人生を芸術にすることがタオサンガの目的である。

なぜなら、念仏と如来の大愛を分かち合うために生きることで、心も生き方も生活も、クリエイティブでエキサイティングなものになるからだ。

いや念仏云々の前に、むしろこう言おう。もし人生が、クリエイティブでもエキサイティングでもなかったら?

私たちは、色あせた日常の中に埋没し、年々老いて朽ちていくだけだろう。そもそも人間存在などそんなものだ。

もし念仏がなかったら? 僕に言わせれば、人は永遠の世界につながるすべもなく、ただ生き、老い、そして死んでいくだけだ。

多くの人は、人生なんてそんなもんだと思っている。永遠の幸福と喜びの世界があるなんて、予感していないから、、、。

もっともそんな人でも、内心、無意識は不安にかられていている。本当はその心の砂漠に耐えられない。

そこで、テレビや映画を見たり、小説を読んだり、買い物をしたりする。あるいは、来年の旅行の計画を立てたり、友人たちと飲んだりする。そうして日常を忘れることに努める。

あるいは、親戚や仕事のことをあれこれ考えたり、日々の雑多な問題について悩んだり、日常の多忙に逃げたりして、生老病死の現実を見ないようにする。

人生なんてそんなものだ、それ以外に何があるんだ、社会で生きることは大変なんだ、そう思って一生を終えるのも、また人生。有限の時間をどう使って、どう人生を終えるかは自由だし、人それぞれだ。

しかし一方ではそうでない人もいる。どうしても、世の中に合わせて生きているだけでは耐えられない、ただ日常に埋没したまま終わるような人生では耐えられない、そう感じて焦燥感にかられている人だっている。

せっかく生きているんだから、有限な人生を芸術にしたい。クリエイティブでエキサイティングなものにしたい。そう切望する人もいるのだ。

そして恐らく、タオサンガでの念仏修行に向いているのは、そのような人だろう。その他、世間では、当たり前のように行われている、無責任な大人のウソになじめない人、また思いやりあるが故に、人生で傷ついて来た人も、またそうだろう。

ならば、こうして出会ったのも何かの縁だ、と思いたい。共に人生を芸術にしようじゃないか。心も、生き方も、生活もアートにしようじゃないか。

シャガールのように美麗に、モーツアルトのように美しく。そして、いつでも全てを捨てる覚悟で、あるいは捨てて生きた、一遍上人のようにかっこ良く。

<一遍上人像>

※朝昼晩と大変密度の濃いーときを、一ヶ月近く過ごしていました。その間、まったくブログが書けませんでした。何をやっていたかは、次回のブログで。(あまり期待されても困るけど)

 

 

 

 

 

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駅の階段で、パソコン抱えて座り込み

おれ一体、何やっているんだろう〜? とつい思ってしまった。札幌から来たリミさんたちと軽く一杯飲みながら、ミーティングを兼ねた夕食をしていたが、9pm前になった。

ああ、もう時間かー。9pmには、来年タイで開催する、タオサンガ世界大会のことでミーティングが始まる。ミーティングと言っても、無料のパソコン電話。

海外数カ所をパソコン電話(スカイプ)でつないでの話し合いである。今や、この国際ミーティングだけでも、週に3回ぐらいやっているので、なかなか大変だ。

時差があるので、こちらは9pmでも、アメリカは朝で、ヨーロッパは午後。こちらは夕食どきなんですけど〜。と文句を言うわけにもいかない。このために朝早く起きる、アメリカのデボラやカナダの茂木さんもいるからなあ。

とにかく、急いで夕食を切り上げ、一人自転車で移動。あわててマクドナルドの2階に行ってパソコンをつなぐ。ミーティングは、いつものように「グッドモーニング!」で始まった。

しかしマクドナルドの2階は、思った以上に周囲の声が大きい。その上、遠慮して話すこちらの声は、向こうには聞き取りにくいみたいだ。

ああ、もう!。と、仕方がないから雨がパラつく中、ネット接続したままパソコンを小脇に抱え、駅の半地下に降りる。そして途中の階段に座り込み、僕は、パソコンに向かってどなるような大きな声で、話すこと約1時間、、、。

それで終わったあと、ふぅー、と一人ため息をついて、ふと思うのですよ。気がついたら長い間、自分はホームレスみたいに駅の階段で座り込んでいる。周囲には誰もいない。外は雨も降っている。自転車で帰らなければならない。夕食も切り上げたりして、ああ、いったいオレ何やっているんだろう? って。

LIVE at  Blue Eye

僕らのバンドは LAMANI というのだが、別名“反省バンド”ともいう。何せライブの後に、打ち上げというものをやったことがない。いつもライブ演奏に関する反省会ばかりしているのである。

自分としては、“CDアルバムでは徹底して仕上げている、タイミングやリズム、音量バランスなどをLIVEで再現するには、まだまだやり込んでいかなくてはならない。”と、こんな風に反省の日々なのである。

まあそんなんではあるが、ライブ映像を編集してYou-Tube にアップした。(いずれこの映像は、アップからはずす可能性が大いにある。よって、もし見て下さるならば、今の内です)

http://www.youtube.com/watch?v=yzqa_eShZek

滝行が満行に近づいた

今回は12日間と決めた滝行だった。飛び飛びだったが、満行に近づいた。(もしかしたら、伸ばすかも知れないが) 別時念仏の時、昼に皆さんを滝に案内した。僕はもっぱら車での送迎係で、皆さんに滝行をして頂いた。

