UNIチャリティフェスティバル(http://npouni.net )に参加してくれた「焼き肉屋いちなん」をやっている孫恵文(そん・けいぶん)さんと、時おり会うようになった。(名刺で名前を見た時に、「何て、かっこいい名前だろうな〜!」と思った。だが、まあそれは、このテーマではないので、ここまでにしておこう)
<孫恵文さん>
孫さんと会うのは、「サンガキッズクラブ」を始めるに当たって、いろいろ相談するためだ。
これは、タオサンガやNPOユニに、何らかの関わりのある子供たちが定期的に一緒に遊べる時間を創ろう、というプロジェクトである。孫さんには委員をお願いした。
僕は、子供が気になる
どの子供を見ても、見るたびに2つの点が気になる。1つは、“ちゃんと愛されているか?”で、もう1つは、“孤独でないか?”である。僕は、20代の頃に幼児教育論を書きかけたぐらいだったから、子供が気になるのは、何も今に始まったことではない。
子供は、親(または大人)に愛されなければならない。それは、無条件でなければならない。そして、愛情は満たされなければならない。親(または大人)には義務が、子供にはその権利がある。(しかし、心に義務を課すことはできないのが、何ともはがゆいところだ)
街で子供が視界に入ると、日ごろ愛されているかが気になって、チラホラ見たりする。それで、愛されている顔をしていると(満ち足りた顔をしている)、安心してホッとする。逆だと胸が痛む。(チラチラ見ていたりすると、変質者と誤解されないか、同時に心配でもあるが)
共通の特徴
孫さんの店のメニューに「“美味しい!”と言われるより、“安い!”と言われる方が嬉しい変わり者」というような自己紹介が書いてあって、僕は一発で孫さんのファンになってしまった。
それで実際にお会いしてみたら、“腹に何も持っていず、何とも安心できるお人柄”という印象を受けた。
ところで、孫さんのことを考えていて、自転車屋さんの安田さん、また印刷の大平さんなど、僕が妙に共有できる部分を持っている人たちにある、共通の特徴は何だろうか? と考えた。
そしたら、この「腹に何も持っていなくて安心できる」ということではないか、と思った。このような人は、世の中でうまく立ち回ることはできないに違いない。心の中に何かを隠し持ちながら、人とうまくつき合うということは苦手だろうから。
また、自分がそうじゃないから、心の中に何かを隠し持つ人の気持がわからないのだ。このため、人に騙されたりすることもあるだろう。いや、正確に言うと、もう少し違う。ここで、ちょっと自己分析してみよう。
騙されながらも信じるのはなぜか?
誰かが自分を騙していたら、実は無意識のレベルでは見抜いている。しかし、それを認めるのが、どうも「億劫」なのだ。たとえ相手が自分を騙していても、それを認識したり証明したりするには負(ネガティブ)のエネルギーを必要とするからだ。
信じた方が、たとえ物理的には損でも、霊的レベルでは楽だ。それに、信じていれば、いつかは相手も、改心して変わるかも知れない。そんな淡い希望を抱きつつ、無意識ではわかっていながらも、騙され続けるということになる。
これは良心的な少年院の教官もそうだろう。また、100年以上前に書かれた“宗教的心理の諸相”(ウイリアム・ジェームス著)にも、「何度だまされても信じ続ける」宗教者についての記述があったから、お人好しは古今東西変わらないのだろう。
<Photo world collection より>
そんなことでは、世間でうまく立ち回ることはできないのかも知れないが、“放っておいてくれ”と言いたい。僕は安心できる人とだけつき合いたい。生きるのが下手なのだ。
先生、突然のコメント失礼致します。
生き方上手と言われる人間も
生き方下手と言われる人間も
ただその人間の行いの結果出た現象にすぎないよう私は考えます。
生き方上手を自慢する者もいれば、生き方下手を自慢する者もいるのが現実。
本当に良い人間ほど人には知れず、他人は気づかないかと。
他人に喜びを与えながら、実は身内は不幸という人間も多いように感じる今日この頃であります。
人も行動も、一端、部分だけでは本当の姿は分からないように思います。
なんか、生き方下手自慢してしまいましたか、、、(汗)
そういえば、偉大なガンジー様も、アル中になってしまった息子がいたぐらいで、
家族は可哀想だったかもですね。さて、自分を振り返ると、ため息ばかりですが、、、はい。