‘旅’

好奇心はいつでも全開       ~福岡からバングラデッシュへ~ 

2014/02/14 Categories:

“オマエ、もうちょっと楽な人生だってあるんじゃないの?”と、つい自分に毒づきたくなるのは、現地の人なら“寒いですね?”とでも言いそうな夜、バングラデシュで水シャワーを浴びているときだ。

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<ラジョーさんは、満面の笑みでコックスバザールの空港に迎えに来てくれていた>

  この2日前、僕たちNPOユニの一行は、非常事態宣言中のバンコクからタイ航空でダッカまで飛んで来ていた。(一行はまゆさんの他に、まさとさんと、2回目のバングラデシュ訪問のまひろさん)

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 <デモ隊によって占拠されているタイの首都バンコクの道路>

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<デモ隊のテント村だが、反タクシン派に雇われているというウワサ>

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 <デモの最中で、爆破事件があったりしても、市民の記念撮影にのんびりと応じる兵隊。この辺は、いかにもタイだな〜>

旅の裏技

 さて、ダッカへ着いた時は、コックスバザール行きの国内線に間に合う、ギリギリの時間だった。でも僕には、“まあいつものように、出発時間のスケジュールなんて、あってもないようなものだろう、遅れるに違いない”と、そんな楽観した気持ちもあった。

 しかし空港では、現地での援助活動のための円を、現地通貨のタカに両替する必要があった。その上、行ってみると入管審査は大勢の人でごった返していた。長蛇の列が並んでいて、1時間は猶にかかりそうな状態だった。

 国内線は日に1便しかない。ここで逃したら、車かバスで約12時間かけて行くことになる、、、。

 もっとも2、3年前までは、ダッカの空港から、命がけのチキンレースを走る車で、12時間かけて現地コックスバザールまで行っていたのだ。

 というのは、一昨年あたりまでは、バングラデシュ航空の国内線に乗るには、あまりにも信頼度(飛ぶかどうか)が低かったからだ。

 このままでは、もしかしたら乗り遅れることもあり得るかも、、、。そう思った。そこで僕たちは、空港をウロウロしている職員に“袖の下”を渡し、“税関を超特急ですり抜けさせてくれ”と囁いた。ようするに旅の裏技を使ったのである。  

 いつもならば、国境などでワイロを要求する、第三世界の役人や警官の腐敗ぶりに文句をつけている僕である。それでいて、こんな時には、職員にちゃっかりワイロを渡し、「旅の裏技」と称して悦に入っている。これは、バックパッカーの悪いクセではあるな。

九州での集まり

  今回、日本を発ったのは、福岡空港からだった。

  バングラデシュ行きの荷物を抱えたまま博多に行った。そして、北九州で土日の2日間に亘ってワークショップ的な集まりと念仏会を行った。その後、月曜日の朝には、福岡空港からのフライトでバンコク向かい、数日を過ごしたあとに、バングラディシュに飛んだのだ。

 九州での2日間だって、それはもちろん濃かった。ただ、ブログに書く余裕がなかった。

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<佐賀でのタオサンガ念仏。初参加のゆかさんも!>

 でも僕にとっては、とても意義のある発見があったので、それについてだけでも、記しておきたい。

 ご存知の方もいらっしゃるとは思うが、僕はタオ指圧の体験ワークショップで、治療デモンストレーションを行う。

 これは、“誰か痛みなどの症状がある人はいませんか?”と会場に呼びかけ、5?10分程度の施術によってその場で症状を取り去るというものである。経絡による指圧の治療効果を知ってもらうためだ。

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<宮崎から参加のスー>

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<頭頂のツボに触れているだけで立ち上がれないというワーク>

 もっとも、今回の博多での集まりの目的は、タオサンガの気と心の世界を体験してもらうことにあった。だから指圧デモンストレーションをするという考えはなかった。

 それに、タオ指圧も含めタオサンガは、すべて「気の念仏」が土台となっている。となると、念仏の効果をこそ体験してもらわなくてはならないなぁ、、、。   

 とまあ、こんなことをぼんやりと考えながら、僕は、博多のタオサンガ体験会をリードしていた。すると突然、脳裏に新しいアイデアがひらめいた。それは、「念仏による治療デモンストレーション」である。

 タオ指圧の経絡施術ではない。“念仏で治療デモンストレーションをしたらどんなもんだろうか?”ふと、そう思ったのだ。

 でも、念仏によって症状を取るなんて、果たしてできるのだろうか・・・? 

 内容としては、タオ指圧講習での治療デモンストレーションのときのように、何らかの症状を抱えている参加者に出て来てもらう。

 そして仰向けになってもらった、その人の周囲を囲むようにして参加者が座る。その後、参加者みんなでタオサンガ流の念仏をすることで症状を取る、というものである。

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<念仏治療のワーク>

 今までやったことはない。だから、本当にそれで症状が取れるのかは、正直言ってわからなかった。

 もしかしたら、何の効果もなく場がシラケるだけという結果になるかも知れない。“なーんだ”と言われるのがオチかも知れない。それは大いにあり得ることだ。

 本来ならば、一応、何度か試した上で、大丈夫だとわかってからやれば良いようなものである。

 しかし、ここで躊躇するほど、僕は大人になり切れない。そんなのは、自分が守りに入るようで、何だか格好ワルいような気がしてしまうのだ。

 ようするに、“ここで怯むなんて男じゃなねーよな”とか、“いいじゃん、面白そうだからやってみようよ!”とか思ってしまう。

 まあ体裁よりも好奇心。まるでガキ丸だしの感覚が、いつだって全開なのである。

 また、たとえ失敗したって、“えへへ、あっ、ダメだったか?”と、その場でみんなに言えばいいや、と思ってしまう。

 ただし、うまくいかなかった場合は、念仏の評判を落としたことになる。その点については、あとで阿弥陀さまによく謝っておこう、と密かに思う。(実に冷や汗ものである)

 それでも、“失うものなんてないぜ”と思って生きているためか、かなり気楽なところがある。

症状の原因は潜在意識(アラヤ識)

 もっとも僕が、“その場で、念仏によって身体的な症状を取れるのではないだろうか?”と思ったのには、一応の理由がある。

 それは、どのような症状であろうと、原因が、経絡の奥に存在する潜在意識の邪気だからだ。

 これはタオ指圧の講義で、常に僕が語っている最新の理論だ。また邪気は、術者が、「宇宙大霊である佛さま」の融合を受け、これの他力(威神力)が働くことで浄化される。その結果、潜在意識が転換し症状が取れる。

 ということは、みんなで囲んで阿弥陀仏をイメージし、タオ心を集中して祈り念仏すれば、たとえ指圧手技を行わなくても、症状は取れる「はず」である。

 また、僕にそれを思わせた理由は、まだ他にもある。タオサンガのワークショップでは、常識で考えたら、あり得ないようなことをやっている。それらは、はじめて体験した人は、みな一様にビックリするようなことだ。

 例えば、「一切手を触れずに、ただ念仏して気を送るだけで、横になっている人が、部屋の端から端まで転がっていく」というワークがある。

 ただ転がっていくだけではない。受けた人が、生まれ変わったような、身も心も癒されたような爽快な気分になる。これを、参加者全員が体験するのである。

 これはたしか、ウィーンの念仏ワークショップで、初めてやったものだった。この時も、ふとした思いつきでやったのだ。

 よくよく考えてみたら、こういうことって案外凄いことなのかも知れない。もっとも僕としては、こんなことをタオサンガのウリにするつもりは毛頭ないけれど。

「宇宙大霊の如来は実在するということ。そしてあらゆる幸福の源泉である大霊の融合を受けることにより、誰の人生も好転していくのだということ。」こちらの方が、よほど凄いことだと思うからだ。

だって、タオサンガの目的は、気の不思議なパワーを見せつけることにあるのではなく、人が幸福な人生を創造する「幸福力」をつけることにあるんだもの。 

自分が無意識にやっていたことだった!?

