空港ラウンジ(と呼べる感じでもないのだが)に入る。ラジョーさんは、日本式のおじぎをした後に、見送ってくれた。

 ダッカの空港に着いたら、三人のラカイン人の学生が迎えに来てくれていた。そして、みんなで探したという、安いホテルに連れて行ってくれた。

 荷物を下ろし、ダッカ観光ということで、バスに乗って建築物を見に行く。しかし、あえなく渋滞。何でも、一ヶ月続いた祭りをこの先でやっている。その祭りの最後の日が今日だからという。

 30分以上動かなくなったので、諦めてホテルに戻り、みんなで早めの夕食に行くことにする。カレーや豆スープなどのベンガル料理をおいしく食べた。

 彼らが、科学専攻の学生さんたちだと聞いた僕は、“チェスとか、そういう考えたりするゲームって好き?”と聞く。すると、“チェスとかやりますよ”という。

 すかさず僕は、“実はこれ、僕が発明したゲーム。近く、オンラインでできるようになる予定なんだけど、やってみる?”と聞く。すると彼らは、“おおっ!”と目を輝かす。

<写真は、タオサンガセンターでゲームをやった時のもの。ダッカでは、電池切れで写真が撮れなかったので>

<真剣勝負!>

 さっそく教えて、ゲームを始める。いやー、実に盛り上がりましたねぇ。確かな手応えを感じましたよ。  笑ってしまったのは、じっと観戦していたレストランのウエイターが、“おい、この戦車もっと進ませた方がいいぞ”とか、口出しして来たことである。ふふふふ。

 二、三戦やった後、“このゲーム、1つしかないんですか?”と名残残惜しそうに言う。それで、“上げるよ”と差し上げて来た。みんなで楽しんでくれぃ。

「将来は、学校でトーナメント戦やろう」とか、「そんなら優勝者には、僕が賞品出すよ」とか、「僕、絶対それもらうから」との話で盛り上がる。

 僕は、“万国のタオチェスゲーマーよ、団結せよ”の気分である。(マルクスの友だちのエンゲルスという人の書いた“共産党宣言”の最後の一節をもじったもの)

 学生さんたちが帰った後、一人僕は、夜の街を散策に出かけた。大通りには、信号もない。これを渡るのは、命がけである。例えて言うならば、東京の環状七号線に信号がなく、そこを渡るようなものである。

 しかし僕は、現地の人を真似して、必死に道を渡り、夜の街に繰り出す。一体、何のために? ダッカの街を見て回りたいという、ただそれだけである。単なる好奇心のために、命がけで道を渡るのだから、実にアホなのである。しかしアホは、アホなりに存在意義があるのだ。

 たとえば、コロンブスだって、そんな人間だったんじゃないかなあ。まあ、彼がアメリカ大陸を発見したために、インディアンはひどい迷惑を蒙ったのだけど。

  さて、夜の街やバザールなんかを散策した後、ようやくホテルに戻る。(帰りは陸橋を見つけたので、命がけではなかった)部屋に戻っても、途中に出会った「本物の乞食」の残像は、なかなか去らなかった。ニセモノには、余裕をもってお金を上げたりできるんだけど、本物の気迫には、いつも圧倒されてしまい、決して慣れることができない。

 ホテルは安くて良かった。しかし、大通りの車の騒音が大変うるさい。果たして眠れるかなぁ、と思ったが、いつしか、まどろむことができた。

 明け方、うす暗い部屋で咳をしていたら、とうとう真っ赤な血タンが出た。(うす暗いので、まっ黒く見えた)。ずっと、咳しながら活動していたが、実は3日ぐらい前から、タンに血が混じり始めていたのだ。

 一瞬、“結核にでもなったかな?”、何て思った。その瞬間から、すでに心は、梶井基次郎とか立原道造みたいな昔の文士である。“こりゃ、さっそく詩か小説でも書かなくちゃいけないな”なんて、、、。

 そこで僕は、“けっ、これぐらい何だ!”と、まだ暗い寝床で無言で吠える。「旅に病んで、夢は枯野をかけめぐる」(松尾芭蕉)だ。旅するバックパッカーは、これぐらいではめげんのだ。今年のバングラデッシュ、最後の日の明け方、、、。

<後記:心配される方もいらっしゃるかも知れないので、記しておきます。この時は、ホコリのため咳をし過ぎて、喉が切れたみたいです。ダッカの後はタイで休憩しました。お陰さまで、今はすっかり治っています。もう大丈夫です>

 

 

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 ラカインの子供たちの将来を心配する80歳を超える老僧が、私費で運営しているラカイン小学校が、ミャンマー国境近くの村にある。

 この学校のあるチョドリバラ村は、ラジョーさんの奥さんの出身地でもある。そしてユニは、この老僧の心意気に応じて、さらなる支援をするようになった。

 支援を始めたのが4年前。2年前には老僧に、“私が死んだ後も、子供たちをどうかよろしく”と言われて、引き続きの支援を堅く約束している。

 話は変わるが、ミャンマーの自由化運動に身を投じた学生活動家たちは軍事政権に追われ、バングラデッシュ国境のジャングルに逃げ込んだ。ラジョーさんのことを先日のブログで、僕はお坊ちゃまと称した。しかし本人は言わないが、彼はかつて、この国境近くのジャングルで、活動家たちを支援していたのだ。お坊ちゃまとはいえ、なかなか根性がある人なのである。