自分は後で、ひとり夜の滝行に挑戦。イノシシが出るのでちょっと怖かったけど。

 

<10人以上を滝に送り迎えした>

 <夜の滝は、雰囲気あり過ぎ。ろうそくだけが唯一の明かり>

ゲームChari-TX

東京でも京都でもChari-TXのゲーム大会がバカバカしく盛り上がっているし、FaceBookグループもできた。http://www.facebook.com/groups/275765405857099/

正式名もChari-TX (チャリティックス)に決定。

<ゲーム大会は、楽しそうなのが良いですね〜>

<京都は、“焼き肉いちなん”の屋上でバーベキューしながらの対戦>

ところで一昨日、ボードゲーム製品化のために、印刷の大平さんに紙加工の人を紹介してもらったら、これがビッグヒット! 一人で紙の加工業をやっている職人さんが、爆弾級に面白い人だったからだ。

なにせ、アイドル 歌手のDVD映像見ながら、昼間から酒に酔いつつ、仕事しているのである。こんな人いたんかー。

看板に自分の頭の絵みたいなのや、「ぼちぼちやっております」とか書いてあって、うぅ、僕この人、すっかり気に入ったぜぃ!

 

<左がその職人さんで、右が大平さん。大平さんについては、またあらためて>

爆弾級に面白い、と言えばこれ

以前、書籍として上梓した「気心道」の無料の電子書籍版を出すために、センターで写真撮影。本になった段階では、マジメな部分しか残っていないだろう。

しかし実は、メーキングの段階は、ほぼお笑いの世界。DVD撮影の時もそうだけど、僕がくだらないことばっかり言って、皆さんの邪魔をしながら撮影しているからである。

皆さんが、撮影に励まれている間、僕は、せっせとたぬきのお面を作っていた。そうして、最後に記念撮影として撮った写真が、これ。(一番下の写真)

 

<たぬきのお面を、ナムさんにかぶせて記念撮影>

ふはははは。こういう時は、おれ一体、何やってんだろう、とか思わないから不思議である。

 

 

 

 

 

 

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「むかしある所に、一人の孤独な少年がおりました。なぜか彼は、将棋などの、戦争を模したゲームが好きでした。そして、ずっと長い間、自分が一人で考えて来たゲームを、心の中で温めておりました。どれくらい長い間かというと、、、(何と驚くなかれ)その最初の発想が、幼稚園児の頃というほど。

彼が20才を過ぎた頃、かねてより考えて来たボードゲームを、手製で作りました。(ようするにお絵描きね)やがて、彼と同じアパートに住む人たちが、毎晩のようにこのゲームで遊ぶまでになっていました。

そのアパートとは、今や伝説と化している清和荘。ここには、アングラ演劇の役者たちやミュージシャン(彼もその一人)、また世の中からドロップアウトして自由に暮らす多くの若者たちが多く住んでいました。

<清和荘の住人たちの一部。「金はないけど、心は自由」。旧中野スパイ学校の元校舎というウワサだった、ボロアパート>

清和荘は、三畳一間しかないのに、どこかの部屋で毎晩のように宴会が行われていました。自由に暮らす若者たちは、時間だけは贅沢にありました。そして、みんなこのゲームをするか観戦して遊んでいたのです。

やがてこのアパートには、インドなどを旅する西洋人ヒッピーたちの間でも有名になりました。そして、彼ら西洋人たちも交えて、このゲームは日々改良され、ルールが整備されていったのです。

<後に西洋人たちも住むようになった。左下のビッキーは、このゲーム大好き。最近、パキスタンに住む彼女とフェイスブックでつながった>

その後もルールの研究は続きました。ゲーム内容は深化し、ついにはベーシック、アドバンス、ファイナルと三種が完成するまでになりました。それは、手製のボードゲームを作った時から、10年後のことでした。

ゲームは一時、自ら製品化して、東京のおもちゃ屋などでも販売したり、2、3のゲーム雑誌でも紹介されていたこともありました。また、任天堂の先代社長に、「テレビゲームが流行る前だったら、一世を風靡しただろう」(個人的にちょっと知っていたので)と言わしめたほどでした。しかし、再び自分の心の片隅にしまわれるようになり、いつしか日の目を見る時を待っていました。

<ゲーム雑誌で紹介されたり、都内のおもちゃ屋、数店で販売していたこともあった>

現在このゲームは、Chara-TX(チャラティックス)と名付けられ、オンラインで遊べるように、プログラムが進められています。」                          一応、物語はここまで。

こんな歴史の果てに、このところ急増しているのが、Chara-TXプレイヤー(チャトランガーと呼ぶ)である。そして東京でも、第一回のミニ大会があった。(昨日、第二回があった)

<楽しそうなのがいいなー>

<この最後の一振りで勝つかも!>

<右が、元清和荘の住人の一人。今やププスの名で有名な、ヨーシンさん。左は、25年前にカトマンズの安宿で友だちになったクライブ。彼は一時、香港の伝説的な安宿、チョンキンマンチョンに住んでおり(現在は東京在住)、夜な夜ないろんな人にこのゲームを教えて、やりまくっていたという。>

