(1)
イスラエル入国管理局の面接官に問いつめられ、しどろもどろになって保安要員に取り囲まれる夢とともに起きた。
まだ暗い。時計を見ると、朝の4時半だった。
でも緊張で、もう眠れそうにもなかった。
イスラエルのセキュリティの恐ろしさは、5年前の出国の際のできごとがトラウマになり、骨身に染みていた。
例えばあなたが、ユダヤ人狩りをしているナチ時代のドイツに向かうとする。ユダヤ人の味方をするためにドイツに潜入するわけ。そしてゲシュタポの検問所に向かう、、、。
(どうです? 緊張するでしょう? これを想像して頂ければ、僕の気持ちがお分かり頂けるでしょうか? ←ナンチャって)
でも実際、モサド(イスラエル秘密警察)の恐ろしさは、ゲシュタポや戦前の日本の特高警察に匹敵する。彼らは、まるで冗談の通じる相手ではないのである。
僕はこのとき、人間は2つのものを同時に恐れることはできない、ということを知った。空港に着弾するかも知れないハマスのロケット弾よりも、僕はイスラエルの入国面接官の方が、よほど恐かったのである。
入国拒否だけはされたくない。(プロジェクトを挫折させられるのはイヤだ)僕の恐怖は、結局はその1点に由来していた。
起きて、入念な準備をする。
こんなことを聞かれたらどうしよう? もし、こんなことを突っ込まれたら?、と妄念が妄念を呼びそうだった。
前日までは、朝はゆっくりホテルの朝食を食べてから、空港に向かおうと思っていた。が、食欲はまったくない。緊張で食欲がなくなる、というのはこういうことか、と思った。
昨日のブログでも書いたが、実は昨夜、「大丈夫だよ」という仏様からの啓示を受けていた。ここで啓示のみを信じて安心感に浸っていれば良さそうなものだが、そこは凡人の悲しさ。つい、いろいろといらぬことを考えてしまう。
それにしても、、、とふと思う。なぜ自分はこんな緊張を強いられるようなことをやっているんだろうか? “えーい、一体オレが何をしたっていうんだよ!” なんて毒づきたくもなる。
何でこんな悶々としなけりゃならないんだよ〜。しかし考えてみたら、ガザの子どもたちが一体何をしたっていうんだ、とも思う。
なんで何の罪もない彼らが、爆弾に怯え、傷つき、親を失い、死ななければならないんだ、、、。そう思って、自分を奮い立たせる。
(2)
いつもは極力のんびりと空港に向かう僕である。(なにせ、今回の成田からバンコクに向かう飛行機でも遅刻しそうになったのだ)それが、フライト3時間前なんていう前代未聞の早さで空港に着く。
テルアビブ行きの飛行機に乗るため、深夜の電車で7時間かけてフランクフルトに向かったはずのオリバーに電話する。が、連絡がつかない。一体、今どこにいるのだろうか?
トルコ航空のカウンターが開いたようだ。荷物を押していく。カウンターで、チケットとパスポートを出す。カウンター嬢はチケットを見るなり顔を曇らせる。思わずハッとなる僕。カウンター嬢は、「テルアビブ行きは飛行停止ですよ」と僕に非情の宣告をする。
ああトルコ航空よ、おまえか!? うぅ、弱ったあ〜! 思わず僕は、「じゃあ、テルアビブに行く別の航空会社の飛行機に振り替えてくださいよ!」と詰め寄る。
すると、カウンター嬢はあきれたように、「ベングリオン空港そのものが閉鎖されたんですよ、ロケット弾で。戦争なんですよ、あなた。テルアビブに行く飛行機はありません」 何にいー、空港閉鎖だと〜!!!? 思わず僕は天を仰いだ。
しかし、ここでくじけてはいけない。ヨルダンから陸路でパレスチナに入るというルートがある。これについては、かねてから聞いていた。
だから僕は、「では、ヨルダンのアンマン行きに振り替えることはできますか? その可能性について教えて下さい」、、、カウンター嬢は、「少しお待ち下さい」と言って、上の人に相談にいった。
正直、今回ヨルダンから陸路でパレスチナに向かうのは気が重かった。アンマンからエルサレムまでの行き方を僕は知らない。その上、超がつく方向音痴という特技を僕は持っているのである。
もちろん、時間のある気ままな旅だったら、迷いながらでも人に聞きながら行けば良いので問題はない。
(たとえば昨年の1月、タイのカンボジア国境近くにある街のエイズ孤児院の住所がわからないままバンコクから向かい、英語もろくに通じない田舎街で施設を探し当て、NPOユニの寄付金を届けたことがあった。時間のある方はブログをご参照下さい。:http://endo-ryokyu.com/past_blog/?p=2524
しかし今回は、テルアビブでもインドでもワークショップをやるため荷物が多い。通常の旅行用品の他に、木魚やら僧衣、治療道着、仏さまの掛け軸、さらにギターまである。
また、陸路で行くパレスチナ境界のイスラエル当局の検問所は、いっそう警戒が厳重だと聞く。、、、必ず入国できるという保証もない。
そんな状況の中で、アンマンから荷物を抱えてパレスチナ境界線のイスラエル当局検問所に向かう、、、。考えただけでも気が重くなるような話であった。
(4)
なかなか戻って来ないカウンター嬢を待ちながら、オリバーに再び電話する。果たして彼の方はどうなったのか? 飛行機に乗れたのか? 乗れなかったのか?
