その背中は、どんな同情も宇宙の彼方に追いやるだけの力を持っていた。10歳ぐらいだろうか?
場所は、生ゴミ捨て場らしきところ。(街中にゴミは捨てられているが、特にそこには残飯が捨ててあった)
家族のためだろう。彼は、明確な意志と責任感を持って、拾うべき食べ物を探していた。そのきびきびした動きにはまるで無駄がなく、まるでベテランの熟練工のようだった。
<写真:小さな店の小さな店主。本文とは関係ないけど>
そして僕はふいに思い出したのだった。インドを旅していた頃、胸が張り裂けるような想いで過ごしていたことを。いや正確に言うと、その時、自分が押し隠していた自分の心に気づいたのだった。
かつてインドでの僕は、洪水のような圧倒的多数の物乞いと、今日一日を食うや食わずやという人々の群を見て打ちのめされていたのだ。
無力感。そしていくら貧乏旅行者とはいえ、金満日本からやって来たという、持てる者としての罪悪感。さらにやっかいなことに、僕は乞食や路上生活者を見ては胸を痛める自分を、“なんて女々しい奴”という風に、自分自身を恥じてもいたのだ。
張り裂けそうな胸の痛みと、そんな自分を恥じる想いとの葛藤。そして、常に最下等の宿と食事で過ごそうとしていた。それが、まだ25歳だった僕のインドの最初の旅だったのだ。(今のインドは、きっと全然違う風景なんだろうけど
彼の背中が自分のイメージ残像がある間に、“そうか”とバングラデッシュにいる自分に気づいた。コックスバザールに着いた初日。身体はまだ宇宙に浮いているようだった。
というのは、途中寄ったバンコクで、僕は実に久しぶりに熱を出して寝込んでいた。今まで、風邪を引いて食べなくなる人がいるのを見ては、不思議に思っていた。
そしてその僕が、バンコクではまる2日間寝込み、その間ずっと絶食状態だった。バングラデッシュに着いてもまだ食事が取ってはいなかった。しかし、寝込んでいるわけにはいかない。
微熱のせいか、まるで夢遊病者のように現実感がわかない。宙に浮いたような状態のまま、宿泊しているラジョー氏の家から歩いて数分のラカイン仏教福祉会館に向かう。ラカイン仏教協会の面々と会議をすることになっているからだ。先の少年の背中を見たのは、その途中のことだった。
はじめて見るタオサンガセンター/ラカイン•ユニ事務所は、仏教福祉会館の中にあり、広くきれいだった。建設して1年半。仏教徒学生たちのためのネットカフェとしても機能している。
中には、タオサンガセンターらしく、ちゃんと阿弥陀如来がお祀りしてあり、ラジョー氏の心意気が伝わってくるようだった。
そして仏教福祉会館の会議室へ移動。すでに仏教協会の面々はそろっていた。ユニ側は、僕とまゆさんとラジョーさん。向こうは6人。そして僕は夢遊病状態のまま話し合うこと1時間半。英語が得意でない人もいるので、ラジョー氏に日本語通訳してもらいながらの話し合いである。
で話し合いの内容は、というと、、、実は細かくは覚えていない。何せ夢の中みたいな状態だったし。僕はひたすら“お互いの目的は同じです。バングラデッシュにおける、仏教徒ラカイン人の社会的向上のための教育の充実です”を繰り返していたような気がする。
話し合いの途中、教育センターを1つ増やしたいという要請を受けた。まずはその村を調査に行くことを約束する。それから、“UNIと仏教協会で委員会を創って、みんなで話し合いながらやって行きましょう”と提案され、これはすぐに受諾する。
その後、近所のラカイン結婚式前夜祭に行く。おつまみを食べながら酒をチビチビ。おお! 久しぶりに胃に何か入った。
ところで、イスラム教国のバングラデッシュで、酒の取り締まりが最近ますます厳しくなっているらしい。(酔って道でうろうろしていると逮捕されるそうだ)が、ラカイン地域では認められているとのこと。
そういえばパレスチナでも結婚前夜祭に行ったけど、何だか似たような雰囲気だったなあ。もっとも、あっちは紅茶と御菓子だけだったけど。ゆるい仏教徒で良かったぜぃ。
UNIの活動でコックスバザールを訪れるのは、今回で4回目。すでに顔なじみになった面々とあいさつしながら、初日の夜は暮れて行った。バックパッカーは、風邪ぐらいではめげないのだ。(2日目へと続く)
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