‘旅’

ついにHIV孤児院を訪ねる!   旅の第三ラウンド(4)

2013/01/26 Categories:

、、、モタサイ(バイクタクシー)は、やがてホテルに到着。

休む間もなく、僕は動き出した。遅くならない内に孤児院を探し当てたい。

 当初、孤児院を探し出す方法として、僕は以下のような作戦を考えていた。

まず市役所か何かに行き、英語の話せる人を探し出す。そして事情を説明し調べてもらう。

ついでに行き方を教えてもらったり、モタサイの運転手に場所を説明してもられえばグー。

 ところが僕には、10年近く音信不通で連絡先がわからなくなっていた、ソムミャットさんというタイ人の知り合いがいた。それが今回、いろんな方法を使った結果、運良くバンコクで再会することができたのだ。

 それで、ソムキャットさんには、タイ語で書かれた孤児院のサイトのURLを送り、住所を英語に直してメールで送ってもらったのだ。

<バンコクで再会したソムキャットさん>

ソムキャットさんからは、ウドンラチャタニ出発前夜に返信が来たのだが、それには、サイトについていたタイ語の地図も添付されてあった。

住所を英語に直してもらったし、タイ語だけど地図もある。これなら何とかなるのではないだろうか? まあ、さいあくの場合は、市役所を訪ねればいい。

まず僕は、英語はほとんど通じないホテルのフロントに、サイトからプリントアウトした地図を見せ、ここに行きたいのだが、、、と尋ねた。

すると、わかったようだ。そりゃ、良かった! しかしどうやら、とても歩いては行けない距離のようだ。

僕は、 タクシーがいくらで行くかを確認した上で、呼んでもらうことにした。数百円だったからだ。タクシーとは、もちろんバイクタクシー。車のタクシーなど、期待できるはずもない。

 乗るやいなや全力疾走を始めたモタサイの後部に乗りながら、“こりゃ、事故ったら命はないな”というつぶやきが、思わず僕の口からもれた。

まるでジェットコースターに乗っているような気分だ。全力疾走で車の間を抜けて行く上、ノーヘルメットである。

 やがてモタサイは、国道を折れて田舎道に入る。しばらく走り続けた後、学校のような施設の前で停まった。

とうとう辿りつく

 モタサイには、ここで待っていて欲しい、と身振りで伝える。向こうは険しい顔をして、身振りで、金を寄越せ、という。

 仕方なく、あらかじめ決めておいた額を渡し、僕は敷地内に入っていった。

 バイクの音がして振り返ると、バイクが去っていくところだった。待っていてくれ、という身振りが通じなかったのか、HIVに感染した子どもたちがいるから去っていったのか。それはわからない。しかし僕がこれで帰る手段を失ったことだけは確かだった。

 まあ仕方がない。何とかなるだろう。モタサイには、最初から甘い期待は持っていなかった。

さらに敷地内を進んでいくと、庭で女性と子供たちが座っているところに出た。

やはり場所は間違っていなかったんだな、と少しホッとした。

ほどなく僕に気がついた女性が、微笑みながら近づいて来た。僕は、“誰か、英語のわかる人はいますか?”と声をかけた。すると、ちょっと待って下さい。呼んで来ます、と言い、タイ人シスターを連れて来た。

もしかしたら、ここは教会関連の施設だったのかな、そう思ったけど、まあとにかく話を聞こう、と僕がここに来た理由を説明した。

“僕はユニという、インターナショナルNGOをやっている者です。この施設についてのお話しを聞かせて頂きたいと思って来ました。そして、何かお手伝いできることがあればさせて頂きたいと思っています。”

さらに、“少しですが、寄付も持って来ました” と、僕は、自分が単に興味本意で来たわけではないことを伝えた。僕は年末に「いちなん」という所でやったチャリティLive で、聴衆の皆さんから頂いたお金を持ってきていたのだ。