もしオリバーが入国を遂げているなら、這ってでも行かなければならない。(「走れメロス」なのだ)しかし、電話は通じない。
カウンター嬢にはさんざん待たされた。あげく、「アンマン行きは無理ですね。そもそも接続が悪いし、お勧めしませんよ」。そこで僕は、「アンマンがダメなら、イスタンブールまでは行かせて下さい。イスタンブールで、空港の閉鎖が解けるのを待つから」と返す。
さらに上の人に相談しに行ったカウンター嬢。ずいぶん経ってから戻って来て最後に僕に言ったのは、「明日には空港閉鎖が解けて飛行再開すると思うから、今晩23時のイスタンブール行きの便に乗って下さい。そしてイスタンブールで、朝6時のテルアビブ行きに乗りかえて下さい」であった。
今はまだ朝の9時。空港カウンターが開く夜8時まで、どうやって過ごそうか? 僕は、へなへなと、気持ちがくずれそうになった。
なぜ僕の気持ちが、ここでくずれそうになったのか? それは、繰り返しになって恐縮だが、自分が保安要員の質問にうまく答えられるか心配で、その緊張がずーっと持続することに神経が耐えられなくなって来ていたのである。
「ホテル提供してくれないんですか?」という僕の質問には、「すいませんが、できないんですよ」と、つれない返事であった。(そういえば、戦争や地震などの自然災害の場合は保証しない、という規定があったなー)
(5)
しかし文句は言えない。午前中いっぱい空港をウロウロしたあげく、ネットで空港近くの安いホテルを探した。夜まで休むためだ。午後、スタッフに迎えに来てもらう。
やっと2時頃になって宿に入り、“あ〜、やれやれ、、、”とベッドに横になる間もなく、僕は大事なものがないことに気づいて蒼くなった。携帯のバッテリーチャージャーがないのである。
テルアビブの空港に着いたら、Mさんに電話で連絡を取り、エルサレムでの活動をコーディネートしてもらうことになっていた。
現地に着くのが1日遅れになってしまったので、着いたその日から難民キャンプに行ったり、またデモに参加して活動家たちを紹介してもらったり、ワークショップに来て欲しいという、左派の小学校の先生とも会うことになっていた。
もし、連絡が取れなくなったら、計画が遅れる、、、。
僕はホテルに事情を話し、電気屋に行くためにホテルの車に乗せてもらった。
外に出ると、のんびりとしたタイの熱帯的な空気、、、。そんな中で、緊迫したところに向かおうと緊張している自分が、何だか滑稽に思えてきた。
バッテリーチャージャーを購入してホッとしたのか、お腹が空いてきて、帰りには屋台でのんびりとご飯を食べた。
(3)
その後、ホテルであれこれと考えながら夜を待つ。
果たして本当に飛ぶのか? 飛ばないのか? ネットでトルコ航空を調べてもわからない。
勇敢なオリバーは、相変わらず行方不明だ。
ローレンスに電話して、空港閉鎖されたよ、と告げると絶句していた。
そして夜8時、再び空港へ行き、トルコ航空のカウンターの前に立ってチケットを出し、事情を説明する。すると、「今、イスタンブールで、ベングリオン空港まで飛ぶかどうか会議中です。1時間後に来て下さい」とのこと。
軽い食事(ワンタンスープ)をしながら待つ。
そして1時間後に行くと、「まだ結論出ていないから、もう1時間、、、」
やれやれ、すでに空港カウンターのチェックインは始まっている。結局僕は1時間も待ちきれず、30分後に行くと、「良いニュースです! 振り替え手続きしたらチェックインできますよ!」
やった! と僕は、1人でガッツポーズをしてしまった。思わず顔がほころぶ。
そして無事、ボーディングパス(搭乗券)を受け取り、出国した。
しばらく歩き、搭乗ゲートに着いてイスタンブール行きの搭乗券を差し出すと、「あなたはテルアビブ行きのMR ENDOですね。テルアビブ行きは、またキャンセルされました」
「ええぇー!!!」
(6)
「それでエルアル(イスラエル航空)に振り替えますので、22:55までにエルアルの搭乗口まで急いで行って下さい」。あまり時間がない。職員に連れられ、焦って小走りで向かう。
そしてようやく着いたブースのようなところで、エルアル航空テルアビブ行きの搭乗券をもらう。