 さて、この小学校に行くため、総勢6人で朝から出かけた。しかし、出発したとたん車がエンスト。街角で、しばらく立ち往生することになった。

<エンスト>

<道で>

<道で見たポスター。空中浮遊の尊師は、どこにでもいるらしい>

 走れば車で2時間半の距離とは言うが、これはバングラデッシュ的表現で、不動産屋の「駅から徒歩15分」みたいなものだろう。なんせ、いつ行っても“遠いなあー”と思う。時計みないから実際にどれくらいかかっているのかはわからないが、まだか〜?、と思うのを諦めた頃にやっと着くのである。

 さて、ようやく昼前に到着し、子供たちのお出迎えを受ける。老僧に案内されて教室へ行き、みんなに話をして欲しいと言われて話した。

<出迎えてくれた>

<教室に向かう>

 「皆さんはラカインの未来です。そして皆さんの未来を明るくするのは、お互いを思い遣る心と行動です。皆さんがこの学校で、“すべてのラカインの人々の明るい未来のために”という気持で学んでくれたら、老僧もラジョーさんも、そして僕たちも嬉しい」。

 この後、日本からもって来た鉛筆なんかを配った。老僧からは、夜クラスも始めたいので、先生をもう1人増やしたい、と相談された。これは、ラカインUNIが検討して決めることになる。

<老僧のお話>

<教室の風景>

<賢そうな子>

 その後、30分かけて国境の町まで行き、昨夜招待してくれた人の家に案内され、昼食をごちそうになる。魚料理や、今やめったに飲めないミャンマービールなど、いろいろと出して歓待してくれた。

<ミャンマービール>

<ごちそうが並ぶ>

<写真/家の中を案内してくれる>

 昼食後は、町を散策。

<街の様子>

<ラカインの家も数件ある>

<子供の背中が語りかけるもの>

 午後遅くなってから、帰りの車に乗る。再び乗ること2時間半?(多分、もっとだろうなぁ)。夕方、暗くなる前に、ようやく帰りついた。

 明日はダッカに移動しなければならない。夕食後は、荷造り。しかし少しでもプロジェクトを進めたい僕たちは、夜9時頃、近所の女医さんに会いに行く。ラカインの学生や女性たちを支援するNGOを主催している人だ。まゆさんの発案で、ラカインUNIの委員の一人になって欲しいという話をするためである。

 女医さんとは、夜の診療の合間に会った。お互いの活動について話し合う。そして、ラカインUNIの委員会参加を受諾してもらった。

<診療所>

<女医さんと>

 その後、ラジョーさん、まゆさんん、僕の3人で最後の夜のミーティング。ラジョーさん、僕たちが明日帰るのが、何だか寂しそうだなぁ、、、。続く

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 4年前からNPOユニが運営を始めたのが、クルスクル/ユニ小学校だ。以前は、ワールドビジョンという世界的に有名なNGO団体が、10年ほど運営していた。

 しかし、支援を打ち切り先生たちの給料がストップ。先生たちは、他へアルバイトに行き、永らく閉鎖されていた学校だ。

 ”何だよワールドビジョン、そんなつれないことするのかよー”と、ぶつぶつ言いながら、NPOユニで再開した。(大きな団体の支援は、期限付きということらしい。大きな団体には、つい無意味な対抗意識を持つところが、僕の大人げないところである。もしかしたら、教室を建設したのはワールドビジョンかも知れないのに、、、)

 学校の再開とはいえ、机や椅子、その他、黒板などの備品もすべてユニで揃え、雨漏りする屋根の修理をした。そして5人の先生たち(現在は4人)の給料を払っている。

 午前中、まずはこの小学校の様子を見に行く。年代ものの三輪ミゼットタクシーに、三人で乗り込む。三輪は、アクロバット的なゴーカートの動きをしながら、海の見える田園風景の極細の小道を疾走する。”よく車が倒れないなぁ”と感心するやら、ひゃひやするやら。写真を撮る余裕はあまりない。

 

<田園風景を疾走する>

 

<車が傾斜して、水面が迫る。あわや!>

 

しばし走った後、ようやくクルスクル村のラカイン仏教寺院に着く。隣にあるのがユニ小学校だ。

 

<授業参観>

 

<つい、カメラが気になってしまうみたいだった>

 

<英語の先生/ラカイン語を教える校長先生>

 

 子供たちの授業風景を参観し、その後、先生たちとミーティングした。僕はPTAを作ることを提案する。
 僕が語ったのは、将来は、より多くのラカインの村の小学校を再開させるつもりであること。(全部で17あるが、現在、開校しているのは3つ。しかし、すべての小学校を開校させるための「秘策」は、すでに練ってある。ふふふ)

