本当に長い1日だった。
眠りが断続的で、明け方に目が醒めてしまう、という日がなぜか続いていた。
実は、今日もまだ暗い内からブログ原稿をやっていた。読めば30秒で終わるブログでも、書く方はそういかない。
やがて日も上がり、僕はキーボードの入力をやめた。そして朝食を済ませると、ネットで飛行機の予約を入れ荷物をまとめた。
出発前にガイドブックで地図を見ると、そこには来たときとは別のバスターミナルが掲載されていた。
それはホテルの近くにあった。昨日モタサイ(バイクタクシー)でホテルに来る途中、チラッと目にしていた。
このバスターミナルからウドンラチャタニまで戻るバスが出ているに違いない。僕はなぜかそう思った。
そして英語の通じないフロントでチェックアウトを済ませると、身振り手振りで“ここ(近くのバスターミナル)まで歩いてどれくらいかを聞いた。10分ぐらい、という返事だった。
“なら歩くか”、と僕はギターを片手にリュックを背負い、荷物を転がして歩きはじめた。しかし一向に着く気配はなかった。
やがて道端に座っていたモタサイ(バイクタクシー)のおじさんが僕を見つけた。そして、バスターミナルなら乗って行け(パイ・バス・サタニーロトファイ、とかなんとか)としきりに勧めた。
仕方なく僕は値段交渉した。(田舎はあまりボラないけど、ついクセで)交渉が成立っすると、再びリュックを背負い、おじさんにギターを預けた。
そして荷物を片手に抱えながらモタサイ後部に乗った。再び、“ああ、これだけは自分を誉めてやりたい”状態(前々回のブログ参照)である。
“ずいぶん遠いなあ”と思ってると着いたのは、昨日と同じバスターミナルだった。しかし窓口で確認したら、ウドンラチャタニ行きのバスがあるという。
何ということはない。フロント嬢の言う10分は、モタサイに乗って10分という意味だったのである。
実は、ここからがストレスだった。英語の通じない窓口で、“ウドン行き”と言ったら、“ウボンタニか?”と聞かれて、つい“、そう”、と答えてしまった。
だが、何だか妙な気がした。それで慌てて調べたら、ウボンタニという所もあって、それは正反対の方向だった。
だから僕は、その後、ウドンラチャタニまで、と言い直したのだが、果たしてちゃんと通じたのか? どうも、心もとなかった。
15歳の頃からヒッチハイクで日本を旅していた僕だが、方向音痴のため行き先をよく間違えた。
野宿した翌朝、再びヒッチハイクして何時間もかけて着いた所が、その前にいたところだった、という信じられないようなドジを、何度も体験した。つまり朝なると、正反対の方向の車に乗っていたのである。
あのときの悪夢が、僕の脳裏をよぎった。
僕は、ターミナル事務所で英語のわかる人を探し、何度かチケットの行き先を確認したりして、うろうろしなければならなかった。
なぜ落ち着かなかったのかというと、チケットの値段が、来たときと比べてずい分と安くなっているからである。
果たして同じところに行くチケットなのか? 行き先もすべてタイ語で書いてあって読めない。それで僕は、疑心暗鬼にかられていたのである。
やがて小1時間ほどでバスが来た。確認作業に忙しくてトイレに行く間がなかった僕は、出発直前に運転手にことわりトイレに行った。そして、ほぼ最後の乗客として乗り込んだ。
来たときと同じように、当然、席は確保されているだろう、そう思っていたのが甘かった。何と僕も含めて、立ち乗りが10人ぐらいいたのである。
「1時間半の立ち乗りかあ、まあ修行だと思えばいいか。」こういう時は、日頃、礼拝行など肉体的な行をしている者は、得である。すぐに、頭を切り替えることができるからである。
シャワーが冷たければ、滝行している、と思えばいいし、バスの立ち乗りは、まあそういう修行でもしていると思えば、1時間半など軽いもんだ。
しかし問題はそれではない。来たときは、どこにも停まらずにひたすら走り続けたバスだった。しかし今度はそうではない。やたら街のあちこちで、人を降ろしたり乗せたりし始めた。
果たしてこれは、ホントにウドンラチャタニに行くのか? 僕は再び疑心暗鬼にかられた。
仮に正反対のウボンタニ行ったとしよう。まあ、考えようによっては、そこでまた適当な宿をとり、翌日から別のルートでバンコクまで戻っても良いのだ。僕は、そう頭を切り替えることにした。帰国便は、まだ1週間ぐらい先なんだから。
