‘旅’

アースキャラバン準備・中東篇(ブログ再開)

2015/08/21 Categories: 未分類

アースキャラバン2015が終わった。

僕は時間を一年戻し、昨年の夏にパレスチナ入りしたところから、ブログを再開するつもりでいた。なにせ、あそこ(ストップしたところ)からが良いところだったのだ。

ところが、、、、ない。

 

なぜか当時の写真が、サーバー上からすっかり消えてしまっている、、、。

しかも元データを保存しているSDカードは、アースキャラバン広島の立ち上げのために動き回っていたときに、i-pod など他の諸々と一緒に紛失すみ。

、、、ああ無情!

 

いくつか書こうと思っていたことがあったのに!

 

<1>

例えば、だ。

「今からは、イスラエル当局から盗聴されていると思って話して下さい」

そんな言葉を突然聞いたのは、ベツレヘム大学のマージン教授にだった。

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 <マージン教授・世界各地でパレスチナ問題の講演をしている>

僕らは面食らった。

それはパレスチナで、サミーたちとアースキャラバンについて話し合って、一時間ほどしたときだった。

 

ジョークではない。、、、マジである。恐らく、携帯かパソコンに盗聴を知らせる何らかの信号が入ったの

だろう。まるでスパイ映画のような現実に、僕はとまどった。

 

 

<2>

さて、、、、その他。

イスラエルに残して来たタオ指圧の生徒さんたちのことも書きたかった。

僕は7年前、「苦渋の決断というのは、こういうものだったのか」と思うような体験をした。

 

話があまりにも複雑なので、多くを述べることはできない。

でも、反省のために少しばかり述べてみたい。

 

かつてイスラエル・タオ指圧というものがあった。

そこを運営していた人物のあまりにも大きな問題が発覚し、

僕は、果たしてそれを公表すべきなのかどうか、ずいぶん迷った。

 

まず僕は、人のことを悪く言いたくはない。(反面、好意を持っている人に対して、いくらでもからかったりできるのだが)

 

いくら善意とはいえ、任せていた自分に責任がある。(もっとも、今にして思えば公表すべきであったかな、という想いも、あるにはある)

 

さんざん悩んだ末に、「“遠藤は金取り主義者でヒトラーのような奴だ。本当に悪い人間だとわかったので縁を切った”」と生徒さんたちに伝えて良いから」とその人物に伝えた。

そして僕は、黙ってイスラエル・タオ指圧の生徒前から姿を消したのだった。

 

僕はまあ、何か問題があれば、とにかく自分が悪いことにしておいて、姿を消せばいいか、みたいな手法を取ることが時々ある。

 

本当に縁があるなら、またいつかつながることもあるだろうけど、とりあえず僕は永遠に姿を消したつもりだった。

 

僕としては、二度とイスラエルの地に足を踏み入れるつもりはなかった。トラウマみたいなものにもなっていた。

 

6年前、初めてパレスチナに入ったときも、空港からすぐにパレスチナ側に入り、それは戻るときも同じだった。イスラエルは僕にとって、二度と足を踏み入れるはずのない地だったのだ。

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<マガリ>

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<タマール>

ところが、だ。2年ほど前からイスラエルの元生徒からポツリポツリと連絡が来るようになった、、、。そしてなんと、昨年の夏には、二度とやるはずのなかったテルアビブでのワークショップを行うことにした。

 

もっとも、それを企画してくれたイスラエルの生徒さんたちには大変申し訳ないのだが、実はその時の僕の一番の動機は、とても純粋とは言えないものだった。

 

なぜならワークショップをやる1番の動機は、”アースキャラバンの準備でパレスチナに行くのに、イスラエルの空港で入国拒否されたくない”というものだったからだ。

 

以前のブログでも書いたが、昨年の夏にパレスチナ側に入っていたことが空港でばれて拘束された。その時の記録が当局に残っていて、入国拒否されないかが、僕は心配だったのだ。

 

先に述べた、”今から盗聴されるから”と言われたのも、平和活動家への入国拒否についての問題だった。

 

実は3年前に、マージン教授もかかわったイスラエルのパレスチナ占領に反対する大がかりな平和活動がパレスチナで行われた。

それは封鎖の続くガザに向けて行進するというもので、世界各地の活動家を巻き込んでのものだった。

ニューヨーク在住で、元アウシュビッツの収容者80歳を越えている女性まで参加することを、僕は耳にしていた。

しかしその時も、多くの活動家が空港で入国拒否にあった。

オリバーの知り合いの医師団20人も、パレスチナに医療奉仕に行く予定でテルアビブの空港まで行ったが拒否されて帰って来たそうだ。

 

それでまあ僕としては、テルアビブでする念仏ワークショップの公式のチラシがあれば、保険になるなー、と考えたのである。(ひぇ〜、皆さん動機が不純でごめんなさい!)

 

その時は、ガザ空爆中であったが、ワークショップのチラシを見せなくても無事入国することができた。しかしパレスチナ側に入っていろいろ動いていても、ワークショップを企画してくれた元生徒さんたちには、僕はなかなか会おうとしなかった。

 

何にせよ、僕はおっかなびっくりだったのだ。

先に述べたように、彼らは僕がいかに悪い人間かを聞かされているはずである。

そして僕は黙って姿を消したのだ。

それなのに、なぜ連絡して来たんだ。なぜワークショップなんか企画すんだろう?



僕は混乱していた。

 

そしてワークショップの前日、いつまでも逃げるわけにもいかず、ついに5人と対面したのである。

 

僕は、彼らがどれほど再会を心待ちにしていてくれたかを知り、何だか胸が痛くなった。僕は申し訳なさで一杯になった。この気持ちは、僕にはとてもうまく表現できそうもない。

 

そしてワークショップ。

その当日は、なんと空爆を受けているガザに向けて支援物資を届けるピースバスが出る日と重なってしまった。うぅ、なんという間の悪さ。正直、思わず歯を食いしばって天を仰いだほどだ。

 

まあ今さらそれは良い。

結局、僕とローレンスでワークショップを勤め、オリバーがアースキャラバンを代表してピースバスに乗り、ガザへ支援物資を届けることになった。

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<ピースバスの看板/隣人を愛せよ>

 

、、、とまあ、いろんなことが連日のように満載の日々だった。

でも、これぐらいにしておいて、これでアースキャラバン中東準備篇(昨年夏の続き)は、終わったことにしよう、っと。

最後につけ加えたいことは、再会したイスラエルの元生徒のタマールが、後にイスラエル念仏会を担当するようになり、マガリが、後にアースキャラバン中東の実行委員として大活躍してくれることになった。

、、、、すべてはみほとけのはからいだったか。

南無阿弥陀仏。

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中東活動記の続き、、、。アラブ人とユダヤ人の合同幼稚園を訪問する

2015/01/26 Categories:

アースキャラバンの準備のための中東での活動報告が、すっかり途中でストップしてしまい、申し訳なく思っている次第。^ ^;)     とにかく写真を使って、レポートを進めていくことにしよう。

前の晩は、ガザからのロケット弾を撃ち落とす音をBGMに夕食を食べ終えた。その次に僕らが向かったのは、ハイファの田舎の村。アラブ人とユダヤ人の子供達が一緒に通う幼稚園である。

今振り返ってみると、手当たり次第、いろんなところにアースキャラバンの話をもちかけていたのだなあ、とつくづく思う。

この幼稚園もその1つだった。“子供達にエルサレムのイベントに参加してもらい一緒に歌ってもらおうか”なんて、オリバー、ローレンスと僕の3人で話し合った上での訪問だった。

何せ田舎でバスが不便な上、さんざん迷ったあげくようやくたどり着いた。

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幼稚園は、子供達が快適に過ごせるように造られていた。

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子供達は、アラビア語の歌もヘブライ語の歌もみんなで一緒に歌う。

ギターを持っていた僕は、“何か歌ってよ”と言われ、、、、。ビートルズか何かを弾いて歌ったんだけど、この時の経験は、僕にアースキャラバンのテーマ曲を創らせることになった側因の1つになったと思う。