 そうなったら、コックスバザールのタオサンガセンターに、PTAの代表が先生方の給料を取りに来るためなどで定期的に集って欲しい。そうして、いろいろな村の代表と交流して欲しい旨を話した。彼らも乗り気になった。

 実はそれは、すべてのラカインの村でネットワークを結んでいくという、ユニの構想を実現するためである。
 あるいは、各国のユニから、定期的にリサイクル品や英語の本、教材などをを、コックスバザールのタオサンガセンターに送る。そしてそれを、各村のPTAの代表が定期的に取りに来る、ということでもいいかな、と思っている。(でも、これの実現は、まだ先だろうから、今の段階では黙っていることにした)

 小学校の視察が終わったところで、ラジョーさんにこれからどうしますか? と言ったら、一度家に帰ってお昼を食べに帰りましょう、という。

 しかし僕らは、”仏教協会が言っていた教育センターの村は、ここから30分ほど行った先、というじゃない。だったら、今からそこに調査に行っちゃおうよ、ラジョーさん” と提案。それで、そこに行くことになったのだが、結局、さらに三つの村を巡ることになった。

 まずは、再び三輪に乗り込み、その後、小舟に乗って海を亘る。ヤギやら羊やら、オートバイやら、いろいろと乗り込んでいる。少年が船頭のアシスタントだ。

 

<えいや!と舟に乗り込む>

 

<オートバイまで乗り込んで来る>

 

 さて、30分先の別の村に着いら、すでに、僕らのことを村の人が待っていてくれたのだが、”仏教協会で協会で支援して欲しいと言っている教育センターってどこですか?”と聞いてもあまり要領を得ない。”これから建物も作らなきゃならないし、、、”とか言って、何だかわけのわからない話になってる。

 

<政府系の学校>

 

 でも、”僕らは見に来たなんだから、とにかく、その教育センターらしいところに連れて行って下さいよ”と半ば強引に連れて行ってもらった。それで行ってみて、ようやく話が見えて来た。

 ようするに、”仏教協会で3人の先生の手当の支援を要請したいだけど、、、”と言っていたのは、”3つの村に1人ずつ、ラカイン教育の先生を配置したいから、それを支援して欲しい”ということだったのだ。

 1つ目のラカイン村には、バングラデッシュ政府系の学校があった。そして、「その一角にある小さな建物を、ラカイン教育センターに」ということだった。

 というのは、子供たちにラカイン語などを教えないと、ラカイン文化が途絶えてしまう。また、政府系の学校だけでは、ラカイン村の子供が高等学校に進むことが難しいのだ。そんな、バングラデッシュの教育システムの問題もあるのである。

  ”では次へ”と、その後、他の2つの村のラカイン教育センターにも巡って行った。各村の人に挨拶し、説明も聞かせてもらった。ユニで検討することを約束する。

 

<各村で話を聞いて巡る>

 

<青空教室を予定している村もある>

 

<どこの村でも、仏教は大切にしている>

 

<村々は人力車で巡る>

 

 その後の3人のミーティングで、ラジョーさんが後日、各村すべてを再調査することになった。ラジョーさんは先生の候補者とも会い、村の委員会とも話し合い、支援を始めてもちゃんと子供たちの教育という使命を全うするかを、克明にチェックするという。

 僕がそこで感じたのは、ラジョーさんは、自分が責任を持って、単なる支援の垂れ流しにならないようにしているのだ、ということである。

 彼は、ちゃんと責任感をもって、真剣にユニの支援活動を展開しているのだった。ラジョーさんのようなスタッフを持って、ユニは本当にラッキーだと僕は思った。

 さて、その後再び、船に乗り込むが、いくら待っても出航しない。どうしたんだ? と思ったら、船頭さんが弁当を食べているからということだった。そういえば、お昼どきはずいぶんと過ぎているけど、バングラデッシュではご飯が遅いからなあ。一般の夕食は夜10時だそうである

 


<優等生の兄とワルガキの弟か? 船頭のアシスタントは兄だが、僕は弟の目が気に入ったぜい>

 

 待ちくたびれて見に行ったら、カレーやダル(豆スープ)にご飯、チャパティなどで、なかなか美味そうでである。昼飯抜きの僕らは、指をくわえて待っているしかなかった。

 

<船頭と息子たちが弁当を食べている。美味そうだった〜>

 

 ようやく出航して対岸に着いた後は、再びアクロバットのゴーカートが待っていた。途中、車から降りて、車を押すという一幕もあった。そしてやっと帰りついて、昼めしにありついたのが3時前だった。

 夜は僕らで、たまには夕食にベンガル料理を食べに、レストランに行かないか、とラジョーさんを誘った。(昼間見た弁当、ウ美味そうだったしー)そうしたら、初めて奥さんも連れて来た。そして、4人でタクシーに乗ってレストランに出かけた。

 なかなか豪華な料理である。おかげで初めて奥さんとも少し話をすることができた。タクシー代を出してもらっていたので、食事の支払いは僕らがするつもりでいたが、ラジョーさんは”僕に払わして下さい”と言って、断固として僕らには払わせなかった。

