内なる太宰は語る(4/最終回)

太宰治の短編小説『畜犬談』の主人公(大宰)は、

犬が怖かった。

 

犬に恐怖するあまり、

噛みつかれないようにと、

犬に愛想を振りまいて歩いていた。

 

すると、いつの間にか犬が、

散歩する彼の元に集まって来るようになってしまった。

(これは実は、太宰と周囲の人間関係を描いた作品だった。

 

太宰もまた、人が怖いあまり、人に愛想よくしていた。

すると、ケアーしてもらいたい人が、

どんどん集まってきてしまった、ということだ)

 

そしてある日、僕も気づいたのだ。

このままでは、道場が、

ケアーしてもらいたい人たちばかりになる、と。

 

それに、押し黙っている人たちは、

ヘレンケラーや僕の理想など、

鼻もひっかけていない、と。

 

ようするに、

”誰かに自分の気持ちを盛り上げてもらうこと”を

待っている人は、

自分が愛想良くするよりも、

愛想よくされることを。

 

そして、神輿を担いで歩くよりも、

神輿の上に座って、

担ぎ手に連れて行ってもらうことを。

 

さらに、「相手の気持ちを察して問いかけ」るよりも、

誰かに、自分の気持ちを察してもらい、

問いかけてもらうことが優先である。

 

場にいる周囲の人たちの気持ちよりも、

自分の気持ちがよくなることが、

優先なのだ。

 

実を言うと、大昔にも

似たような状況に陥った。

 

20代の前半に、ある事情で、

とある念仏道場に、

同年代の人を15人ほど集めて

修行していた時のことだ。

 

前回も僕は、ひたすら神輿を担ぎ続け、

やがて数年後には耐えられなくなり、

自ら身を引いてしまった。

 

しかし今回は、状況が少し異なる。

前回は、僕の理想を実践してくれる人は

誰もいなかった。

 

しかし今回は、わずかなりとも、

理想を実践している人たちがいる。

 

理想を共有している人が一人でもいる限り、

僕がー人抜けるというわけには行かない。

 

弾が飛び交う戦場で、

一緒に闘っている仲間が一人でもいるなら、

僕だけ逃亡するなんていう、

恥ずべきことをするわけには行かないのだ。

 

それで今回の僕はどうしたか?

 

押し黙る人を盛り上げるのを、

努力してなるべくやめるようにした。

 

(ようするに、神輿を担ぐことをやめたのだが、

癖のようなもので、やめ切きれないところもある)

 

なぜなら、”ここまでは、ケアーされたい人ばかりになる。

そして、永遠に理想は実現しない”と、思ったからだ。

 

だからある日を境に、僕はやめたのだ。

神輿を担ぐことを……

 

すると、どうなったか? 

前回のように、僕が一人抜ける、

ということはないが、

今回は、人が抜けていくのである。

 

まあ、当然そうなるだろう。

神輿に座って良い気持ちになっていたなら、

担ぎ手が神輿を降ろしてしまったら、

気分がよろしくなくなっただろうから。

 

しかし、僕にしてみたら、

マダムや社長へのご奉仕を続けることは、

もう無理なのだ。

 

それに、理想が実現しないなら、

今までと同じようにケアーし続けることは

間違いなのだ。

 

 

さて、その結果、

僕がどう言われたか?

 

「サンガは変わってしまった」

「冷たいところだ」

「喨及さんは、人を見捨てる。

僕は誰も見捨てたくないから、辞めた」

「本物の道ではない」

等々である。

 

うーん、そう言えば、20代の頃にも、

そんな感じのことを言われた気がするなあ。

 

しかし現在は、僅かだが、

理想を共有する人たちが生まれたのだから、

これは、”大いなる人類の進歩!”と喜ぶべきだろう。

 

そんなことを考えながらも、

太宰治の「畜犬談」を再読し、

いまだにゲラゲラ笑っている僕であった。

 

ああ結局は、太宰の「畜犬談」の話になってしまった。

 

またしょうもないブログを書いて、

読者のお目を汚してしまった、かも知れない。

 

早く日々の法話を再開しよう、

と自分を叱咤激励する毎日である。

 

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