避難所の野菜不足は深刻である。聞けば、パンやお握りなどの炭水化物ばかりの食事だという。
僕は一ヶ月近く、米と醤油だけで暮らしたことがあった。家出していた17歳か18歳のころのこと。
だから、炭水化物だけの食事が、どんなに大変でつらいことか、よくわかるのだ。
身体がだるくなるし、無気力にもなるのだよ。栄養のある食事ができないのって、けっこう心にもダメージなんですよ。
一ヶ月近くぶりで肉野菜炒めを食べた時に、涙が出そうになったのを憶えている。

避難所の野菜不足についての情報は、昨日入った。
それで、何とか気仙沼近郊から配送する方法はないか、ハセさんも僕も探しまわった。
しかし、なかなか見つからない。
気仙沼まで、届くまで数日かかるかも知れないからと、
八百屋さんが配送をいやがるのだ。
まゆさん曰く、探している間に時間が経つから、とにかく京都から送ってしまいましょう、と。
そりゃ、そうだ。

ということで、今日は早速、まさとさんとまひろさんの三人で野菜問屋に行った。
その足で宅急便屋へ行き、気仙沼に野菜を送った。1日も早く、新鮮な内に届いてくれよ〜。頼むぜい。
野菜の内訳は、じゃがいも30kg  、タマネギ 20kg、  大根30kg, 人参10kg。大箱6つぐらいにはなった。
他にも被災地に野菜を送って下さる人が、もっと出て来て欲しいなあ。
宮城で配送ボランティアをしてくれる人も探し続けている。

 

唐桑町に野菜を送る

<写真は、宅急便屋さんの前。着いた時のことを無意識に想像したのか、ちょっと笑顔。>

 

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他サイト関連記事

長丁場の生活に必要なものは? / お寺がやってるNPO GUC

物資を送りました / お寺がやってるNPO GUC

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ブログというのは、時間を削って書くものだが、その削る時間すらない日々もある。
何も更新していない時は、かえってそんな場合かも知れない。
ここ数日の間にやったことを、ざっと並べて書こうとしたら、考えただけで疲れるような気がしてやめた。

そう言えば、十年も前に、ある外国人の女性に “あなたの生活を想像しただけで疲れるわ” と言われたことがある。 そうか、そういう意味だったのか、と今になって、妙に納得した。まあ、いいや。

今日は、祖牛さんと、震災チャリティ・イベントの場所のチェック。
祖牛さんは髭を伸ばしていて、まるで老子みたいな風貌。

でも、つぶらな瞳を持った人である。

そぎゅうさん

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指圧関連書籍の新刊の撮影

今日は朝から、指圧関連書籍の新刊の撮影。

モデルは東京センターの指導員の後藤りゅうさんとあかねさん。
自分は写らないから、のんびりと立ち会うつもりだったのだが、結局そうもいかず、午後3時までハードワークだった〜。

撮影してくれたのは、雨森慶為カメラマン。
本願寺にお勤めの浄土真宗大谷派のお坊さんである。彼の写真も、タッチが良い。

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夜は、震災チャリティイベント/コンサートの相談のために、祖牛さん(元比叡山のお坊さんで、パーカッションをやる人)と会いに出かける。
会ったのは、田中優さんという人の講演会場。この講演が実に素晴らしかった。

田中優さんの講演

心に止まったのは、日本にはクリーンエネルギーだけでずべてやっていけるだけの技術もノウハウも十分にある。それによって、毎年23兆円という海外からのエネルギーの輸入の費用が不要になる。また、その分を回すことで地域経済も活性化するし、日本全体が良くなる。という部分。

田中優さんの講演は、今まで直感的に何となく思っていたことを、極めて具体的でクリアーにしてくれた。他の人々にもぜひ聞いて欲しい話だと心から思った。

( 田中優さんの講演→http://www.ustream.tv/recorded/14058798 19:00過ぎからはじまります)