 

<昼間見た弁当に刺激されて、ベンガル料理を食べに行く>

 

 夕食後は、仏教協会の中で、ユニとラジョーさんに味方してくれそうな人を、ラジョーさんが家での酒席に招待したそうだ。僕がおみやげに、バンコクの空港免税店で買って来たウイスキーで、彼らを接待するという。

 そうか、ラジョーさんもいろいろと気を遣って大変だな。僕らも酒席に参加して、一緒に飲んで盛り上がる。何ごとも、根回しである。

 ラジョーさんには、”日本のお寺を回るジャパンツアーができないですかねぇ。みんな雑魚寝でも大丈夫だし。ラカインでお金のある人が10人以上は集まると思うんだけど”と、相談されている。

 面白そうなので、何とか実現したいと思っている。酒席に、ヤンマージーゼルの会社の研修で日本に行った人がいたので、日本ツアーの話なんかで盛り上がった一席であった。

 明日は、ユニが支援している、ミャンマー国境近くのチョドリバラ小学校に行く予定だ。同席の2人も、一緒に行く、と盛り上がっている。

 その内の1人の家は、そこからさらに30分ほど行った国境の村である。彼に、”ぜひそこまで来て欲しい。家でお昼をごちそうしたいから。” と誘われ、ありがたく申し出を受けることにした。

 こうして、明日は5、6人で出かけることになり、あとはラジョーさんとまゆさんに任せて退席した。微熱が抜けたばかりなのに、酔っぱらってしまったんで。続く

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 無惨な状態の仏舎利塔を見せられたときほど、イスラム教国に住む、少数民族仏教徒の悲哀を感じたことはなかった。

 仏教に敬意を払わない周囲のベンガル系住民に荒らされ放題だった仏舎利塔を見たのが4年前。その時から僕は、“いつかは修復して、ここに住むラカインのみんなの喜ぶ顔がみたい”と願って来た。

 コックスバザールの仏舎利塔群は、丘の上にあって360度、とても見晴らしが良い。ちゃんと整備すれば、聖地公園になり、人々の憩いの場所となるだろう。だけど、ここの大切さを理解できない人たちに汚されたりして、荒れ果てていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

<きれいになった仏舎利塔>

 そこで昨年から、思いきってNPOユニで修復整備の工事を始めた。そして修復記念式典が行われるのが、今日この日だった。

 ラジョーさんが私費で雇っている仏舎利塔の世話係の人たちは、今日のセレモニーのため、昨日から忙しく働いていた。下のお寺の広大な土地は、ラジョー氏の祖父が寄進して、お寺まで建てたという。

 何せかつては、この辺りの土地のほとんどを、ラジョー氏の家が所有していたという。彼は、そういう家系に生まれた人だった。ようするに太宰治とか、シッタルダ王子とか、鳩山由紀夫さんのように、“お坊ちゃま”だったのだ。(お坊ちゃまの良い点は、お金に対する執着が少ないので、信頼できるところである)

 さて、お坊ちゃま論はこのぐらいにして話を戻そう。

 朝のセレモニーの後は、来た人々皆に、朝食やお茶の接待をするという。テーブルやたくさんの椅子なども、みんなで丘の上まで運ばなければならない。なかなか大変そうだ。200〜300人分の料理やお茶も運ばなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

<丘の上から見える景色>

聞けば、ラジョーさんは200軒のラカイン人の家に、今日の記念式典のことを一軒一軒、知らせて回ったそうだ。少数民族だから、回覧版なんていう便利なものもないのだろう。

 それで、どうやら準備作業が終わったのが、深夜の1時半とかだったらしい。泊ってほぼ徹夜で作業した人もいるとのことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

<皆、忙しく働いている>

 セレモニーは、朝8時から。僕も僧衣に着替えて出かけていった。まゆさんと3人で朝日の下、丘の上を登っていく。ラジョー氏も、今日は神妙な顔をして口数少なく、木魚なんかを持って歩いている。

 着いたら、もうすでにたくさんの人々が集まっていた。皆、本当にうれしそうである。笑顔でしてくれる挨拶には、感謝がこめられているようでいて、心が温まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<念仏道場>

儀式は、念仏道場として使うことになっているお堂で行われた。最初に、タオサンガ式のお勤めで儀式を行う。念仏会に参加している人は一緒に唱和する。その後、ラジョー氏が挨拶し、仏舎利塔が修復されるに至った経緯を簡単に説明する。(彼も照れ屋なので、本当に一言で終わってしまった)

 

 

 

 

 

 

 

 僕にも“何か話しますか?”と聞かれたが、「みなさん来てくれてありがとう」だけで済ましてしまった。(ここぞとばかりに演説始めるなんていうカッコ悪いことはしないのだ。小学生が遠足行くときのコーチョー先生じゃないもんね)

 その後、下のお寺からラカインの僧侶が2人来て、今度は上座仏教の儀式を行った。

 2つの式典が終わった後、来客にお茶と朝食が接待された。丘の上で見晴らしも良く、皆でニコニコと食べている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<食事の接待>

