沖縄で記者会見
博多から沖縄へ飛んだ。沖縄戦時写真の遺族探しの記者会見をするためだ。着いたら「ああ、あったかい〜!」この気候、僕には、ほどよいんだけどなー。
夕方、会見をセッティングされた、うる文化協会の田島さんらと打ち合わせする。翌日の会見には、見つかった2人の遺族の内、1人の方が来てくれるという。
また、写真を常設展示して、今後も引き続き遺族に返還して行ける体制も整ったとのこと。本当に良かった〜。
アメリカの田舎のクロゼットの奥(か何か)で、68年もの長い間、帰国を待っていた写真の英霊たち。彼らの帰る家がやっとできたのである。
そして、さらにここから遺族のもとへと、帰る道筋ができた。僕は心底ホッとし、安堵のため息をもらした。
<田島さん。右が安田さん>
解けた長年のナゾ
記者会見の場所は、沖縄県庁の記者クラブとのことで向かったら、日本山妙法寺らしきお坊さん2人が、県庁の前に座り込んで題目(南無妙法蓮華経、ね)を上げていた。
会釈したら向こうも返してくれ、目があったので見たら、意外に若いんで驚いた。というのは、日本山妙法寺のプロテスト行脚って、僕のイメージだと、ヒッピー世代の産物だったからである。
もしかしたら、時代が一巡しているのかも知れないな。まあ、あんましこっちは変わんないけど。(←われながら意味不明)
ところで僕は、本当に長い間ナゾだったことが、この時に解けた。もっともこれは、恐らく誰にとっても、本当にどうでも良い話である。だが、自分の中ではとても大きいことなのだ。
書きかけたので、大した話ではないことを、あらかじめこうしてお断りした上で述べることにする。(何だそんなことか、と思われるのは100%間違いない話だと思うが)
かつて、僕が大好きだったフラワー・トラベリング・バンドという、日本のロックバンドがあった。僕がアメリカに住んでいた頃に、カナダで活躍していたバンドだ。
僕は、アメリカから帰って来たばかりの中学2年生の頃、そのアルバムを一日中聴いていた。アルバム名は、ナンとSATORI。サトリ・パート1から5までの、全5曲である。
その後も僕は、ギタリストの音色や、アップ・ピッキングのみという独特の弾き方を、ずい分と研究したものだ。
さて、その中のサトリ・パート2という曲には、日本の和太鼓のような独特のリズムが使われていた。僕が特に好きだった曲だ。
あのリズムは一体、日本のどこのお祭りの影響によるものなんだろう? このことはずっとナゾのままだった。実は、最近でも、時々考えていたぐらいである。
それが沖縄県庁前でわかった! サトリ・パート2は、日本山妙法寺が題目で叩く、団扇太鼓(うちわ・だいこ)のリズムだったのだ! 僕がサトリ・パート2のリズムに惹かれていた理由が、これで解明できたのである。
<団扇太鼓で題目を上げながら「基地なくせ!」とプロテストする日本山妙法寺のお坊さんたち>
写真のご遺族、佐渡山さんと会う
県庁のロビーで田島さんと待っていたら、ご遺族の佐渡山さんがいらした。こちらにもまた驚いた。80過ぎとはとても思えない、背筋のすっと伸びた、ステキな妙齢の御婦人だったのである。
記者会見には、琉球テレビと沖縄タイムスなどが来た。30分と言われていた記者会見だが、やはり地元だけあってとても熱心。質疑応答は、1時間以上にも及んだ。
<アメリカから帰って来た経緯などについて話す>
<一時間以上に及んだ>
<写真の返還。右がうる文化協会理事長の川満氏>
<会見は、県庁の記者クラブで行われた>
佐渡山さんをお連れして喫茶店へ
プレスから解放された後は、ご遺族の佐渡山さん、田島さん、高江州さんご夫婦と一緒に喫茶店に行き、ユンタク(琉球語:おしゃべり)した。
佐渡山さんは、ヨガや食養もされており、また戦後は英語を学んで、アメリカン・エキスプレスに勤めていたという方であった。みんなとも興味が共通して、僕らみんなですっかり仲良しになってしまった。
アメリカで68年間眠っていた写真が遺族のもとへ帰り、それを通じて人と人が仲良しになる。何とも、ドミノ倒しのような、不思議なアレンジメントだ。
様々な縁のつながりという流れの中で