ところで祖牛さんとは、沖縄から台湾に向かう船の中で知り合い、三週間一緒に旅した。
プロジェクトについては、まず企画書を書いて、具体的に話を詰めて行こうということになった。

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夜、アメリカサンガのデボラから支援金1000ドルの送金の知らせ。京都センターからは、第三次の物資送付の作業が終わったところだったが、現地の物資不足を思えば、支援はいくらでも必要である。

聞けば、未だに風呂も入れずパンとお握りしか口にできなお避難所が、まだ16もあるという。胸が痛む。少しでもさらに支援をと思うので、アメリカからの送金は、温かくてありがたかった。

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カナダ在住の日本人に聞いたのだが、海外では、日本全体が放射能まみれみたいなイメージになっているそうだ。

日本では、福島を同じように思いかねないな、と思った。
<海外から見た日本→日本から見た福島>が相似形という図式である。

ところで、唐桑町の避難所に洗濯機が入ったという知らせが入った。
また、「おかげさまで指圧していただいた避難所は、雰囲気がとても明るくなりました」というメールも、アキラさんから入っていた。   それは良かった! 

その他、カナダのタオサンガがチャリティ指圧などで集めてくれた、2000ドル(約17万5000円)が届いたので銀行に行く。
明日センターから搬送する救援物資の購入費用に当てることができる。

一方、アメリカのサンガからは、ソーラー電気釜を10台送ると連絡があった。ハイチの地震では重宝したらしい。早速、送り先を調べ始める。

皆さんからの支援で、より大きな支援をできるのがありがたい。

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京都に帰ってから、「ブログを見ました。週末に洗濯機を気仙沼に持って行けます。他の救援物資を持っていくことも可能です」という知らない人からメールが入った。このブログのことか、あるいはNPOユニの方かは不明だ。でも僕は、とても嬉しくなった。人の利他心に触れることは一番うれしいことだ。

早速、いろいろな避難所に問い合わせの電話をかけるが、なかなか通じない。やっとクライブからの情報で、気仙沼の青果市場の避難所と連絡が取れた。

先方の担当の方は、洗濯機をとても喜んでくれたようだ。他にも必要なものは? と聞くと、缶詰、レトルト食品、炊き出し用の野菜とのことで、それらもメールの人にお願いした。

ところでクライブというのは、20数年前にネパールで知り合ったイギリス人。友人である。今はNPOユニの会員で、ラカインの子供の里親でもある。彼は今、毎週のように東北に行って救援物資を届けている。

http://www.ryokojin.co.jp/charity/clive.html

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<4月7日>

この日も朝から、施術が続く。コーディネィターは、有無を言わさず、こちらに患者さんを流してくる。相手は生身の傷を負った人たちだ。一人もおろそかにできない。丁寧に、悔いのないように、最大限できる治療をひたすら続ける。“悔いのないように”という意味は、与えたことで悔いを残すことはない。しかし、与えなかったことは人生の“悔い”として残るからだ。

 

気仙沼 災害対策本部前で義援金をお渡しする

 

夕方、被災した電気屋さんに10台分の洗濯機の代金(338000)渡す。(写真は、災害対策本部前/一番左がアキラさん)やがて夜になった。避難所に電気がついた。地震以来、三週間ぶりに電気が復旧したのである。一方、施術は続いた。今日も、十二、三診ただろうか・・・。

アキラさんの家に戻って、電気が復旧した安堵感に浸っていたら、11時30分頃、本格的な地鳴りがした。その後、激しく揺れる。せっかく復旧した電気が、再び停電し闇の世界になった。別棟の建物の方が丈夫とのことで、激しい揺れの中を移動。

アキラさんが懐中電灯を付け、ラジオのスイッチを入れる。地震と津波の情報を聞くためだ。ラジオでは、今の地震はマグニチュード7.4と言っている。アキラさんが、ふと“こりゃ、津波がまた来るかな”と漏らす。