 さて、ごたくを並べるのはこのぐらいにして、念仏治療デモンストレーションを思い切ってやってみた結果、一体どうだったのかを述べることにしよう。

 まあ結論を言えば、タオ指圧の治療デモンストレーションと同じような感じになったのだ。いやはや、もうビックリ! である。

 僕はその時、気づいた。タオ指圧の治療デモンストレーションで、効果を上げていたのは、僕が無意識に佛さまを想って、潜在的に念仏していたからなんだ、と。

 経絡効果は、手技の力によるというよりも、阿弥陀さま(宇宙大霊)の他力によるものだったんだ、と。

 クラスや講習では、“自分の力ではないですよ。あくまでも宇宙大霊の力によるものですよ”と言っておきながら、案外自分自身は、心底わかっていなかったのかも知れないな、と反省した僕であった。

 だって、“果たしてうまくいくかな?”なんて思って、ギャンブルでもしているようなつもりだったんだもの。阿弥陀さま、疑ってすみませーん!

☆leaflet

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<今回の九州の集まりは、3/1と3/2のイベントの前哨戦のためでもあった>   九州在住の方は、下記アドレスをぜひ。

https://www.facebook.com/events/247735855407117/?ref_newsfeed_story_type=regular

 さて、次のブログからは、バングラデシュでの驚くべき展開について述べようかな、っと。

 

 

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菩薩さまとの出会い

2013/12/25 Categories: 未分類

生涯のほとんどをハンセン病のサナトリウムで過ごされて来た、中村幸枝さんという方がいる。僕はその方に会いに、群馬県の草津に行った。

幸枝さんのことを知ったのは、僕の音楽と本の大ファンになってくれていることを、飯塚さんという旧生徒さんから聞いたからだ。

飯塚さんによれば、6枚のCDを毎日聴いてくれており、本などは何ページに何が書いてあるのかまで憶えていて、飯塚さんに教えてくれるという。

さらに僕の本を、医療従事者に配ることまでして下さっているそうだ。そして、僕の音楽を聴くことによる身体の変化を、論文にまで書いているので、もうびっくり。

ただ残念ながら、最近は目が不自由になってしまった上、脳梗塞を起こして半身が不自由になってしまい、さらに、腎臓病まで併発してしまったと聞いた。

僕は、「これは行かなければならない。」と思った。

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<サナトリウムの前で>

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<飯塚さんと>

その他に聞いたことは、幸枝さんが、浄土真宗の念仏信者さんで、仏教にも造詣が深いということ。僕は、仏教に造詣が深く、なおかつ目が不自由になってしまったのなら、自分が毎週やっている法話ライヴをCDにして、聴いてもらおうと思った。

というのは、法話ライヴは、ユーストリームでネット配信されていて、過去に放映された法話も視聴できるようになっているからだ。

こうして過去の法話ライヴを、CDやDVDに落とすプロジェクトが始まった。幸い、このプロジェクトに賛同するタオサンガの有志が12人も集まってくれ、過去のものも含めて、法話ライヴのCDをサナトリウムに定期的に郵送していけることになった。大感謝! ありがたいことである。

飯塚さんには、「幸枝さんが病室を出られ、春になってからでも来て下さい」と言われていた。でも、東京の4日間のクラスを終えた僕は、1日おいてから群馬県草津市に向かった。ちょっとしたサプライズのつもりで。

サナトリウムの近くのバスターミナルから、飯塚さんに電話した。飯塚さんは、もちろんぶったまげていたが、自宅に向かっていたのをわざわざ引き返してくれ、僕をサナトリウムまで案内してくれた。(その上、患者さんの予約が入っていたのに、キャンセルまでしてくれた。うぅ、申し訳ない、、、)

長い間、僕は幸枝さんという人を、なんとなく中年の女性ぐらいに考えていたのだが、82才と聞いて、またびっくり!

僕の音楽を毎日にように聴き、また、全著作を飽くことなく読んで下さっている上、論文というかエッセイまで書かいていらっしゃる方と聞いて、82才をイメージすることは難しかったのだ。

さて病室に入って紹介してもらうと、幸枝さんは僕が訪ねて来たことに対して、何だか現実感が湧かないようだった。まっ、目も不自由だしね。

少しばかり話をしたあと、僕はさっそくベッドの上で治療を始めた。ところが、、、ものの10分ぐらいで、リハビリの時間になってしまい、聞くと、その他病院スケジュールが2時間以上も続くとかで、あえなく中断。うぅ、、、。僕は、来年の再訪を約して引き上がらざるを得なかった、、、。

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<病室を出たあと>

病室をやむなく辞した僕たちは、このサナトリウムで知り合って結婚されたという、ご主人の中村さんに会いに部屋まで行ってみた。

僕の来訪を驚いて喜んでくれている中村さん。ふと見ると、テーブルには、僕が書いた「タオ指圧入門」(講談社α文庫)と、その隣にはナンと将棋の本があった。

僕は中村さんに、「将棋お好きなんですか?」と聞いたら、「はい」というお返事。聞けば、県の障害者の将棋大会で優勝しているとのこと。そこで僕はすかさず、「中村さん、将棋やりましょう!」と誘い、中村さんは喜んで盤と駒を持って来てくれた。

対戦してみると、ほぼ互角という雰囲気だったのだが、うぅ、負けてしまった。2回目は、僕が勝つ寸前だったのに、どんでん返しの逆転負け!

次回のリベンジ・マッチを約して、僕は部屋を辞した。くそー。次は負けんぞ、中村さん。

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<中村さん、けっこううれしそうに盤と駒を持ってきてくれた>

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<最後に、見事逆転されてしまった〜!>

僕はこのブログのタイトルを、「菩薩さまとの出会い」とした。それは「自分が直接原因でないのに不幸を背負ったり、またハンセン病のような重い病気になったりして苦しむのは、世界のカルマを背負ってくれている、菩薩さまだからである」という認識が、僕にはあるからだ。

仏教には「代受苦」という言葉があるが、それは他の人の代わりに苦しみを受ける菩薩の行為のことである。

もちろん本人は、そうは思っていないに違いない。自分が苦しむのは、自分のカルマが原因だと思っているだろう。こんな病気になって、家族にも迷惑をかけた。こんな自分が悪いんだと思って、自分を責めて来たかも知れない。

でも違うんだ。絶対違うんだ。「あなたは、世界のカルマを背負って病気になって下さった、尊い菩薩さまなんだ。」僕は、そう言ってあげたい。だから僕は、そういう方には、拝むような気持で会う。

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<サナトリウムは、山の上にあった>

、、、その後、僕は大宮、東京経由で、東北に向かった。タオサンガのメンバーが気仙沼にボランテア指圧に行っているので、そのお手伝いをするためである。

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戦争から平和への反転

2013/12/12 Categories:

沖縄で記者会見

博多から沖縄へ飛んだ。沖縄戦時写真の遺族探しの記者会見をするためだ。着いたら「ああ、あったかい〜!」この気候、僕には、ほどよいんだけどなー。

夕方、会見をセッティングされた、うる文化協会の田島さんらと打ち合わせする。翌日の会見には、見つかった2人の遺族の内、1人の方が来てくれるという。

また、写真を常設展示して、今後も引き続き遺族に返還して行ける体制も整ったとのこと。本当に良かった〜。

アメリカの田舎のクロゼットの奥(か何か)で、68年もの長い間、帰国を待っていた写真の英霊たち。彼らの帰る家がやっとできたのである。

そして、さらにここから遺族のもとへと、帰る道筋ができた。僕は心底ホッとし、安堵のため息をもらした。

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 <田島さん。右が安田さん>

解けた長年のナゾ

記者会見の場所は、沖縄県庁の記者クラブとのことで向かったら、日本山妙法寺らしきお坊さん2人が、県庁の前に座り込んで題目(南無妙法蓮華経、ね)を上げていた。

会釈したら向こうも返してくれ、目があったので見たら、意外に若いんで驚いた。というのは、日本山妙法寺のプロテスト行脚って、僕のイメージだと、ヒッピー世代の産物だったからである。

