”これはもう戦場だな、、、”というのが、あらためて観たときの感想だった。
ドキュメンタリー映画、「五つの壊れたカメラ」である。
パレスチナ人とイスラエル人が共同制作し、オスカーにノミネートされた作品だ。
監督たちの来日をNPOアースキャラバンが支援したその縁で、監督とも知り合いになり、その後もずっと交流を続けて来た。
この映画の舞台は、パレスチナのビリン村。
イスラエルによって村の中に分離壁が建設され、パレスチナ人の村なのに、多くの土地が奪われてた。
当然、生活手段である畑やオリーブの樹にはもう行けない家族らもいる。
非暴力抵抗運動が始まった。
毎週金曜日の礼拝のあと、奪われた土地を取り戻すため、村を上げて行う抗議行動。分離壁へ向かうデモである。
これは途絶えることなく続き、イスラエル人活動家や、海外からのパレスチナ支援の活動家も参加するようになった。
僕が、ビリン村のデモに参加したのは、はじめてパレスチナに足を踏み入れた時だった。7年ぐらい前のことである。
それまで、9回もイスラエルに行っていながら、イスラエルの占領地であるパレスチナに入ることが、諸般の事情からできなかった。(これは僕にあとで非常に恥ずかしい想いを抱かせた)
デモと聞いたら、日本の平和的なデモを思い浮かべる人がほとんどだろう。
でも、パレスチナでデモに参加することとは違う。(高江は、また少し違うかも知れないが)
イスラエル兵は、パレスチナ人のデモ隊に対して、当然のように催涙弾やゴム弾を撃つのだ。
高速催涙弾に胸を直撃され、フィールという心優しいパレスチナ人の青年が死んだ。
その数年後には、彼のお姉さんまでが、催涙ガスによって呼吸困難に陥り、死んだ。
催涙弾の破片で目をケガした人もいる。
ゴム弾の威力もまた、恐ろしい。
アメリカ人の女性が失明したという話も聞いた。
パレスチナ人監督のイマッドも、ゴム弾で大怪我をして、病院で手術までした。
さらに7年前、僕がビリン村に行く直前には、「イスラエルはビリン村のデモ隊に化学兵器を使っている」という噂話まであった。
その時、僕は、かなりの覚悟でバスに乗り、 ビリン村に向かったのを憶えている。
ところで2、3年前から、ビリン村の写真家のハイサムともFacebook上で交流を始めた。
毎週のデモの様子は、彼の投稿記事で読んでいた。今日は誰もケガしなかった、とか、、、。誰それが逮捕された、という報告がある日もある。
<ハイサム>
<デモの出発。写真は七年前のもの。一番、手前にいるのは、東エルサレムで友だちになったイタリア人の女性ジャーナリストのアンドレア。
後で、先頭集団にいるお互いを発見。催涙弾の煙の中で、「おお! お前もいたのか!」と合図しあった。こうなりゃ、戦友である>
<催涙弾の煙>
僕は、今年のアースキャラバン中東には、希望者を募って、ビリン村のデモ参加に行きたい、と思っていた。
ところが、だ。
「五つの壊れたカメラ」を見直し、”こりゃもう戦場だな、、、。”と思った。
そして僕は、やっぱり希望者を募るなんてよそう、と思った。
”こんなん、とても人には勧められんわ、、、(ちょっと関西弁ね)”というのが本音であった。
だって、もう戦場なんだもん。参加者をケガさせるわけにはいかないじゃないですか。
出発前には、”みんなには黙って、独りでひっそりと行こう”と、まで考えていた。
”それでも、自分は行かないわけにはいかない、けど、、、。”
この「自分は行かないわけにはいかない、けど、、、」という、僕の心理を説明するのはとても難しい。
うーん、例えばあるところに、人間の尊厳や自由を守るために闘っている人たちがいる。
そして、それに共感していながら、「自分の身が危険になるから」と言って、安全なところに自分の身を置く。
これ、僕的には、かっこ悪くて、とてもできないのである。
「何もそんな危険なところに、わざわざ行かなくったって良いではないか」
、、、そんなことは重々わかっている。
「行かなくたって別に恥じゃない。誰も文句言いやしないよ」
、、、それだってわかっている。
「あんた一人が行かなかったところで何が変わるっているんだい?」
、、、そんなことは百も承知だ。
これは、あくまでも自分的な「人生の美学」の問題なのである。
で、最後に「けど、、、」とつくのは何か?
「オレだって恐いさ。世間一般の人みたいに保身に走りたいよ。でも、どうしてもできないんだよ〜ん!」というのが、入っているのである。
<続く>
「五つの壊れたカメラ」について
映画「五つの壊れたカメラ」は、You-tube でも観れます。
https://www.youtube.com/watch?v=6UP-D_MtZt0