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園長先生。アースキャラバンのバスが来ると思っていたらしい。    ^ ^;)

 

一体、この幼稚園の訪問で何が成果だったのかはわからない。キャラバンへの協力を要請し、OKと言われても、じゃあ具体的な話が何か生まれたというわけではない。

でも僕たちは結果は考えない。タオサンガ主催のアースキャラバンが潜在的に持っている意味を直感的に理解し、責任を持ってワークを担ってくれる無私の人たちと出会うために、僕らは中東を動いているのだ。

無私の行動が取れる人は、日本や欧米などセンターのあるところにだって、そうおいそれといるわけではない。

もしいたとすれば、それは千年に1度花開く白連のように希有で尊い存在だと僕は思っている。なぜなら、そういう人たちこそが世界の希望だからである。

この幼稚園の先生の1人は、テルアビブで行うことになっている念仏ワークショップに来ると言っていた。(実際に来られた)

このハイファからエルサレムまで直通のバス(2、3時間)があると聞いた。園長先生が停留所まで送ってくれるという。エルサレムには夕方着くことになる。カナダからローレンスもその頃、着くことになっているのでちょうど良い。

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エルサレムのヤッフォ通りに着き、ホステルに向かう。

ここからわずか40kmしか離れていないガザでは、連日の空襲で人々が命を落としているのだけど、、、。

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僕が、ユダヤ教原理主義と呼んでいる黒づくめの人々。彼らもストリート音楽やるんだぁ、、とちょっと驚いた。

 

ホステルにチェックインして、ローレンスの置き手紙を発見。「空港で携帯電話をレンタルしたから、この番号に電話してくれ」と書いてあった。

さすがユダヤ人! ローレンスは、こういうところは実に賢いのである。日本の携帯を持っていた僕は、空港でSIMカードの交換ができず断念。オリバーはそんなことを思いつきもしなかった、と言う。(2人とも後で、目が飛び出るような請求書を受け取ることになる。うぅ、、、)

ローレンスに電話をかけ、いるというカフェを探しに行く。

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僕は会うなり、” おい、ローレンス。幼稚園も行ったし、もう仕事は大半終わっちまったぜ”、と時差ぼけのローレンスをからかう。けなげに引っかかって、ちょっと焦ったりするところがカワイイ奴なのである。

 

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ローレンスは、心理ワークショップか何かをやっているというエルサレム在住の友人に、アースキャラバンの実行委員になるように、必死に説得中だった。

後でローレンスに、“結果はどうだった?”と聞くと、「“もちろん、興味はあるわよ。でもね、、、。” だって、、、。」とのこと。

うーん、日本でも北米でもヨーロッパでも、耳にたこができるほど山ほど慣れ親しんで来た反応である。だから僕はまるで驚かない。このような反応にあうたびに、ヘレンケラーの「大勢の人が他の人の福祉に責任を持つようにならないと世界は変わらない」という言葉を、僕は思い出す。

僕らは、希有な存在を探しに中東に来たのである。これが簡単に見つかるようなら、ヨーロッパ、日本、北米の三方から、わざわざガザ空爆中の中東にまで3人で雁首そろえて来ることもないのである。

本当は、夕方からでもパレスチナに入りたかった、それもいろいろと検討したのだが、まずはローレンスも無事に着いたことだし、夕食ということになった。

今後の活動の進め方について、3人で話し合っておくことは山ほどあったし、パレスチナ側に連絡しておくなどの準備もある。それでパレスチナには翌朝向かうことになった。

 

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ホステルに入ってからは、ミーティングのアポイントを取るために電話をかけまくる。

現場では率先して動かなければならない僕だけど、電話だと自分の直接つながりのある関係以外は、“オレ、自分の英語通じるか自信ないしさー”とか言って頼めるので、ちょっと助かるな。

明朝は、テルアビブのデモで知り合った人が紹介してくれた、タメルというイスラエル人とパレスチナ人合同の平和団体の合宿に寄ってから、ヘブロンに向かう予定を立てた。

いよいよ、パレスチナ側に向かうことができる!

果たして僕たちは、白蓮のように希有な人たちと出会うことができるのだろうか?

 

 

 

 

 

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ガザからのロケット弾を撃ち落とす音か?

2014/12/04 Categories:

ブログの筆が止まった。

すでに、途方もない次のプロジェクトに動きだしてしまっていたからだ。

(、、、皆さん、一体、何だと思います?)

 

僕が書いたアースキャラバンのテーマ曲を、世界18カ国の人に歌って録音してもらおうというもの。

 さらに人々がその曲を各地で歌っている情景を映像に撮ってもらい、それをつなげて、1曲の音楽で世界をつなごうというものである。その結果はこちら

 

こんなのは、テレビ局がしかるべき予算と半年ぐらいの時間をかければ、できることなのだろう。

しかし僕は思ってしまったのだ。みんなに基本ボランティアでやってもらって、2週間ぐらいでまあ簡単にできるんじゃないかなー、と。

うぅ、なんとまあ安易にものを考える奴だろう。(←自分のこと)

 

中東でのプロジェクト(広島からエルサレムまで行くアースキャラバン)も、まあ現地に行けばなんとかなるだろうと、能天気にガザ空爆中に出かけたが、それとまったく同じ能天気さ、である。

こうして、24時間体勢の日々が始まったのである。

 

それはさておき、中東での活動の続きを語らなければいけない。

その前に、中東で僕とオリバーが動き回ったその目的を、もう一度、クリアー(明確)にしておこう。

 

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アースキャラバンの出発地は広島で、終着駅はエルサレムである。エルサレムでは、ピースコンサート、その他諸々を行う。

そのステージでは、四つの宗教(仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)が合同で行う礼拝と共同声明を出す。

 また会場では、ボランティア指圧や、去年まで開催していたチャリティーフェスティバルのようなことも、できればやりたい。(その他にもいろいろあるのだが、とりあえずは、ここまで書いておくことにする)

 

それを僕らと一緒に企画実践してくれる人たちと出会い、実行委員会を立ち上げるために僕らは中東に入ったのである。(わずか2週間でそんなことが可能か? などとは考えない。ただ、そうしよう、と思うだけなのだ)

 

さて7月25日、僕とオリバーはハイファに向かった。

ハイファには、ユダヤ人とアラブ人の子供が一緒に通う幼稚園があるからだ。すでに運営者とは、ローレンスがメールのやり取りをしていた。

ならば彼らに会って、キャラバンについて話しに行こう。そう思ったのだ。何がどこでどう、つながるかわからないからだ。

僕らとしては、あらゆる可能性にかけて、ただひたすら行動していくだけ。

 

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<左がガイ・ダビデ、右がマイケル・ムーア>

ハイファに向かう前、テルアビブで映画監督のガイ・ダビデと会った。彼は、「五つの壊れたカメラ」というドキュメンタリー作品を撮り、それがオスカーにノミネートされたことで、イスラエルでは有名人である。(そういえば、アメリカのTIME誌の表紙になったという話も聞いた)

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<タマール>

 

また彼に紹介してもらった、タマールというバリバリの女性活動家とも会った。

数時間、それぞれ別々に話し合ったあと、僕らは電車に乗り、夕方のハイファに着いた。幼稚園の訪問は明日だ。

ハイファにはアラブ系の住民も多い。イスラエル建国後も、そのまま残った人たちだ。(多くのアラブ人は故郷を捨てて難民になった。この地がイスラエルの領土になった現在、彼らは多くの差別の苦しんでいると聞く)

 

夕食を取りに出かけた。久しぶりに何もスケジュールがない夜だった。庭にディナーテーブルを出している店に入った。なるべくアラブ系の人たちが多い店に入った。

このアラブ系住民が経営しているであろう店で夕食を食べながら、今も尚、丸腰で爆撃されているガザの人々や子供たちのことを想った。胸が痛かった。

ディナーを囲んでいるアラブ系住民の人たちの顔を見ても、やはり暗かった。それはそうだろう。同胞が今夜も殺されているのだ。

 

最初は花火でも打ち上げているのかと思ったが、、、

 

奇妙な音を聞こえた。遠くで花火をやっているような音だ。最初は花火だろうと思って気にも留めなかった。タイなどではよくあることだ。

でも、とふと気がついた。これは、ガザからのロケット弾を撃ち落としている音ではないか?、と。

ガザからのロケット弾なんて、イスラエル軍の兵器に比べりゃ、花火みたいなもんだろう。距離を考えたら、まさかガザを爆撃している音ではあるまい。

、、、そして食欲の失せた僕らは、ホステルへと戻って行った。

 

早くパレスチナ側に行きたい。気持は焦るが、まずは明日の幼稚園をクリアしなければならない。活動は、まだ始まったばかりなのだ。

 

それにしても、僕らうまく人々と出逢えるのだろうか?