多くの人が、僕が考案したゲームで遊んでくれるなんて、長年、自分の心にしまって来たことが実現しているようで、まるで夢のようである。

 パレスチナ映画イベントの夜、東京センターで音楽念仏の修行会や法話後には、夜遅くまでホームページのミーティングがあった。

そして遅い夕食をサンガの皆さんと居酒屋で取ったが、チャラテックス・ゲーム話で盛り上がったのは、僕には垂涎ものの喜びであった。

「ああ、人よ。笑わば、笑え」

<ミニ大会で最高勝率賞を取ったゆうすけ(左)と、「かませ犬賞」と呼ばれる最高負け率賞を取っただいすけさん(右)。堂々としているだいすけさんが、とっても大人(たいじん)に見えた。

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「壊された5つのカメラ」という映画がある。パレスチナの非暴力抵抗運動を捉えたドキュメンタリー作品。僕がデモに参加した、ビリン村がその舞台だ。

その運動に共に参加する、イスラエル人のガイとパレスチナ人のイマードという2人の監督が共同製作した映画だ。

この映画は、アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭での観客賞・審査員特別賞のダブル受賞を皮切りに、サンダンス映画祭ワールドシネマ監督賞、フランス シネマ・デュ・レエル ルイ・マルコレル賞など、世界各地の映画祭で受賞を続けている。

 さて、それを日本でも上映することになった。そしてNPOユニに、プロモーションのための両監督の渡航費の1部の援助要請があった。パレスチナ在住の日本人を介してである。

NPOユニでは、ガイ監督とも直接やり取りした結果、個人で寄付して下さる方も出て来てくれて、1000ドルほどの援助をすることになった。

そして、この機会に、縮小版(30分)の上映と監督たちのトークイベントをすることになった。場所は、東京タオサンガ道場のある、中野駅近くの公民館。

 そして、、、、成り行きで、なんと僕が出だしのトークと通訳をすることになったのである。(汗、汗、汗)

<中央がガイ監督、左がアマード氏>

<皆さんのおかげで、満員御礼だった>

 なんと言っても僕が一番苦手なのは、結婚式のスピーチ(ドキドキする)とか、LIVEステージでのMC(何話していいのかわからず、立ち往生)等々である。

注※ 東洋医学と仏教の講義は、何とか慣れたのだが、あれにしても最初は、悲壮感ただようほどの使命感があったから、奇跡的にできるようになったのである。

さて、出だしのトークは、「パレスチナ」と聞いてもピンとこない人のために、僕が自分の経験を話した。現地で何が起こっているかを理解してもらうためだ。

また、それを自分ひとりでやることに気後れした僕(タハハ、、、)は、パレスチナ・ナブルスの難民キャンプで会い、共にビリン村のデモに参加した川北さとしさんに来てもらい、彼にも話してもらった。

 

<東エルサレムで、さとしさんと>

<ヘブロンの学校でもチャリティワークショップをやったら、パレスチナ理学療法協会が感謝状をくれた>

<ナブルス難民キャンプ/田中さんと子どもたち>

僕が話したのは、湾岸戦争の時以来、9回イスラエルに行ったこと。パレスチ人居住区の東エルサレムは、テルアビブから、わずか車で40分で行ける距離なのに、そのイスラエルに占領支配され、土地や人権を剥奪されて苦しみあえいでいるパレスチナ人たちの苦しみを全く知らなかったこと。そんな自分が、とても恥ずかしくなったことなどだ。

いかに世界の人々がウソの報道を信じていて、現実を知らないか。その事実を、自分が身を持って知ったこと。そして、パレスチナ人と共に占領反対のデモに参加するに至るまでの、心の葛藤について、などである。

<デモでは催涙弾が飛んで来るので、マスク代わりのハンケチを被着するさとしさん>

イベントの場では、話せなかったこと

デモと聞けば、今は日本の脱原発デモが有名になり、僕もうれしい限りだ。60年代とは違い、警察とも協力し合って、極めて平和的。健康的で大変よろしい、と思う。

実を言うと、ビリン村のデモに参加しようとしていた僕は、思いやりあふれる(?)警告を3つ受けていた。

その1つ目。デモでは催涙弾が飛んで来るから危険。日本人が2人失明した。(実際には、催涙弾が岩に当たってその破片で眼をケガしたということ、と後で判明した)

もっとも、フィー(象さん)というあだ名で、みんなに慕われていた心優しいパレスチナ人が、イスラエル兵による高速催涙弾の直撃で殺されたのは事実である。(またその後、痛ましいことに、彼のお姉さんもデモで催涙弾を浴びて喘息による呼吸困難で死亡している)

<ガスマスクを持っているのは、多分イスラエル人活動家だろう。湾岸戦争の時に、政府が配ったらしいから>

2つ目。イスラエル兵はビリン村のデモ隊に化学兵器を放射しているから危険だ。(実際には、イスラエル軍の放水車が、妙なものが混ざっている黄色くて臭い水を放射していた)

実は、3つ目が大問題だった。それは、「パレスチナ人の少年などが、イスラエル兵に逮捕勾留されると、二度とイスラエルに逆らう気を起させないように、拘置所で拘束された上、独房に男性レイプ魔を送り込まれる」というものであった。