シスターは、お茶を出してくれ、こちらの素性について尋ねた上で、僕の質問にいろいろ答えてくれた。

<左/創始者。右/シスター。>

子供の数は現在69人で、その内の30人がHIVに感染していること。職員は15人で、また感染している子供たちは毎日薬を飲まなければならない。

子供が連れて来られた事情はさまざまで、わからない場合も多い。健常者もいれば、精神薄弱の子もいるとのこと、だった。

また、政府からの援助はなく、運営は寄付のみに頼っている。海外からの寄付はなく、タイ人によるものという。

キリスト教徒になるように育てているのですか? という僕の質問には、いいえ、子供たちを仏教徒として育てています。キリスト教に改宗させるようにはしていません、という。

シスターはいつからいるのですか? と聞いたら、教会が5年前に私をここに派遣しました。この施設を最初に創った彼女がクリスチャンなのです、という答えが返ってきた。

その後、子供たちが施設の中を案内してくれることになり、2人の子に手を引かれていろいろと見て回ることができた。

 

 

 

<日本の大使館が寄付した建物>

 <農園もやっている>

 <乳幼児の部屋>

 <クリスマスカードが貼っていた>

<遊び場もあった>

孤児として育った子供(精神的孤児も含めてだけど)は、例外なくスキンシップに飢えている。

子供たちに手を引かれて案内してもらいながら、僕はその手に、彼らの悲しいまでの“飢え”を感じ、内心胸が痛くてならなかった。

どうも気になったことがあった。それは、子供たちがおとなしすぎることだ。いってみれば何となく覇気がないというか、、、。

一瞬、病気のせいかな、と思った。でもスラムの子供なんかでもそうだけど、子供はどんな境遇にあっても、やんちゃで笑い、はじけるようなパワーに溢れているはずだ。

でもその理由は、あとで何となくわかった気がした。

教育観の違いにとまどう

ボランティアは受け入れていますか? という質問には、子供たちの遊び相手になってくれるボランティアはいつでも歓迎しています、とのことだった。

海外からボランティアは来ますか? と聞いたら、彼らは3日から1週間宿泊滞在していきます。日本人のボランティアは、子供たちに折り紙を教えたりしてくれました。3年前まで来ていましたが最近は見ていません、とのことだった。

シスターの次の言葉を聞いたとき、僕は返事に窮してしまった。

“海外から来てくれるボランティアには、私たちのルールを守って頂かなくてはなりません。私たちは、子供が悪いことをしたり言うことを聞かなかったりするときは、罰として棒で叩きます。

これがフランスの人などは、受け入れられないようです。しかしこれは、私たちの文化なので、海外ボランティアの人には、これを受け入れてもらう必要があります。”

僕は、どう返事して良いかわからなかった。

実は僕は、20代の頃に独自の幼児教育論を書きかけたことがあった。それは、体罰どころか、子供には否定語を一切使わずに育てる、というものであった。

たとえ子供が、まだ言葉のわからない内であっても、大人は説明だけを繰り返す。そして、子供は誉めまくって、肯定的な言葉だけで育てる、というものである。

また、子供が無意識に求めているもの(スキンシップ、一緒に遊ぶ、また優しく見守っている、など)は可能な限り与える。

つまり大人が自分の親や世間から受けた人為的ネガティビティを一切入れず、子供の無意識には、ポジティブしか入れないように「極力努力する」というものである。

そこにあるのは、徹底した性善説である。つまり否定を入れずに肯定だけを入れれば、子供に人間本来の佛性が顕われてくるはずだ、というのが、基本的な考えなのである。

ようするに僕は、どんな子供にも、“生まれてきて良かった。人生は良いものなんだ”、そう思って欲しいのだ。

だって子供の無意識に、人生に対する肯定的な想いやイメージを極力刷り込むことこそが、大人が子供に与えることができる、唯一で最大の財産なんだから。

もっとも、この教育法にも問題点がないわけではない。それは、実践する大人には相当の精神力が必要だということと、子供が父性を必要とする思春期(反抗期)にはどうするのか? などである。