もしかしたら、時代が一巡しているのかも知れないな。まあ、あんましこっちは変わんないけど。(←われながら意味不明)

ところで僕は、本当に長い間ナゾだったことが、この時に解けた。もっともこれは、恐らく誰にとっても、本当にどうでも良い話である。だが、自分の中ではとても大きいことなのだ。

書きかけたので、大した話ではないことを、あらかじめこうしてお断りした上で述べることにする。(何だそんなことか、と思われるのは100%間違いない話だと思うが)

かつて、僕が大好きだったフラワー・トラベリング・バンドという、日本のロックバンドがあった。僕がアメリカに住んでいた頃に、カナダで活躍していたバンドだ。

僕は、アメリカから帰って来たばかりの中学2年生の頃、そのアルバムを一日中聴いていた。アルバム名は、ナンとSATORI。サトリ・パート1から5までの、全5曲である。

その後も僕は、ギタリストの音色や、アップ・ピッキングのみという独特の弾き方を、ずい分と研究したものだ。

さて、その中のサトリ・パート2という曲には、日本の和太鼓のような独特のリズムが使われていた。僕が特に好きだった曲だ。

あのリズムは一体、日本のどこのお祭りの影響によるものなんだろう? このことはずっとナゾのままだった。実は、最近でも、時々考えていたぐらいである。

それが沖縄県庁前でわかった! サトリ・パート2は、日本山妙法寺が題目で叩く、団扇太鼓(うちわ・だいこ)のリズムだったのだ! 僕がサトリ・パート2のリズムに惹かれていた理由が、これで解明できたのである。

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 <団扇太鼓で題目を上げながら「基地なくせ!」とプロテストする日本山妙法寺のお坊さんたち>

写真のご遺族、佐渡山さんと会う

県庁のロビーで田島さんと待っていたら、ご遺族の佐渡山さんがいらした。こちらにもまた驚いた。80過ぎとはとても思えない、背筋のすっと伸びた、ステキな妙齢の御婦人だったのである。

記者会見には、琉球テレビと沖縄タイムスなどが来た。30分と言われていた記者会見だが、やはり地元だけあってとても熱心。質疑応答は、1時間以上にも及んだ。

沖縄記者会見

 <アメリカから帰って来た経緯などについて話す>

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 <一時間以上に及んだ>

沖縄にて写真を手渡す

<写真の返還。右がうる文化協会理事長の川満氏>

沖縄記者会見

<会見は、県庁の記者クラブで行われた>

佐渡山さんをお連れして喫茶店へ

プレスから解放された後は、ご遺族の佐渡山さん、田島さん、高江州さんご夫婦と一緒に喫茶店に行き、ユンタク(琉球語:おしゃべり)した。

佐渡山さんは、ヨガや食養もされており、また戦後は英語を学んで、アメリカン・エキスプレスに勤めていたという方であった。みんなとも興味が共通して、僕らみんなですっかり仲良しになってしまった。

アメリカで68年間眠っていた写真が遺族のもとへ帰り、それを通じて人と人が仲良しになる。何とも、ドミノ倒しのような、不思議なアレンジメントだ。

様々な縁のつながりという流れの中で

その最初の流れを作ったのが、クリスティン。(本人もミュージシャンで、僕の音楽のファンになってくれているとのこと)旦那さんのお祖父さんの遺品の中にあった写真を発見し、「ぜひこれを遺族のもとへ返して欲しい!」とアメリカ在住のすみこさんに、涙を流さんばかりに懇願したらしい。

それからすみこさん。デボラが運営している、ウイスコンシン州のタオサンガ・センターに、ご家族で通い、僕に遺族写真を依頼された。

そして田島さん。かつて僕が、沖縄の精神病院で活動していた時からの良き友人だ。

様々な縁のつながりの中で、今日までの流れがあった。
この流れの中で、個々の心のあり方や人間性が浮き彫りになった。そしてその結果、消えていく縁もあれば、仲良くなる縁もあった。

今日は、このプロジェクト第一フェイズの終わり。そして僕、佐渡山さん、田島さん、高江洲さんご夫婦(ステキな奥さんである。僕はお会いして2度目の高江洲さんに、「高江洲さんは、奥さんで持っているようなものですねー」など図々しいことを言っていたが、これも沖縄の気楽さである)は、喫茶店で楽しくお話しすることができた。きっと、これからもつながるご縁だろう。

このプロジェクトを通じて、僕とすみこさんや息子のマイルス君(12歳)ともつながった。ゲゲゲの鬼太郎が好きだというマイルス君に、鬼太郎の漫画を何冊か送って上げたら、絵の礼状を送ってくれた。

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<アメリカから送ってくれた、マイルス君の絵!>

写真の発見者であるクリスティンとも、つながった。クリスティンは、「アメリカ人が日本人に申し訳ないことをした」という、贖罪感を持っているようなので、僕は、「あなたのお陰で、写真が帰ることができたんですよ」と、感謝メッセージを出すなどして、やり取りをした。

かつての戦争が取り持つ縁で、人と人が平和に仲良くつながったのだ。ドミノ倒しの最後は、まるでオセロゲームのように、戦争から平和へと色が反転したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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沖縄へ再び

2013/12/01 Categories:

続きは、沖縄、、、というところで終わった前回のブログ。ああ、なかなか追いつかないなあ、、、。

ところで僕は、勤め人としてサラリーを頂いたのは、あとにも先にも沖縄の精神病院にいたときだけだった。僕は、そこの院長や看護師に指圧を教え、また患者さんを診て、精神医療における東洋医学の効果を本にするということで、1年間の契約で名護に住んでいたのだ。

もっともその企画は、院長の暴利暴走によって労働争議が勃発し、僕が職員側についたためにご破算となった。(損な性格なもんで)そこで、僕のサラリーマン生活もあえなく3ヶ月で終わりを告げたというわけだ。

待遇が、まずまずだったこともあって、その時僕は、“給料をもらうということは、こんなに楽でステキなことだったのか!?” と心底驚いた。そして、多いに楽しんでいたのだけど、、、。それでも僕は、その後も1年ほど住んで、気になる患者さんを診ていた。80年代の頃である。

そんなご縁のある沖縄だった。沖縄の人々の持つ信じられないような優しさや、独特の文化に僕は魅了されていたのだ。

そのこともあったかも知れない。アメリカ在住のすみこさんから、沖縄戦時写真の返還を依頼されたとき、ためらわずにお引き受けしたのは、、、。

その後、沖縄には10年前に行ったきりだった。そして久しぶりに沖縄の土を踏んだ。僕を迎えてくれたのは、名護の精神病院で看護士や空手指導をされていた田島一雄さん。

その人柄は、患者さんにも、また若い看護士たちにも大人気だった。僕は今も尚、つながりを持っていたのだ。

沖縄の戦時写真については、僕は真っ先に田島さんに相談したのだった。

空港で出迎えた僕を田島さんが連れて行ってくれたのは、うる文化協会という、沖縄の文化を振興するところだった。田島さんも沖縄空手の普及者として関わっているという。

そして、そこの面々と沖縄戦時写真の返還事業について相談することになった。

そこで30年ぶりに会った人がいた。政治家になったミュージシャンの喜名昌吉さんだ。

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<うる文化協会で。左から、田島さん、喜名昌吉さん、高江さん、糸数さん>

喜名昌吉さんとは、黒潮祭というヒッピーのお祭りに僕が出演したときに、一緒にステージでセッションしたことがあった。

嵐の翌日だったか何かで、そのお祭りは彼も憶えていて、まあそんな話もしたが、うる文化協会はNPOユニの戦時写真返還プロジェクトを大変喜んでくれた。

それで今後、沖縄戦時遺品については、アメリカや本土の受け皿はNPOユニになり、沖縄の受け皿はうる文化になる、ということになった。

また、さらに今後の展開についても話し合った。戦時写真については、後日僕がまた出直して、あらためて記者会見をすることになった。

沖縄滞在期間中は、田島さんの空手教室で気心道を教えたりもした。

 

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その他にも、偶然の出会いがあった。首里城に向かっている電車の中で、何気なくFacebookを見ていた。すると、東京在住の昔の知り合い(河野秀海さん)が、「今、首里城にいる」と書き込みしているではないか!?  僕はこういう偶然が大好きだ。そこで、さっそく連絡を取り、再開した。

 

 

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 <秀海さんとは、十数年ぶりだった>

夜は、田島さんが不思議な店に連れていってくれた。

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(超レトロな店。沖縄にはこういう不思議なところがあるから大好きである)

 

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僕はまるで止まっていなかったのだ!