明日から一体どうなるんだろう?

 

続き

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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テルアビブのデモで驚きの出会いが!

2014/10/20 Categories:

そのホテルにはたった1晩泊っただけで、僕らは午前中にはもう荷物をまとめた。そして、急遽テルアビブに向かったのだ。 

 それは、多くのイスラエル人活動家が集まるであろうデモに参加するためだ。

 また、入国招待状を書き、空港に迎えに来てくれたイランにあらためてお礼も言いたかった。

 

僕らはまずイランの家に行って荷物を置き、夕方にはデモの広場であるラビンスクエア(ラビン首相が右翼のイスラエル人に暗殺された場所)に向かった。 

 

以前からやり取りしていたイスラエル人女性活動家からは、「デモで右翼に襲撃されたら、西側に逃げるように」という情報が回って来ていた。ああ、そうか。やべーな、、、。

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<遠くに見えるのは、デモ隊を狙っている右翼集団。警察がいるので襲撃して来ないが、、、>

 

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<ベレ/キャラバンの協力者の1人>

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<ヒッピーっぽい奴がいると、何か安心するな>

5000人は集まっただろうというデモだった。広場には、歌や踊りをするグループがいたり、ガザの空爆で殺された子供たちの写真と名前を並べているグループもあった。プラカードには、「子供たちを殺すことは防衛ではない!」と書いてあった。

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<踊りと太鼓とグループ/デモに必ず出てくるバンドだという。リーダーと話し合った>

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<「子供を殺人するのは、防衛ではない」と書いてある>

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<「ガザを痛めつけるな」と書いてあるようだ>

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<イスラエルとパレスチナの融和を訴えている>

僕らは運良く会場で、前日のデモで会った、サラにも再会することができた。

そしてサラは会うなり、「来週、火曜日に何人か呼んで、家でキャラバンのミーティングすることにしたわよ」とこともなげに言い、僕たちを、「おお! それサイコー!」と驚かせたのである。(そういうとき、オーストリアでは、なぜか“スーパー!”という。)

デモは熱気に溢れていた。そして以前は、右翼チックなイスラエル人しか知らなかった僕をして、「こんなまともな人々が、イスラエルにも大勢いたんだ!」と感嘆させた。

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<爆撃で亡くなったガザの子供たちの写真を並べている。人の死を悼むというのは、まともな人間として、基本的なことであろう、と僕は思うが>

前の週のデモでは、右翼に襲撃されて怪我人まで出たそうだ。この日は警官隊が見張っていた。そして右翼たちはヘイトスピーチのようなことを叫びながら、デモを睨みつけていた。 

 

僕たちは手分けして、テルアビブで翌週に行う「念仏ワークショップ」のチラシとキャラバンのチラシを配ったり、また参加者に話しかけたりした。

 

さらにデモの主催者にもコンタクトを取ろうとするなど、いろいろと動いていた。

 

会場の中をそうしてウロウロしていると、何年か前に僕のタオ指圧ワークショップに参加したことがある、と言って話しかけてくる人や、中には、イスラエル在住の日本人の方で、拙著を読んで下さっている、という人にも会った。(後日、娘さんが念仏ワークショップに参加された)

 

2時間ほどでデモが終了し、喉の乾いた僕とオリバーは、ビールを飲もう、ということになって、付近をウロウロした。しかし実は、問題があった。

 

2人ともユーロは持っているが、イスラエルの通貨であるシェケルが少なかった。せいぜい帰りのタクシー代ぐらいしかないのである。そりゃまあ、そうだ。

 

すでに一週間ぐらいいる気分とはいえ、昨日着いたばかりなのだ。(かつ、1日中走り回っていて、まともに両替する余裕などなかったし)

うぅ、、、。どうしよう。普通の人ならここで諦めるのかも知れない。しかし、こんなことで諦める僕らではない! (特に、楽しいことはね ^ ^)

 

周囲のビアカフェは、道端にテーブルや椅子を並べている。

そして人々は、ビールを飲んだり食事をしているのである。

 

おお、喉か湧いたぜー。何せ、中東の夏なのだ。

 

で僕らは、何をしたか? 話は単純である。

テーブルに座っている人に、この近くに両替できるとことないですか?と聞いたのである。

 

しかし夜も10時である。

 

「まあ無理だろう」、「遠い」などの返事の中で1人、「じゃあ、僕が替えて上げるよ」と言ってくれた人がいた。やった!

 

それがガイ。聞けばそのグループはデモ参加者であった。

そして僕らは、そのテーブルに一緒に座り、晴れて念願のビールを飲みながら、僕らが来た目的、キャラバンの話をしたのである。

 

皆一様に、こんな時にまあよく来たねー、という感じを話を聞いてくれた。

またグループの中には、リサという人がいた。

 

リサは、パレスチナの活動家に協力なコネを持っているヨガ指導員の人だった。

彼女に、「タメル」というイスラエル人とパレスチナ人の合同の活動団体につないでもらえることになった。また、パレスチナのヨガ指導員にも僕らを紹介してくれるという。おお!

聞けばタメルは今、数日間の合宿をやっているという。

そこで僕らは、パレスチナにほど近い場所にあるその会場に行くことにした。また、その合宿最後の日に行くのがいいだろう、ということになった。

 

(そういえば、後日リサと電話で話したとき、「あなたテレビに写っていたわよ!」と言われ、見てみたらホントだった)

※出てくるのは、4:20ぐらいのところです。http://tv.social.org.il/en/demonstration-against-the-war-in-gaza 

こうしてまた、不思議な縁がつながった。

 

広島からエルサレムまで、祈りと音楽で結ぶアースキャラバン。

これは、途方もないようなプロジェクトかも知れない。

 

しかし、こうして人と人を結んで、何かが生まれていく。

不思議な予感に支えられて1つ1つ、、、。僕らはやり続けるだけだ。

 

明日はハイファに向かう。イスラエル人とアラブ人の合同幼稚園を訪問するためだ。

ここは、ローレンスがやり取りしていたところだ。

 

どんな縁であっても、可能性があれば、全力投球でそこに向かう。

ものごとの実現は、これが原則である。

 

翌日、ハイファでの僕らは、

ハマスのロケット弾を撃ち落としているイスラエルの防空のミサイルの爆破音を遠くに聞きながら、夕食を取ることになったが、、、。


<続く>

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イスラエル人とパレスチナ人の合同デモに参加する

2014/10/03 Categories:

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シェイク・ジャラ、、、。

5年前にパレスチナを旅した時、僕とローレンスがある家族にボランティア指圧をしていた所である。

その家族は、40年間住んでいた家をイスラエル政府に一方的に取り上げられ、マットレスと共に路上に放り出されていた。

このように、イスラエル政府によって不当に追い立てられていくパレスチナ人の家族は後を絶たない。

一方では、当然これに反対する、パレスチナ、イスラエル、国際活動家たちが集まった。

そして一時期この家族は、米国務長官のヒラリーが国連で言及するなど、国際的な注目を集めていたほどであった。

さて、僕とオリバーは予定していたビリン村のデモには行かず、シェイクジャラで毎週行われているという4時からのデモに、M女史に連れられて駆けつけたのだった。

行ってみたら、それは20数名〜ほどの小さなデモだった。

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あれっ?

