少し長いあとがき
“千年先でも役に立つ念仏修行の体系をまとめよう”というのが、この「タオサンガ修行大全」を編み始めた動機だった、と今では思う。
それは約一千年前、源信が著した「往生要集」の序文、“修行する人々のために書いた。自分の名誉や利得のためではない”などが、いつまでも心に残っていたことも影響していると思う。
それらの言葉は、まるで源信から直接聴いてかのように、心の中にいつまでも反響していたのだ。
大全を編む内に、気づいたことがあった。
それは、「人々がお互いの幸せに責任を持つようにならない限り、世界は変わらない」(ヘレンケラー)
という言葉を読んだ時のことだった。
長い間自分が抱えて来た気持ちを代弁してくれたかのようなその言葉は、
まるで、記憶喪失から目覚めさせたような衝撃を私に与えたのだった。
なぜならこのとき私は認識したのだ。
20代で挫折し、一時は諦めたサンガ・コミュニティをクリエイトするという夢を、
一体なぜ、僧侶になってまで10年後に再び復活させたのかを?
なぜなら私もまた理解していたのだ。
この世界の不幸は、他者の苦しみに対して無関心な人と、他者の幸せに責任を持たない人が作っていることを。
ヘレンケラーの言葉の意味は、そういうことだった。
そして、そのような世界に住むことは、私にとって苦しみだったのだ。
例えば、子供たちの苦しみは、彼らに温かい関心を抱かず、その幸せに責任を持たない親がいるからだ。
温かい関心を必要なだけ十分に払う大人が周囲にいれば、子供たちは苦しまない。
本来ならば、子供時代こそは、豊かで人生を肯定的に捉える思い出に満ちたものであるべきなのに。
それは大人にしても同じだ。
ヘレンケラーの言葉のごとく「互いの幸せに責任を持つ」人間関係がない限り、人間は不幸なままなだ。
では、この世の一般的人間関係は、一体どうなのだ?
「相手の幸せに責任を持つ」人とは、他者に対して肯定的関心を持っている人だ。
今、目の前にいる人に十分な気遣いを与える人だ。
それは常に共感的想像をもって、相手の気持ちに寄り添う人のことだ。
相手の問題を”我がこと”とする人だ。
相手に先意承問(相手の気持ちをわかって問いかけること)する人だ。
それは自己愛にまみれ、自分の話ばかりし続ける人ではない。
自分に関心がある話題しか入って来ないような人でもない。
自己関心というエゴの牢獄に入り込んで、押し黙る人でもない。
そんな人間関係ならば、誰だっていらないはずだ。
一体、そんなものを必要としている人がいるのか? と心の底から思う。
では一体、相手の幸せに責任を持つ人間関係はどこにあるのだ?
どこにもない、、、。
ならば、まず自分がそうあるしかないのだ。
相手の問題を“我がこと”とすること。
相手の良き未来に関心を持ち、“我がこと”として決定(けつじょう)すること。
他者への肯定的関心をもって、相手に問いかけること。
相手の気持ちに共感して、良き未来という果実を共に喜び合うこと。
自分がそのように生きていれば、いつしかそういう人たちに会える。
私はそう信じて生きて来た。
漫画「火の鳥」(手塚治虫)の主人公が、冷凍睡眠から目覚める人を待ち、
毎日100年以上通い続けたように、私はいつまでも待ち続けた。
今にしてみるとまったく不思議なアレンジメントとしか言いようがないが、
タオ指圧の技は、先のような心や生き方でなければできないものだった。
私はヘレンケラーの言葉に代弁されていた自分の真意にはまったく気づかず、
30年以上前、1冊目の「タオ、気のからだを癒す」(法蔵館)で、次のように述べていた。
「人がもし孤独や憂鬱に悩むとすれば、それは関心を自己に向けすぎた結果であろう。
だから西洋の心理学者アドラーなどは、憂鬱病の患者に向かって以下のように述べたのある。
“私の指示通りにすれば、この病気は二週間で治ります。
すなわち、どうすれば他人を喜ばせることができるかを考えればよろしい。
他人のことに関心を持たない人間は、苦難の人生を歩まなければならず、他人に対しても大きな迷惑をかけます。人間のあらゆる失敗は、そのような人たちの間から生まれるのです”、と。」
また、「問診に必要なのは、相手の人生がより良きものになるにはどうしたら良いか、を自らに問いかける気持ちである。相手に対して愛情に基づいた関心を抱かない者が、治療関係を成立させることはできない。」
さらに、「自己関心から他者への肯定的関心へと己れの心をふりむけていくことは、広く人間が持つべき心だと思う。
なぜなら多くの人間は、幸福を望みながら一向に自己関心を捨てない。
それは、幸福を望みながら不幸の種をまいているようなものである。