実は、育てる側の大人は、子供の幼児期には父性を自身に内在させ、また思春期には外在させる、という風に切り替えなければならないが、これはあまりにも至難のわざなのである。(僕の教育論については、別の機会があれば、またあらためて論じたい)

それはさておき、僕はこんな考えを持っている人間だから、シスターの話に返す言葉を失ってしまったのである。

ヨーロッパで教会が運営する寄宿学校や孤児院では、しつけと称して体罰をもって厳しく規律を叩き込まれる、というイメージがある。それは単にイメージではないだろう。実際にそうだと思う。

ここには、あるいはそのような傾向があるのかも知れない。もしかしたら過去に、その現場を見たフランス人ボランティアたちが、彼らの体罰を批判したことがあったのかも知れない。そう僕は思ってしまった。

しかしだからといって、子供たちに罪はない。僕はその後、チャリティ・ライブで聴衆の皆さんから頂いたお金を寄付した。

彼らは、僕が住所もわからないままに来ることに決め、飛行機とバスを乗り継いでバンコクから訪ねて来たことを知って驚いていた。(半信半疑みたいではあったが) 僕が、ホテルまで帰る手段を持っていないことを知ると、車で送ってくれた。

年末にやった、チャリティLIVEで集まったお金をHIV 孤児関連に寄付するというミッションの1つが終わった。僕はホッとした。でも、胸は痛いままだった。

ヤソトン街の屋台に癒される

ホテルに帰ったあと、ヤソトンの街を散策し、屋台街を探して食べに行った。散策の途中、道に迷ったけど、おまわりさんらしき人が、バイクに僕を乗せて連れて行ってくれた。

 

 <道に迷っていたら、後に乗せて連れて行ってくれた>

 

 <夜の寺院、ライトアップ>

 

 <夜店>

 <家族でやっている屋台。旦那を写したら、、、>

 <おい、おまえも入れよ、と奥さんを呼び>

 <全員で写ることになった。この、ほのぼのした温かさにも、僕は癒された>

 屋台でビールを飲んだ。最初のひと口は、ほろ苦かった。でも、タイの田舎の屋台が持つ不思議な癒しの空気に、やがて僕は包まれていった。

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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人生は喜劇である。少なくとも僕にとっては   /旅の第三ラウンド(3)

2013/01/25 Categories:

 このときばかりは自分を誉めてやりたい、と思った。住所がわからないところを、飛行機とバスを乗り継いで探しに行ったことではない。(では、このことは後で)

 <ウドンラチャタニの朝市>

<ウドンの観光局/気の良い兄さんたちだったが、情報が間違っていたりして、あまり役には立たなかった>

 <お寺の広い境内で、練気体操をやった>

<ほう! 楽器屋があった>


 <バスターミナル>

 <バスの出発まで、そぼを食べて休んだ>

<坊さんたちもお昼>

 <このバスに乗った>

<出発!>

朝、ウドンラチャタニを散策し、ヤソトンに行く方法を調べた。その後、ホテルから長距離バスのターミナルに行き、ヤソトーン行きのバスに乗った。

乗ってしばらくしてから、車掌さんに時計を示して聞くと、どうやら1時間半で着くらしい。思ったほど遠くない。良かった。

先ほど、自分を誉めてやりたい、と言ったのは、ヤソトンのバスターミナルに着いてからのことである。

適当にホテルはみつくろっておいた。 だが、ホテルまで行く交通手段がないのだ。

あるのは、現地で“モタサイ”と呼ばれるバイクタクシーのみ。90ccぐらいのバイクの後に乗るのである。

 しかし僕は、ギターにパソコンの入ったリュック、さらに16Kgはあるカートのついた荷物を持っている。

 モタサイのドライバーと、運賃の交渉はついた。しかしこれをどうやって運ぶというのだろう。

結局、リュックを背負った僕が左手に16kgの荷物を抱え、運ちゃんが左手にギターを持つことになった。ヘルメットもなし。

まったく信じられない光景である。しかし、これが現実だった。ドライバーはギター片手にバイクを走らせ、後でリュックを背負った僕が、必死に荷物を落とさないようにと、険しい顔をしてしがみついているのである。