そういえば、3年前、あまりにもキタナかったので、ラカインの学生たちも集めて、ヨーロッパ、カナダのユニメンバーたちと一緒に、皆でここを掃除したのだった。

 ただ掃除しただけだから、当たり前なんだけど、それでも、ちゃんときれいになったとは言えなかった。それが今は、すべての仏舎利塔がリフォームされ、本当にきれいになった。丘の上に座って仏舎利塔群や周囲の景色を眺めているだけで、とても気持が良い場所になったのである。

 もっとも僕たち3人(ラジョー氏、まゆさんと僕)は、すぐにさらなる整備について話し合っていた。

 

 

 

 

 

 

 

周囲をお花畑にしよう。そのために井戸を掘りポンプを設置し、トイレも造る。そして、ここに簡単な軽食も出せる屋外喫茶店を作ろうではないか、と大いに盛り上がる。NPOユニの夢は尽きないのだ。

 お客はその後も、次々とやって来ては修復され、リフォームされた仏舎利塔を楽しみ、食事の接待をされては帰って行った。用意した食べ物やお茶もほとんど無くなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<子供たち>

仏舎利塔でお昼まで過ごした後は、ラジョー氏の家でランチを頂く。

 一休みした後はセンターに行き、デスクなど備品の買い物。

 その後はセンターで、毎週京都で行っているダルマトーク(法話)のネット配信をやろうとして、数時間四苦八苦する。でも結局、バングラデッシュのネット環境ではまだ無理だということがわかって終わった。でも、少しだけ、京都のみんなとビデオ•スカイプができた。

 夜は、やっと微熱も抜けて、頭がすっきりしたようだ。セレモニーの功徳かなあ?

 咳は相変わらずだけど、これは街中に飛び交っている、土ボコリのせいだろうと思う。(←ホントか) でも、風邪が抜けた記念に、一大決心してシャワーを浴びることにした。

 実は、ここは水しかでないシャワーなのだ。それに、夜はけっこう涼しい。ラジョーさんなどは、夜になると“寒いですねぇ”とか言って、頭にふろしきみたいなのを冠っているぐらいである。(まるで、昔の日本のドロボウにでかける人みたいだぜぃ)だから、夜シャワー浴びるのは、それなりに決心が必要だったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<頭から、風呂敷みたいな布をかぶっているラジョー氏>

でも、「僕、これからシャワー浴びます!」と宣言した。すると、ラジョー氏が“えー!? これからですかぁ?”と驚いてた。すると、“ちょっと待って”と言い、しばらく待っていると、お湯を湧かしてバケツに入れて持って来てくれた。

 これは、シャワー室でお湯を水に混ぜながら、身体を洗うシステムである。“そういえば、インドでもこんなことしてたなぁ”と思い出しながら、温かいお湯で、久しぶりに身体中についたほこりを洗い流す。いや、まさに極楽である。

 すっきりしたところで、ラカインUNIという地域通貨の発行について、3人で相談する。

 それはこんなアイデアだ。まず、学生が1時間ユニのプロジェクトとかで働く。すると、センターで発行する1UNIという地域通貨をもらう。1UNIで、2時間分の無料ネットができる。とまあ、こんな仕組みである。

 ゆくゆくは、もっと流通させるにしても、まずはそんなところからスタートしてはどうかなあ、と話し合った。地域通貨ラカインUNIの準備である。続く

 

 

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 まさか2日目に、こんなに驚きの一幕が用意されているとは思わなかった。

 UNIは、和田寺という仏教のお寺が運営している。しかし、キリスト教の援助団体のように、援助を通して伝道するという発想は皆無である。

 これはUNIの理念というよりも、そもそも大乗仏教というものが、そんなゆるいものだからである。

 これがどこから来るのかというと、キリスト教と大乗仏教の時間の概念の違いではないか、と思う。キリスト教神学には最後の審判というものがあり、この時までにキリスト教に改宗していなければ「地獄に堕ちてしまう〜」ということになっている。(意外に思われるかも知れないがホント)

 だから、「キリスト教でない人たちは地獄に堕ちてしまう。可哀想だから、何がなんでも伝道しなきゃ〜」と、思いやりの深い人ほど、焦る気持になるだろう。

 しかし仏教では、「生まれ変わり死に変わりにながら、いつかは仏縁に恵まれてお浄土に救われるチャンスもある」というわけ。だから焦って伝道しなくても、“まあ今回の人生ではダメでも、またいつかの人生でご縁があった時にね。では、また〜。(バックには、尾崎きよひこの”また会う日まで”が流れている←古い!)”という風に、あっさりと見送ることができる。

 というのは仏教的な感覚では、永遠の先と思えるような遠い未来であっても、それは”今ここ”に内包されている。だから、「あの人だって、この先、何百回か生まれ変わったら救われるんだから、まあいいか。それもまた今だし」というふうになるのである。(これは理屈でなく、感覚の問題である)