ビリン村のデモに前回行ったときは、パレスチナ人、海外支援者、イスラエル人で合わせて数百人はいるのではないか、と思われるほどの規模だった。だから、少し拍子抜けした。だが、後で聞くと以前は500人が集まるほど大きなものだったらしい。

デモの大きい小さいは、まあいい。僕らの目的は、仲間探しだったから、問題はデモの規模ではなく”縁”だった。僕とオリバーは2人で手分けして、デモに参加している活動家にキャラバンの話をして回った。

その中の1人に、翌日にはテルアビブで大きなデモが計画されているということを聞いた。僕は即座に、「それに僕らも行くよ!」と言った。

デモのリーダー的存在であるサラとベレという2人の女性活動家たちが、キャラバンの話に興味を話を持ち、熱心に話を聞いてくれた。僕は、彼らならキャバンの中東プロジェクトを一緒にできるのではないか、と思った。

その後も僕らは、熱心にいろんな人にキャラバンの計画について説いて回った。

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<旗を持っているのがパレスチナ人のリーダー。このデモを続けているためだろうが、7ヶ月間とか刑務所に入れられることになったと聞いた>

 

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<「今のイスラエル政府がパレスチナ人にやっていることは、かつてナチスがユダヤ人にやっていたことと同じ」。そういって僕たちを驚かせたイスラエル人活動家のベレ>

 

ミサイルが飛来するこんな時期に、遠く日本やヨーロッパから来た、能天気で熱い連中と思われたのかも知れないなと、ふと僕はそう思った。(「こんな時によくまあ来たね!」というのは、その後も何度か僕らが耳にしたセリフだった)

デモが終わった後は、東エルサレムまで戻り、ドキュメンタリー映画作家の古居みずえさんと合流して食事した。エルサレム旧市街を少しうろつき、イエスが処刑されたゴルゴダというところの前で座っていると、もう頭を上げていられないほどの眠気に襲われた。

 

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<イエスが処刑されたゴルゴダの丘の跡地>

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<旧市街(パレスチナ側)の雰囲気が僕は大好きである>

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<迷路のようである>

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<“ラマダンが終わったんだ。食べて来なよ!”と誘われる>

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<ダマスカス門は美しい>

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 <常にパレスチナ人を監視するイスラエル兵>

 

顔を上げていられないほど眠くなったのも無理はない。緊張し切った状態でタイの空港に行ってから、一睡もせずにすでに数十時間は経っている。入国してすぐ僕らは追い立てられるように、あっちこっちを動いて、今やっと座ったような状態だ。

安息日(金曜日)のため、もう市電の最終も終わっていた。僕らは、ずーっと歩いてやっとホテルへ戻ってきた。ああ、やっと休息が取れる。

先ほど「明日、テルアビブのデモで会おう!」 と言って、サラとベレと別れた。

実は、翌日デモで出会ったサラは、意外なことを言って、僕らを驚かせた。その意外なことというのは、、、。


<続く>

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仲間探しの旅が始まった、東エルサレムで

2014/09/24 Categories:

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イスラエル軍の路上封鎖によって金曜礼拝に行けないパレスチナ人たちの痛みを背中に感じながら、僕たちはバスターミナルに向かった。 

 

そして、ホコリにまみれたバスに飛び乗ったのだった。

最も荒れているという難民キャンプに視察に行くためだ。

 

物珍しげにこちらを見るパレスチナ人たちに囲まれてバスに乗っていると、僕は心の中からくつろぎを感じ始めた。

 

「どこへ行ってもお互い知った者同士」という、このアジア的雰囲気が、僕はたまらなく好きなのだ。

 

その上、パレスチナ人は、ボラない。適正の料金しか受け取らない。

しかも、お茶やパンなどのお店の売り物でも、ただでくれたりするぐらいだ。

だからゼンゼン緊張しなくて良い。

 

僕はバスの中で、周囲の人に笑ったり、「マハバ!(アラビア語で“こんにちは”)」とか、「キーファク(まあこんな感じの発音?)」(元気?)なんて言って遊んでいた。

 

しばらくすると、僕と笑い合っていた客の中の1人のおじさんが、M女史に何やら挨拶し始めた。そしてM女史も、ああっ! と大きく反応し、僕を振り返って言った。

 

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<このおじさんがUN(国連)診療所の所長>

 

「この人、私たちが行こうとしている難民キャンプのUN(国連)診療所の責任者なのよー!」

ラマダン中のため、もしかしたら、誰とも会えずに視察だけになるかも、と覚悟を決めていた僕は、一瞬キョトンとした。

 

M女史は2年ほど前に、この難民キャンプで日本の医師団のボランティア診療をコーディネートしたことがあり、その時の縁で、この人と知り合ったという。

 

タオ指圧のボランティア治療を企画している僕らが、ラマダン中であるにも関わらず彼に出会えたのは、実にラッキーなことだった。

 

でなければ、キャンプ内の視察で終わっている公算が大だったからだ。

 

難民キャンプに着くと、僕らはすぐに、国連診療所の事務長室に案内された。

そこで僕はキャラバンについて説明し、来年にはグループで来て、“ボランティア指圧”を行う件について話した。

 

でも彼は、タオ指圧がどういうものであるかを知らなかった。そこで事務長に、「どこか痛いなどの症状はありますか?」と聞いた。

すると、事務長は上腕に痛みがあり、もう1人の補佐官みたいな人は、慢性頭痛で、とのことだった。

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<まずは痛みのある部位を確認する>

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<上腕の痛みを頸部のツボで取る>

そこで、事務長はオリバーが、そして補佐官(?)を僕が施術することになった。

約10分後、事務長の上腕の痛みはすっかり取れ、すっかりご満悦な様子だった。

(オリバー、エラい!)

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<英語が話せないので通訳してもらう>

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補佐官(ということにしておく)の慢性頭痛は、数十年前、インティファーダ(パレスチナ独立のための総決起行動)の時に、イスラエル兵に銃の台尻で殴られ、頭蓋骨陥没の重傷を負ったための後遺症だった。

(実を言うと僕も、ビリン村などのパレスチナ人のデモに参加して、万が一、イスラエル兵に銃の台尻で殴られてメガネが壊れた時のためにと、日本から替えのメガネを、前回に続いて今回も用意していた。)

彼はそれからずっと、慢性頭痛に悩まされ続けて来たという。

恐らく16歳とかそのぐらいの頃のことだろう。

 

イスラエル軍への憎しみを煽るつもりはない。

だが、インティファーダの時にも多くの人が殺された。

また少年でも、2度と投石できないように腕を折られたという。

(その映像を見たことがある)

 

補佐官の頭痛も取れ、何とか面目を施したものの、完治するには1度の施療では足りない。多少、予後が気になりながらも、僕は治療を終えなければならなかった。

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来年の再会を約して、僕らは難民キャンプを後にした。

キャンプの視察はできなかった。

 

それは、シェイクジャラの「金曜デモ」の時間(4時)が迫っていたからだ。これは、イスラエル政府の土地収奪に反対するパレスチナ人・イスラエル人合同の活動でで毎週行われているとのことであった。

 

2日間、ほぼ寝ずの状態でやっと入国したのは、つい先ほどのことだった。

にも関わらず、まるで休むことなく、こうして僕は歩き回っている。

何だか不思議だった。

 

でも、イスラエル人がパレスチナ人と合同でやるデモならば、

絶対に外せなかった。

これは、アースキャラバン運動を一緒にやる、中東の仲間を探す旅なのだ。

 

もしかしたら、海の中に潜って真珠を探すような、幻のような行為かも知れなかった。

、、、でも、やるしかないのだ。

 

そして僕らは、まず最初の2人とそこで出会ったのだった。

見つけた、、、。

奇跡は、起きたのだ。

 

<続く>

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入国を果たした僕を待っていたスケジュールは?

2014/08/26 Categories:

(1)

入国できたんだ、、、、。

ちょっとまだ、信じられないような気持ちだった、、、。

だから入国ゲートをくぐった時は、まるで白昼夢でも見ているようだった。

 

果たして、オリバーはどうしたのか? と、携帯を開きオリバーに電話する。

 

おお! なんと、つながるではないか!