「・・・・。」

いやー、ここまで聞いたら、さすがにひるみましたねー。3つ目まで聞いた時は、正直、蒼くなりましたよー。

“うーん、しかし、ここでシッポを巻いて逃げるという訳にもいかんしなー。”と、ビリン村に行くには、覚悟が必要だった。“ここで安全パイに逃げるなんて、そんなカッコ悪いことできるかよ”と、決心をつけるまで、自分なりにいろいろ葛藤した上での、デモ参加だったのである。

スピーチでは、そんな恐ろしい話までは、肉声で言いたくなかった。それで、パレスチ人たちはとても親切だったという体験を主に話した。デモについては、催涙弾が怖くて葛藤したけど参加した、というところにとどめておいた。

さて、僕のビリン村行きのバス停までの道案内だけをしてくれる予定だったのが、今回、スピーチをお願いした川北さとしさんだった。

 彼が“デモには行かない”というので、ひとり僕が準備をしていたら、突然「やっぱり僕も行きます」と言い出し、イタリア人ジャーナリストのサンドラと共に、デモに参加することになったのである。

<イタリア人ジャーナリスト、サンドラ。お互い、いつのまにか、デモ隊の最前列まで到達してしまった。>

 その後彼は、夜のパレスチナ人村を守るというナイトパトロールの活動までするまでになったのだから、人間というのはわからないものである。

 というところで、彼に話を引き継いでもらった。

<パレスチナの村には、深夜、戦車とイスラエル兵が少年を検挙にやって来る。少年を守るナイトパトロールの国際活動に参加したさとしさんが、その時の恐怖体験を語る。(彼は、東エレサレムでアラビア語を勉強していた)>

 さて、その後の通訳だが、言ってみれば僕のは超訳。(良いか悪いかわからないが)なるべく瞬時に相手の言わんとしていることを理解し、その気持が伝わるように訳すよう努める。

 正直言って、これには自分が話す何倍ものエネルギーが必要だった。質疑応答などで、相手の言いたい所がどこなのかわかりにくい時などは、特にであった。(汗、汗、汗、ふう〜大変、ひぇ〜)

 僕は、“イスラエル人でありながら国籍や利害を超えて、パレスチナ人の苦しみに人間として共感し、活動する心ある人。そんな人と、いつか出会いつながりたい” そう、ずーっと思い続けて来た。だから、イスラエル人監督ガイ氏との出会いは、実りあるものだった。

彼は、仏教にも興味を持っていて、京都のタオサンガセンターの音楽念仏の修行にも参加する予定だった。

それで、京都に来て修行に参加したり、古都の寺巡りなど案内して上げられるようにアレンジした。

彼も京都訪問を楽しみにしていたようだが、直前に東京でのテレビインタビューが入って、来れなくなってしまった。

ガイから来た「残念至極です〜、、、」のメールに僕は、「じゃあまた、京都か世界のどこかで会おう」と返信した。まあ、なにごともご縁ですからね。

皆さんに感謝、そして一人一人の課題とは?

フェイスブックを通じて、援助を申し出て下さった寄付者の方々や、イベントの開催から会場での設営、その他、裏方として動いて下さった方々に、心から感謝したい。

さて、イベントの最後に、ガイ監督が、「パレスチナ問題をどうするかは人類とっての課題である」と言ったが、これは意味深いことばである。

というのは、僕がパレスチナのことに多少なりとも関わり、またこの問題についての人の反応を見て思うことがあるからだ。それは、パレスチナ問題は、「他人の苦しみとどう向き合うのか?」という、私たち一人一人にとっての課題だということである。

<NPOユニで作った、パレスチナ平和的抵抗運動のTシャツ。ヨルダン経由で送られてきた。出資してくれた大久保守晃さんは、僕のかつてのインドの旅仲間である。中央の絵はガンジー>

「最大の悪は、他人の苦しみに対する無関心である」という言葉がある。これを具体的な意味で言い換えれば、パレスチ人の苦しみを他人ごととすることは、チベット人の苦しみ、福島の人の苦しみ、そして米軍基地のある沖縄の苦しみも含めて、すべて人の苦しみを、他人ごとで済ませてしまうことに通じるのではないか? ということである。

※NPOユニのホームページには、より詳しい現地体験記を掲載してある。また、それとは別に浄土宗平和協会の会報に寄稿した記事もアップされている。興味ある方はご参考にされて下さい。http://npouni.net

※また、映画の予告篇は下記アドレスで見ることができる。必見!

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3年半ぶりだと思うが、滝行念仏に行った。場所は、南禅寺の奥の院の山を上がったところ。ちょっと願を立てたので、今回は12日間行くことにした。

ところで、苦しい時の神頼みではないが、そんなことで願いごとが適うのだろうか?と思われるかも知れない。実は、僕も最初はそう思っていた。だが、これが思いのほか、霊顕あらたかなのである。

<夕方以降の滝の行場は、雰囲気があり過ぎてけっこう怖い>

体験はいくつかあるが、ひとつだけ例を上げることにしよう。かつて同じ合気道の道場で一緒に稽古していた友人がいた。彼女(ドイツ人)は、とある日本のお寺にお嫁に行ったのだが、子どもがなかなか生まれず悩んでいた。