 もっとも自分に対しては、「今回の人生で修行して目覚めなければ、いつまた人間に生まれて修行するチャンスがあるかはわからないぞ!」と厳しく迫る。人にはゆるく、自分や弟子には厳しいのが仏教である。

 さて、前置きが長くなってしまった。2日目。ラジョー氏に「よかったら、タオサンガセンターの朝のお祈りにイキマしょう。終わった後で来てもいいけど」と言われた。それで出かけて行ったら、すでに学生たちなど、人も集まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 <写真/”ちゃんと皆さん布施していますよ”と、見せてくれた。ラジョーさんは面白い。>

 てっきり僕は、ラカイン仏教式の礼拝でもするのかと思っていた。しかし、いつの間にかラジョー氏は、念仏のお勤めテキストをみんなに配り、ナンとみんなで、念仏唱和が始まったのである。これには心底びっくりしたぞ。

 あとで聞いたら、毎週金曜日はタオサンガセンターの念仏だという。そうか、お互い何ひとつ話さなかったのに、ラジョーさんは、ここを本当のタオサンガセンターにしようと努力しているんだ。

 さらに僕を感激させたのは、ラジョーさんが、みんなの利他の心を育てようとしているように僕には感じられたことだった。

 これまでラジョーさんと話合って来たことは、すべてラカインユニのプロジェクトに関することのみである。サンガのことなど話し合ったことはなかった。

 なのに彼はサンガの本質を理解しているように思える。これは本当に嬉しい驚きだった〜!。まるで、前世からの友を発見したような気持である。

 UNIの目的をみんなに話して欲しいと言われて話した。学生さんが中心だから、今日は英語。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下は僕が話したこと。「 一体、われわれUNIは、バングラデッシュで何をやろうとしているのか?」

「仏教徒ラカイン人は、バングラデッシュでは少数です。少数ということは社会的に弱者であるということです。でもこのままで良いのでしょうか? 少数民族であっても強くなる方法はないのでしょうか?

 UNIはその方法が2つあると思っています。

 まず、ラカイン人がお互いの未来を思いやり、団結するためのネットワークを造ることです。たとえば2万人いるラカイン人すべてでネットワークをつくり、誰がどんなビジネスをしているのかをリストアップする。

 そして、買い物はラカインから、仕事はラカインから、という風にお互いの経済ネットワークを作ることです。仕事を探しているラカイン人は、ビジネスをしているラカイン人が雇えます。団結することで強くなることができるのです。

 もうーつは、教育の充実です。もしすべてのラカイン人が収入の一部を定期的に布施して、これを子供たちの教育の充実や、優秀な子供が高等教育を受けるための援助に回せば、ラカイン人ははるかに社会的に向上していきます。

 そして、貧しくても優秀な学生が、援助を受けることで大学を卒業することができるようにする。そしてその学生が働くようになったら、今度は同じように収入の一部を布施して、他の学生の援助に回るようにする。

 UNIは、こんなシステムを創りたい。そしてそのための受け皿として活動するため、タオサンガセンターができたのです。

 ラカインの明るい未来は、お互いがみんなのことを考えることで開けて来る。UNIはそう信じているのです。」ちょっと疲れたけど、夢遊状態で咳しながら、がんばって話した。

 午後は、結婚式に参加。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<花嫁さん>

2−3時間はいたかなー。ラカイン人の結婚式は一日がかりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  <何やらいろいろと質問攻めに遇っているまゆさん。左の男性は、「僕はラカインの医者です」と自己紹介していた>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<うぬ、これは新手のピンポンパン体操か?>

 その後は、UNIで修復している仏舎利塔の視察。明日の儀式のために、多くの人が働いていた。皆ニコニコと嬉しそうに挨拶してくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<写真/ラジョーさんが雇って、仏舎利塔の世話をしている人。笑顔がすてきである>

 僕はと言えば、まだ、頭がぼーっとしている。やがて2日目も暮れようとしていた。夕日が沈むのを、修復してきれいになった、仏舎利塔の丘の上から眺める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<修復して、見違えるようにきれいになった仏舎利塔群>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<仏舎利塔はラカインの信仰の象徴だから、ラカインのみんなが気にしている。写真は、仏舎利塔の念仏道場の前で>

 続く

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 その背中は、どんな同情も宇宙の彼方に追いやるだけの力を持っていた。10歳ぐらいだろうか?

