「壊された5つのカメラ」という映画がある。パレスチナの非暴力抵抗運動を捉えたドキュメンタリー作品。僕がデモに参加した、ビリン村がその舞台だ。
その運動に共に参加する、イスラエル人のガイとパレスチナ人のイマードという2人の監督が共同製作した映画だ。
この映画は、アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭での観客賞・審査員特別賞のダブル受賞を皮切りに、サンダンス映画祭ワールドシネマ監督賞、フランス シネマ・デュ・レエル ルイ・マルコレル賞など、世界各地の映画祭で受賞を続けている。
さて、それを日本でも上映することになった。そしてNPOユニに、プロモーションのための両監督の渡航費の1部の援助要請があった。パレスチナ在住の日本人を介してである。
NPOユニでは、ガイ監督とも直接やり取りした結果、個人で寄付して下さる方も出て来てくれて、1000ドルほどの援助をすることになった。
そして、この機会に、縮小版(30分)の上映と監督たちのトークイベントをすることになった。場所は、東京タオサンガ道場のある、中野駅近くの公民館。
そして、、、、成り行きで、なんと僕が出だしのトークと通訳をすることになったのである。(汗、汗、汗)
<中央がガイ監督、左がアマード氏>
<皆さんのおかげで、満員御礼だった>
なんと言っても僕が一番苦手なのは、結婚式のスピーチ(ドキドキする)とか、LIVEステージでのMC(何話していいのかわからず、立ち往生)等々である。
注※ 東洋医学と仏教の講義は、何とか慣れたのだが、あれにしても最初は、悲壮感ただようほどの使命感があったから、奇跡的にできるようになったのである。
さて、出だしのトークは、「パレスチナ」と聞いてもピンとこない人のために、僕が自分の経験を話した。現地で何が起こっているかを理解してもらうためだ。
また、それを自分ひとりでやることに気後れした僕(タハハ、、、)は、パレスチナ・ナブルスの難民キャンプで会い、共にビリン村のデモに参加した川北さとしさんに来てもらい、彼にも話してもらった。
<東エルサレムで、さとしさんと>
<ヘブロンの学校でもチャリティワークショップをやったら、パレスチナ理学療法協会が感謝状をくれた>
<ナブルス難民キャンプ/田中さんと子どもたち>
僕が話したのは、湾岸戦争の時以来、9回イスラエルに行ったこと。パレスチ人居住区の東エルサレムは、テルアビブから、わずか車で40分で行ける距離なのに、そのイスラエルに占領支配され、土地や人権を剥奪されて苦しみあえいでいるパレスチナ人たちの苦しみを全く知らなかったこと。そんな自分が、とても恥ずかしくなったことなどだ。
いかに世界の人々がウソの報道を信じていて、現実を知らないか。その事実を、自分が身を持って知ったこと。そして、パレスチナ人と共に占領反対のデモに参加するに至るまでの、心の葛藤について、などである。
<デモでは催涙弾が飛んで来るので、マスク代わりのハンケチを被着するさとしさん>
イベントの場では、話せなかったこと
デモと聞けば、今は日本の脱原発デモが有名になり、僕もうれしい限りだ。60年代とは違い、警察とも協力し合って、極めて平和的。健康的で大変よろしい、と思う。
実を言うと、ビリン村のデモに参加しようとしていた僕は、思いやりあふれる(?)警告を3つ受けていた。
その1つ目。デモでは催涙弾が飛んで来るから危険。日本人が2人失明した。(実際には、催涙弾が岩に当たってその破片で眼をケガしたということ、と後で判明した)
もっとも、フィー(象さん)というあだ名で、みんなに慕われていた心優しいパレスチナ人が、イスラエル兵による高速催涙弾の直撃で殺されたのは事実である。(またその後、痛ましいことに、彼のお姉さんもデモで催涙弾を浴びて喘息による呼吸困難で死亡している)
<ガスマスクを持っているのは、多分イスラエル人活動家だろう。湾岸戦争の時に、政府が配ったらしいから>
2つ目。イスラエル兵はビリン村のデモ隊に化学兵器を放射しているから危険だ。(実際には、イスラエル軍の放水車が、妙なものが混ざっている黄色くて臭い水を放射していた)
実は、3つ目が大問題だった。それは、「パレスチナ人の少年などが、イスラエル兵に逮捕勾留されると、二度とイスラエルに逆らう気を起させないように、拘置所で拘束された上、独房に男性レイプ魔を送り込まれる」というものであった。