2013/11/04 Categories:

かなり前に止まったままだったブログだった。気にはしていたけれど、書く時間がない。僕はまるで止まっていなかったのだ!  なにせ約4週間の間に、東京→島根→カナダ→京都→沖縄へと移動である。

東京

最近、体験講習とは別に、またタオ指圧クラスでの指導を始めた。このため、最初の4日間は、東京でぎっしり詰めていた。夜は下記みたいな感じ。

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<東京のクラスの後、ボードゲームチャリTXで盛り上がり、勝利に喜ぶケン氏。「なんだオマエ、夜は遊んでいたんか」と言われても、僕には返すことばがないが、、、>

島根

帰って翌々日からは、島根県の和田寺ツアー。ガス、水道、電気、トイレすらない和田寺に、東京、京都、岡山、山形、九州から、十数名が参詣してくれた。ありがたいことである、合掌。

参詣のタオサンガ・メンバーが掃除してくれ、その後は、温泉に! 匹見は言わば過疎地だが、とっても良い温泉場があるのだ。

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<和田寺の境内で、念仏ゴスペルの練習>

翌日は、和田寺をお世話して下さっている村の人たちと共に法要を行い、お礼をかねて接待する。

タオサンガ和田寺ツアーは、今年で三回目。始めた頃は、「えっ?」という感じだった村の人たち。「どうしてこんな何もない寺へ、みんなが来るのか?」と不思議そうだったが、今や楽しみにして下さっている。

今年は、タオサンガの念仏ゴスペルを披露したら、「お寺の法要でこんなに楽しい思いをするなんて!」と驚きながら、とっても喜んで下さっていた。ふははは。ワレワレは、楽しくないことはやらないのだ。

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<村の人にお昼を接待。満州にいたというご老人は、昨年の“幻のお酒”を所望された。岡山から「幻のお酒」を持って来てくれる人(ジョニー)がいるのだ。本人は飲まないのに(涙)>

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<念仏ゴスペルは手拍子まで出て、大受け!>

法要と接待が終わったら、あとはタオサンガの時間となる。

今回は、「お互い始めて会った」など、あまりなじみがない人同士がけっこういた。そこで一計を案じて生まれたワーク、名付けて「真似っこ合戦」を行った。

何をやるのかというと、例えば、「Aさんの物真似を、みんなが順番に、ジェスチャーなどを交えてする」というものである。Aさんが終われば次はBさん。要するに、全員が全員の真似をするのである。

今回はじめて参加した、日頃、もの静かな「光さん」という人がいた。

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<光さん>

彼がはじめて会った人も多かった。僕は、果たして大丈夫かな? とちょっと心配した。でも、これは、みんなが打ち解けるために考えたワーク。ぜひやらねばならない。

それが実際にやってみたらびっくり仰天! 光さんは、驚きの演技でみんなを圧倒し、もう抱腹絶倒ものであった! いやー、才能ってどこに隠れているかわからないですねー、という感じだった。

ついでに書くと、自分が真似されているのを見たら、「ああ、オレってこんなにカッコ悪かったんだ」とちょっとがっかり。でも、まあ面白かったな。へへへ。

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<戦略ボードゲーム・チャリティックスで、負けながらも楽しむ男性軍>

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<勝って盛り上がる女性軍>

それから、やったのが戦争ごっこ。これは、相手の陣地へ向かっていき、輪ゴムを打ち合うというものである。(おめーら、一体なにやってんだあ? とか思わないでね)

ルールは、相手の陣地に進むにはホフク前進でなければならない。そして、顔に当てられたら、ぎゃー!と言って、自分の陣地まで後退すること。そして、相手の陣地に立っている紙を倒したら、そのチームの勝ち、というものである。

おお! けっこう皆んな燃えてましたねー。ふふふ。どこまで子どもに成り切れるかがミソですな。大人のプライドなんかあったら、できませんぜ。

元自衛隊のヒデさんは、期待の新人だった。格好はどこまでもプロっぽく、実にサマになっていた。しかし、輪ゴム戦争の実戦では大した戦力にならず、大いにわれわれの笑いを誘った。(ウケれば、何でも勝ちである。それから、このできごとは、自衛隊がゴジラには無力だったことを、僕に思い出させた)

ところで、これ、子どもの念仏会でも、子どもたちと一緒にやるんだけど、子どもたちが大好きな遊びである。(「タオサンガでなんか遊んじゃいけません!」とお母さんに言われてしまいそうだなー。まっ、いいけど、、、)

その後は、もちろんワークも行った。念仏で神秘体験を得るための特別なワークを、現在僕は研究中なので、その1部を実験的に行ってみたのである。

この神秘体験ワークのコンセプトは、1日12時間の念仏三昧を数日間行うことで得られる効果を、何とか1日で体験できないか? というものである。

これは別に、インスタントな悟りを求めてのことではない。実は、今のタオサンガは、皆で数日間、集中的にこもって念仏三昧(念仏High! )する適当な場所がない。

僕としては、念仏三昧で素晴らしい神秘体験を得るチャンスをみんなに提供できないのが心苦しい。それで、籠って行じる代わりに、何とか短時間でその効果を体験して頂けないか?というものである。僕にしてみたら、ホントに、苦肉の策なのである。

スケジュールの都合上、2時間程度しかできなかったし、まだお試し段階ではある。しかし12時間とか、集中的に行えば、たとえ1日だけでも、相当の効果があがるのではないか、と思われた。

まあそんなんで、掃除やったり、念仏やったり、温泉入ったり、法要やったり、宴会やったり、神秘ワークやったり、遊んだりの3日間ではあった。

 

カナダ

そして翌々日からは、カナダへ出発。今回のカナダ行きは、トロントのタオサンガセンターのオープニング落慶式のためである。

準備に朝3時までかかり、7時には起きて空港に向かう。飛行機に乗ること十数時間。

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<落慶式>

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<カンパイ!>

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<朝の法話>

 

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<午後の法話>

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<アレックスと>

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<本堂>

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<朝の念仏三昧>

モンテリオールやバンクーバーパー、またアメリカからもタオサンガメンバーが駆けつけた。そして、1日2回の念仏法要と法話をした。タオ指圧ワークショップも1日行った。

落慶式には30名ほどが参加し、その夜のパーティには、述べ250人ほど来たらしい。またその時、日系のウエブ新聞の取材も受けた。→記事

トロントではそんなんで、密度の濃〜い日々を過ごしていたが、一週間ぐらいたってから、そういえば外国に来ていたんだ、とふと思った。

それは、「食べ物の産地を気にしていないことに気づいた」ときだ。僕は、「日本は何ていう国になってしまったんだろう」と、思わずため息をつきたくなった。

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<ドキュメンタリー映像作家・中村ゆきさんと。彼女は、タオサンガで企画している「広島からエルサレムまで/アース・ヒーリング・キャラバン2015」に参加してくれるという。ありがたいことである>

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<やっと少し時間が取れて、ゆきさんが2時間ほど、トロントを車で案内してくれた。ゆきさんに感謝!>

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<東北震災後の人々を撮った、中村ゆき監督のドキュメンタリー作品は、11月22日に京都造形芸術大学でご覧頂くことができる。http://npouni.net/event/never-giveup/ 必見!>

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<一番左は、ボブ。特筆すべき人物なのだが、彼については、またあらためて>

