(1)
今日からやっと休暇らしきものが取れる、、、。
昨日まで、まるで激戦地で闘っている兵士のような状態が続いていた。
にも関わらず、いろいろな依頼や相談案件などが入って来る。
それにほとほと参って、思わずSNSに
「疲れすぎて風呂に入れなかったのも、疲れすぎて指圧を受けられなかったのも、疲れすぎて身体が痛くなったりしたのも、今回が初めての体験だった。」
などと投稿してしまった。
実は、そんなプライベートなことをSNSに書くのは、自分のポリシーに反する。
それに自分の状況なんて、東部戦線にいたドイツ軍兵士や、南方にいた日本軍兵士に比べたら、まるで楽園のようなものだ。(←と言い聞かせながら、がんばっていたんだよね)
ということで、今は京都近郊を自転車で走っているところ。
「溜まっている心身の疲労を、純粋な肉体疲労に置き換えることで速やかに解消しよう」というわけの分からない作戦なのである。
(2)
さて、ずーっと続いていた激動の活動を少しここで振り返ってみよう。
中東に行ったのが七月下旬。最初は、テルアビブで何と!ワークショップをやっている自分がいた。
アースキャラバン中というこの忙しい時に、ワークショップなんてする頭がよくあったもんだ、と我ながら思う。
でも、イスラエル入国をスムーズにするためには、ワークショップが一番楽なんですよね。(まあ、それだけ、っていうわけでは、もちろんないんだけど)
<テルアビブ・念仏ワークショップでは、バリバリ・ユダヤ教の人にも念仏やらせちゃうのだ。この際、ユーモアがあれば、何だって可能である>
ところで先に「この忙しい時に」と述べたのは、アースキャラバン中東のプログラムも、僕が諸々引き受けていたからである。
このため、日本や海外からの30人の参加者のバス、ホテル、ツアーなど様々な折衝を現地でしていたというわけ。
僕は何を隠そう、ボランティア旅行代理店を兼ねていたのだ。(もちろんメンバーのあいきさんのサポートは絶大。大感謝である)
(3)
難民キャンプの入り口。パレスチナ人に自動車を使わせないように、イスラエル軍がコンクリートを置いているのが悲しい。
(単なるイジメのためなので)
難民キャンプの子供達(知的障害辞児の施設)
<癒されやのは、われわれの方であった>
<罪のないパレスチナ人の大勢の子供達が、イスラエル軍の刑務所に何年も拘束されている。写真は、子どものことを想って涙を流すお母さん>
<話を聴いて涙ぐむ>
<慰めようもなく、思わず抱擁する、、、>
<それでも笑おう!>
<希望を失わずに、、、>
(4)
ツアー・コーディネーターの上、僕にはベツレヘム・フェスティバルでは2回のLIVE演奏もあった。
音楽の時は頭のネジが完全に入れ替わってオカしい人になっている僕、、、。
そんな中で、諸々のコーディネートをしているので、「我ながらよく気が狂わないな」と思わず阿弥陀さまに感謝したのである。
右側は司会の純さんで、イタリア在住のサンガメンバーである。さすが女優をしているだけあって,司会が上手い。
右はわが友エリヤス。
彼は外国人向けの指圧のワークショップがあれば、日本まで来るとのことだった。
エイリアスはクリスチャンのパレスチナ人。
なので、「仏教を基本にした指圧だけど大丈夫?」と聞いたら、「そういうのを学びたい!」とのこと。
エリヤスは人当たりがよく、優しい人間である。
僕は彼のことを、“女性のわがままを何でも聞いてくれそうな奴”と密かに称している。
<アミナダブ>
BE FREE PALESTINE! (パレスチナに自由を!)をみんなで歌う
<ステージに駆けつけてくれたベツレヘム副市長と握手>
<8月6日の広島の日のステージで行った種を植える儀式>
アースキャラバンのコーディネートで、70年前の原爆で生残った樹(被爆樹)の種が、広島のグリーンレガシーから届いた。
それを植える儀式をステージで行った。
国連の人や日本大使館の人等もステージに来てもらった。
一番左は、植物園も運営するベツレヘム大学のマージン教授。
アースキャラバンとベツレヘム・フェスティバルを繋げてくれた恩人である。
<原爆の残り火「平和の火」が、フェスの主催者に渡される。
右側はまゆさんで、そのまた右側が国連に勤める清田先生である>
(5)
写真は、アースキャラバン最終日に行った「異宗教合同のピースウォーク」
これ(上の写真)やらせたユダヤ教のラビに「ちょっとこれ、幼稚園みたいで恥ずかしいんですけど、、、」と言いたくなるのを必死に我慢している自分がいた。
(6)
中東最後の日は、テルアビブでイスラエル・サンガの念仏会を行った。
出国しても日本にはすぐには帰らず、タイで途中下車し、やっと数日をビーチで過ごした。
その後、まゆさんが日本に帰っても、僕は一人居残り、引き籠もって、誰とも口をきかない数日を過ごした。
そして「あーあー、もう帰んなきゃならないのかぁ、、、」とぶつくさ言いながら帰国。
東京でタオ指圧のクラスや法話などを2日間、勤めた。
(7)
、、、帰国して1週間ぐらいたったら驚いた。
ピースサイクル(原爆の残り火である「平和の火」を、京都から東京まで自転車で持っていく)の出発日が、3日後に近づいているではないか!
僕は京都から出発し、自転車で走ることになっていたのだ、、、。
これは自分から言い出したこと。
とはいえ、まったく慌ただしい限りである。
”まるで台風の中を生きているようだな”と思ったら、本当に台風まで近づいて来るではないか!
<というわけで、雨降る知恩院をピースサイクルが、9月14日に出発>
僕は走る気満々であったが、同じく走る気満々のあすな嬢が現れた。(ライバル出現である)
というわけで出発時の自転車は、彼女に譲り、僕はサポートカー役を勤めることになったけど、
まあいいや、後で走ってやるぜい! と出発。
<「ふむふむ。なかなか決まっておるな。」←これはライバル心むき出しの僕のセリフである>
<2人が自転車で走っているのを一人サポートカーで走るというのは、かなりマヌケな役割であった>
<ようやく来た出番>
<雨の中をひたすら走る>
<「台風だぜ、ひゃっほう!」と言って走る>
「ちょっと前までは、中東で汗だくだったのになあ、、、。」と思わないでもなかったけど。
そしてこれからさらに、まだまだ激戦が続くのだ。
、、、というわけで<続く>