実は、普通一般の寺は、天皇家と同じで後継ぎ問題がとても重要。(カワイソー)したがって、これがなかなか大変なのである。

 その頃の僕は、よく滝の行場に通っていた。そこで悩める友人のために人肌脱ごうと、誕生日に100本のロウソクが入った箱をプレゼントした。それは、滝場では、願いごとをロウソクに書いて灯すのが作法だからである。(僕の知っている範囲では)

そして「ロウソクに願い事を書いて持っておいでよ。代わりに100回滝に通って祈って来て上げるから。僕にはロウソクに何て書いてあるかはわからないように、キリのようなもので掘ればいいよ」と言った。

人に願いごとを読まれるのはイヤだろうな、となんとなく思ったからだが、よく考えてみたら、ドイツ語で書いてりゃ、病院のカルテと同じで、僕にはどうせわからなったな。

 とにかく100本のロウソクを持って、毎日滝行念仏に行った。そうしたら、何と40何本かで懐妊。僕は、拍子抜けするほどあっけないような気がした。しかし医者には、「奇跡的だ」と言われたらしい。

<一度、ほら貝を吹く人山伏さんがやって来た>

僕はその後も、無事に生まれることを願って、100本まで通い続けた。といえば聞こえはいいが、あっけなさ過ぎて、途中で止めるのも何だかシャクなような気がしたからだ(←何考えとんじゃ、おまえは!)。

さて、ご加護のお陰か、無事男児を出産した。彼女が後で述懐したところによると、妊娠を告げられてから生まれるまで、ずーっと護られている感じがしていたそうである。

 ところで僕は、元々とても寒がりだった。どのくらい寒がりだったか白状しよう。僧侶養成の最後に、加行(けぎょう)という真冬に3週間行われる修行がある。知恩院でのそれは、むちゃくちゃ寒いと聞いてビビった僕は、代わりに東京の増上寺で受けたほどなのである。(うー、なさけなか、、、)

それが何とまあ、滝行念仏に行くようになってから変わった。真冬に雪が降っている中でも、滝に打たれたりするのだから、変わらざるを得なかったとも言えるけど。

雪が降っている滝の行場で、口笛吹きながら服を脱いだりするようにもなった。そんな中、前回の3年半前。1月5日から54日間ほど通った。

 寒がりだった僕のこの変化。そのカラクリを言ってしまうと、ようするにイメージなのである。「雪の中=冷たい=やばい大変だ」というイメージがあるのを、「気合いかければ大丈夫」というイメージに換える(換えざるを得ない)。

 そうなると、まあ平気になる。ただ真冬だと、背中なんかは“冷たい”というよりは“痛い”みたいな感じの時も、ちょっとはあるけど、、、。

 面白いのは、雪なんか降っているときよりは、むしろ3月とかの外が春っぽいとき。えーっ? という風に、逆にキツく感じるのである。きっと、イメージでは春なので、身体は冷たくない水をイメージする。しかし実際には、水は冬と同じように冷たい。そのイメージと実際とのギャップで心身にフェイントがかかり、キツく感じるのだろうと思う。

<今日は、随分と水量が少ないなあ、、、>

滝行念仏では、一瞬にして気合いを入れざるを得ない状況になる。トランス的な精神状態に入ることを余儀なくされる。いやでも集中せざるを得ない。その時の集中力が神仏を呼び寄せ、それが祈願の成就に結びついているのかも知れない。

滝行念仏の際に聖水を造ると、エラく気のパワーが入った癒し水ができる。今度作って、欲しい人に差し上げようかな。

 

 

 

 

 

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 “なんか変だな”と最初に思ったのは、ライブが終わったあと、倉庫代わりにしているアパートに音響機材を運んでいるときだった。

汗にまみれ、あまりの重さにへとへとになりながら、機材一式を2階に運んだ。その時、皮膚に妙なものが付いたような、妙にイヤな感覚をおぼえた。

 その後、焼き肉屋「いちなん」の屋上で、バーベキュー・パーティ兼、ゲーム大会があった。そこでまあ、ホストとして、みなさんが楽しく遊べるように動き回っていて、その時は、何も感じなかった。

 寝る前や翌朝から、突然、身体の一部が痒くなり始めた。「?」と思ったが、それでも東京の念仏会のために、新幹線に乗って出かけた。

午後になり、かゆみは増す一方だった。そして、夕方からは全身的に痒くなり始めた。

 果たして、夜にはどうなったか? あまりのかゆみに、マジでうなるほどになっていた。そしてつらく苦しく、とうとう朝まで一睡もできなかった。ついに僕は、そこで白旗を掲げた。京都に帰ったのである。

 治療師のはしくれとしては、実にお恥ずかしい限りだが、この突然の蕁麻疹の発症で、僕は3日間完全にダウンした。途中、あまりのかゆみにのたうち回り、うめき、そしてちょっと本気で泣いた。

<いやー、つらかったス>

ムヒなど全く効かないほどの激しいかゆみ。念仏修行中みたいに身体感覚を消失させると、苦しみは茫漠として来る。だけど僕は、むしろ症状を感じて引き受ける方を選んだ。

 なぜか、まゆさんに温泉化粧水でぴちゃぴちゃ身体を叩いてもらうと、1、2時間は耐えられるぐらいに収まった。そこで症状が激しくなるたびに、うぅーと、うなりながら階下に降りて、そして、うぅー!とうめきながら、日に何度も温泉水でぴちゃぴちゃ叩いてもらった。