帰国したのはフライトの関係で、夜の成田空港だった。しかし到着が遅れたため、そのまま乗り継ぎでは大阪伊丹空港まで飛べない! 結局、重い荷物をガラガラと引きずって東京駅へ。

実はよほど、このまま東京に泊ろうかと思った。でも翌日は、子どもたちが京都センターに来て念仏をする日なので、それはできなかった。僕は、子どもたちを担当することになっていたのだ。新幹線に乗って、そのまま京都へ帰る。

 

京都

そして翌日。午後から、センターに来た子どもたちを科学館に連れていったり、一緒に念仏したり、戦争ごっこやったりと、まあやっていることは、島根県の和田寺ツアーとあまり変わらんな。

でも念仏の最後に、2回目の念仏体験だった昌一郎くん(小学校3年生。僕のチャリティックス・ゲーム友だち)が、「念仏をやったら、とてもすっきりします。」と大人たちみんなの前で発表したのが、おおー!! という感じで、自分的にはとてもドラマチックであった。

 

沖縄

その4日後、、、、、僕は沖縄にいた。沖縄戦時写真の遺族探しのためである。(詳細はこちら

沖縄については、また続きで。

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旅の終わりに

2013/01/29 Categories:

また1つドジを踏んだ

ロッブリーからバンコクに戻っても、あまりのんびりする余裕はなさそうだった。

僕は、一向に追いつかないブログ作業に取り組まなくてはならなかった。活動とブログの両立は、そうそうできるものではなかったのだ。

 ところで、ドジをまた1つ踏んだ。僕は22日が帰国日だと思っていた。ところが、だ。何気なくチェックしたら、それは21日の間違いだった。チェックしなければ、22日に空港に行くところだった。

困ったことに、21日はウドンラチャタニで出会った3人と再会を約束していた日だったのだ。

旅の途中で会った3人とバンコクで再会できないのは残念だった。4人で行くチャオプラヤ河のディナークルーズがふいになるのも惜しかった。

仕方ない、とランサンに電話した。電話で彼も、しきりに残念がっていたが、僕が黙って帰らずに、ちゃんと彼に電話で伝えたことを喜んでもいた。

フランス人の日本のマンガ好きの2人にはメール送った。ところが、“それはあまりに残念だ〜、明日の20日に会えないの?”という返事が来た。

結局、翌日僕のホテルのロビーで、6時に彼らと待ち合わせることになった。(この日ランサンは、まだ地方から帰っていない)

お誘いの電話

僕はホテルで、せっせとブログ原稿を書いていた。すると、夕方5時半に電話がかかって来た。なんだ、早く着いたのかな? そう思って受話器を取る。

すると、ボリスが言うには、彼らは今、タイ人の家に泊めてもらっているのだけど、今日は仏教儀式の日で、大勢親戚が集まっている。それでこの家の人が言うには、これからみんなで夕食するから、僕にもこっちへ来ないか、と言っている。だから良かったらこちらに来ない? と、言わばお誘いの電話であった。

これも何かの縁。面白そうなことは見逃さない。これは、僕の人生の指針でもある。僕は、了解、と答え、ほどなくタクシーに乗った。

着いたら、やたら大きな家だった。部屋はたくさんあり過ぎてよくわかないほど。外国人も6人宿泊中で、ドイツ人、アメリカ人などもいた。

<宿泊滞在中の外国人たち>

<アメリカから来たという2人。お互い、近所で育ったそうだ。この他にもドイツ人の女の子がいた>

午前11時から食事が出て、ずっと食べ続け、これからまた夕食だという。

誘ってくれたのは、アイスという大学生の女の子だった。今年は日本に行って、富士山に登りたいそうだ。何だか、タイで知り合いがどんどん増えて来た。僕は、楽しいことはいつでも大歓迎である。

あっちこっちの部屋で、何やらかにやら、やっている。僕らも、あっちこっちの部屋で、いろいろと食べさせてもらった。気のいい両親や、親戚一族の人たちだった。

<アイス。日本に来たいそうだ。イギリスにも語学留学したという>

<ボリスによれば、アイスは優秀な大学生らしい。(タイの東大みたいな所で、さらに優等生)もしかしたら、Tシャツの表情を真似しているのかな? と思ったけど、そんなことないよね>

<みんなで料理できる、大きな台所>

<次々と料理が運ばれてくる>

 

旅が終わる、、、 
夜11時頃、ホテルに帰ってきた。明日日本に帰るんだな〜。
荷物をまとめた僕は、屋台のバーにビールを飲みに出た。バーと言っても、もちろん屋台の値段。1本300円もしない。そしてバンコクは不夜城だ。

バングラデッシュから始まって、いくつものミッションをこなして来た。1ヶ月に及ぶ旅だった。

やっと旅が終わった、というよりも、ああもう終わりか、という感じだった。実は、いつまでも続けたかった。いつまでも漂泊していたかった。

もし叶うことなら、「利他の悲しみ」(下記の注を参照)など、味あわずに済む人生を歩みたい、とそんな気にもかられた。

僕には屋台で風に吹かれて食べる食事と、一杯のビール、そして楽しい人たちとの出会いがあれば、それで良かった。

、、、本当は、いつまでも旅人でいたかった。 、、、。

       ーーー(旅ブログ篇、終わり)ーーー

 注:「利他の悲しみ」は先月書いたブログです。あれから加筆修正しているので、今一度ご参照頂けたら僕はとても嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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エイズ・ホスピス寺院を訪ねると、、 旅の第4ラウンド(4)

2013/01/29 Categories:

一般社会では何の役にも立たない、“旅のサバイバル術”

ちゃんとした睡眠が取れないまま、夜明けを迎えた。主な原因は、蚊の猛攻だった。蚊取り線香を日本から持ってくるのを忘れていた。

もっとも、東南アジアで安宿を泊るなら、日本製の蚊取り線香は必需品だった。ついウッカリしたのだ。

もっとも最初はかゆみの原因が、のみかナンキン虫かと思った。昔の東南アジアの安宿では、かつてそういうことが、ままあったからである。でも、さすがに今はそういうことはないだろうとは思うけど、、、。

余談だが、虫対策の場合には、まず、薄いビニールシートをベッドの上に敷く。その上に持参のシーツを敷いて寝れば、ベッドにいるのみなどが上がって来ないので、バッチリ大丈夫である。

まあ今ここで、こんな旅のサバイバル術の講釈を垂れたところで、聞かされた方にしてみれば、“はあ、そうですか。で?” みたいな話で、何がどうだということもないだろうけど、、、。

朝食後に出発

夜中にあまりにも痒かったので、“もしかしたら、蕁麻疹? そうだったらどうしよう〜”、と一瞬嘆きモードに入りそうだった。

だが、明け方に蚊の羽音が聞こえ、かゆみの原因がわかってホッとした。(←こんなことでホッとする自分が少し悲しかった)だって、ホッとしたところでかゆみが消えて、すんなり眠りに入れるというわけでもないんだから。

結局、まだ暗い内から起きだした僕だけど、 それでも練気2体操のお陰か、普通に元気だった。(皆さん、練気2はお勧めですよ〜)

それで、原稿を途中で切り上げて朝食を食べるやすぐに、宿のおじさんにエイズホスピスの行き方を教えてもらい、パバナプ寺院へと向かった。

目的のパバナプ寺院が歩いて行ける距離だというのは、僕のまったくの思い込みだった。まずはバスでふもとまで行き、そこからモタサイ(バイクタクシー)に乗り換えくては行けない所だった。

ゲストハウスのおじさんは、タイ語のわからない僕のために、モタサイに見せろ、と親切に紙に書いてくれたり、そっち方面行きのバスを停めてくれ、僕の行き先を車掌に伝えてくれたりした。

<中央が親切なおじさん。家族経営のゲストハウス>

市街を出てしばらく走った。近くに来たら、車掌が親切に教えてくれた。田舎の人は親切だな〜。

バスを降りた後は、道でたむろしているモタサイ(バイクタクシー)に声をかけた。そして行き先を伝え、バイクの後部に乗り込んだ。モタサイは、万事了解しているようだった。