これをマンガと言わず、何と言おう。ああ、人生は喜劇である。少なくとも僕にとっては。

続く

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旅は何が起こるかわからない    旅の第三ラウンド(2)  

2013/01/25 Categories:

奇遇だな ぁ

500バーツほどの中級ホテル(1300円ぐらいかな?)でチェックインを終えた僕が “あれっ?” と思ったのと、向こうが、“ああっ!”と言ったのが、ほぼ同時だった。

 そこに、ウドンチャラタニの空港に着いて飛行機を降りるとき、荷物のことで声をかけ合ったおじさんがいたのだ。(英語のうまいタイ人だな、とその時ふと思った)

彼が、いやぁ、これは驚いた。どこから来たの? と聞くので、日本から、と答えた。すると、“日本には行きたいと思っているんで、あとで話したいなぁ”と言うので、“じゃあ、夕食でも一緒にしようか?” と提案した。

すると、“でもちょっと、僕の生徒が迎えに来ることになっているんだけど、彼と一緒でもいいかなぁ?”。“そちらが構わなければ”、と僕。“では、7時にロビーで待ち合わせよう”ということで話がまとまった。

 空港でのナゾに挑む

僕がウドンチャラタニの飛行場に着いたのは、その数十分前だった。

右も左もまるでわからない。空港には派手目のリムジンカウンターがあった。しかし僕はそこに何やら、イヤな気を感じたので行かなかった。

代わりに「インフォーメーション」と書いてある窓口に行った。こちらは地味なので、公共っぽい感じだ。

“英語話しますか?”と僕。“少しなら”とカウンター嬢が答えるので聞いた。“タクシーってどう乗ったらいいですか?”  “出口を右に500メートルほど歩いたら良いです。”

500メートル歩くのもダルい。“では、カウンンターあのリムジンっていくらですか?” 。 “250バーツから400バーツ (700円〜1100円)ですね。”

むむっ、やはり高い。礼を言って、取りあえず外に出てみる。

しかし右を見ても、タクシー乗り場みたいなところはない。

そこへ客を乗せたタクシーが来て、客を降ろし始めたので、乗せてくれ、というと、ここでは許可されていない。しばらく歩いてくれ、という。

仕方ないので、リュックを背負い、ギターを片手に荷物を転がしながら歩き始めた。ああ、なぜ自分はいつまでもバックバッカー的体質が抜けないんだろう、、、!?

普通に外国人旅行者らしく、高かろうがリムジンでも何でも乗りゃいいのに。まるでばかじゃん、と自分に毒づきながら、えっちらと歩いた。

 それで少しばかり歩いたが、乗り場などない。ど田舎の飛行場で車もほとんど通らない。

飛行場の敷地から出て、しばらくしたところでタクシーが1台通りかかったので、停めて乗った。

そしてドライバーにあらかじめ見当をつけておいた適当なホテルの名前を言った。着いたら、運賃40バーツ(110円)ぐらいで済んでしまった。

空港リムジンとは金額にして10倍以上の差があったのだ! そのからくりについては後でわかったのだが、ようするに空港内のリムジンはマフィアが仕切っていて、タクシーが客を空港で乗せないようにしているのである。

何のために? もちろん、バカ高いリムジンを使わせるためである。空港も警察も、マフィアからマージンをもらっている。彼ら三者でつるみ、このシステムを維持しているのだろう。

 タイでは、中央駅などでもツーリスト・インフォーメーションという看板をかかげて、旅行者からボルためのセットチケットを販売している。

また、国際空港でも似たようなシステムがあるが、これも同じからくりであろう。(しかし、これも裏技で対処できるのだ)

今回、僕が500メートル歩いて10分の1の金額のタクシーに乗ったのも、きっと裏技に入るんだろうなー。リムジンカウンターを見て何やらイヤな気がしたのは、このことを意味していたんだ。