これには本当に助けられた。そしてアトピーに苦しむ人の気持が、少しだけわかる気がした。

 食べ物が原因ではない。僕は高校の時にもなったことがあるのでわかる。最初は、一度目の私立高校の時。学校に行くストレスが原因だった。次は、二度目に入った都立高校の時で、これはクスリの過剰摂取によるものであった(タハハ。このときは、眼が開けられないほどひどくなった)

今回の原因もまた、はっきりしている。心身の過度の酷使である。実は、4日後にやっと症状が引いてからも、ついまた長時間に亘っての原稿書きなどで無理をした。そうしたら、またぶり返しそうになり、慌てて自分に誓った。これからは1日3時間以上の原稿書きなどの作業は止めにしよう、と。

 まるで、孫悟空がイタズラをした途端、頭の輪が締め付けられるようなものである。ああ、くわばら、くわばら。

 

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京都タオサンガセンターの近くでのライブがあった。
その後は、最近お友だちになった、われらが孫さんの焼き肉屋
「いちなん」の屋上で、バーベキューパーティを兼ねたゲーム大会。
ゲームは僕が10年がかりで体系化したChara-TX(チャラティックス)
という戦略ゲームである。(サイトは http://www.strat-x.net

今、オンラインゲームで遊べるようにプロジェクトが進んでいるのだが、http://holtschool.com/headshrinker/DragableObject5_0.swf
それと呼応するかのように、ゲームにはまる愛好者が増えてきた。
へへへ、僕としては心の友が一気に増えたようで、実にうれしい限り
なのである。

<マイケル・ジャクソンやYMOの作詞をしてきた作詞家のクリス。
ふふふ、実はこのときの僕は、手加減せずに彼を叩きのめして
しまった。ごめんねー。
彼は今は娘の出産でアメリカにいるが、早く京都に帰りたいとのこと。
“打倒RYOKYUに燃えている”とは、アメリカから届いた彼のメッセージ>

 

さて、ゲーム大会/パーティでの僕は、ホストとして、みなさんが
楽しく遊べるように動き回って過ごしていた。
あっ、誤解のないように述べておくと、ここで言う“ホスト”は、
いわゆる女性相手の男性接客業ではなく、英語のHOSTの意味である。


 <“えいや!” 今回の「いちなん杯」の優勝者、しんじ君。
大会に備えて毎日特訓してきたという。>
                            

<勝って喜ぶ、Chara-TX棋士あぼじさん。
子ども相手に「世の中甘くねえんだぞ」とか説教しながらゲームする
のが彼の棋風だが、田舎のおっさん風で実に面白い>
 

<東京から駆けつけた、Chara-TX名誉会長のたかちゃん
(正面に向かって右から2番目)。
その左隣が、しんじ君のお父さんでソウル出身の李さん、
あだなは王子さま(説明はまた次回に)>
                               

<勝利の笑顔。西山大学の島袋さん。Chara-TX同好会ができそう>

<島袋さんのアイリッシュ・フィドル風の演奏で、
これまたアイリッシュ風のダンスを激しく踊るしんじくん。
優勝者として店主の孫さんから賞状を授与されたときの
彼の一言「この夏、一番の思い出にする」>
                               

<ゲームやったのは20人ぐらいで、やらない人もたくさんいたけど、
みんな楽しそうだった>
                                

※次回のいちなん杯も、京都市左京区一乗寺、「焼き肉屋いちなん」
屋上にて、9月16日に開催します
。参加ご希望の方は、stratix@hotmail.com  までご一報を。
いちなん杯のポスターのコピーは「オニクの為にタタカイます」。
(優勝者は焼き肉代が無料になるので)                             

 

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 パタヤで世界大会の会場探し、ホテルとの交渉、周辺の視察、大会準備の企画書作りと、濃密な時間を過ごした僕とオリバーには、まだ仕事が残っていた。それは、バンコク・ナイトの会場探しである。(というわけで、バンコクに向けて出発!)

<チャオプラヤー河/見えているのは、三島由紀夫が絶賛した暁の寺院>

  さてバンコク・ナイトとは何か? 来年7月19日、タオサンガ大会に参加するため、世界各地から人々がタイに集まってくる。ということは、各国からバラバラの時間に到着するということだ。

 このため別枠の大会前夜祭として、タイの首都バンコクに集まり、わいわいとガーデンパーティの夕食をやる。それがバンコク・ナイトである。                     翌日は、チャーターしたバスで一緒に会場に向かう。もっともパタヤは空港から車で1時間半ぐらいで行ける距離。だから日程の都合で、直接空港から会場に行く人もいる。

<船も生活の交通手段の1つ/船代45円ぐらい>

 また、大会が終わった日に、参加者をバスでバンコクでの夕食(後夜祭)に送り届けるという別枠のプロジェクトも考えた。実は前回もやったのだ。ただ2003年の時、僕は、バンコク観光のツアーガイドまでやってしまっていた。

そして、“来世では、ツアーガイドだけはやらないようにしよう”と固く決心していた。というのは、僕みたいに放浪人生で、集団行動なんてできない人間が、おこがましくもツアーガイドをやること自体が、ジョークみたいな矛盾した話だったのだ。

