僕が唯一、判断基準としているものは?

<写真は、東エルサレム。

今、問題になっている、イスラエル政府による

パレスチナ人家屋の住居破壊での抗議活動で>

 

もしかしたら人は、

僕が、自信満々だと思っているのかも知れない。

 

しかしそのイメージは、

実際とは真逆である。

 

実は、徹底的に自分を疑い、

”果たして、本当にこれで良いのか?”と

悩み、葛藤するタイプである。

 

(お疑いの方は

2月13日に書いたブログをご覧ください ^  ^;)

 

話は変わるが、僕が一番、苦手とするのは、

「あたかも自分の欲求が、

叶えられて当然であるかのような空気感を

漂わせている人に会うことだ」

(自分ができないから ^^;)

 

実は、そんな人は恐怖の対象ですらある。

ちょっと太宰治っぽいが、

走って逃げたいぐらいである。

 

繰り返しになるが、僕は、

もうイヤになるぐらい、徹底的に自分を疑う。

 

しかし、”それでもやるかない!”と

一歩、進めるのだが、

その際の判断基準がある。

 

それは何かと言うと、

『果たして長期的な観点から、

人類のためになるのか、どうか』である。

 

それを自分一人でやる、という気持ちで進めて行く中で、

一緒にやっていってくれる仲間たちができる。

(世界各地に)

かと思えば、一方では、

僕らのやっていることが、

あたかも無価値であるかのように、

あっさりと捨ててしまう、

途中でやめて行く人たちもいる。

(その人をケアーし続けて来た人に、

一言もなかったり、

中には、その後、僕らがやっていることを、

悪く言う人すらいる。

 

さらに、他の人をやめさせるために

方々に電話する、

まるで魔に取り憑かれたかのような

人もいるから厄介である。

 

しかも、本人としては、

”悪いRYOKYUたちから、

他の人を守ろう”という、

妙な正義感に駆られているのだ。

 

しかし同時に、なぜか僕は、

それが何だか面白くて、

笑ってしまう。

 

僕のこの心理は説明できない。

ただ何となく、

その人が一生懸命、

色々な人に電話している、

その滑稽な姿を想像すると、

妙に面白くて、

笑いが込み上げてくるのである。

 

だって、その人の行為って、

まるで、自分が善意でやっていると

信じ込んでいるカルト信者みたいではないか。

 

まあ、そんな風に自分を疑わずに、

”自分は正しい!”って、信じ込めるのは、

ちょっぴりうらやましい気もするが……

 

話を戻すことにしよう。^ ^

 

タオサンガは、道半ばにして挫折しながらも、

ずーっと気にかけ続けてくれている人たちが、

少なくない。

 

2月14日のブログ「イエスの物語が示すメッセージとは?」で、

メールをご紹介した。

 

それは突然、ある人から頂いたもので、

僕は、涙が出るほど嬉しかった。

 

それはちょうど、僕らがやっていることが

間違っているかのように言っている人

やめて行った人)の話を聞いたときだったから、

特にありがたかったのである。(T T;)

 

先に述べたように、そもそも僕は根が、

自己否定に陥るタイプだ。

 

なので、そんなことを耳にすれば、

ひどく傷つき、そして苦しむ。

 

(もし、僕が自信満々だったら、

”フン!負け犬めが何言っていやがる”

とへっちゃらなんだろうけど ^^;)

 

そんなさなかだったから、

僕はもう、涙が出るほど嬉しかったのである。

 

お礼の返信メールを差し上げたら、

翌日、またメールを頂いた。

 

それも、またありがたかったので、

ちょっと経ったが、ご紹介したい。

 

 

 

 

『先生、美しい涙がとまりません。

こんな涙を、人生で流せる私は幸せです。

 

私の涙であって、私の涙ではないのです。

それは、底まで落ちて苦しみの中で力尽きて、

そこに光を見た者しか流せないことを感じる者しか

流せないと思うからです。

 

仏法もキリスト教も先生から学びました。

同じでした。

 

孤独の苦しみの中にしか、本当の光がないと

学びました。

 

孤独や死はとても怖くて、

苦しくてこころが凍ります。

 

痛すぎるので誰でも避けたい。

なのに避けれない。

 

本当の自分と向きあえない。

だったらどうしたら良いのか

苦しくて、その答えをずっと求めていました。

 

そのために、京都では、

利他のこころを育てるために

タオ指圧であり、念仏であり

共感する修行をさせて頂きました。

 

その度に生き返るおもいがしました。

しかし、凡夫である私は

エゴがどうしてもとれません。

今もです。

 

だから、ずっと聴いています。

あたたかいのです。

 

だから、エゴがとれなくても

美しいものにふれると、

美しい涙がとまりません。

 

それは、

先生からずっと種子をまいて頂いていたんだと

魂が震えています。

 

怖れる気持ちが美しいこころにふれると、

それが希望に変わり、

勇気が湧き、愛に満たされます。

 

何度も言わせてください。

本当に本当に本当に

ありがとうございます。

 

修行を続けます。

そして、先生から学び続けたいです。』

 

………ありがたいメールである。

 

くどくて、誠に恐縮の極みだが、

一見、大胆なように見えるかも知れないが、

僕は、悩み葛藤しながら物事を進めて来た。

 

しかし、良いこともある。

自分の行動が、果たして人類のためであるかどうか。

それだけを考える癖だけは、ついている。

 

 

 

 

そして、その判断基準は、

あたかも夜の航海をする船長が頼りにする、

灯台のように、心の灯火として来た。

 

僕は、これからだって、

時に道を間違えるかも知れない。

 

また、これからだって、

時に自分を疑い、葛藤するだろう。

 

しかし少なくとも、

自分が心の灯としている判断基準だけは、

間違っていないのかも知れない。

 

いや、それしか自分が頼れる判断基準はないのだ。

 

…….そう再認識させてくれたメールだった。

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