ブログの筆が止まった。
すでに、途方もない次のプロジェクトに動きだしてしまっていたからだ。
(、、、皆さん、一体、何だと思います?)
僕が書いたアースキャラバンのテーマ曲を、世界18カ国の人に歌って録音してもらおうというもの。
さらに人々がその曲を各地で歌っている情景を映像に撮ってもらい、それをつなげて、1曲の音楽で世界をつなごうというものである。その結果はこちら
こんなのは、テレビ局がしかるべき予算と半年ぐらいの時間をかければ、できることなのだろう。
しかし僕は思ってしまったのだ。みんなに基本ボランティアでやってもらって、2週間ぐらいでまあ簡単にできるんじゃないかなー、と。
うぅ、なんとまあ安易にものを考える奴だろう。(←自分のこと)
中東でのプロジェクト(広島からエルサレムまで行くアースキャラバン)も、“まあ現地に行けばなんとかなるだろう”と、能天気にガザ空爆中に出かけたが、それとまったく同じ能天気さ、である。
こうして、24時間体勢の日々が始まったのである。
それはさておき、中東での活動の続きを語らなければいけない。
その前に、中東で僕とオリバーが動き回ったその目的を、もう一度、クリアー(明確)にしておこう。
アースキャラバンの出発地は広島で、終着駅はエルサレムである。エルサレムでは、ピースコンサート、その他諸々を行う。
そのステージでは、四つの宗教(仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)が合同で行う礼拝と共同声明を出す。
また会場では、ボランティア指圧や、去年まで開催していたチャリティーフェスティバルのようなことも、できればやりたい。(その他にもいろいろあるのだが、とりあえずは、ここまで書いておくことにする)
それを僕らと一緒に企画実践してくれる人たちと出会い、実行委員会を立ち上げるために僕らは中東に入ったのである。(わずか2週間でそんなことが可能か? などとは考えない。ただ、そうしよう、と思うだけなのだ)
さて7月25日、僕とオリバーはハイファに向かった。
ハイファには、ユダヤ人とアラブ人の子供が一緒に通う幼稚園があるからだ。すでに運営者とは、ローレンスがメールのやり取りをしていた。
ならば彼らに会って、キャラバンについて話しに行こう。そう思ったのだ。何がどこでどう、つながるかわからないからだ。
僕らとしては、あらゆる可能性にかけて、ただひたすら行動していくだけ。
<左がガイ・ダビデ、右がマイケル・ムーア>
ハイファに向かう前、テルアビブで映画監督のガイ・ダビデと会った。彼は、「五つの壊れたカメラ」というドキュメンタリー作品を撮り、それがオスカーにノミネートされたことで、イスラエルでは有名人である。(そういえば、アメリカのTIME誌の表紙になったという話も聞いた)
<タマール>
また彼に紹介してもらった、タマールというバリバリの女性活動家とも会った。
数時間、それぞれ別々に話し合ったあと、僕らは電車に乗り、夕方のハイファに着いた。幼稚園の訪問は明日だ。
ハイファにはアラブ系の住民も多い。イスラエル建国後も、そのまま残った人たちだ。(多くのアラブ人は故郷を捨てて難民になった。この地がイスラエルの領土になった現在、彼らは多くの差別の苦しんでいると聞く)
夕食を取りに出かけた。久しぶりに何もスケジュールがない夜だった。庭にディナーテーブルを出している店に入った。なるべくアラブ系の人たちが多い店に入った。
このアラブ系住民が経営しているであろう店で夕食を食べながら、今も尚、丸腰で爆撃されているガザの人々や子供たちのことを想った。胸が痛かった。
ディナーを囲んでいるアラブ系住民の人たちの顔を見ても、やはり暗かった。それはそうだろう。同胞が今夜も殺されているのだ。
最初は花火でも打ち上げているのかと思ったが、、、
奇妙な音を聞こえた。遠くで花火をやっているような音だ。最初は花火だろうと思って気にも留めなかった。タイなどではよくあることだ。
でも、とふと気がついた。これは、ガザからのロケット弾を撃ち落としている音ではないか?、と。
ガザからのロケット弾なんて、イスラエル軍の兵器に比べりゃ、花火みたいなもんだろう。距離を考えたら、まさかガザを爆撃している音ではあるまい。
、、、そして食欲の失せた僕らは、ホステルへと戻って行った。
早くパレスチナ側に行きたい。気持は焦るが、まずは明日の幼稚園をクリアしなければならない。活動は、まだ始まったばかりなのだ。
それにしても、僕らうまく人々と出逢えるのだろうか?
明日から一体どうなるんだろう?