幸福になりたければ、何よりもまず、生きとし生けるものの幸福を願うことを始めなければならない。
その願いの奥には、無我と永遠不滅の真実の自己、すなわち仏性が輝いているのである」
私がタオ指圧を教え始めてから、これを学ぶ人に利他を祈る念仏をお勧めして来た理由は、ここにあった。
そして、4冊目の「気の幸福力」(法蔵館)に至っては、「国境を超え、互いの幸福に責任を持つコミュニティが生まれたら世界は変わる」とも書いていた。
こうして私は、再びサンガを創るという夢を復活させたのだ。とはいえ、その道は決して平坦なものではなかった。心ない行為や言動に傷つくことも、一度や二度ではなかったし、人に失望することも再三ある。まるで砂漠に種を植え、水を撒き続けるような忍辱の連続、と言っても過言ではなかった。
そんな困難なことに長い歳月を費やして来たのは、人々がお互いの幸福に責任を持たない限り、世の中は変わらず、また、この世界から不幸がなくなることはないことを知っているが故だった。
それに、何しろ私がタオ指圧を教えて来たのも、念仏弘通に献身して来たのも、この世から不幸をなくしたいが故であった。
そもそもコミュニケーションのあり方には、人が他者に対する扱いが現れている。
だから今も尚、祈るような気持ちで思う。
これを読んでいるあなたは、果たして人々のために、喜んでサンガのコミュニケーションを日常的にしてくれるのだろうか?、と、、、。何百年間も毎日通い続けた「火の鳥」の主人公のような気持ちで思う。
これはタオ指圧ができるか否か、に関わることだ。でも、それ以上に私が気になるのは、コミュニケーションには、あなたが、自他を幸福にする生き方をしているかどうか、が現れているのだ。
果たして、この世界は変わり得るのだろうか?
この世界が変わり得るか否か、この世から不幸がなくなるか否かは、日常の人間関係におけるコミュニケーションがどう変わるかにかかっている。
本書で、コミュニケーションについての記述が多くあり、これをタオサンガの根本理念としているのは、このために他ならない。
誰だってこう思うに違いない。
いくら口で念仏を唱えていても、日常的な愛の実践がなければ、そこにどれほどの意味があるだろう、と?
相手の気持ちに無関心な態度で、相手の幸福に責任を持つ生き方でないならば、それは空念仏と言われても仕方あるまい、と。
千年先にも役に立つ念仏修行体系をまとめることを願って、ここ数年に亘ってこの修行大全を編んで来た。しかし、本当に千年後まで人々に伝えて頂きたいのは、知識でもメソッドでもない。だから、ここにパウロの言葉を添えたいと思う。
「 そこで私はあなた方に最高の道を教えよう。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私にとっては騒がしいドラ、やかましいシンバルと変わらない。
たとえ、預言者の賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
愛がなければ無に等しい。
たとえ全財産を貧しい人に尽くそうとも、自らを誇ろうとわが身を死に渡そうとも、
愛がなければ、私には何の益もない。
愛は忍耐強い、愛は情け深い、そして妬まない。
愛は自慢せず、自らを高い者とはしない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
預言は廃れ、異言は止み、知識は廃れよう。
しかし、愛は決して滅びることがない。」
(コリント人への手紙)
私をしてタオサンガを創らせたのは、
「お互いの幸せに責任を持つコミュニティ」があって欲しい、という切なる願いだった。
そしてヘレンケラーの言葉が、その想いに気づかせてくれた。パウロの言葉が、その気づきを後押ししてくれた。
彼らがタオサンガで共に念仏していたならば、共にサンガをクリエイトする仲間だったならば、きっとこんな風に言ったに違いない。
「カルマから解放されたければ、そして智慧が欲しければ、三宝受持しなさい。
幸せになりたければ、そして大愛を求めるならば、三宝憶念しなさい。
喜びに満ちたければ、そして潜在能力を発揮したければ、三宝讃嘆しなさい。
願いを成就したければ、自己実現したければ、三宝決定しなさい。
しかし念仏修行するならば、まずその前に、常に他者を“我がこと”として、相手に肯定的関心を持ちなさい。
常に共感的想像をしなさい。
他者を楽しませなさい。喜ばせなさい。
常に相手が、”自分は愛された”と感じることのできる、気遣いある言葉を述べなさい。
、、、愛ある行動をしなさい。」、と。
ー完ー