 場所は、生ゴミ捨て場らしきところ。(街中にゴミは捨てられているが、特にそこには残飯が捨ててあった)

 家族のためだろう。彼は、明確な意志と責任感を持って、拾うべき食べ物を探していた。そのきびきびした動きにはまるで無駄がなく、まるでベテランの熟練工のようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  <写真:小さな店の小さな店主。本文とは関係ないけど>

  そして僕はふいに思い出したのだった。インドを旅していた頃、胸が張り裂けるような想いで過ごしていたことを。いや正確に言うと、その時、自分が押し隠していた自分の心に気づいたのだった。

 かつてインドでの僕は、洪水のような圧倒的多数の物乞いと、今日一日を食うや食わずやという人々の群を見て打ちのめされていたのだ。

  無力感。そしていくら貧乏旅行者とはいえ、金満日本からやって来たという、持てる者としての罪悪感。さらにやっかいなことに、僕は乞食や路上生活者を見ては胸を痛める自分を、“なんて女々しい奴”という風に、自分自身を恥じてもいたのだ。

 張り裂けそうな胸の痛みと、そんな自分を恥じる想いとの葛藤。そして、常に最下等の宿と食事で過ごそうとしていた。それが、まだ25歳だった僕のインドの最初の旅だったのだ。(今のインドは、きっと全然違う風景なんだろうけど

 彼の背中が自分のイメージ残像がある間に、“そうか”とバングラデッシュにいる自分に気づいた。コックスバザールに着いた初日。身体はまだ宇宙に浮いているようだった。

 というのは、途中寄ったバンコクで、僕は実に久しぶりに熱を出して寝込んでいた。今まで、風邪を引いて食べなくなる人がいるのを見ては、不思議に思っていた。

 そしてその僕が、バンコクではまる2日間寝込み、その間ずっと絶食状態だった。バングラデッシュに着いてもまだ食事が取ってはいなかった。しかし、寝込んでいるわけにはいかない。

 微熱のせいか、まるで夢遊病者のように現実感がわかない。宙に浮いたような状態のまま、宿泊しているラジョー氏の家から歩いて数分のラカイン仏教福祉会館に向かう。ラカイン仏教協会の面々と会議をすることになっているからだ。先の少年の背中を見たのは、その途中のことだった。

 はじめて見るタオサンガセンター/ラカイン•ユニ事務所は、仏教福祉会館の中にあり、広くきれいだった。建設して1年半。仏教徒学生たちのためのネットカフェとしても機能している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中には、タオサンガセンターらしく、ちゃんと阿弥陀如来がお祀りしてあり、ラジョー氏の心意気が伝わってくるようだった。

 そして仏教福祉会館の会議室へ移動。すでに仏教協会の面々はそろっていた。ユニ側は、僕とまゆさんとラジョーさん。向こうは6人。そして僕は夢遊病状態のまま話し合うこと1時間半。英語が得意でない人もいるので、ラジョー氏に日本語通訳してもらいながらの話し合いである。

 で話し合いの内容は、というと、、、実は細かくは覚えていない。何せ夢の中みたいな状態だったし。僕はひたすら“お互いの目的は同じです。バングラデッシュにおける、仏教徒ラカイン人の社会的向上のための教育の充実です”を繰り返していたような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 話し合いの途中、教育センターを1つ増やしたいという要請を受けた。まずはその村を調査に行くことを約束する。それから、“UNIと仏教協会で委員会を創って、みんなで話し合いながらやって行きましょう”と提案され、これはすぐに受諾する。

 その後、近所のラカイン結婚式前夜祭に行く。おつまみを食べながら酒をチビチビ。おお! 久しぶりに胃に何か入った。

 ところで、イスラム教国のバングラデッシュで、酒の取り締まりが最近ますます厳しくなっているらしい。(酔って道でうろうろしていると逮捕されるそうだ)が、ラカイン地域では認められているとのこと。

 そういえばパレスチナでも結婚前夜祭に行ったけど、何だか似たような雰囲気だったなあ。もっとも、あっちは紅茶と御菓子だけだったけど。ゆるい仏教徒で良かったぜぃ。

 UNIの活動でコックスバザールを訪れるのは、今回で4回目。すでに顔なじみになった面々とあいさつしながら、初日の夜は暮れて行った。バックパッカーは、風邪ぐらいではめげないのだ。(2日目へと続く)

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僕はよく旅でドジを踏む。そういえば、去年のブログでも同じセリフをつぶやいたなあ。あのときは、ローマからバンコク行きの飛行機の日にちを間違えて予約したんだっけ。今回のドジは、ダブルである。話は以下である。

ところで今僕は、バングラデッシュに向かう途中で寄ったバンコクで、このブログを書いている。で、昨日無事バンコクに着いたのが奇跡みたいな話であった。というのは、いつも僕はマイレージを使ってバングラデッシュに行く。その場合、燃料代なんかを払ったカードを持って行かないと、ロックがはずせないので飛行機に乗せてもらえない。

ところで、マイレージのフライトでも、今は燃料代等で数万円かかる。(セコい話して申し訳ないけど。まあ根が、たった10円をめぐって、インドの人力車とプライドをかけた言い合いをして来たバックパッカーなもんで、、、)

で、話を戻すと、何とそのカードと間違えて、別のカードを空港に持って行ってしまったのである! しかも、いかにも旅慣れた風に、気取ってインターネットチェックインというのをやったもんだから、空港に着いたのも出発1時間前。タイ航空のカウンターでは、「では30分だけ待ちます。誰かにカードのコピーをfaxしてもらって下さい」と言われた。、、、いやーさすがに焦りましたね。