そしてホテルでチェックインしたら、おじさんと偶然の再開があったのである。

旅では何が起こるかわからない

このおじさんの名前はランサン。大学教授だったが引退し、今は政府の公共運営に関するアドバイザーをしているという。アメリカに12年住んでいたことがあり、博士号も持っているとのこと。

 迎えに来る学生というのは、結局来なくなったそうで、アウトドアの屋台街に2人連れ立って食べに行った。

<50店舗はあるだろうか>

<タイの屋台はくつろげて、僕にとっては最高の場所である>

こうしてランサンと屋台街のテーブルの一角に座った。彼は、ビールとか焼き鳥とかを注文していろいろ気づかってくれる。

二人でくつろいで飲んだり食べたり話していたら、そこに通りかかったバックパッカーらしき白人青年が、“今日タイに着いたんだけど、何を注文したら良いか、よくわからないんで教えてもらえないですか?” と僕に聞いてきた。

それで、じゃあ、一緒に食べようということになった。ランサンも大賛成である。

ということで彼が座に加わり、飲み始めたら、“実は彼女も来ているんだけど、、、”という。僕とランサンさんは、オマエ早く言えよな、という感じで、“じゃあ呼んで来たら”と言い、屋台街のそのテーブルは、4人の宴会場となった。

白人の2人は、案の定バックパッカーで、フランスから来たとのこと。名前をボリスとコラリーという。2人して日本のマンガが大好きで、セーラームーンとかは当たり前に知っていた。

彼などは、ドラゴンボールで育ったというのだ。それどころか、僕の知らないマンガまで、やたらと詳しかった。ひぇーっ!

<左がコラリー/右がランサン>

<優しげな男、ボリス>

<ランサンの注文した料理が次々と並ぶ>

ランサンは、食べ物もビールも機嫌良く次々に注文したあげく、最後には、すべての勘定を自分で持つという、まことに太っ腹な人であった。

結局、またバンコクで4人で会おうということになった。バックパッカーの2人は翌日からバンコクにしばらくいる予定で、僕の帰国前日の21日は、ランサンも地方から帰って来るという。再開はその日に決まった。

ランサンが、“よし、みんなをチャオプラヤ河のクルーズディナーに招待する!”と宣言し、ヤンやの喝采を浴びて、その夜は解散となった。

まったく、旅は何が起こるかわからない。

 続く

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人生、決めたことは必ず起こる    旅の第三ラウンド(1)

2013/01/24 Categories:

 帰国するまゆさんのタクシーを、ホテルの入り口から見送った。さらばまゆさん、また会う日まで(尾崎紀代彦)♬ 海ゆかば〜(海軍歌)♩。 うぅ、古い!

 

 午後、バンコクナイト(タイ大会の前夜祭)のホテルに移動。やっぱり実際に自分が泊ってみないとなー。

すると、チャオプラヤー河沿いに建つこのホテル。骨休めするには実にうってつけの所だということがわかった。前夜祭をこのホテルにしたのは、本当に正解だったと思った。

ここで2、3日ぼーっとした。することと言えば、せいぜい1日数時間のメールやFBとブログ原稿の作業。

 あとは、プールで泳いだり本を読んだり、参加者のために付近をリサーチしたりして過ごした。

 時には、自分で考案した「練気二」という太極拳みたいな体操を20分ほどやった。

 そうしたら、その後何だか突然歩きたくなり、超スピードで40〜50分ほど歩いた。いや〜我ながら驚くような気の効果だった〜。これはお勧めですよ、皆さん!