モタサイは畑を右手に見ながら、山の上目がけて走り出した。やがて山上の入り口で停まった。どうやらここらしい。仰々しいチェックポイントまであって、門番に、何しに来ましたか? と聞かれる。

上座仏教では珍しい“開発僧”(かいほつそう)

僕が事情を説明すると、門番は電気自動車のカートを呼び、それに僕をに乗せた。そして、事務所まで連れて行ってくれた。何だか、すごい所だなー。

僕が何冊か読んだ、ここに関する本での情報は、約10年前のものであった。本から受けたイメージでは、ここは僕にしてみれば、マザーテレサがカルカッタに創った、「死を待つ人の家」の仏教版というものであった。

実を言うと、まあこういう言い方も何なんだけど、上座仏教(タイの仏教もこれに入る)には基本的に、人を救うという思想がない。(じゃあ、大乗仏教を標榜する日本の寺は何しているんだ?と言われて返す言葉もないだろうし)

/注:大乗仏教とは、人々の救済や利他を修行の目的とする、お釈迦さまの死後500年ぐらいしてから生まれた教えで、チベット、中国、韓国、日本は大乗仏教です。

しかしタイにも、近年になって、民衆に対する慈悲の施しを実践する、「開発僧」(かいほつそう)という人たちがわずかながら顕われた。ここパバナプ寺院にエイズホスピスを創った僧侶も、その内の一人だった。

書籍等によれば、ここは医療差別され、家族からも捨てられたエイズ患者を看取るエイズホスピスだった。寺の中に、独自に施設を創り、安らかに死を迎えられるような看取りを実践しているということだった。

共感した僕は、何かお手伝いできることがあればと思って、NPOユニの寄付を多少携え今回のリサーチを始めたのだった。

何ごとも自分で確かめることが大事

一方では、ここも最初の頃とはずいぶんと変わり、すっかりシステマチックになっている、という話や、いやー、あそこはもう観光地になっていますよ、などというバンコク在住者からのウワサも聞いた。

しかしまずは、実際に現場に行ってみなくては、何ごともわからない。人は良いものを悪く思うこともある。

実はそれ、自分の体験からもわかる。なにせ僕のことを悪く言う人がいることを、僕自身が知っているのだ。(タハハ、とここでけっこう虚しい笑い、、、別に、自分が良い人だなんて思ってはいないけどさ、、、 (☍﹏⁰) 、、、実は涙)

そういう時、僕の頭の中には、一体何が鳴り響くのか? そう、それは昔ヒットした山本リンダのあの曲である。

“ウワサを信じちゃ、いけないよ〜♬。あたいの心はウブなのさ〜♩” (またしても、ふ、ふ古い!。流行ったのは、ニューヨークから帰って来た中学生の頃だったかなぁ。3年ぶりに聴く歌謡曲が、しばらくは懐かしかったので憶えているのかも)

まあとにかく、そんなんで僕は、何ごとも自分でたしかめるにこしたことはないと思って、やって来たのだった。

しかし正直言って、これほどとは思わなかった。

案内してもらう

僕を乗せたカートが事務所に着いたら、中から、患者兼スタッフらしき人が出て来て、応対してくれた。僕は彼に、自分が来た理由を話した。

最初は、この人は僕が来たことを、ちょっとメンドウくさがっているのかな? なんて思った。が、まあそんなことを気にしてもしょうがない。とにかく、彼が案内してくれることになった。

それほど大きな敷地ではないが、案内してもらうと、施設内には、たくさんのコテージがあり、喫茶店やコンビニ、また何と銀行のATMまであった。(後で、なぜATMがあるのか、その理由がわかった)

聞いてみると、現在160人が入居していて、スタッフは25人いる。医者はいないが、看護士はいるという。またHIV感染者で、発病していない人も何人かはスタッフをやっているという。

亡くなる人は月に10人ぐらいで、また現在、85km離れたところに1500人収容のエイズ村を建設中だという。

末期患者の病棟にも案内してもらった。部屋に入る前にはマスクをつけ、消毒液で手を拭かなければならなかった。

患者さんたちは10数名いた。ほとんどが寝たきりで、エイズ患者特有の斑点が身体に出ている人も多かった。

 <末期患者の病棟>

 ベッドに座って絵を描いている人がいたので、近寄って見せてもらった。声をかけ、少し他愛ない話をした。

ただ、マスクをしているし、タイ語が話せないので、盛り上げにくかった。なぜか、部屋の中に犬がいた。

その他、遺体をミイラにして集めた安置室があって、そこも公開されていた。

<ミイラとなるべく、献体された遺体>

 患者の骨を集めた部屋もあった。どの部屋も大きく、きれいで掃除が行き届いていた。ウワサ通り、ここはすべてがシステマチックだった。

ボランティアは受け入れていますか? との質問には、“さあわかりません。申請してみないと”とのことだった。しかしボランティアが入る余地など、あまりなさそうに見えた。

一通り案内してもらった後で僕は、NPOユニからの寄付を置いてきたいのだが、と彼に言った。

バーツ(タイのお金)の持ち合わせが少なかった僕は、施設内にある銀行のATMでお金をおろした。彼は、ひときわ立派な寄付受付専用の事務所に、僕を案内してくれた。

<寄付受付の事務所>

<寄付の祈りが書いてあった>

<案内してくれたマスさん。こちらの気持が伝わったのか、途中からはずいぶん好意的になってくれた>

その後、事務所に戻って、モタサイ(バイクタクシー)を電話で呼んでもらった。チェックポイントで待っている間、大型バス二台が到着し、中から次々とタイ人観光客が降りて来た。

<入り口のチェックポイント付近>

<大型バスから降りて来た観光客たち>

それで僕は、ここが観光地だというウワサの意味を理解した。(タイの観光寺院にATMが置いてあるのは、よくあることだった)

ようするに、ツアーでやって来て見学した大勢の観光客が、寄付のお金を置いていくことで、ここのホスピスは運営されているのだった。もしかしたら僕を案内してくれた彼は、いつもはツアー客を相手にしているのかも知れない。それで、彼が一瞬、個人で訪ねて来た僕をメンドウくさそうに見たのではないかな、と思った。

それは、考えようによっては素晴らしい運営戦略かも知れない。いずれにしても、実際にエイズ患者を看取っていない僕に、何を言う資格があろうか。

バイクタクシーがやって来て、僕はエイズホスピスを後にした。こうして、旅の最後のミッションは、終わった。

<この人力車のおじさんは、“オジサン”と日本語で自己紹介した>

 宿で荷物を受け取り、ロッブリー駅まで行く。歩いても問題なく行けるのだけど、人力車が誘って来たので、おつき合いで乗った。何ていうかさー。愛ですよ。人間、気持に余裕がないとなー。(←おまえ何、エラそうに講釈垂れとるんじゃ)

切符を購入し、列車を待つ間、駅前の屋台でそばを食べた。食べている途中、ふいに先ほど見た、遺体のミイラを思い出して僕の箸は止まった。

この日のランチで、僕は肉を残した。

、、、南無阿弥陀仏。

 

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エイズ・ホスピスのある街へ向かう/旅の第4ラウンド(3)

2013/01/28 Categories:

翌朝僕は、エイズ・ホスピスのある街、ロッブリーへ向かうため、中央駅へ行き切符を買った。出発は40分後だった。

<中央駅/坊さん用の特別待合い席もあるが、普通のおじさんやおばさんも、当たり前にのんびり座っていたりするところが、タイらしくで実にいい!>

<待てども来ない列車を待つ外人観光客>

<列車は大幅に遅れた>

出発予定のホームが変わったりしながら、延々と待たされた。放送がタイ語でわからないので(英語でもあったが、何だかよくわからない)、そのつど、車掌らしき人に確認に行ったりして落ち着かなかった。まあ旅とはこんなもんだ。