「オリバー! 一体今どこにいるの!!?」、「うん、テルアビブ」。えーっ、信じられない!

「イランの家から、あと30分で空港に着くから待ってて」。うひゃー!


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<お互い入国を果たし、満面の笑みで再開!>

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<エルサレム直行乗り合いバスは、正確に行く先を伝えないとならないので、ドライバーに場所を説明する>

 

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<バスが出るまで、路上でオリバーが持って来てくれた朝ご飯を食べる。オリバーはなかなか用意の良い男である>

これはずいぶん後になって気づいたのだが、どうやら僕もオリバーも、能天気でがむしゃらな楽天家のようだ。(タオサンガの特徴かも)

とにかくパレスチナの自由と中東平和を願う人ならば、どんな人でも、ひたすら会っていこうと思っていた。

 誠意を持って話をすれば、必ずキャラバン・プロジェクトの道は開ける。2人とも、そう信じてまるで疑わない。だから、どんな縁でも話があれば、つながろうとしていたのだ。

 

(2) 

僕には、オーストラリアにアランという心の友がいる。ガレージセールから始めて、海外にいくつか支店を持つほどの企業にした人だ。

僕が彼に、「次はこんなことをやるよ」と知らせると、いつも彼に「あなたの楽天性は素晴らしい!」と言われる。

 

??? 僕は彼の言っている意味がよくわからなかった。

だが今回の自分らの無鉄砲さ、がむしゃらさ、そして誠意をもってやれば必ず実現する、と信じて疑わない能天気さ、、、。

それらを考えると、“なるほどな〜。アランが言っていたのはそういう意味だったのか、、、”とやっと理解できた気がした。

 

でもな、アラン。他にどんな方法があるっていうんだよ。^ ^)/


(3)

この日、日本人活動家のM女史には、いくつかコーディネートしてもらうことになっていた。

 

-今日の予定リスト- 

1. 東エルサレムの難民キャンプ訪問

ラマダン中だが、可能ならばボランティア施術する。また来年のキャラバンで、タオ指圧のメンバーがグループで施術する前準備としての視察。

※ラマダンというのは、イスラム教徒の習慣。炎天下でも、1ヶ月間日の出から日の入りまで、一切の食べ物飲み物を口にしない。貧しい人の気持ちを理解するためだそうだ。

 

2. 活動家が先生をやっている小学校でのワークショップの打ち合わせ

教育関係者とはぜひともつながりたかった。

というのは、世界への夢を子どもたちに語ってもらったり、絵を描いてもらったりして、キャラバンのサイト載せたかったからだ。

またイスラエルの別の学校で、碁の授業をやったという話を聞いた。それで僕は、GAMEチャリティックスの大会を、イスラエルとパレスチナの小学生合同でやるという夢を持つようにも、なっていた。

 

3. 合同デモへの参加

占領反対、パレスチナ人の人権を守れ! のデモ。パレスチナ人 / イスラエル人活動家合同。

 場所はシェイク・ジャラというところで、この地区にある多くのパレスチナ人家屋が、イスラエル政府によって破壊されたり追い出されたりしている。

 

前回のパレスチナ訪問の際も、40年住んでいた家から追い出されて路上生活を強いられていた家族のところに通った。そしてローレンスと2人でボランティア指圧をやっていた。http://endo-ryokyu.com/past_blog/?p=428

 

この合同デモで活動家たちとつながり、来年のキャラバンの話を持ちかけるんだ。

 

ところで毎週金曜日は、有名なビリン村でデモのある日だった。

ビリンは村を上げて非暴力抵抗運動を行っており、そこにはインターナショナルな活動家も、イスラエル人活動家もやってくる。

 

オスカーにノミネートされた「五つの壊れたカメラ」も、ビリン村を描いたドキュメンタリー映画。

 

そこの写真家や村のリーダーともつながりがあるので、最初はビリンに行くつもりだった。しかしせっかく頂いたご縁だ。僕は、シェイクジャラのデモに参加することにした。

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<ビリン村の写真家 ハイサム>

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<彼は、すごく良い写真を撮る>

 

(4)

さあ! 1日遅れの入国なので、空港から直接、エルサレムに向かう必要がある。

 

M女史からは、いろいろスケジュールがあるから、遅くとも12時までにはエルサレムのダマスカス門まで来るように、というお達しを何度も受けていた。

 

やばい、急がねば!

苦労の果てに、やっとたどり着いたのだが、文句は言えない。早々に僕はけっこう焦っていた。

果たして間に合うのか?

 続く

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付近にロケット弾着で空港閉鎖 !  ここで、くじけてはいけない!      (中東準備・最終篇)

2014/08/20 Categories:

(1)

イスラエル入国管理局の面接官に問いつめられ、しどろもどろになって保安要員に取り囲まれる夢とともに起きた。

まだ暗い。時計を見ると、朝の4時半だった。

 

でも緊張で、もう眠れそうにもなかった。

イスラエルのセキュリティの恐ろしさは、5年前の出国の際のできごとがトラウマになり、骨身に染みていた。

 

例えばあなたが、ユダヤ人狩りをしているナチ時代のドイツに向かうとする。ユダヤ人の味方をするためにドイツに潜入するわけ。そしてゲシュタポの検問所に向かう、、、。

(どうです? 緊張するでしょう? これを想像して頂ければ、僕の気持ちがお分かり頂けるでしょうか? ←ナンチャって)

でも実際、モサド(イスラエル秘密警察)の恐ろしさは、ゲシュタポや戦前の日本の特高警察に匹敵する。彼らは、まるで冗談の通じる相手ではないのである。

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 僕はこのとき、人間は2つのものを同時に恐れることはできない、ということを知った。空港に着弾するかも知れないハマスのロケット弾よりも、僕はイスラエルの入国面接官の方が、よほど恐かったのである。

入国拒否だけはされたくない。(プロジェクトを挫折させられるのはイヤだ)僕の恐怖は、結局はその1点に由来していた。

 

起きて、入念な準備をする。

こんなことを聞かれたらどうしよう? もし、こんなことを突っ込まれたら?、と妄念が妄念を呼びそうだった。

 

前日までは、朝はゆっくりホテルの朝食を食べてから、空港に向かおうと思っていた。が、食欲はまったくない。緊張で食欲がなくなる、というのはこういうことか、と思った。

 

昨日のブログでも書いたが、実は昨夜、「大丈夫だよ」という仏様からの啓示を受けていた。ここで啓示のみを信じて安心感に浸っていれば良さそうなものだが、そこは凡人の悲しさ。つい、いろいろといらぬことを考えてしまう。

 

それにしても、、、とふと思う。なぜ自分はこんな緊張を強いられるようなことをやっているんだろうか? “えーい、一体オレが何をしたっていうんだよ!” なんて毒づきたくもなる。

 

何でこんな悶々としなけりゃならないんだよ〜。しかし考えてみたら、ガザの子どもたちが一体何をしたっていうんだ、とも思う。

なんで何の罪もない彼らが、爆弾に怯え、傷つき、親を失い、死ななければならないんだ、、、。そう思って、自分を奮い立たせる。

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(2)

いつもは極力のんびりと空港に向かう僕である。(なにせ、今回の成田からバンコクに向かう飛行機でも遅刻しそうになったのだ)それが、フライト3時間前なんていう前代未聞の早さで空港に着く。

 

テルアビブ行きの飛行機に乗るため、深夜の電車で7時間かけてフランクフルトに向かったはずのオリバーに電話する。が、連絡がつかない。一体、今どこにいるのだろうか?