では、なぜ僕はここまで神経質になったか? それは昨夜、バンコク行きの飛行機をネットで予約し、それは払い戻し不可のチケットだったからである。
実はそれ、旅の資金を節約することに血道をあげ、少しでも旅を長引かせようという、セコいバックパッカー的な感覚なのである。
バックパッカー的感覚では、旅の資金5000円をパアにするなど、とんでもない話だった。それだけあれば、インドに2週間滞在できてしまう、と恐らく無意識が考えるのだろう。
ともあれ、やがて席があいて僕は座ることができた。そして1時間半ぐらいたってから、近くの人にタイ語の地図を見せて、ウドンラチャタニに行くかを再び確認した。
どうやら行くらしい。やがて、親切なおじさんが、バスターミナルはもうじきだ、と身振りで教えてくれ、とうとうバスは無事に到着した。
午後1時前だった。空港のカウンターが開くまでは、まだかなりの時間があった。僕は、インターネットが無料で使えるホテルをガイドブックで調べ、バスターミナルからタクシー(今度は車)に乗った。
タイの田舎では、1000円で泊れるホテルでも、レストランでネット無料という所がいくつかあった。僕の作戦は、そのホテルのレストランでお昼を食べ、あとはお茶でも飲みながらネットでもやろうか、というものだった。
ホテルでお昼を食べて、本でも読んでしばらくのんびりしたら、もう時間だった。僕は再び荷物を背負い、道に出てタクシーを探した。
しばらくしてタクシーがつかまった。ドライバーは、3年間、日立の工場で働いていた日本語を話す人だった。妹が日本人と結婚して横浜に住んでいるという、気のいいあんちゃんだった。
空港に着いたが、閑散としていてまだカウンターは開いていなかった。それで30分ほど、お茶を飲みながら本を読んで静かに過ごした。
やがて空港のカウンターに電気がついて明るくなり、タイ語の放送があった。どうやらカウンターが開いたらしい。
僕は荷物を持って、カウンターまで行った。僕の前には、すでに一人チェックインしている人がいた。
そしてチェックインを済ませた前の人が、振り返るなり、ああ! と叫んだ。何と、ランサンだった。またまた偶然、同じ飛行機に乗り合わせたのである。
何という偶然であろう! また会えてうれしいよ、というランサン。彼は、さっそく僕らが隣同士になるようカウンター嬢にアレンジしてもらった。そして僕らは、連れ立って喫茶コーナーに行き、お茶を飲んだ。
<チェックインカンターで、僕の前に並んでいた人が、なんとランサンだったとは!>
、、、その後、さんざん待ってから搭乗になり、飛行1時間でドンマン空港に着く。そして彼とは、“じゃあ21日に会おう”と言い合って別れた。
さて、これからどうしよう? 僕は思案した。
僕にはまだ、ロッブリーのHIVホスピスを訪問するというミッションが残っていた。
選択肢がいくつかあった。空港からバンコクまで列車に乗り、1時間かけて行き、翌日ロッブリーに出発する。しかし時刻表を見ると、列車が来るまで1時間近くまたなければならない。
でも、タクシーでバンコクまで行くのは楽だが、車が込みそうだ。
一方、バンコクとロッブリーは方向が正反対だ。明日バンコクからロッブリーに行くということは、再び空港を通過することである。せっかく空港まで来ているのになぁ、とも思う。
しかし、すでに夜7時前である。今日は、明け方のまだ暗い内から原稿を書き、ホテルから荷物を持って歩いたあげく、ついにはモタサイに乗ってバスターミナルまで行った。さらにストレスを抱ながらバスに乗り、その後、飛行機に乗ってやっとここまで来た。さすがに僕は疲れていた。
もちろん、このままロッブリーに向かうという選択肢もないではなかった。ロッブリーまでは3時間ぐらいだろう。途中のアユタヤで降りて、ホテルを探すという手もある。いずれにしても、列車に乗るのは、1時間ほど列車を待った上だった。
今日は、このまま休もう。そう思った僕は、思い切って、「今夜は奮発して空港のホテルに泊ろう」と思った。これでついに、バックパッカー卒業である。
しかし僕のバックパッカー的体質は、そう簡単には消えなかった。自分に対する認識は甘かったのだ。
せっかく空港のホテルでやっと休めると思ったのに、長い1日は、まだ終わらなかったのである。
<続く>