ため息ついてふと思ってしまった。
“いったい自分は、何のために生きているんだろう?”って。なんだか、まるでティーンエイジャーみたい、、、。
まあだけど、そうなんだからしかたがない。
僕は人の心を変えたくて生きて来た。このことに気づいたのは数年前だ。どんな心に変わることかと言うと、“幸せな心と孤独でないこと”、に。
なぜ僕は、こんなことのために生きて来たのか?
ちっちゃな時から(浅川マキの歌、風に)
僕は、もの心ついた時から幸せでなく、そしてひどく孤独だった。
そして、そこから抜け出そうとして子どもの頃から必死だった。しかし、それが極まるところまで行ってしまったのは、16歳の頃だった。
その頃の僕は、“どの年齢の人も、またどんな人も、例外なく、死にたがっているのを必死で我慢して生きている”と、頭から思い込んでいた。
きっと僕がそうだったからなんだろうけど、それが自分の投影だとは気づかなかった。それぐらい精神的に余裕がなく、追いつめられていた。
だから、そうでない人がいる、というのを知ったときは、心底びっくりしたものである。
そんな僕だが、子どもの頃からやって来たことは、不幸せっぽい人を見つけては、なんとか幸せな気持にしようと努めたり、孤独そうな人を見つけては、なんとか孤独でない気持にしようと心を病むことであった。
しかし、もちろん、僕の試みは多くの場合、失敗した。
快適な自分を満たすのが幸せなのか?
その原因は、ずい分たってからやっとわかったのだが、、、(恥ずかしながら、実は最近)。
そもそも人が幸せな心になるためには、“他の人を幸せにする気持にならない限りは無理”なのだ。
孤独な人が孤独な心から解放されるためには、他の人の孤独を癒そうする気持がない限りは不可能なのだ。
それが人生の法則なのだ。
それは、よくよく考えてみたら当たり前のことなんだけど、なかなかこれを言語化して認識することはできなかった。だから、失敗して来たのである。
というのは、通常、人は、快適な自分を手に入れることを幸せと呼ぶ。それで、“自分を幸せにすること”が、幸せだと思っている。
ところが現実は違うし、その誤解が解けない限り、幸福にはなれないのである。
人は、自分で自分を幸せにすることはできない
人に認められたり、優しくしてもらったりするのって、幸せなことだ。これは物質に満たされた北半球の日本に住む私たちが、唯一感じることができる幸せかも知れない。
きっとみんな、“今の自分に足りない何かがあったら、自分はもっと認められるし、もっと優しくされるし、もっと愛される”と思っているのかも知れない。
だけど、それって、今の自分を否定することだから苦しい。それに、そのこと自体が幸せなこと状態だとは、とてもいえない。
また、たとえ自分に足りない何かが、先行き手に入ったとしても、果たしてそれで人に愛されるのだろうか?
人生の事実
地位があるから、有名だから、お金があるからという理由で親切にしてくれる人は、もちろんあなた自身を認めているわけでも、また、あなた自身に親切にしているわけでもない。
言ってみれば、あなたが着ている服を愛しているに過ぎない。
人は、自分で自分を幸せにすることはできない、と言った。これはほんとうの本当に事実なのだ。ただし多くの人は、単なる“快適さ”のことを幸せとカン違いして、そう呼んでいる。
だから、この現実(人は、自分で自分を幸せにすることはできない)を知るのを邪魔して、幸せを求めていながら、逆に不幸の種を積んでしまうのだ。
だって快適さって、長続きしないんだもの。
人間は、どんな快適さもすぐに慣れてしまって、不幸を感じるようにできている悲しい存在だから。(しかも、手に入れてしばらくの間は、これが長続きすると思い込むという、愚かさも併せ持っている)
人は、人に幸せにしてもらうしかないのだ。じゃあ、どうしたら、それはできるのか?
「人は、他の人を幸せな気持にすることでしか、幸せを感じないようにできている」まずは、この峻厳な人生の事実を認識するところが始まりだろう。
“そうかあ、宇宙ってこんな風にできていたんだ〜”と、僕自身、あらためてその不思議を想う。
<続く>
※ああ、バングラデッシュ行きの準備しなければならないのに、ブログなんて書いて時間使ってしまった〜。何か写真でも載せようかと想ったけど、時間ないからやめたっと。
本当に、単純で深い真実ですね。忙しいところ、海底t抱き有難うございました。このブログを胸に、1月の「気と仏陀の幸福力」をさせていただきたいとおもいます。これがはらわたで分かれば、人生が変わりますもの。。。
まず自分のからかえなきゃですね!