 そういえば、小学校のときの先生に、僕の成績表に「人の世話をやきすぎる」なんて書かれていた。うぅー、案外、当たっていあたかも〜。

<長年、泥で隠されていたのが、ある夜、雷に打たれ本体が顕われたら金だったという「黄金佛」>

 したがって今回は、断固として観光ツアーガイドにはならない。(と、固く決めたもんね)バスとディナー、それに案内役の人をセッテッィングするだけにとどめよう。「ただの通りすがりのものです」と言いながら、つい、世話を焼こうとするのが僕のワルいくせである。

 それに僕自身は、パタヤに引き続き滞在して、国際タオサンガのクリエーション・メンバーと数日間は国際会議をする予定。なので、あわやバンコクまで付いて行って、皆さんの世話を焼こうとする自分を押しとどめて、帰る人たちをバスで見送るということになる。

 さて、このバンコクナイトの前夜祭と後夜祭の会場探しだが、バンコクで2泊3日、汗にまみれて二人で必至に探した結果、それぞれの会場候補が決定した。(交渉はこれからだが)

前夜祭も後夜祭も、とても良い会場になると思う。バンコクの後夜祭はチャイナタウンの近くで、先の黄金佛へは、徒歩で行ける範囲である。

立ち寄ったポー寺院では、激しいスコールに遭遇。あわや、ずぶ濡れ寸前に軒下に飛び込んだ土産物屋で、東京道場のために絵を買った。

 今回バンコクでお世話になったのは、このお二人。ワラポーンさんとそのご主人。2007年にオーストリアで開かれた世界体育大会で、その運営を手伝っていたオリバーと知り合ったという。

<僕らがバンコクでお世話になった、ワラポーンさんとご主人>

夕食から宿泊まで様々なことをお世話して下さり、大感謝である。ワラポーンさんは会場候補のホテルにも電話してくれた。

またコンビニに寄ってもらったら、わざわざご主人が車から降りて付いて来てくれ、水まで買ってくれるという、お世話のして下さりようである。

 バンコク1日目の夕食後、ワラポーンさんに“ちょっと寄るところがあるので”と言われて連れて行かれたのが、一階にショッピングセンターが入っている高層ビルの屋上。

 バンコクの夜景が美しい屋上には、プールがあり、中国系の穏やかそうな老人と孫らしき青年が、ベンチで静かに夕涼みをしている。

 紹介されたら、ご主人のお父さんとのことであった。そしてその後、帰りの車の中でさりげなく言われたのが、「父は、あのビルのオーナーなんですよ」であった。

お二人ともタイ王国への忠誠心が厚く、王様をとても尊敬していた。アジアの中で、唯一日本とタイだけは植民地にならなかった。そしてタイの場合は、当時の王様の外交手腕に依るところが大きかった。

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 タオサンガ世界大会の会場探しのために、一応は、めぼしいホテルをすべて巡った。そして2003年の時の会場、シグマリゾートに来た。8年ぶりである。そして僕の直感は確信した。“やっぱり、ここだ、、、”、と。

 全体がリニューアルされ、ホテルのランクとしても星一つぐらいは上がっているだろう。とてもきれいになっていて、びっくりした。

<シグマリゾート>

すべての部屋から海が見えるし、設備も申し分ない。会場の広さも十分である。(唯一の欠点が、他の大型ホテルに比べるとプールが少し狭いことだが、20人以上の子どもたちが来ても、ゆったり遊ぶぐらいは十分あるだろう)

そして前回から顔見知りのカムアン氏とも再会。おおっ! といたく喜んでいる。                     それにしても、タイ人は、なにごとものんびりしている。実は、来る前にメールで多少やり取りしたのだが、一回返事が来ただけで(それも10日以上たってから)、その後のメールにはまだ返事が来ていなかった。

そのため、他も見ておこうか、といろいろ回ってしまった。まあ、オリバーがさんざんネットで検索して来たらしく、他の会場候補をいくつも上げているので、それを無視するわけにもいかなかったということもあったが。

ホテルはすっかり模様変えしたが、カムアンは全然変わっていなかった。“あなた全然変わっていないねー”と言ったら、“そっちこそ”と返されてしまった。

 どうやらカムアン氏の地位は、アシスタントマネージャーで、これまた前回から変わっていないようだ。今回の交渉は、主に、6年前にジェネラル・マネージャーに就任したという、ピッシット氏と行い、細かいことはカムアンと話し合った。                                        シグマリゾートに2泊し、何度か話を詰めていく。他の時間はオリバーと、交渉内容の確認、プログラム、大会ホームページのコンテンツなどをディスカッションしながらまとめていく。近くの観光スポットなんかも探索。家族連れのために、子どもの遊び場も調べた。

 

<ジェネラル・マネージャーのピシット氏。僕は、彼が気に入ってしまった。というのは、僕も服装がだらしないし、よく食べ物で服をよごすから>

 

<だらしなブラザース>

 

<下の写真は、“ミスター エンドー!” と、僕が来たんで、びっくりして声をかけて来た、レストランのシェフ。他のスタッフでも、こちらを覚えてくれている人たちがいた>

 

夜は、カムアン氏を食事に連れ出す。実は、彼とはサメット島に一緒に行ったりもしていたのだ。奥さんは、まだパタヤでコックをしていて、中学生だった息子さんは、大学を卒業してエンジニアとして就職したという。“ちょうど3日前に、タオサンガ大会の時の写真を見ていたんだよ”とカムアン氏。以前の大会の話などで盛り上がる。

