イスラエル軍の路上封鎖によって金曜礼拝に行けないパレスチナ人たちの痛みを背中に感じながら、僕たちはバスターミナルに向かった。
そして、ホコリにまみれたバスに飛び乗ったのだった。
最も荒れているという難民キャンプに視察に行くためだ。
物珍しげにこちらを見るパレスチナ人たちに囲まれてバスに乗っていると、僕は心の中からくつろぎを感じ始めた。
「どこへ行ってもお互い知った者同士」という、このアジア的雰囲気が、僕はたまらなく好きなのだ。
その上、パレスチナ人は、ボラない。適正の料金しか受け取らない。
しかも、お茶やパンなどのお店の売り物でも、ただでくれたりするぐらいだ。
だからゼンゼン緊張しなくて良い。
僕はバスの中で、周囲の人に笑ったり、「マハバ!(アラビア語で“こんにちは”)」とか、「キーファク(まあこんな感じの発音?)」(元気?)なんて言って遊んでいた。
しばらくすると、僕と笑い合っていた客の中の1人のおじさんが、M女史に何やら挨拶し始めた。そしてM女史も、ああっ! と大きく反応し、僕を振り返って言った。
<このおじさんがUN(国連)診療所の所長>
「この人、私たちが行こうとしている難民キャンプのUN(国連)診療所の責任者なのよー!」
ラマダン中のため、もしかしたら、誰とも会えずに視察だけになるかも、と覚悟を決めていた僕は、一瞬キョトンとした。
M女史は2年ほど前に、この難民キャンプで日本の医師団のボランティア診療をコーディネートしたことがあり、その時の縁で、この人と知り合ったという。
タオ指圧のボランティア治療を企画している僕らが、ラマダン中であるにも関わらず彼に出会えたのは、実にラッキーなことだった。
でなければ、キャンプ内の視察で終わっている公算が大だったからだ。
難民キャンプに着くと、僕らはすぐに、国連診療所の事務長室に案内された。
そこで僕はキャラバンについて説明し、来年にはグループで来て、“ボランティア指圧”を行う件について話した。
でも彼は、タオ指圧がどういうものであるかを知らなかった。そこで事務長に、「どこか痛いなどの症状はありますか?」と聞いた。
すると、事務長は上腕に痛みがあり、もう1人の補佐官みたいな人は、慢性頭痛で、とのことだった。
<まずは痛みのある部位を確認する>
<上腕の痛みを頸部のツボで取る>
そこで、事務長はオリバーが、そして補佐官(?)を僕が施術することになった。
約10分後、事務長の上腕の痛みはすっかり取れ、すっかりご満悦な様子だった。
(オリバー、エラい!)
<英語が話せないので通訳してもらう>
補佐官(ということにしておく)の慢性頭痛は、数十年前、インティファーダ(パレスチナ独立のための総決起行動)の時に、イスラエル兵に銃の台尻で殴られ、頭蓋骨陥没の重傷を負ったための後遺症だった。
(実を言うと僕も、ビリン村などのパレスチナ人のデモに参加して、万が一、イスラエル兵に銃の台尻で殴られてメガネが壊れた時のためにと、日本から替えのメガネを、前回に続いて今回も用意していた。)
彼はそれからずっと、慢性頭痛に悩まされ続けて来たという。
恐らく16歳とかそのぐらいの頃のことだろう。
イスラエル軍への憎しみを煽るつもりはない。
だが、インティファーダの時にも多くの人が殺された。
また少年でも、2度と投石できないように腕を折られたという。
(その映像を見たことがある)
補佐官の頭痛も取れ、何とか面目を施したものの、完治するには1度の施療では足りない。多少、予後が気になりながらも、僕は治療を終えなければならなかった。
来年の再会を約して、僕らは難民キャンプを後にした。
キャンプの視察はできなかった。
それは、シェイクジャラの「金曜デモ」の時間(4時)が迫っていたからだ。これは、イスラエル政府の土地収奪に反対するパレスチナ人・イスラエル人合同の活動でで毎週行われているとのことであった。
2日間、ほぼ寝ずの状態でやっと入国したのは、つい先ほどのことだった。
にも関わらず、まるで休むことなく、こうして僕は歩き回っている。
何だか不思議だった。
でも、イスラエル人がパレスチナ人と合同でやるデモならば、
絶対に外せなかった。
これは、アースキャラバン運動を一緒にやる、中東の仲間を探す旅なのだ。
もしかしたら、海の中に潜って真珠を探すような、幻のような行為かも知れなかった。
、、、でも、やるしかないのだ。
そして僕らは、まず最初の2人とそこで出会ったのだった。
見つけた、、、。
奇跡は、起きたのだ。