「荷物はどうなるんですか?」と聞く。「エルアルに移動します」、と。「ただその前に、保安要員の面接がありますから、それを受けて下さい」
とうとう来たか! 緊張が高まる。めまいがしそうだ。でも緊張しているところを見せてはいけない。僕はゆったりとしているふりをする。“面接官に対してはニコニコしているように」というのは、Mさんにも枝木美香さんにも言われていたことである。
面接官のいるゲートに向かいながら、“人間一度は経験しなければならないことがある。それは死ぬことだ”、なんて考えていた。
そう、死ぬ気でやれば何だってできる。一世一代の演技だってできるんだ。
そして僕はまったく運が良かった。なんと、僕が当たった面接官は、タイ人の女の子だったのだ!(今まで10回行った中でもこんなことは始めてだった)
世界中の空港に面接官を配備しているイスラエルである(その経費は莫大なものだろう)。人手不足で外国人の面接官をやとっているのかとも考えたが、まさかそれはないだろう。
あるいはイスラエル人と結婚して改宗し、ユダヤ人となったタイ人かも知れない。(イスラエル人と結婚するには、ユダヤ教徒にならなければならない)
とにかくタイ人相手なら、僕は様々な質問にもリラックスして演技して答えることができ、保安面接を無事クリアーできたのだった!
しかも驚いたことに、”イスラエルには仏教を教えに行く”という僕を胡散臭げに見るどころか、彼女はむしろ好意的なまなざしで、面接を終えてくれたのである。仏教国タイ万歳!
(7)
僕は、自分がこの1か月間、悪戦苦闘して手に入れた招待状や、意を決して決めたテルアビブ念仏ワークショップのチラシをリュックに入れて持っていた。(これらは最初からいきなり見せるのでなく、疑われたてから見せることで効果を発揮させる、というローレンスの作戦だった)
しかし、それらの様々な準備工作がいらなかったほどであった。が、しかし“招待状もチラシも持っている”という自信がスムーズに面接をクリアーさせたのか、とも思う。
それにしても何という偶然(み仏のご加護)だろうか?
1時間待たずに30分だけ待ってからカウンターに行くことで、搭乗券を手に入れタイを出国した。その後、”やはりテルアビブ行きは飛ばない”ということになったが(あるいは”飛ぶ”という情報が間違っていたことに気づいたのか?)、すでに出国させてしまった乗客(僕のことね)を呼び戻す手はなかった。
そこで、ちょうど同じぐらいの時刻に離陸するエルアル航空(テルアビブ行き)があったので、”そっちに乗せよう”ということになったに違いない。
この日、テルアビブ行きの飛行機を飛ばしているのは、エルアル航空だけだろう。たとえイスラエル政府が、ベングリオン空港の安全宣言を世界に出しても、結局、どこの航空会社も飛ばなかったのだ。
だから、イスラエルに帰れなくなった多数のイスラエル人がいた。イスラエル政府としてはメンツもある。また、彼らイスラエル人たちが自国に帰れるように、エルアル機をどうしても飛ばさなければならなかった。運良く僕はそれに乗り込むことができたのである。
眠れるはずもなく離陸11時間後、機はベングリオン空港に着陸した。(朝6:45AMだったかな) 。閉鎖が続いていた飛行場は閑散としていた。
飛行場には、唯一、ヨーロッパ航空1機だけが、着陸していた。ほとんどの航空会社が欠航しているのだから、無理もないか。羽を休めているのは、エルアル機ばかりだった。
(8)
さあ、今度は空港の入国審査をくぐり抜けなければならない。大きく息を吸って、気合いを入れる。そして、“威儀細”という僧侶の簡易袈裟のようなものをつける。これもローレンスと相談の上だった。
“何しに来たのか?”という質問に対して、“仏教を教えに来た”と答えるからには、ちょっとでも僧侶っぽい格好をしていなければならない。
そういえば、どこか別の国の入国審査でも、”あなた僧侶の格好していないじゃないの”と言われたことがあった。だから今回は、作務衣で飛行機に乗ったのだ。
そして入国審査。朝早かったためか、入国審査官は面倒くさそうにパスポートを見て、簡単な質問だけで、あっけなく僕を通した。
、、、こうして僕はイスラエル入国を果たした。何だか、まだ信じられない想いだった。
それはタイのホテルで朝4時半に起きてから、約33時間後のことだった。