ホームに直座りして文庫本読んだり、同じ列車を待つ身の旅行者同士で、他愛もない話をしたりして過ごした。シカゴから来たというインド人カップルの医者がいた。日本にも行きたい、と言っていた。出身はムンバイだという。

<あっ、と思ったら違った>

<とうとうホームに直に座って、文庫本を読む>

ようやく列車が到着したので、乗り込む。列車に荷物を積み込むのは一苦労だったが、昨日からやって来たので、ようやく少しコツがつかめて来た。まあ別に、こんなことがうまくなっても、何がどうということもないんだけど。

列車に乗ること3時間半、ロッブリーの駅に着いた。駅から出たら、珍しくおばさんの人力車が声をかけて来た。

20バーツ(60円ぐらい)だと言うので、まあいいか、と乗った。そしてあらかじめ見当をつけておいた、ゲストハウス(安宿)に行った。

<ゲストハウスに到着。人力車であっけなく、3分ぐらいだったけど。おばさんへのつき合いで乗ったようなもんだから、まあいいか>

部屋代は250バーツ(700円)だから、シャワーもトイレも共同である。運良く、1部屋だけ開いていた。

部屋に入ったら、すでに4時前だった。本当は、すぐにでもエイズホスピスに行くつもりだった。

しかし調べてみると、とても歩いて行ける距離ではなかった。バスとモタサイを乗り継いで行くらしい。

<本日の宿。もちろんクーラーなんてない。写真で見るときれいに見えるなあ。安宿の利点は、近くに屋台街があることである>

暗くなる前にと、僕は水しか出ないシャワーを浴びた。そして街を散策したり、猿に占領されている寺院を見に行ったりて過ごした。屋台のそばも軽く食べた。

またパソコンの電源が壊れたので、街の電気やを回ったら、運良く三軒目にあり、購入することができた。

<この寺は猿に占領されている>

<街のいたるところに猿がいる>

<ヒッチコックのサル版というわけではないが、、、>

<駅付近の寺。見所も多い>

 

  <この寺にも猿が、、、>

 

 <お釈迦さまのお膝元でノミ取り>

 <みんな元気か?>

<ロッブリーは遺跡と猿の街>

ロッブリーの夜

夜は遅めに、やはり屋台のテーブルで、ホッとくつろぎながらビールを飲みつつ食べた。明日のHIVホスピス寺院が、最後のミッションだ。

 

<一人屋台でくつろいで食べる。空芯菜の炒め物、貝、ご飯、ビール。今回の旅、最後のミッションの前夜>

ただし、ブログのミッションはなかなか追いつかない。この時点でも、まだバングラデッシュでの出来事を書いていた。実はブログこそが、僕にとって一番大変なミッションだった。(これ、ほんとのことです、、、)

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道中で一番長かった日(後半)    旅の第4ラウンド(2)

2013/01/28 Categories:

かなり疲れていた僕は、さすがに観念して空港のホテルに泊る決心をし、ホテル紹介窓口まで行った。

先のブログで述べたように、タイの駅や空港にはマフィアが仕切っている旅行代理店がいくつもある。

今回僕は、観念してそこに行った。旅行代理店嬢に空港内のホテルの値段を聞くと、2300バーツ(7000円ぐらい)だと言う。

僕が、ではそこにしてくれ、と言うと(相手がマフィアの手下だと思うと、つい横柄な態度を取る僕であった)、代理店嬢はホテルに電話した。すると、満室だと言う。代理店穣は何を思ったのか、僕に受話器を渡し、私の言っていることは本当なんだから、聞いて確認してくれ、と言う。

一体、何言ってんだろう、この人は? と僕は思った。受話器を持たされたって、僕にタイ語など、わかるはずないではないか。

その後彼女は、しきりに別のホテルを僕に勧め始めた。なんでも、空港のすぐ裏にあるホテルが、タクシーで100バーツだし宿代ももっと安いから、そこにしろという。

しかし普通代理店の人間が、私の言っていることは本当だから、直接聞いて確認してくれ、などと、客に言うものだろうか? 僕はそこで何か裏があるんじゃないか、と疑心暗鬼にかられ始めた。

何も身の危険を感じたわけではない。ただ、空港の裏に行くタクシーが100バーツだと? ざけんな。せいぜい40〜50バーツぐらいだろー。タクシー代をマフィアにボラれるのが、どうもしゃくだったのだ。

それに繰り返しになるが、僕に、タイ語でしゃべっているフロントと電話をかわらせようとするなんて、何だか妙に怪しいではないか。

まあ、かつてのいろいろな旅で、怪しい人間たちといろいろあったりしたこともあって、僕は妙に勘ぐることがある。それは、旅のサバイバル術の1つと言えなくもないが。

“やっぱり後でまた来るわ”。代理店嬢にそう言った僕は、荷物をがらがらと押して一旦そこを離れた。

それで日本に電話をかけて空港近くのホテルの電話番号を調べようとしたりした。

が、何だかんだでうまくいかず、結局、荷物を押して空港内のホテルまで行ってみたら、果たして満室だった。

そこでとうとうあきらめた僕は、白旗をあげた。そして再び観念してホテル斡旋窓口に行ったら、何とすでにしまっていたのである。

ウソだろー。前は24時間開いていたじゃないかぁ、と思ったが、まさに「後の祭り」である。どうやら、どうしても僕をバンコクまで行かせたい、というエネルギーが働いているようだ。

リュックを背負った僕は、ギターを片手に荷物を押して、空港駅まで移動した。そしてホームで列車を待ち、約1時間かけて、やっとバンコク中央駅まで行ったのである。

<長い長い1日の果てに、やっと列車に乗り込んだ>

<1時間後、中央駅に着く。ここからホテルまで信号効かない道をくぐり抜けて行った>

泊った宿は、タイ大会の後夜祭として考えていた、中央駅近くのバンコクセンターホテルであった。

駅付近は現在再開発中だった。信号はろくに使えなかった。荷物抱えて車が通る道を渡るのは、タイ人的なテクニックが必要だった。まあようするに、タイ人の後をくっついて、荷物を抱えて一緒に走って渡ったというだけのことだが。

チェックインして荷物を置き、遅い夕食のためにホテルを出たら、すでに夜10時。

それでも僕は、チャイナタウンで安くて美味しい夕食を食べようと勇んで出かけた。しかし再開発中のチャイナタウンは、半ばゴーストタウンだった。少し歩いてもシャッター通り、工事現場しかなかった。

あきらめた僕は、中央駅前に戻った。そして、ようやく屋台のテーブルに腰を落ち着け、やっとビールと遅い夕食にありついた。

それにしても先ほどチェックインしたバンコクセンターホテルは、タイ大会の後夜祭として、あらゆる点で不合格だということがわかった。

ビールを飲みながら、ははーん、と僕は気づいた。僕がどうしても空港付近のホテルに泊れなかったのは、バンコクセンターホテルを、タイ大会の後夜祭候補からはずすためだったんだな、と、、、。

ただの負け惜しみかも知れないけど、まあ今日は、そういうことにしておこう。

 

 

 

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道中、一番長かった日(前半)      旅の第4ラウンド(1)

2013/01/27 Categories:

本当に長い1日だった。

眠りが断続的で、明け方に目が醒めてしまう、という日がなぜか続いていた。

実は、今日もまだ暗い内からブログ原稿をやっていた。読めば30秒で終わるブログでも、書く方はそういかない。

やがて日も上がり、僕はキーボードの入力をやめた。そして朝食を済ませると、ネットで飛行機の予約を入れ荷物をまとめた。

出発前にガイドブックで地図を見ると、そこには来たときとは別のバスターミナルが掲載されていた。

それはホテルの近くにあった。昨日モタサイ(バイクタクシー)でホテルに来る途中、チラッと目にしていた。

このバスターミナルからウドンラチャタニまで戻るバスが出ているに違いない。僕はなぜかそう思った。

そして英語の通じないフロントでチェックアウトを済ませると、身振り手振りで“ここ(近くのバスターミナル)まで歩いてどれくらいかを聞いた。10分ぐらい、という返事だった。

