2013/01/11 Categories: バングラデッシュ支援

12月29日

 午前中、NPOユニで修復中の仏舎利塔を視察に行く。

おおっ!花師のおじさんが、ガーデン造りにに励んでくれているではないか!

 水のポンプも造成され、すでに土地の半分がガーデン。NPOユニで修復した仏舎利塔は、さらにきれいになっていた。

<よくみたら土で、GUC RK(グローバル・ユニ・コミュニティ・ラカイン)と書いてあるではないか!>

<うしろにいる彼は、なぜかよく、ぬぼーっとして現れる。ひまらしい>

初めて仏舎利塔を見た時は、荒れ果てていて、その様子に、僕たちNPOユニのメンバーは心を痛めた。

それで数年前、仏教徒の学生たちにも声をかけて、皆んなで一緒に掃除をしたのが、仏舎利塔修復プロジェクトの始まりだった。

 その頃の様子を憶い出した僕は、きれいになっていく仏舎利塔をみて、感慨もまたひとしだった。(これぐらいの喜びは味わってもいいよね)

あと少しで、仏教の聖地公園になりそうな所まで来ている。

<ベンガル人観光客と>

<“展望台を造って一回5円ぐらい(かな?)で観光客にレンタルできるから”という、花師のおじさんの要望で、日本から持って行った天体望遠鏡を試す>

ラジョーさん曰く、“NPOユニのお陰です。会員の皆さんには本当に感謝しています” とのことである。良かったなあ、、、。

午前中は、今後の修復箇所について、1つ1つ確認しながら、3人で相談して過ごす。

 ミニゲーム大会

ところで、かつて僕が10年かけて完成させたChari-TXチャリティックスというゲームがある。

近々オンラインゲームになるんだけど、今回、このボードゲームの無料配布版を持って来ていた。

ラカインの村の子どもたちに教えて、無料配布するためである。

午後は、それに先立って、NPOユニの活動拠点であるタオサンガセンターで、ラカインの大学生や短大生たちにとミニ大会を行った。

 

<女の子たちも>

 <勝負あった!>

 <みなわりと真剣である>

どうしてホッとするんだろう?

この時、ふと思った。なぜ僕は、人がChari-TXゲームで楽しそうに遊んでいるのを見ると、ホッとするんだろう?

人々が童心に帰るのを見るからだろうか? それもあるかも知れない。

もしおじさんやおばさんたちが、缶けりとか凧揚げとかを喜々としてやっていたら、それなりにホッとするかも知れないから。いや、でもこのホッと感とは、少し違う。

自分が考案したゲームだからだろうか?           うーん、、、。もちろん、自分が楽しいと思っていることを人と共有することの喜びはある。だけど、それだけでは「ホッとする」というこの安堵感は、説明しきれないような気もする。

 では、このゲームを極めていくと奥が深くなり、将棋を極めていくことで人生についての示唆が得られるような、、、そんな要素があるからだろうか?

 でも、それだけなら、将棋をやっている人たちを見て、ホッとしたって良いではないか? でも別に、人が将棋をやるのを見ていたって、このホッとするような温かい感覚は僕には生まれない。

社会的な肩書きとは無関係

そこで、20年前のことを思い出した。“一体どうして、このゲームを創ったのですか?”と聞かれて、“孤独だったからじゃないですか?”と答えたことがあったのだ。

 その時、なぜ自分がそんな風に答えたのか、その意味を言語化できなかった。だけど、今回、ラカインの大学生たちがゲームをやっているのを見て、自分が何にホッとしているのかを考えていたら、ようやくわかってきた。

 まず僕は、“このゲームを憶えて人と楽しく遊べたら、プレヤー同士は友だちになるだろうな” と思うのである。

ここで自画自賛みたいな話になるので、まことに恐縮至極、でもお許しいただきたいのだが、このゲームを深いレベルでやると、ゲームを通じてお互いの人生観をやり取りするような所があるのだ。

飲み屋の将棋大会で僕が言うこと

 もちろん将棋にも、そういうところはある。僕は一昨年まで、毎年1月1日には「まほろば」という飲み屋で、酒を飲みながら行われる将棋大会に毎年のように参加していた。

31日の夜9時から1月1日の昼1時までは、ほぼ徹夜の年越し念仏会に出て、そのまま寝ずに、その夜は朝方までの将棋大会に参加するのである。遊びもさぼっちゃいけないしなー、と思って。

その時の僕は、“なんだそれは、サラリーマンっぽい手だなー。人間守りに入ったら終わりだぜい。”なんて、相手にほざきながらやっているのである。将棋は勝ち負けでなく美学だ、というのが僕のモットーだからである。まあ人生もそうだけど。

人生を語り合う

さて脱線してしまったので、話を戻そう。人間、表層の社会的な肩書きでつき合って、友だちになんかなれるはずがない。

世の中が貼るレッテルとは一切無関係に、人と人が言葉を通さずに、人生を語り合って友だちになる。こんな素敵なことがゲームを通してできるのだ。

僕の無意識は、それを、Chari-TX を楽しんでいる人の心の中に感じて、ホッとするのだと思う。

ゲームの根底にある願い

おそらく僕は、自分が味わったような孤独を人に味合わせたくないという想いが強いのだろう。

僕は小学生の頃から孤独を味わって来た。“誰もかれも自分とは違う。こんな悲しいことがあるだろうか?”と書いたのは、17歳の時だった。

まるで、人と共通の言語を持たないで生きて来たような想いがあるから、僕は人と無意識レベルで語り合えるツールに、ずっと飢えて来たのだ。(もちろん、音楽もその1つだし、指圧も気心道も、また念仏もそうなんだと思う)

また、だからこそ、あれほどエネルギーを注いで、10年もの時間をかけて、ゲームのルールを完成させたのだろう。

 僕にChari-TXを創らせた根底にある願いは、このゲームを通して、人と人が、肩書きも世代も無関係に、人生を語り合えるような友だちになって欲しい、ということだったと気がついた。

願いへの共感に深く感謝

今、タオサンガでは、Chari-TXプレイヤー(チャトランガーと呼ぶ)になってくれる人たちが続々と出現している。

それは人が、このゲームの根底に流れる、“孤独な人がいなくなって欲しい”という願いに、無意識に共感してくれているからではないか?

もし、そうだとしたら、いつしか第三世界の子どもたちや、養護施設の子どもたちに教えに行ったり、配布に行ってくれる人だって出て来るかも知れない、、、いや、きっと出てくるだろう。

そんなことを思っていたら、日が暮れて行く年末のバングラデッシュ、タオサンガ・センターで、いつしか感謝の気持に心は温かく満たされていた。

、、、明日から村を回り始める。

 <息子のセナ君に特訓するラジョーさん。元々彼は、思考するゲームは苦手だった。それが今回、がらっと変わってルール説明係になった。いつだってラジョーさんは、何も言わなくても僕の願いをすぐに理解して、実行してくれる人なのである>

続く