「・・・・。」
いやー、ここまで聞いたら、さすがにひるみましたねー。3つ目まで聞いた時は、正直、蒼くなりましたよー。
“うーん、しかし、ここでシッポを巻いて逃げるという訳にもいかんしなー。”と、ビリン村に行くには、覚悟が必要だった。“ここで安全パイに逃げるなんて、そんなカッコ悪いことできるかよ”と、決心をつけるまで、自分なりにいろいろ葛藤した上での、デモ参加だったのである。
スピーチでは、そんな恐ろしい話までは、肉声で言いたくなかった。それで、パレスチ人たちはとても親切だったという体験を主に話した。デモについては、催涙弾が怖くて葛藤したけど参加した、というところにとどめておいた。
さて、僕のビリン村行きのバス停までの道案内だけをしてくれる予定だったのが、今回、スピーチをお願いした川北さとしさんだった。
彼が“デモには行かない”というので、ひとり僕が準備をしていたら、突然「やっぱり僕も行きます」と言い出し、イタリア人ジャーナリストのサンドラと共に、デモに参加することになったのである。
<イタリア人ジャーナリスト、サンドラ。お互い、いつのまにか、デモ隊の最前列まで到達してしまった。>
その後彼は、夜のパレスチナ人村を守るというナイトパトロールの活動までするまでになったのだから、人間というのはわからないものである。
というところで、彼に話を引き継いでもらった。
<パレスチナの村には、深夜、戦車とイスラエル兵が少年を検挙にやって来る。少年を守るナイトパトロールの国際活動に参加したさとしさんが、その時の恐怖体験を語る。(彼は、東エレサレムでアラビア語を勉強していた)>
さて、その後の通訳だが、言ってみれば僕のは超訳。(良いか悪いかわからないが)なるべく瞬時に相手の言わんとしていることを理解し、その気持が伝わるように訳すよう努める。
正直言って、これには自分が話す何倍ものエネルギーが必要だった。質疑応答などで、相手の言いたい所がどこなのかわかりにくい時などは、特にであった。(汗、汗、汗、ふう〜大変、ひぇ〜)
僕は、“イスラエル人でありながら国籍や利害を超えて、パレスチナ人の苦しみに人間として共感し、活動する心ある人。そんな人と、いつか出会いつながりたい” そう、ずーっと思い続けて来た。だから、イスラエル人監督ガイ氏との出会いは、実りあるものだった。
彼は、仏教にも興味を持っていて、京都のタオサンガセンターの音楽念仏の修行にも参加する予定だった。
それで、京都に来て修行に参加したり、古都の寺巡りなど案内して上げられるようにアレンジした。
彼も京都訪問を楽しみにしていたようだが、直前に東京でのテレビインタビューが入って、来れなくなってしまった。
ガイから来た「残念至極です〜、、、」のメールに僕は、「じゃあまた、京都か世界のどこかで会おう」と返信した。まあ、なにごともご縁ですからね。
皆さんに感謝、そして一人一人の課題とは?
フェイスブックを通じて、援助を申し出て下さった寄付者の方々や、イベントの開催から会場での設営、その他、裏方として動いて下さった方々に、心から感謝したい。
さて、イベントの最後に、ガイ監督が、「パレスチナ問題をどうするかは人類とっての課題である」と言ったが、これは意味深いことばである。
というのは、僕がパレスチナのことに多少なりとも関わり、またこの問題についての人の反応を見て思うことがあるからだ。それは、パレスチナ問題は、「他人の苦しみとどう向き合うのか?」という、私たち一人一人にとっての課題だということである。
<NPOユニで作った、パレスチナ平和的抵抗運動のTシャツ。ヨルダン経由で送られてきた。出資してくれた大久保守晃さんは、僕のかつてのインドの旅仲間である。中央の絵はガンジー>
「最大の悪は、他人の苦しみに対する無関心である」という言葉がある。これを具体的な意味で言い換えれば、パレスチ人の苦しみを他人ごととすることは、チベット人の苦しみ、福島の人の苦しみ、そして米軍基地のある沖縄の苦しみも含めて、すべて人の苦しみを、他人ごとで済ませてしまうことに通じるのではないか? ということである。
※NPOユニのホームページには、より詳しい現地体験記を掲載してある。また、それとは別に浄土宗平和協会の会報に寄稿した記事もアップされている。興味ある方はご参考にされて下さい。http://npouni.net
※また、映画の予告篇は下記アドレスで見ることができる。必見!