 

トルコ航空のカウンターが開いたようだ。荷物を押していく。カウンターで、チケットとパスポートを出す。カウンター嬢はチケットを見るなり顔を曇らせる。思わずハッとなる僕。カウンター嬢は、「テルアビブ行きは飛行停止ですよ」と僕に非情の宣告をする。

 

ああトルコ航空よ、おまえか!? うぅ、弱ったあ〜!  思わず僕は、「じゃあ、テルアビブに行く別の航空会社の飛行機に振り替えてくださいよ!」と詰め寄る。

 

すると、カウンター嬢はあきれたように、「ベングリオン空港そのものが閉鎖されたんですよ、ロケット弾で。戦争なんですよ、あなた。テルアビブに行く飛行機はありません」 何にいー、空港閉鎖だと〜!!!? 思わず僕は天を仰いだ。

 

しかし、ここでくじけてはいけない。ヨルダンから陸路でパレスチナに入るというルートがある。これについては、かねてから聞いていた。

 

だから僕は、「では、ヨルダンのアンマン行きに振り替えることはできますか? その可能性について教えて下さい」、、、カウンター嬢は、「少しお待ち下さい」と言って、上の人に相談にいった。

 

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正直、今回ヨルダンから陸路でパレスチナに向かうのは気が重かった。アンマンからエルサレムまでの行き方を僕は知らない。その上、超がつく方向音痴という特技を僕は持っているのである。

もちろん、時間のある気ままな旅だったら、迷いながらでも人に聞きながら行けば良いので問題はない。

(たとえば昨年の1月、タイのカンボジア国境近くにある街のエイズ孤児院の住所がわからないままバンコクから向かい、英語もろくに通じない田舎街で施設を探し当て、NPOユニの寄付金を届けたことがあった。時間のある方はブログをご参照下さい。:http://endo-ryokyu.com/past_blog/?p=2524

 

しかし今回は、テルアビブでもインドでもワークショップをやるため荷物が多い。通常の旅行用品の他に、木魚やら僧衣、治療道着、仏さまの掛け軸、さらにギターまである。

 

また、陸路で行くパレスチナ境界のイスラエル当局の検問所は、いっそう警戒が厳重だと聞く。、、、必ず入国できるという保証もない。

 

そんな状況の中で、アンマンから荷物を抱えてパレスチナ境界線のイスラエル当局検問所に向かう、、、。考えただけでも気が重くなるような話であった。

 

(4) 

なかなか戻って来ないカウンター嬢を待ちながら、オリバーに再び電話する。果たして彼の方はどうなったのか? 飛行機に乗れたのか? 乗れなかったのか?

 

もしオリバーが入国を遂げているなら、這ってでも行かなければならない。(「走れメロス」なのだ)しかし、電話は通じない。

 

カウンター嬢にはさんざん待たされた。あげく、「アンマン行きは無理ですね。そもそも接続が悪いし、お勧めしませんよ」。そこで僕は、「アンマンがダメなら、イスタンブールまでは行かせて下さい。イスタンブールで、空港の閉鎖が解けるのを待つから」と返す。

 

さらに上の人に相談しに行ったカウンター嬢。ずいぶん経ってから戻って来て最後に僕に言ったのは、「明日には空港閉鎖が解けて飛行再開すると思うから、今晩23時のイスタンブール行きの便に乗って下さい。そしてイスタンブールで、朝6時のテルアビブ行きに乗りかえて下さい」であった。

 

今はまだ朝の9時。空港カウンターが開く夜8時まで、どうやって過ごそうか? 僕は、へなへなと、気持ちがくずれそうになった。

 

なぜ僕の気持ちが、ここでくずれそうになったのか? それは、繰り返しになって恐縮だが、自分が保安要員の質問にうまく答えられるか心配で、その緊張がずーっと持続することに神経が耐えられなくなって来ていたのである。

 「ホテル提供してくれないんですか?」という僕の質問には、「すいませんが、できないんですよ」と、つれない返事であった。(そういえば、戦争や地震などの自然災害の場合は保証しない、という規定があったなー)

 

(5)

しかし文句は言えない。午前中いっぱい空港をウロウロしたあげく、ネットで空港近くの安いホテルを探した。夜まで休むためだ。午後、スタッフに迎えに来てもらう。

 

やっと2時頃になって宿に入り、“あ〜、やれやれ、、、”とベッドに横になる間もなく、僕は大事なものがないことに気づいて蒼くなった。携帯のバッテリーチャージャーがないのである。

 

テルアビブの空港に着いたら、Mさんに電話で連絡を取り、エルサレムでの活動をコーディネートしてもらうことになっていた。

 

現地に着くのが1日遅れになってしまったので、着いたその日から難民キャンプに行ったり、またデモに参加して活動家たちを紹介してもらったり、ワークショップに来て欲しいという、左派の小学校の先生とも会うことになっていた。

 

もし、連絡が取れなくなったら、計画が遅れる、、、。

僕はホテルに事情を話し、電気屋に行くためにホテルの車に乗せてもらった。

 

外に出ると、のんびりとしたタイの熱帯的な空気、、、。そんな中で、緊迫したところに向かおうと緊張している自分が、何だか滑稽に思えてきた。

 バッテリーチャージャーを購入してホッとしたのか、お腹が空いてきて、帰りには屋台でのんびりとご飯を食べた。

 

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(3)

その後、ホテルであれこれと考えながら夜を待つ。

果たして本当に飛ぶのか? 飛ばないのか? ネットでトルコ航空を調べてもわからない。

 

勇敢なオリバーは、相変わらず行方不明だ。

ローレンスに電話して、空港閉鎖されたよ、と告げると絶句していた。

 

そして夜8時、再び空港へ行き、トルコ航空のカウンターの前に立ってチケットを出し、事情を説明する。すると、「今、イスタンブールで、ベングリオン空港まで飛ぶかどうか会議中です。1時間後に来て下さい」とのこと。

 

軽い食事(ワンタンスープ)をしながら待つ。

そして1時間後に行くと、「まだ結論出ていないから、もう1時間、、、」

 

やれやれ、すでに空港カウンターのチェックインは始まっている。結局僕は1時間も待ちきれず、30分後に行くと、「良いニュースです! 振り替え手続きしたらチェックインできますよ!」

 

やった! と僕は、1人でガッツポーズをしてしまった。思わず顔がほころぶ。

そして無事、ボーディングパス(搭乗券)を受け取り、出国した。

 

しばらく歩き、搭乗ゲートに着いてイスタンブール行きの搭乗券を差し出すと、「あなたはテルアビブ行きのMR ENDOですね。テルアビブ行きは、またキャンセルされました」

 

「ええぇー!!!」

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(6) 

「それでエルアル(イスラエル航空)に振り替えますので、22:55までにエルアルの搭乗口まで急いで行って下さい」。あまり時間がない。職員に連れられ、焦って小走りで向かう。

そしてようやく着いたブースのようなところで、エルアル航空テルアビブ行きの搭乗券をもらう。

 

「荷物はどうなるんですか?」と聞く。「エルアルに移動します」、と。「ただその前に、保安要員の面接がありますから、それを受けて下さい」

 

とうとう来たか! 緊張が高まる。めまいがしそうだ。でも緊張しているところを見せてはいけない。僕はゆったりとしているふりをする。“面接官に対してはニコニコしているように」というのは、Mさんにも枝木美香さんにも言われていたことである。

 

面接官のいるゲートに向かいながら、“人間一度は経験しなければならないことがある。それは死ぬことだ”、なんて考えていた。

そう、死ぬ気でやれば何だってできる。一世一代の演技だってできるんだ。

 

そして僕はまったく運が良かった。なんと、僕が当たった面接官は、タイ人の女の子だったのだ!(今まで10回行った中でもこんなことは始めてだった)

 

世界中の空港に面接官を配備しているイスラエルである(その経費は莫大なものだろう)。人手不足で外国人の面接官をやとっているのかとも考えたが、まさかそれはないだろう。

あるいはイスラエル人と結婚して改宗し、ユダヤ人となったタイ人かも知れない。(イスラエル人と結婚するには、ユダヤ教徒にならなければならない)

 

とにかくタイ人相手なら、僕は様々な質問にもリラックスして演技して答えることができ、保安面接を無事クリアーできたのだった!

 

しかも驚いたことに、”イスラエルには仏教を教えに行く”という僕を胡散臭げに見るどころか、彼女はむしろ好意的なまなざしで、面接を終えてくれたのである。仏教国タイ万歳!

