続きは、沖縄、、、というところで終わった前回のブログ。ああ、なかなか追いつかないなあ、、、。
ところで僕は、勤め人としてサラリーを頂いたのは、あとにも先にも沖縄の精神病院にいたときだけだった。僕は、そこの院長や看護師に指圧を教え、また患者さんを診て、精神医療における東洋医学の効果を本にするということで、1年間の契約で名護に住んでいたのだ。
もっともその企画は、院長の暴利暴走によって労働争議が勃発し、僕が職員側についたためにご破算となった。(損な性格なもんで)そこで、僕のサラリーマン生活もあえなく3ヶ月で終わりを告げたというわけだ。
待遇が、まずまずだったこともあって、その時僕は、“給料をもらうということは、こんなに楽でステキなことだったのか!?” と心底驚いた。そして、多いに楽しんでいたのだけど、、、。それでも僕は、その後も1年ほど住んで、気になる患者さんを診ていた。80年代の頃である。
そんなご縁のある沖縄だった。沖縄の人々の持つ信じられないような優しさや、独特の文化に僕は魅了されていたのだ。
そのこともあったかも知れない。アメリカ在住のすみこさんから、沖縄戦時写真の返還を依頼されたとき、ためらわずにお引き受けしたのは、、、。
その後、沖縄には10年前に行ったきりだった。そして久しぶりに沖縄の土を踏んだ。僕を迎えてくれたのは、名護の精神病院で看護士や空手指導をされていた田島一雄さん。
その人柄は、患者さんにも、また若い看護士たちにも大人気だった。僕は今も尚、つながりを持っていたのだ。
沖縄の戦時写真については、僕は真っ先に田島さんに相談したのだった。
空港で出迎えた僕を田島さんが連れて行ってくれたのは、うる文化協会という、沖縄の文化を振興するところだった。田島さんも沖縄空手の普及者として関わっているという。
そして、そこの面々と沖縄戦時写真の返還事業について相談することになった。
そこで30年ぶりに会った人がいた。政治家になったミュージシャンの喜名昌吉さんだ。
<うる文化協会で。左から、田島さん、喜名昌吉さん、高江さん、糸数さん>
喜名昌吉さんとは、黒潮祭というヒッピーのお祭りに僕が出演したときに、一緒にステージでセッションしたことがあった。
嵐の翌日だったか何かで、そのお祭りは彼も憶えていて、まあそんな話もしたが、うる文化協会はNPOユニの戦時写真返還プロジェクトを大変喜んでくれた。
それで今後、沖縄戦時遺品については、アメリカや本土の受け皿はNPOユニになり、沖縄の受け皿はうる文化になる、ということになった。
また、さらに今後の展開についても話し合った。戦時写真については、後日僕がまた出直して、あらためて記者会見をすることになった。
沖縄滞在期間中は、田島さんの空手教室で気心道を教えたりもした。
その他にも、偶然の出会いがあった。首里城に向かっている電車の中で、何気なくFacebookを見ていた。すると、東京在住の昔の知り合い(河野秀海さん)が、「今、首里城にいる」と書き込みしているではないか!? 僕はこういう偶然が大好きだ。そこで、さっそく連絡を取り、再開した。
<秀海さんとは、十数年ぶりだった>
夜は、田島さんが不思議な店に連れていってくれた。
(超レトロな店。沖縄にはこういう不思議なところがあるから大好きである)