下記は、大会前夜祭バンコクナイトのホテルの写真。

 

 

 

 

タイのHIV患者

なぜタイのHIV患者のことが気になったのか? これには理由がある。

 タイにはHIV患者が多い。それはバンコクが世界三大、性風俗都市の一つと言われていることと無縁ではない。

その他、タトゥーの習慣とタイ国境のゴールデン・トライアングルと言われる三角地帯(ミャンマー、ラオス、タイ)が、有名なアヘンの産地であることも原因として上げられる。

すなわちタトゥーを入れる器具と、ヘロインの注射針からの感染である。そこから夫婦感染が起き、さらにその子どもが感染した状態で生まれるという負の連鎖を生む。

子どものことを想うと、思わずため息をつきたくなるような話である。

さらに加えて、最近はまだ減ったようだが、かつてはHIVというだけで病院が診療拒否するなど、タイではHIV は差別の対象だった。

 だからHIV患者を出した家は、大変なことになる。まるで中世のヨーロッパで流行ったペストのようなものである。

そしてその支援は、極めて限られているというのが現状で、親がHIVに感染した子供(といっても成人だが)を放り出さざるを得ないことも普通にあったらしい。

しかし、かつてどこの国でもハンセン氏病(ライ病)患者が差別されたように、HIV 患者への差別もまた、どこの国でもあり得ることだと僕は思う。

旅の第三ラウンドの始まり

 旅の第三ラウンドは、タイのHIV患者サポート関連施設をネットでチェックしていることで突如始まった。

 HIV 孤児や親に虐待された子どもたちを100人ほど世話している、タイ人が民間で始めた施設があるというのである。

 場所は、ヤソトーンという。調べてみると、タイ東北部のイサーン地方。さっそくガイドブックで地図を見る。

 カンボジア国境に近い「ウドンラチャタニ」という所まで電車か飛行機で行けば、そこからバスで2時間ぐらいで行けそうだ。

 住所はわからない。英語が通じるのかもわからない。それでも僕は迷わず行くことにした。

 夜行列車で行くと、出発する夜までバンコクで時間をつぶし、さらに一晩かかって朝到着することになる。飛行機の値段を調べに行ったら五千円ぐらいだったので、その場で、翌日の飛行機の予約を入れた。

 住所もわからないのに、よく行くことにしたなあ、と思われるかも知れない。

 ところが僕は思わないのである。なぜかというと、これまでの人生の経験上、自分が決めたことは必ず起こるからである。

 というわけで、まずはウドンチャラタニへ出発!

 続く

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人様から頂いた寄付という責任の重さ 旅の第二ラウンド(2)

2013/01/23 Categories:

タイでは、まだ未完了のミッションが、まだいくつもあった。

ところでこの「ミッション」だが、軍隊で言えば作戦(または命令)で、宗教用語だと使命になる。(僕は、ここで軍隊用語的に使っているのですが)

僕のミッションは大きく分けて二つあった。

[ミッション 1]  7月にタイで行う、タオ指圧&サンガ世界大会の準備

 チャイルド・ケアーの場所や、大会でのバンド演奏のためのアンプ等機材をどう調達するか? なんていうのまで含めて、いろいろとある。

 [ミッション2] タイのHIVホスピスや患者、また孤児などをサポートしている所のリサーチ

 NPOユニの支援先として発表もしているので、これは実際に行ってみなければならない。

昨年末に、タイのHIV患者のためのミニ•チャリティLIVEもやった。その時、聴きに来て下さった方々から集まった約3万円だって、現地に寄付してこなければならない。

発表した後で支援先を確認しに行くというのだから、まさに見切り発車。行き当たりばったりである。

そして人様から頂いた寄付という責任の重さは、実際に現地へ身体を運び、ミッションを遂行することで果たすしかない。

だからこそ、軽いフットワークで自ら身をもって動くのである。

でも僕は、今まで何ごともこうしてミッションを果たして来たのだ。

カムアン氏

まずは ジョムチェン・ビーチに移動し、大会の会場となるシグマ・リゾートホテルに投宿。

そしてサブ・マネ−ジャー、カムアン氏と会い、子どもたちが楽しめるレジャー施設について相談。彼とは、10年前のタイ大会のときからのつき合いだ。泊まりがけで一緒にサメット島に遊びに行ったこともあった。