再び津波が来たら、堤防が倒壊しているから、この家まで襲うかも知れないと、一瞬覚悟する。・・・しかし、津波は来なかった。
”こりゃ、眠るが勝ちだ”と思って寝たが、その後も、強い余震が断続的に来て、朝まで何度も揺れで目が覚めた。

翌日は、高速道路がストップ。停電で信号もつかない。仙台に帰りつくのに、7時間近くかかってしまった。翌日も、ずーっと身体が揺れている感じがして、最初は地震かと思った。これが地震酔いというものか。

 

遠藤喨及 避難所で指圧

気仙沼 避難所のおばあさん方

気仙沼 避難所

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<4月6日>

朝起きて、すぐにでも避難所に行って、ボランティア指圧に精を出すつもりだった。しかしその前に、まず自分に課したことがある。  それは、津波被害の現状を撮影することである。昨日までは、人の不幸を撮るような気がして、気持的にどうしてもできなかったことだ。  津波は、アキラさんの家の20m手前まで来たそうだ。下の集落は、壊滅である。また唐桑町では、家を失って避難所にいる人は700人。60人が、津波に飲まれて亡くなった。取り残された家族は、避難所にいる。  避難所にいるのは、すべてを失ったり、家族を失ったり、かつ九死に一生を得た人々だ。僕が今日明日と治療するのは、そのような人々だ。

気仙沼 車が建物の下敷きに

<写真/津波で車が家の下敷きに>

<写真/スーパーマーケットの屋上に車が・・・>

 

撮影は30分ほどで切り上げて、避難所へと向かう。僕は、人見知りする方なので、患者さんのコーディネイトを、泊さんにお願いすることにした。
もちろん、自分でやらなければならない局面だと、人見知りする性格とは別に、勝手に身体や口が動いて、場面を展開させてしまうことはよくある。
例えばパレスチナでは、難民の家族の話を聞いたり、路上でボランティア指圧などを行ったのだが、この時は、同行していたローレンスが、コーディネイター向きでなかったため、自分で動いてそのような状況を作ったのだった。

でも今回は、泊さんにお願いすることにした。それで、“お陰さま”と言うべきだろうが、ひっきりなしに患者さんが回されて来た。しかも、30年来の腰痛だとか脱臼だとか靭帯を切った等々、重い症状の患者さんたちばかりであった。

どうやら僕は指圧をまだ忘れていなかったらしい。脱臼の患者さんも含めて、皆さんよく治っていかれて喜ばれた。しかし皆さん、大変なショックを心の深い所に溜めているため、通常の倍のエネルギーと時間がかかった。

僕は、一人一人に経絡診断を行った。そして、一回の治療ですべての症状を取り去るという覚悟で治療にあたった。極度に精神集中して、必死な想いで施療しているから、実は内心ヒイヒイものであった。

気仙沼避難所にてタオ指圧を施療する

この日に、治療した患者さんは、12、3人ほどだった。ふぅー。

夜、アキラさんの家に戻ったら、テーブルの上にビールとお酒が置いてある。どうしたんだろう? と思っていたら、靭帯を切ったという患者さんが、“お陰さまで、ちゃんと歩けるようになりました。診て頂いたお礼です”と届けて下さったそうだ。

その方は、避難所にお見舞いに来た、自宅避難の人だったらしい。自宅で無事だった、貴重なお酒を下さったのである。ありがたい!と、アキラさん、泊さんの三人で乾杯する。自粛しなくて良いよね。

