内なる太宰は語る(2)

前回のブログで僕は、

「”人は、私の欲求を叶えて当然”という

空気感を漂わせている人”」。

 

そして、「押し黙って、誰かが、

場を盛り上げてくれるのを待っている人」

 

この両者は、どこか共通している。

いや、確かに共通している、と述べた。

 

両者の最大の共通点は何か?

それは、どちらも、内なる太宰がいる

僕にとっては怖い存在、

ということに過ぎない。

 

だからそれは、僕の内なる太宰治が

そう思わせているのだと言えば、

それまでの話ではある。

 

しかし、である。

では、仏さまのスポークスマンたるべき、

大乗(仏教の)修行者としては、これどうなのよ?

 

と言いたい気もする……

 

というわけで、その観点からの考察を述べる、

と前ブログの最後に、前口上を述べた。

 

さて、”押し黙って、

誰かが場を盛り上げてくれるのを

待っている人”は、

経典(無量寿経)に出てくる

菩薩(大乗仏教の修行者)のイメージとは、

真逆である。

 

聞けば菩薩は、「まるで孝行息子または娘が、

親を観るような気持ちで人を観る」という」。

 

これは、どう考えても、

”人は、自分の欲求を叶えて当然、

という空気感を漂わせている人”ではない。

 

さらに菩薩は、

「相手の気持ちを察して問いかけ」

(先意承問)ケアーするという。

 

これもまた、どう考えても、

”ひっそりと押し黙り、

誰かに場を盛り上げさせている人”でもない。

 

ということは、

もし上記のような要素があるならば、

それは一体何なのだろう?

…….というところで、続く。

 

 

 

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