 親切にも彼は、自分の休日を変更し、明日1日かけて車で各地を案内してくれるという。やはり持つべきものは友だちである。

 夜は、ホテルの仕事の終わった彼を夕食に連れ出した。海の見える桟橋のシーフッド・レストランへ行く。友だちが働いているという。

<カムアン>

 

 <友だちに言ったら、代金を割り引いてくれた>

 まゆさん、観光施設を回る

 翌日は朝から、まゆさんはカムアン氏と調査に出かける。彼女はチャイルドケアの企画担当でもあるからね。

おかげで僕は、ホテルでブログ原稿を書けることになった。

 ところが午後3時、ウィーンで会った、マイクというシンガーから電話が入る。昨夜、ウィーンから着いたという。

彼はタイ人と結婚していて、奥さんの実家が偶然パタヤ。それで大会準備の相談に会うことになっていたのだが、お互い連絡がつかなかったのだ。

 彼が言うには、すでにホテルに4回も電話してくれていたという。

今どこにいるの? と聞いたら、チャーミング イン という僕も良く知っているホテルだった。これから出るから、30分以内に着くと思うよ、と答えてホテルを出る。

 しかし実際には、着くまでに1時間もかかってしまった。最近のパタヤはロシア人観光客が多い。それで、すっかり車が込むようになってしまっていたのだ。(大会の会場は、ジョムチェンで静かなんだけど)

 よもやま話をした結果、彼の家の近くで夕食を一緒にすることになり、再びホテルへ帰る。ホテルに着いたら、まゆさんたちは少し前に帰ってきていた。

ところで以下は、まゆさんとカムアンが1日がかりで回った4カ所の施設の写真である。暑い中を水分をろくに取らずに1日歩き回ったまゆさんは、日射病ぽく、ぐったりしたようだった。

 

 

 

マイクたちと夕食

 シャワーを浴び、再びカムアン氏が車で送ってくれる車で出発する。

マイクの家は、15分で着くと、本人から聞いていた。

 しかし、なぜか田舎の暗い道をあっちこっち移動し、40分かかってやっと到着。どうやらカムアン氏は、僕と同じように方向音痴らしい。

 彼にも、一緒にどう? と誘ったのだが、村でパーティがあるから、と帰って行った。

 ビール飲み、4人で話しながらの遅い夕食を終える。奥さんに知り合いの白タクを呼んでもらい、ホテルに戻って荷物をまとめる。

まゆさんは翌々日に帰国なので、明日はバンコクへ移動なのだ。

ひぇー、何だか慌ただしい旅の第二ラウンドだったなぁ。

 

 

 

 続く

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自分の性が選べるタイ/       旅の第2ラウンド(1)        

2013/01/22 Categories:

ダッカからタイへ

 ダッカからバンコクに向けて出発する朝、思わぬアクシデントに見舞われてしまった。

 というのは、一週間に亘って朝昼晩ラカイン料理を食べ続け、少々食傷気味だった僕は、ダッカの中級ホテルの朝食メニューに、ダル(豆カレー)があるのを目ざとく発見した。

 思わず、“今日が最後だしなー”と注文して食べたら、これに二人とも当たってしまったのである。

 まゆさんは、食べた直後に戻したので軽症ですんだ。が、男の僕にそこまでの生物的本能はない。ちょっと悲しかったな。うぅ、くそー。

 と言っても、その後2、3日お腹の調子が悪くて日に何回か下した、といった程度で済んだのだけれど。最近飲んでいるmmsサプリメントのお陰かも知れないなあ。

<ダッカの空港>

<銃を持って警備する人もいる>

<代書屋にボラれた。くそー>

ダッカの食あたりを挽回

タイに来たら、さすがに3日ほど休んだ。プールで泳いだり、ダッカの食あたりを挽回する、と称して豪華な夕食を食べたりして、落差があるだけに、一転して至上のぜいたく気分。土埃のない快適なところに自分がいるのが、何だかラジョーさんに申し訳ないような気もしたが。