その最初の流れを作ったのが、クリスティン。(本人もミュージシャンで、僕の音楽のファンになってくれているとのこと)旦那さんのお祖父さんの遺品の中にあった写真を発見し、「ぜひこれを遺族のもとへ返して欲しい!」とアメリカ在住のすみこさんに、涙を流さんばかりに懇願したらしい。
それからすみこさん。デボラが運営している、ウイスコンシン州のタオサンガ・センターに、ご家族で通い、僕に遺族写真を依頼された。
そして田島さん。かつて僕が、沖縄の精神病院で活動していた時からの良き友人だ。
様々な縁のつながりの中で、今日までの流れがあった。
この流れの中で、個々の心のあり方や人間性が浮き彫りになった。そしてその結果、消えていく縁もあれば、仲良くなる縁もあった。
今日は、このプロジェクト第一フェイズの終わり。そして僕、佐渡山さん、田島さん、高江洲さんご夫婦(ステキな奥さんである。僕はお会いして2度目の高江洲さんに、「高江洲さんは、奥さんで持っているようなものですねー」など図々しいことを言っていたが、これも沖縄の気楽さである)は、喫茶店で楽しくお話しすることができた。きっと、これからもつながるご縁だろう。
このプロジェクトを通じて、僕とすみこさんや息子のマイルス君(12歳)ともつながった。ゲゲゲの鬼太郎が好きだというマイルス君に、鬼太郎の漫画を何冊か送って上げたら、絵の礼状を送ってくれた。
<アメリカから送ってくれた、マイルス君の絵!>
写真の発見者であるクリスティンとも、つながった。クリスティンは、「アメリカ人が日本人に申し訳ないことをした」という、贖罪感を持っているようなので、僕は、「あなたのお陰で、写真が帰ることができたんですよ」と、感謝メッセージを出すなどして、やり取りをした。
かつての戦争が取り持つ縁で、人と人が平和に仲良くつながったのだ。ドミノ倒しの最後は、まるでオセロゲームのように、戦争から平和へと色が反転したのである。
ありがとうございます。考えてみたら、クリステン、だんなさん、私、先生、マイルス、みんな音楽人です。ちなみにクリステンと私はすぐ泣くので、泣きました。クリステンのだんなさんはうれしくて南部のお母さんに、電話で沖縄のテレビ放送を聞かせていたそうです。日本語だから意味不明だっただろうけど。
昨日、マイルスの中国系の友達(7歳)が「日本と中国って、小さな島をめぐって喧嘩してるよね。Funnyだよね。」って話しているのを聞きました。
喧嘩はアホちん。。平和を祈りたい、そのために行動したいです。
ご協力いただいている皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。どうかよろしくお伝えくださいませ。
すみこさんへ/田島さんから下記のメッセージ入りました。
昨日琉球新報に戦時中写真の記事が掲載され、その後何度も高江州氏の「風の里」に問い合わせが相次いでいるそうです。その一つに写真の赤ちゃんは私の祖父だという電話があったそうです。
遠藤さんが再来沖する頃にあわせ遺品写真の法要を行いたい旨、話を進めています。
佐渡山さんから昨日電話がありました。私も近々佐渡山さんと珈琲ブレイクを持つつもりです。
佐渡山さんも遠藤さんと私には好意的で、他の誰よりも気さくに話が出来るとおっしゃっていました。嬉しいことです。
田島
田島さま
うれしい限りでございます。
赤ちゃんの写真は手元にあった時とっても印象に残っています。いま鳥肌が立ってしまいました。我が家は祖父が戦死し血の着いた土以外は戻らなかったそうです。だから、私の母も「みなさんに写真が戻るといいね。」と願っています。母は東京出身で戦争のショックで時々記憶喪失のような状態になり、出身地を忘れたりするんです。佐渡山さまは、素敵なグランマでご健康そうですが、やはりつらい思いをたくさんなされたんでしょうね。お父様のお写真がお手元に帰られたこととてもうれしく思っています。遠藤先生、田島様、ユニのみなさま、願って下さった全ての方々のおかげですね。ありがとうございます。感謝の気持ちでいっぱいです。友人のクリステンも彼女の旦那さんもとても喜んでいます!
すみこ