“なら歩くか”、と僕はギターを片手にリュックを背負い、荷物を転がして歩きはじめた。しかし一向に着く気配はなかった。

やがて道端に座っていたモタサイ(バイクタクシー)のおじさんが僕を見つけた。そして、バスターミナルなら乗って行け(パイ・バス・サタニーロトファイ、とかなんとか)としきりに勧めた。

仕方なく僕は値段交渉した。(田舎はあまりボラないけど、ついクセで)交渉が成立っすると、再びリュックを背負い、おじさんにギターを預けた。

そして荷物を片手に抱えながらモタサイ後部に乗った。再び、“ああ、これだけは自分を誉めてやりたい”状態(前々回のブログ参照)である。

“ずいぶん遠いなあ”と思ってると着いたのは、昨日と同じバスターミナルだった。しかし窓口で確認したら、ウドンラチャタニ行きのバスがあるという。

何ということはない。フロント嬢の言う10分は、モタサイに乗って10分という意味だったのである。

実は、ここからがストレスだった。英語の通じない窓口で、“ウドン行き”と言ったら、“ウボンタニか?”と聞かれて、つい“、そう”、と答えてしまった。

だが、何だか妙な気がした。それで慌てて調べたら、ウボンタニという所もあって、それは正反対の方向だった。

だから僕は、その後、ウドンラチャタニまで、と言い直したのだが、果たしてちゃんと通じたのか? どうも、心もとなかった。

15歳の頃からヒッチハイクで日本を旅していた僕だが、方向音痴のため行き先をよく間違えた。

野宿した翌朝、再びヒッチハイクして何時間もかけて着いた所が、その前にいたところだった、という信じられないようなドジを、何度も体験した。つまり朝なると、正反対の方向の車に乗っていたのである。

あのときの悪夢が、僕の脳裏をよぎった。

僕は、ターミナル事務所で英語のわかる人を探し、何度かチケットの行き先を確認したりして、うろうろしなければならなかった。

なぜ落ち着かなかったのかというと、チケットの値段が、来たときと比べてずい分と安くなっているからである。

果たして同じところに行くチケットなのか? 行き先もすべてタイ語で書いてあって読めない。それで僕は、疑心暗鬼にかられていたのである。

やがて小1時間ほどでバスが来た。確認作業に忙しくてトイレに行く間がなかった僕は、出発直前に運転手にことわりトイレに行った。そして、ほぼ最後の乗客として乗り込んだ。

来たときと同じように、当然、席は確保されているだろう、そう思っていたのが甘かった。何と僕も含めて、立ち乗りが10人ぐらいいたのである。

「1時間半の立ち乗りかあ、まあ修行だと思えばいいか。」こういう時は、日頃、礼拝行など肉体的な行をしている者は、得である。すぐに、頭を切り替えることができるからである。

シャワーが冷たければ、滝行している、と思えばいいし、バスの立ち乗りは、まあそういう修行でもしていると思えば、1時間半など軽いもんだ。

しかし問題はそれではない。来たときは、どこにも停まらずにひたすら走り続けたバスだった。しかし今度はそうではない。やたら街のあちこちで、人を降ろしたり乗せたりし始めた。

果たしてこれは、ホントにウドンラチャタニに行くのか? 僕は再び疑心暗鬼にかられた。

仮に正反対のウボンタニ行ったとしよう。まあ、考えようによっては、そこでまた適当な宿をとり、翌日から別のルートでバンコクまで戻っても良いのだ。僕は、そう頭を切り替えることにした。帰国便は、まだ1週間ぐらい先なんだから。

では、なぜ僕はここまで神経質になったか? それは昨夜、バンコク行きの飛行機をネットで予約し、それは払い戻し不可のチケットだったからである。

実はそれ、旅の資金を節約することに血道をあげ、少しでも旅を長引かせようという、セコいバックパッカー的な感覚なのである。

バックパッカー的感覚では、旅の資金5000円をパアにするなど、とんでもない話だった。それだけあれば、インドに2週間滞在できてしまう、と恐らく無意識が考えるのだろう。

ともあれ、やがて席があいて僕は座ることができた。そして1時間半ぐらいたってから、近くの人にタイ語の地図を見せて、ウドンラチャタニに行くかを再び確認した。

どうやら行くらしい。やがて、親切なおじさんが、バスターミナルはもうじきだ、と身振りで教えてくれ、とうとうバスは無事に到着した。

午後1時前だった。空港のカウンターが開くまでは、まだかなりの時間があった。僕は、インターネットが無料で使えるホテルをガイドブックで調べ、バスターミナルからタクシー(今度は車)に乗った。

タイの田舎では、1000円で泊れるホテルでも、レストランでネット無料という所がいくつかあった。僕の作戦は、そのホテルのレストランでお昼を食べ、あとはお茶でも飲みながらネットでもやろうか、というものだった。

ホテルでお昼を食べて、本でも読んでしばらくのんびりしたら、もう時間だった。僕は再び荷物を背負い、道に出てタクシーを探した。

しばらくしてタクシーがつかまった。ドライバーは、3年間、日立の工場で働いていた日本語を話す人だった。妹が日本人と結婚して横浜に住んでいるという、気のいいあんちゃんだった。

空港に着いたが、閑散としていてまだカウンターは開いていなかった。それで30分ほど、お茶を飲みながら本を読んで静かに過ごした。

やがて空港のカウンターに電気がついて明るくなり、タイ語の放送があった。どうやらカウンターが開いたらしい。

僕は荷物を持って、カウンターまで行った。僕の前には、すでに一人チェックインしている人がいた。

そしてチェックインを済ませた前の人が、振り返るなり、ああ! と叫んだ。何と、ランサンだった。またまた偶然、同じ飛行機に乗り合わせたのである。

何という偶然であろう! また会えてうれしいよ、というランサン。彼は、さっそく僕らが隣同士になるようカウンター嬢にアレンジしてもらった。そして僕らは、連れ立って喫茶コーナーに行き、お茶を飲んだ。

<チェックインカンターで、僕の前に並んでいた人が、なんとランサンだったとは!>

 、、、その後、さんざん待ってから搭乗になり、飛行1時間でドンマン空港に着く。そして彼とは、“じゃあ21日に会おう”と言い合って別れた。

さて、これからどうしよう? 僕は思案した。

僕にはまだ、ロッブリーのHIVホスピスを訪問するというミッションが残っていた。

選択肢がいくつかあった。空港からバンコクまで列車に乗り、1時間かけて行き、翌日ロッブリーに出発する。しかし時刻表を見ると、列車が来るまで1時間近くまたなければならない。

でも、タクシーでバンコクまで行くのは楽だが、車が込みそうだ。

一方、バンコクとロッブリーは方向が正反対だ。明日バンコクからロッブリーに行くということは、再び空港を通過することである。せっかく空港まで来ているのになぁ、とも思う。

しかし、すでに夜7時前である。今日は、明け方のまだ暗い内から原稿を書き、ホテルから荷物を持って歩いたあげく、ついにはモタサイに乗ってバスターミナルまで行った。さらにストレスを抱ながらバスに乗り、その後、飛行機に乗ってやっとここまで来た。さすがに僕は疲れていた。

もちろん、このままロッブリーに向かうという選択肢もないではなかった。ロッブリーまでは3時間ぐらいだろう。途中のアユタヤで降りて、ホテルを探すという手もある。いずれにしても、列車に乗るのは、1時間ほど列車を待った上だった。

今日は、このまま休もう。そう思った僕は、思い切って、「今夜は奮発して空港のホテルに泊ろう」と思った。これでついに、バックパッカー卒業である。

しかし僕のバックパッカー的体質は、そう簡単には消えなかった。自分に対する認識は甘かったのだ。

せっかく空港のホテルでやっと休めると思ったのに、長い1日は、まだ終わらなかったのである。

<続く>

 

 

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