 

(7)

僕は、自分がこの1か月間、悪戦苦闘して手に入れた招待状や、意を決して決めたテルアビブ念仏ワークショップのチラシをリュックに入れて持っていた。(これらは最初からいきなり見せるのでなく、疑われたてから見せることで効果を発揮させる、というローレンスの作戦だった)

 

しかし、それらの様々な準備工作がいらなかったほどであった。が、しかし“招待状もチラシも持っている”という自信がスムーズに面接をクリアーさせたのか、とも思う。

それにしても何という偶然(み仏のご加護)だろうか?

1時間待たずに30分だけ待ってからカウンターに行くことで、搭乗券を手に入れタイを出国した。その後、”やはりテルアビブ行きは飛ばない”ということになったが(あるいは”飛ぶ”という情報が間違っていたことに気づいたのか?)、すでに出国させてしまった乗客(僕のことね)を呼び戻す手はなかった。

 

そこで、ちょうど同じぐらいの時刻に離陸するエルアル航空(テルアビブ行き)があったので、”そっちに乗せよう”ということになったに違いない。

 

この日、テルアビブ行きの飛行機を飛ばしているのは、エルアル航空だけだろう。たとえイスラエル政府が、ベングリオン空港の安全宣言を世界に出しても、結局、どこの航空会社も飛ばなかったのだ。

 

だから、イスラエルに帰れなくなった多数のイスラエル人がいた。イスラエル政府としてはメンツもある。また、彼らイスラエル人たちが自国に帰れるように、エルアル機をどうしても飛ばさなければならなかった。運良く僕はそれに乗り込むことができたのである。

 

眠れるはずもなく離陸11時間後、機はベングリオン空港に着陸した。(朝6:45AMだったかな) 。閉鎖が続いていた飛行場は閑散としていた。

飛行場には、唯一、ヨーロッパ航空1機だけが、着陸していた。ほとんどの航空会社が欠航しているのだから、無理もないか。羽を休めているのは、エルアル機ばかりだった。

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(8) 

さあ、今度は空港の入国審査をくぐり抜けなければならない。大きく息を吸って、気合いを入れる。そして、“威儀細”という僧侶の簡易袈裟のようなものをつける。これもローレンスと相談の上だった。

 

“何しに来たのか?”という質問に対して、“仏教を教えに来た”と答えるからには、ちょっとでも僧侶っぽい格好をしていなければならない。

 

そういえば、どこか別の国の入国審査でも、”あなた僧侶の格好していないじゃないの”と言われたことがあった。だから今回は、作務衣で飛行機に乗ったのだ。

 

そして入国審査。朝早かったためか、入国審査官は面倒くさそうにパスポートを見て、簡単な質問だけで、あっけなく僕を通した。

 

、、、こうして僕はイスラエル入国を果たした。何だか、まだ信じられない想いだった。

それはタイのホテルで朝4時半に起きてから、約33時間後のことだった。

 続く

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緊迫の中で眠りにつく、中東フライトの前夜

2014/08/19 Categories:

(1)

 バンコクの最初の3日間。午前中は、プールに入ったりしてゆっくりと過ごせた。街から離れた川沿いのアイビス・ホテル。午後は、現地で合流する2人と連絡を取り合うことや、現地の活動家に連絡を取ることなどで、けっこう忙しかった。

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<つかの間の休憩地、バンコク>


入国の際の注意点のレクチャーをローレンスからSkype電話で受ける。ムスッとせずにニコニコして、愛想よく「シャローム!」(ヘブライ語で、こんにちわ)と挨拶すること。係員の質問に対しては、決して躊躇するそぶりは見せない、など。

 こりゃ、一世一代の演技をしなくちゃならないな、と1日に何度も笑い顔の練習までする僕であった。(ウソ笑いがばれないか心配。僕は、ウソをつくのが下手なんだ)

すでに連絡先を聞いていた現地の活動家には、自己紹介とキャラバンについて説明を書き、ついては現地で会いたい旨をメールでしたためる。

 兵役拒否グループ、人権ラビなど、様々な人にメールを送る。また、たとえ紹介がなくても、Facebookで「これは!」と思った人にはメッセージを送って、やり取りした。

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<ガザの人にイスラエル人として謝罪し、”どうか安全でいて欲しい”と呼びかけるナオミ>

不思議に思うかどうかわからないが、イスラエルはかなりの右傾化した社会である。そして、そんな中で人権を奪われているパレスチナ人のことを想って活動している人などは、ごく少数派なのである。(例えば日本に兵役があって隣国を不当に占領し、国民の70%近くが右翼で、ヘイトスピーチまみれの状態、を想像してみて欲しい。いやー、想像しただけでも息苦しくて死にそうになる、、、)

 そんな中で、「パレスチナ人を苦しめることになるから」と言って、兵役を拒否して刑務所に入ったり、ガザの人に向けてyou-tubeで、「私は恥じています。申し訳なく想っています。」と、顔出しで放送したりするのは、相当勇気のいることなのだ。

 

(2)

僕はホテルの部屋で、荷物のまとめをしていた。大したものはないが、デモに参加して催涙弾を撃たれたときの防止用に、とゴーグルは買っておいた。(目が痛くなるもんな)そして何気にネットを開けると、現地で落ち合う予定のオリバーから連絡が入っている。

 何と! テルアビブの空港に向かう欧米のいくつかの航空会社が、欠航になったという、、、。空港近くにハマスのロケット弾が着弾したのがその理由。空港近くで、引き返した飛行機もあったそうだ。

 でも、僕の乗るトルコ航空は飛ぶ、と。

おお良かった!

また、やはり現地で落ち合うカナダのローレンスからも、「そっちは行けそう?」と問い合わせが来た。僕は、「トルコ航空は勇敢だからね」と自慢げに返信。

 するとローレンスからは、「カナダ航空は弱虫! 」 と返信が来た。どうやら欠航になったらしい。実はローレンスに、「中東に行くのは危ないと思ったらキャンセルしなよ」とメールしようと思っていた矢先のことだった。人を危険に巻き込む気はない。

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<右がローレンス・ユダヤ系念仏者である>

 

一応、トルコ航空のホームページをチェック。すると、「テルアビブ行きは、飛行停止」と書いてあるではないか!

 冗談じゃないぜ! オレは現地の人間たちとさんざん連絡取り合って準備して来たんだぜ。飛べや、おいこら!と、思わず心の中で毒づいてしまう。まるでヤンキーの兄ちゃんだな、こりゃ。

空がダメなら、陸路や船で行くことまで考える。でも、電話でそんな話をオリバーとしても、お互い力なく笑うだけであった。

 いや! まだ希望を捨ててはいけない。明日ちゃんと飛べよな、トルコ航空!と、僕は念をかける。(その瞬間、”大丈夫!”という声が心の中で聞こえたにも関わらず、アホな僕はその後も心配を引きずり続けた。)

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<飛べ! トルコ航空よ、、、>

 

(3)

夜、オリバーと再び連絡を取り合う。彼は、フランクフルトまで行けば、翌朝発のエルアル機(イスラエルの航空会社)が出るから、深夜の電車で7時間かけて行き、それに乗るという。

 僕はそのオリバーの決意に感動した!「あんたはエラい! 僕はあなたを尊敬するぞ!」と言ったら照れてたが、うーん、熱いぞオリバー!

