いつまでも時差ボケだとか言っていられないと、被災地の気仙沼に向けて京都を出発したのは、4月3日(日)だった。
すでにヨーロッパから帰国して、一週間以上過ぎていたが、まあ仕方がない。毎朝5時まで寝れなかったのだ。
被災地へ向かう目的は、ヨーロッパからの支援金で、被災者の方々に必要な物資を購入して届けること。
避難所で、ボランティア指圧をすること。
なにしろ、今後の支援活動を考える上でも、現場に行かなければ何もわからない。
まずは、現地に行って何らかの活動をしようと、出発したのだった。
仙台に行くバスは、朝にしかないと聞いていたので、東京に一泊して翌朝、新宿から高速バスに乗る。
もっとも、まだ時差ぼけが続いているので、東京でも朝まで眠れなかった。
実を言うと、この日、やっと眠りに入った瞬間に、携帯に原稿のメールが入って起きてしまった。
そしてそのまま起きて原稿の作業を始めたので、徹夜でバスに乗ることになってしまった。
<写真/仙台に向かう高速バスの窓から>
途中、福島のパーキングで休憩。さすがに消防隊やら自衛隊の人たちを見かける。
“おっ! あれは、オバマが讃えたFUKUSHIMA 50の英雄たちか。ご苦労様ス!”という感じ。
ここは原発から何キロの距離だろう? とも思うが、こんなことを考えること自体が、風評被害のもとになるの かも知れない、と自分を戒める。
先に行っていたハセさんの話によると、気仙沼の唐桑町では、電気も復旧していないし、灯油もない。しかも寒い、雪だ、とのこと。
“そういえば、ダージリン(インド)も寒かったしなあ、、、”と全然関係ないことを考えて、妙な具合に自分を納得させながら、京都では、厚手の服を用意していたのだった。
その他、被災者の方は着替えもできない状態とか、現地では、ホカロンが求められているとかも、他から聞いた。
それで、ホカロンをトランクに詰められるだけ 詰めて来た。
被災地の人のことを思うと、自分の着替えは入れていられなかった。
着替えを持たないことについては、ほぼホームレス状態だった、ティーンエイ ジャーの頃を思い出して、自分を納得させた。
夕方、仙台に着いた後、気仙沼での活動から戻ってきて、夜行バスで東京に戻る予定のハセさんと合流。
さっそく現地で必要とされている物資について、顔を突き合わせて相談する。
ハセさん曰く、他の避難所のことはわからないが、唐桑では細かい物資よりも、敷き布団か洗濯機が必要ではないか? とのことである。
というのは、着の身着のままで逃げて来た避難者には、敷き布団がない人が多い。冷たい床に座布団を敷いて、その上にシーツをかけていたりする。ゆっくり眠れないのでつらそうだ、とのこと。必要と思われる敷き布団は50枚だそうだ。
うーん、果たして仙台市内で50枚の敷き布団など手に入るのだろうか? トラックをレンタルして、50枚も敷き布団を運べるのだろうか? と、ちょっと考えてしまった。
また、洗濯機については、ハセさんが被災者の声をやっと聞き出した上でのことだという。以下がそれである。
「避難所に発電機があるが、冷たい水で洗濯するのがつらく大変で、、、、。人数も多いので、贅沢かも知れないが、洗濯機があれば大変ありがたいのだが、、、」、と。
聞けば、津波で店も家も流された電気屋さんがいるという。彼が、ぎりぎりの値段で見積もったというメモとカタログを見せてもらう。
必要な台数は、全部で10台。唐桑町では700人が家を失っているので、これを各地の避難所に設置する。総額¥338000円とのことで、ヨーロッパから の義援金3055ユーロに近い額である。
ならば、余った多少のお金で、生活に必要な他の救援物資を購入することにすれば良いか、と思案する。
結局、ハセさんとも相談の上、GUCとして洗濯機10台を、唐桑町の各避難所に送ることに決定する。
その後、四人でささやかな夕食。メンバーの内訳は、僕とハセさんの他に、仙台のテレビ局にお勤めの長谷部牧さん。また、ニューアルバムのライナーノートを 突然依頼し、ぎりぎりの締め切りでも快く書いてくれた、ライターの福田妙子さん(電子ブックの拙著、「気の幸福力」の編集者)である。
被災地の人々のことを想うと、四人で夕食を食べている写真を撮る気になれなかったので、写真はナシ。これが自粛ムードというものだろうか?