「30分でカードをコピーしてFAXなんて無理よ」というまゆさんを、横目でじろりと見た僕は、「大丈夫!」とカウンターの前で怒鳴る。(わりい、わりい)そして京都センターの皆さんに、焦りまくりながら電話しまくった。そんな簡単には諦めんぞ、と飛行機止めて待たすぐらいの覚悟。(←あとで考えたら、「もうちょっと、有益な覚悟しろよ」と自分に言いたくなる気もするが)

でまあ、奇跡は起こったのだ。僕のバックパッカー的な勢いに気圧されたのか、カウンター嬢も「今回だけは特別に、番号だけ教えてもらえばいいです、、、」と態度を軟化させてくれた。

そして、電話したら運良く家にいたゆうこさんが、恐らく超スピードでセンターにカギを取りに行ってくれたのだ。そして、これまた恐らく、超スピードで拙宅に入ってくれた。僕は即座に、カードの場所を教えた。そして、カウンター嬢に番号を伝え、カウンター嬢が入力完了してロックをはずすのが、カウンターが閉まる期限の約2分前だった。助かった〜。ゆうこさん、ありがとう! タイ航空のカウンター嬢も〜。

バックパッカーは、容易に諦めてはいけない。しかし、ドジ話はこれでは終わらない。さらにまた、続きがあるんですよ〜。

着いたら旧正月のバンコク。(年々近代化されて行くな〜) 続く

          ↓

 

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僕は、かつて正月は、なるべく日本を逃げ出していた。別に、ゲーノー人がやるように、”正月はハワイでね” なんていう優雅なものではない。ただ単に、正月が、キライだったからである。なぜ、正月がキライかって?

僕が思うに、ホームレスの人や孤独な人にとって、正月ほど残酷なものはないのではないか? 以前の正月は、店がすべて閉まり、ホームレスは残飯にありつけなくなった。そんな物理的な死活問題もあった。もっとも今は、状況は異なるかもしれない。しかし、精神的には同じようなものではないか。

寒空の下、温かい布団や寝る家がない人、あるいは物理的な家はあっても、心の居場所がない人にとって、正月とは何か? それは自分とは真逆で、いかにも”わたしたち幸福ですぅ”というような人々を、目の当たりに見る時間でもある。

僕は、人生のつらさを身に滲みている人々の気持を想像することがイヤだった。同時に、そんな人々がいることなど想像もしない、幸福な人々の無関心さもイヤだったのだ。

僕も今では、人間界というところは、どんな暮らしをしていようと、しょせんは五十歩百歩だとわかっている。しかし、かつては、そうではなかった。人々が、いかにも幸福そうに振るまう正月。そのときアマノジャクな僕は、太宰治の「家庭の幸福は、諸悪の根源」という言葉を思い出していたのだ。

でまあ、海外に出るのが大変なときは、茨木市で1月2日から行われていた、念仏修行の会によく出ていた。3日間、一日12時間の念仏三昧に浸る。終わって街に出る頃には、何となく正月も終わっているという具合である。これは、なかなかよろしい。息子の結万が幼い頃にもよく連れていった。導師を勤める年輩の僧侶が喜んで、毎年のようにお年玉をくれたりしていた。

さて、何年か前から、このブログのタイトルである「年越し念仏」を始めた。12月31日の夜9時から、何と1月1日の昼1時まで、センターで念仏三昧を行うのだ。最初の年、京都センターで一人で始めた。これがやがて、年々参加者が増えていき、今では、京都と東京の両センターだけでなく、世界各地でも行われるようになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<夜9時、開始前の東京センター>

 

 

 

 

 

 

 

<京都センター。朝6時に仮眠して、8時に起きてすぐ。(寝てない人もいたけど)以外とみんな元気…。>

 

 

 

 

 

 

 

<年越しそばを食べているところ>

現在のプログラムは、年越しそばを食べたり、願いを成就する様々なワークまで行う。楽しいので、夜9時に始めても、あっと言う間に昼の1時になる。

昼一時には、年越し念仏をシンクロして行っている世界各地のメンバーと、「Happy New Year !」 と声を交わし合う。パソコンを使ったテレビ電話で、である。その後は、酒やおせち付きの新年会。正月がキライだから始まった年越し念仏会が、こんな風に華開くとは、、、。僕にしてみたら、まったく思いもよらないことだった。

僕は年越し念仏会を、今年初めて東京センターで参加した。そしてワークをリーディングした。

また、日は少しさかのぼるが、12月25日に京都センターで、クリスマスパーティを開催した。日頃、超多忙なサンガの皆さんには、準備で大変な負担をかけてしまったけれど、、、。パーティに友人三人で参加された大学生の内の一人が、「こんな楽しいクリスマスが過ごせるなんって、思ってもみないことでした。本当にありがとうございました!」と、後でメールをくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サンガのパーティは、自分たちの楽しみのためにするのではない。孤独な人が一人でもいなくなるようにという想いが、いつまでも消えることがないからするのだ。そして、そんな想いの仲間たちが行うパーティなら、初めて来た人でもきっと楽しく、また心温かく過ごせるだろう。また、そうあって欲しいと願う。続く

 

 

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