僕は1人で行くことになる覚悟を決めていたが、オリバーの決意を聞いて「おお! おまえもか!」と闘志が湧いた。そして、彼のスピリットを讃えた。

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<近くの空港から出る飛行機がキャンセルになったため、電車で7時間かけて、遠くフランクフルトの空港に向かうことになったオリバー>

 

(4)

なんせ“地球ヒーリングキャラバン”のプロジェクトがかかっているんだ、と僕は必死だった。

 タオサンガのプロジェクトは、人の人生やいのちが豊かになるものだから、プロジェクトが成就しないことは、自分にとっていのちを失うに等しいことなのである。

僕は、念仏やタオ指圧だけでなく、また音楽活動もGAMEチャリティックスの普及も、ムキになってやっているが、それは、全部がタオサンガのプロジェクトだからに他ならない。

(この辺の僕の心情については、タイ大会について記したブログの後半部分をお読み頂ければ、あるいはわかって頂ける人もいらっしゃるかも知れない。それで一応アドレスを、、、。http://endo-ryokyu.com/past_blog/?m=201308 

 

(5)

夜、オースリアのエージェントと連絡がつく。トルコ航空は飛ぶかも知れない、と朗報。

“おお! そうこなくちゃ。こっちは念をかけたんだ、何がなんでも飛んでもらうぜ、トルコ航空!”。

でもたとえ飛んだとしても、「こんな状況の中で来るなんて、どうも怪しい奴だ、、、」と、テルアビブの空港保安員に思われないだろうか?と、一方で心配になったりもする。

、、、そんな緊迫の中、僕は浅い眠りについた。


続く







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緊張の中東行き準備(2)

2014/08/18 Categories:

(1)

さて、イスラエルのベングリオン空港で5人の保安要員に取り囲まれ、別室に連れて行かれた僕はどうなったか? 荷物はすべて開けられ、まるで針一本を探すような具合で入念に調べられた。さらにカーテンで仕切られた狭い別室で連れて行かれて身体検査。

実はこの時、検査官が薄い透明なビニールの手袋を付けたのを見て僕はギョッとなった。というのは、アラブ系の人間が肛門まで調べられることがある、という話を聞いていたからだ。、、、顔面蒼白。

人生最大のピーンチ!である。目の前が真っ暗になり、僕の額には脂汗がにじんできた。

、、、が、しかしそこまではなかった。(かくて、わが純潔は保たれたのである←おいおい、こんな時までジョーク言うな)

 ホッとするというよりは、まるで強盗に遭ったかのように僕はぐったりとしてしまった。尋問なども含めて1時間以上も(あるいはもっとだったかも知れない)拘束された後に、空港ロビーに解放されたときは、いすに座り込んだまま、しばらくは動けなかった。

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この時のトラウマがある上、さらにもしこの件が記録に残っていたらどうしよう? 入国拒否されないだろうか? と僕はしきりに心配していたのである。

イスラエル入国の際は、招待状があるとスムーズであることは、これまでの経験上知っていた。(10回ほど行ったんで)そこで、今現在の段階でつながりのある活動家たち数名に連絡を取るが、彼らからの招待状など、何枚あってもかえって怪しまれるだけだと言うことが判明。

イスラエルに親戚がいる人間たちの線もいろいろとさぐるが、なかなかスムーズではなかった。

しかし僕は、旧タオ指圧の生徒たちに連絡を取ることは、最後までためらっていた。

もうこれ以上は、ブログが先に進まないので、内容を大幅にはしょるが、さんざんすったもんだいろいろしたあげく、まずは面識のないが、ヵナダでタオ指圧を学んでいたイランという男性から招待状を送ってもらった。

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<入国審査が心配なので、イランには空港まで来てもらうことにしたが、面識がないので写真まで送ってくれて、なかなか親切な男である>

 そして、これもさんざんためらったあげく、ついに僕は、イスラエルの旧タオ指圧の生徒さんたちと向き合う決心をした。そして、一般向けの念仏ワークショップと、旧生徒さんたちとのギャザリング・ワークショップをする旨のメールを、アドレスのある2人に送ったのだった。(そしてこれは、後に思いがけない展開を見せることになった)

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イスラエルでワークショップをするなら、微妙な問題がからんでくる。例えば、ユダヤ教では「仏を念じる」などの行為はタブーであり、昔なら石打の刑というほどの罪である。

僕は“宗教は信じるものなんかじゃない!心で内証するもの以外は全部まやかしだ!”と、人に誤解されそうなことを、どこでも平気で公言してはばからない人間なので、「何言ってんだよ〜」の一言で済ましたいぐらいだが、まあそういうわけにもいかない。

今回のイスラエル・パレスチナは、オーストリアのオリバーと現地で落ち合って動くことになっていた。しかしカナダからユダヤ系のローレンスも呼んでくることにした。(と、簡単に言っているけど、もちろんこれは、別に全然、簡単な話ではない)

ローレンスは念仏者であり、また5年前にパレスチナで僕といろいろ活動して以来、すっかりイスラエルを擁護する発言はやみ、今では占領反対、パレスチナに自由を! という風になっていた。

念仏のことも、タオ指圧のことも、またパレスチナのことも、僕らただの外国人よりも、同じユダヤ人であるローレンスが説明した方がよほどスムーズである。

 

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<左がローレンス・右がオリバー/ 今回はこの3人で動くことになった>

 

 ことの複雑さについては後に説明するが、旧タオ指圧の生徒さんたちが今どんな気持ちでいるのかは、この時点での僕にはまるで見えていなかった。

すでにガザ空爆は始まっていた。イスラエル在住の日本人活動家のMさん情報では、観光客は激減したものの、入国する外国人に対するチェックは厳しくなっているとのこと。(その後の情報では、日本大使館が危険度レベルを上げた、とも)

タオ指圧のタマールからは、「本当に来るんですか、ミサイルが飛んで来ているんですけど、、、」、向こうの活動家からも、「本当にこんな時に来るの? 今、戦争なのよ。」、と。

あのねー。僕が怖いのは、ハマスのロケット弾なんかではなくて、イスラエルの保安要員なのよ。(とは返事しなかったけど)僕は、入国拒否されてタオサンガのプロジェクトが成就できなくなることが怖いのであった。“ただあなたの優しさが、怖かった〜♫” というのはかぐや姫の曲だが、それは僕にとっては、保安要員のことであった。

ガザでは毎日死者が増大していた。ローレンスは、「もう少し情勢が落ち着くまで待とうか、、、?」僕は、「人生は待つもんじゃない。創るもんだ」と即座に返答。冗談じゃない!

何ごともタイミングというものがある。今、動かなければ機を逸することが、僕には直感でわかっていた。僕はこういう直感だけは妙に働く。(GAMEチャリティックスのファイナル版で、空母から航空隊を発艦させる時のタイミングと同じなのだ) 

「しかしよりによって、何だってこんな時期にぶつかったんだろう、、、、?」こんなつぶやきが僕の口から思わず漏れないわけではなかった。

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こうして、ワークショップすることも決まった。日程は、後半にした。先にパレスチナでいろいろと動いて、タオ指圧の生徒さんには、「このような活動をしていた」と後で告げることにしたかった。

日本でほぼ休みなく動き回っていたので、途中のバンコクで3日ほど休んで行くことにした。その前日までは、東京道場で、タオ指圧クラスや念仏会と法話を2日間行う。中東に行ったら何があるかわからないので、いつにも増して一期一会のつもりでクラスを行った。まっ、気持ちは「最後の授業」っていうやつね。

フライトは、成田発バンコク行きにした。バンコクからは、トルコ航空でイスタンブール経由、テルアビブ行きのフライトである。

実は我ながらスケジュールに驚くのだが、事情があって、パレスチナの後はインドでも活動することになっていた。(これについてはあらてめてインド編で)それで、テルアビブの帰りは、イスタンブール経由のデリーというフライトを、オーストリアのエージェントに予約してもらっていた。

東京の3日間で空いているのは金、日の夜しかなかった。幸い、アーユス国際仏教ネットワークの枝木美香さんと、パレスチナ子どものキャンペーンのエルサレム現地駐在の中村哲也さんとは金曜日の夕方にお目にかかることができた。(僕的には、パレスチナで活動している人を紹介して頂くためでもあった)

そして、現地の人権団体のラビ(ユダヤ教の祭司)やキリスト教の団体なんかともつながったら良いのでは? などの有益なアドバイスなどを頂いた。

 また、折り紙のつるで有名な、広島のサダコ・レガシーの佐々木ゆうじさんともお目にかかることができ、ここでも有益な話し合いができた。

月曜日、例によって遅刻しそうになりながらも成田を出発。ガザの子どもたちのことを想って胸が痛かった、、、。

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続く

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