2013年の大会の内容をオリバーと話し合っていて、すっごく楽しくなるようなアイデアがたくさん出てきた。タオ指圧門下の人はもちろん、誰が参加しても、学んだり楽しめるような内容になると思う。

 

<下記、観光スポットのチェック。寺もリニューアルされいていた>

<会場からも遠くない大仏さまは、大会中のパタヤツアーに組み込むつもり>

 

<丘の上にある寺院からの眺め>

 

<中国系の寺院なのか、観音さまも祀られている>

 

<このおばあちゃんの食堂は、とってもおいしいのでお勧め! 僕は、けっこう仲良しになってしまった>

 

<屋台のチキンなんかも、うまいんですよねー。これに、パパイヤサラダともち米を付けてもらうと最高!>

さて、タオサンガでは、今や伝説として語り継がれているタイ大会である。何せ参加した人は、いつまでも、このときの体験を話し続けているほどである。そして、今度はいつあるんですか? と心待ちにして聞く。

僕も、タオサンガ各地の代表たちと、毎年のように“来年はタイ大会をやろうね!”と言い合って来た。なにせ普通の人生では、まずできないような体験が待っているのが、タオサンガ世界大会なのだから、、、。

 <ナイト・レストランになる、シグマホテルのビーチ前の道。夜のディスカッションや共同作業を終え、潮風に吹かれながら飲むビールは、また格別な味だった>

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 8月6日の夜。オーストリアからオリバーが、今僕がいるタイ・パヤタに到着してから、「休めやすめ運動」は終結した。そりゃまあ、そうだ今日はHiroshima day だしな、、、。

エルサレムのバヌヌ氏からは、彼が毎年エルサレムで広島の日に行っている、核廃絶スピーチの映像が届いた。

<原爆ドーム>

 スピーチと言っても、路上デモなんだけど、、、。というのは、イスラエルで核兵器の開発に従事していた彼は、その驚愕の事実をBBCで世界に向けて発表した。その結果はどうなったか?

 18年間独房に幽閉され、虐待もされていたという。現在も移動の自由を奪われており、ほぼ軟禁状態である。

 どのように? イタリアで、モサド(イスラエル秘密警察)が放った、おとりの金髪美女に誘惑され睡眠薬を打たれた。(男はいつでもバカなのだ)そして、小舟でイスラエルに拉致されたのである。

 昨年、ドイツの団体が世界平和に献身した人ということで、彼を表彰しようとしたが、出席できなかった。スーチーさん並に有名になっても良さそうなのだがな。戦争を商売にしている人たちが、そうはさせない。ウランを商売にしている人が、原発を止めようとしないのと一緒である。

今、来年のタイ大会の準備でパタヤにいるのに、なぜまたこんな中東の話が出るのか? というのは、2、3年前にパレスチナの平和教育会議等でワークショップをしたり、エルサレムの路上でボランティア指圧したり、デモに参加して催涙弾を打たれたりとかをやってた。

 

<パレスチナの理学療法学校でのチャリティ・ワークショップ>

※写真の上段の右から2人目は、2003年に開催された第一回タオ指圧国際大会に参加したアクラム氏。彼は、スピーチで、「まったく新しい人間関係のあり方を体験しました」 と言っていた。

さて、このときのパレスチナ訪問で出来たつながりで、「五つのカメラ」という、僕がデモに参加した“ビリン村の民衆抵抗運動”の映画を撮影した監督2人(イスラエル人とパレスチナ人)の日本窓口から、NPOユニへ依頼があった。

<イスラエル兵が撃って来る催涙弾に備えてマスクをし、ビリン村デモの参加準備。実は内心、緊張しまくりである。右は、僕が、ビリン村行きのバス停への道案内を頼んだ、アラビア語勉強中のさとしさん。結局、僕と一緒にビリン村まで来て、デモに参加することになってしまった、、、>

「五つのカメラ」がNHKで放送されるのを機に、日本でキャンペーンや上映会をやるので、渡航費の1部を援助して欲しいということである。UNIインターナショナルで相談した結果、1000ドルの援助をすることになった。

 それで、9月1日の10AMから中野の公民館で、映像の部分上映とトークをすることになった。僕はその通訳を勤めることになっている。

 だが、日本語ですら自信があるわけではないので、実はもう一人(ボイスのあこさん)お願いしているところである。何とか来てくれますように!

(ところで、イベントに参加ご希望の方は、03-3385-7558 タオサンガ東京までご連絡下さい)

さて、休めやすめ運動に終わりを告げられた僕は、翌日からタクシーをチャーターし、翌来年の世界大会の会場を探して、ジョムチェン・ビーチを片っ端から回りはじめた。

<ここは、どうかな? うーん、、、会場も小さいし部屋がねぇ、、、。とか、相談しながら、次々とホテルを訪問。部屋を確認したり、マネージャーと話したりしていった>

<暑い中、荷台バスを乗り継いで延々歩き回るのに疲れ、とうとう屋台のおっさんの白タクをチャーターする。遠くのホテルもチェックできたから良いけど。>

 その結果、最終決定したホテル側との交渉やら、プログラム創りのディスカッションやらの毎日を送っている。

 

 

タオサンガ世界大会2013の会場探し はコメントを受け付けていません
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