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気仙沼の唐桑町の災害対策本部にやっと着いた時は、すでに夕方5時近くなっていた。
朝は、仙台駅近くでレンタカーを借りたり、必要な救援物資を購入したりと、あたふたする。そして、昼過ぎにやっと出発。
天才的方向音痴の僕は、“果たして無事に着けるのだろうか?”と、実は内心、緊張しまくりである。2時間ほど(?)で高速を降りると、そこは壊滅した気仙沼市だった。
あまりの光景に圧倒される。くらくら目眩がするほどだ。街そのものが崩壊している中を疾走しているなんて、とても現実とは思えない。なぜか一瞬、脳裏をよぎったイメージ。なぜかそれは、映画「猿の惑星」に出てくる、核戦争で都市が壊滅した後のシーンだった。
しばらく行くと、女子高校生たちが集団登校しているのに出くわす。はた目には、健康的に見える女子高校生たち。彼らが、壊滅した街を歩いている。そんな街の光景を写真に撮ろうかと、一瞬は思った。しかし壊滅した街を撮るなんて、人の不幸を撮るようで、どうしてもできなかった。
今回、写真が少ないのはこのためである。でも、明日からは思い切って、少しは撮影もすることにしよう。それが、現場に足を踏み入れた者の勤めかも知れないと思うから。


さて途中、家が無事だったアビスさんという人の所に寄って、放射能対策の食事療法のコピーなどを頂く。災害対策本部に到着したのは、その30分後である。
対策本部の小川さん、穀田さんらと顔を合わせて、お話しを聞く。また、持って来た救援物資をお渡しする。
NPOユニでは募金活動等も行い、すでに相応の物資を送っているのだが、それらの荷物は、まだ届いていないらしい。やはり直接、来て良かったと思った。
またNPOユニが、各避難所に、合計で10台の洗濯機を設置する旨をお伝えすると、皆さん、本当に喜んで下さった。
これからでも、何人か施術できると思っていたのだが、電気の復旧していない唐桑町の避難所でのボランティア活動は、夕方には終了とのことだった。
宿泊は、避難所の片隅にでも寝かせてもらうか、車中でという覚悟だった。しかし唐桑町には、タオ指圧の生徒さんが住んでいて、(歯科医のアキラさんである)彼の家に泊めてもらえることになった。彼は、レゲエバンドで、パーカッションをやっているそうだ。
また、同じくタオ指圧の生徒さんである、泊さんも来ていた。彼はすでに3日ほど、避難所でハセさんと共にボランティア指圧を行っていた。(泊さんは、ウワサでは、元ブルータスの編集者だったそうだ。後に、東大卒と判明するが、本人曰く、今はプータローとのことである)
佐藤家で、ろうそくとランタンの明かりの下で出してくれたお握り。これがまた実に格別で、本当に美味だった。おかずは缶詰だが、貴重な食料の中から分けてくれた食事だから、美味しくないわけがない。
明日からはボランティア指圧の予定。時おり断続的な余震がある中、被災地の4月4日は暮れた。

 

京都新聞に掲載されたインタビュー

被災地への支援活動が、新聞に掲載されました。

 

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いつまでも時差ボケだとか言っていられないと、被災地の気仙沼に向けて京都を出発したのは、4月3日(日)だった。
すでにヨーロッパから帰国して、一週間以上過ぎていたが、まあ仕方がない。毎朝5時まで寝れなかったのだ。

被災地へ向かう目的は、ヨーロッパからの支援金で、被災者の方々に必要な物資を購入して届けること。
避難所で、ボランティア指圧をすること。

なにしろ、今後の支援活動を考える上でも、現場に行かなければ何もわからない。
まずは、現地に行って何らかの活動をしようと、出発したのだった。

仙台に行くバスは、朝にしかないと聞いていたので、東京に一泊して翌朝、新宿から高速バスに乗る。
もっとも、まだ時差ぼけが続いているので、東京でも朝まで眠れなかった。

実を言うと、この日、やっと眠りに入った瞬間に、携帯に原稿のメールが入って起きてしまった。
そしてそのまま起きて原稿の作業を始めたので、徹夜でバスに乗ることになってしまった。

仙台へ向かう高速バスの窓から
<写真/仙台に向かう高速バスの窓から>

 

途中、福島のパーキングで休憩。さすがに消防隊やら自衛隊の人たちを見かける。
“おっ! あれは、オバマが讃えたFUKUSHIMA 50の英雄たちか。ご苦労様ス!”という感じ。
ここは原発から何キロの距離だろう? とも思うが、こんなことを考えること自体が、風評被害のもとになるの かも知れない、と自分を戒める。

