「人生に疲れた人は私のもとに来なさい。休ませてあげよう、あなたを」
これは、聖書に出てくるイエス・キリストの言葉である。
イエスは常に、人の悲しみに寄り添い、そして一度人生を横切った人の苦しみは、生涯背負い続けた。
今度は仏教に目を転じてみよう。
菩薩とは、どんな人のことを言うのだろうか?
経典に説いている。「生きとし生けるものを、自らの荷物のように背負う。(群生を荷負し、己れが重担と為す)者が菩薩である」、と。
人は菩薩やイエスのような、慈しみの心を示す行為に、心打たれる。
なぜなら、自らの損得を超えて、他者を思いやる慈しみの心の背後に、神や仏が存在していることを感じ取るからだ。
“何としてでも神・仏の存在に気づいて欲しい。”
そう思う僕は、菩薩的生き方を志すのがタオサンガだ、と思っている。
そして生きている内に、一人でも多くの菩薩たちに出会いたい。
そう、心から願っている。
自らを犠牲にしてでも、人の為に生きたいという欲求。
イエス・菩薩のような利他の欲求を、人は必ず内在していると信じているからだ。
ただ、時々思う。
どうして、他のために尽くしたいと思う、イエス的/菩薩的な利他の欲求が明確な人と、そうでない人がいるのだろう?、と。
もちろん一般的な風潮は違う。
自己犠牲を厭い、自らの安楽を選ぶのは、普通の生き方なのかも知れない。
もちろん、自分が楽する方を選んだ人は、得したように見える。
しかし、そんな行為に感動する人はいるだろうか?
それはかっこいい生き方だろうか?
それは美しいだろうか?
その行為の背後に、宇宙大霊の実在を予感する人はいるだろうか?
私たちは、得をするより、楽をするよりも、
かっこよく、気高く、そして美しく、ありたいと思うべきではないのか?
見てくれなんかどうでも良い。
だって、生き方を、行為を、いくらでも美しくすることはできるんだから。
存在そのものをアートにすることができるんだから。
迷わず、みんなの喜びのために、自らの心身の苦を厭わないイエス的、菩薩的な行為。
それは、殺伐としたこの世に生きる人の心のどこかを、必ずや温かいものにしている、はずなんだよ。