 

消防のみなさん


先に行っていたハセさんの話によると、気仙沼の唐桑町では、電気も復旧していないし、灯油もない。しかも寒い、雪だ、とのこと。
“そういえば、ダージリン(インド)も寒かったしなあ、、、”と全然関係ないことを考えて、妙な具合に自分を納得させながら、京都では、厚手の服を用意していたのだった。

その他、被災者の方は着替えもできない状態とか、現地では、ホカロンが求められているとかも、他から聞いた。
それで、ホカロンをトランクに詰められるだけ 詰めて来た。
被災地の人のことを思うと、自分の着替えは入れていられなかった。
着替えを持たないことについては、ほぼホームレス状態だった、ティーンエイ ジャーの頃を思い出して、自分を納得させた。

夕方、仙台に着いた後、気仙沼での活動から戻ってきて、夜行バスで東京に戻る予定のハセさんと合流。
さっそく現地で必要とされている物資について、顔を突き合わせて相談する。


ハセさん曰く、他の避難所のことはわからないが、唐桑では細かい物資よりも、敷き布団か洗濯機が必要ではないか? とのことである。
というのは、着の身着のままで逃げて来た避難者には、敷き布団がない人が多い。冷たい床に座布団を敷いて、その上にシーツをかけていたりする。ゆっくり眠れないのでつらそうだ、とのこと。必要と思われる敷き布団は50枚だそうだ。

うーん、果たして仙台市内で50枚の敷き布団など手に入るのだろうか? トラックをレンタルして、50枚も敷き布団を運べるのだろうか? と、ちょっと考えてしまった。

また、洗濯機については、ハセさんが被災者の声をやっと聞き出した上でのことだという。以下がそれである。

「避難所に発電機があるが、冷たい水で洗濯するのがつらく大変で、、、、。人数も多いので、贅沢かも知れないが、洗濯機があれば大変ありがたいのだが、、、」、と。

聞けば、津波で店も家も流された電気屋さんがいるという。彼が、ぎりぎりの値段で見積もったというメモとカタログを見せてもらう。
必要な台数は、全部で10台。唐桑町では700人が家を失っているので、これを各地の避難所に設置する。総額¥338000円とのことで、ヨーロッパから の義援金3055ユーロに近い額である。
ならば、余った多少のお金で、生活に必要な他の救援物資を購入することにすれば良いか、と思案する。

結局、ハセさんとも相談の上、GUCとして洗濯機10台を、唐桑町の各避難所に送ることに決定する。

その後、四人でささやかな夕食。メンバーの内訳は、僕とハセさんの他に、仙台のテレビ局にお勤めの長谷部牧さん。また、ニューアルバムのライナーノートを 突然依頼し、ぎりぎりの締め切りでも快く書いてくれた、ライターの福田妙子さん(電子ブックの拙著、「気の幸福力」の編集者)である。 

被災地の人々のことを想うと、四人で夕食を食べている写真を撮る気になれなかったので、写真はナシ。これが自粛ムードというものだろうか?

 

 

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YOU-TUBEに、 Pray for Japan (日本のために祈ろう)というメッセージを海外メンバーが見つけて送ってくれた。

東日本大震災で日本人がとったふるまいや行動を見た時の想いを、 外国人が、写真と文章で感動的につづったものだ。(バックにはWe are the World が流れている)  文章は英語なんだけど、思わず感激してしまってから、はてな? と思った。
というのは、オリンピックとかワールドカップとかにも僕には全く興味がない。

およそ、日本人としてのアイデンティティが希薄な人間であることを、自認していたからである。
それで考えてみたのだが、ようするに、人が、困難な中にあっても、他者を助けたり、 また、エゴ(我)を抑えたりしている姿を見て、感動したのだった。 この外国人もそうだったのだろうと思う。

被災地の多くの日本人がそうだと知って、僕は感激した。 危機的な状況でこそ、人の持つ人間としての本当の価値が顕れると思う。

 

 

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