それでも僕のモットーは、「1.面白いことは見逃さない 2.悩む前にまずやってみる 3.人生何ごとも万遍なく楽しむ」なのである。

<アジアでワインを注文するなんていう贅沢(?)まで。落差に何だか少し申し訳ないような気もしたが>

パタヤの床屋 

床屋にも行った。刈ってくれた理容師さん(?)が男か女か、僕は最後までわからなかった。(前にパタヤでよく行っていた床屋さんもニューハーフだった)

 この辺は、僕がタイの大好きなところである。

タイでは自分の性を、自分で好きなように選べるのだ。

<床屋さんを訪ねると>

<この人が刈ってくれた>

 例えば、顔はどう見てもおじさんなんだけど、女装してお化粧している人が、食堂の店員さんとかでも普通にやっていたりする。

 タイのこのおおらかさ! これは文化が発達している証だと、僕は思っている。続く

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年末はバングラデッシュで (1)  人生に必要なものは?

2013/01/10 Categories: バングラデッシュ支援

バングラデッシュの首都ダッカの空港に着くと、いつも焦る。その後は、拍子抜けするんだけど。

焦るのは、ダッカから現地に飛ぶ国内線までの乗り継ぎが1時間半ぐらいしかないからである。

これが電車の乗り継ぎだったら、1時間半などあったら時間をもてあましてしまう。

だけど、飛行機で国際線に着くと、まずは長蛇に人が並ぶイミグレーション(入国審査)を通り、なかなか出てこない荷物をまだかまだと待つ。(修行ができていないもんで)そしてやっと荷物を取った後に、国内線のターミナルまで移動することになる。

今回はタイ航空の到着が遅れた。このため、僕の荷物が出てきた時点で、すでに出発時間! しかも、まゆさんの荷物が1つだけまだ出てこない。

そこで僕が何をするか? 荷物を持って一人国内線まで走っていく。別に彼女を置いてきぼりにするわけではない。飛行機を停めておこうと思ってなのである。(これ本気)

ただし、バングラデッシュの飛行機は遅れるのが当たり前。2時間待ったあげく、欠航になったことがあるぐらいである。

それでも万が一、時間通りに飛ぶということがあるかも知れないしなあ、、、と思う。(この辺は、日本と常識が逆)

それで、走って行ってみたけど、案の定、出発時間なのに、まだ飛んでいなかった。それどころか、その後さらに、2時間たっても飛ばない、、、、。

こうして今回も、焦って走ったあげく、その後拍子抜けしたのである。

<バングラデッシュ国内線>

<難民のように待ち続ける、、、>

しかし、人間とは悩みが尽きないものだ。さんざん待って、欠航になったらどうしようか? などと考えるのだから、、、。

まあその時は、以前のように車の手配を頼もう。ドライバーが、12時間全力疾走のチキンレースを続ける車に乗るまでのことである、、、。

ホコリっぽい空港で、水と食料が届くのを待つ難民の如く、うだるように待ち続けた末、ようやく乗客を乗せるというアナウンス(と言っても職員が大声を出すだけ)がなされる。

そして中古のプロペラ機は、僕らを乗せてコックスバザールに向けて飛び立った。

 着いたら、ラジョーさんとチョバさんが空港で嬉しそうに待っていてくれた。

チョバさんは、今は山の中でNGOの職員として働いているそうだ。バスを乗り継いで、何時間もかけて会いに来てくれたという。ありがたいことである。

<コックスバザールの空港で、2時間待っていてくれたラジョーさん>

ラジョー家に投宿して一休みした後は、タオサンガセンターで、仏教福祉委員の人たちと打ち合わせ。

現在NPOユニでは、2つの村の小学校を開校して運営しているが、これをどうやって17ある全ラカインの村に拡大していくか?

ふたことみこと話しているうちに、僕の胸に、とっておきのアイデアが天啓のように生まれた!

夕食の後は、ラジョー、チョバ氏らとで、ラカイン焼酎や僕らがバンコクの空港でおみやげに買って来た免税品のウィスキーなぞを、ちびちびと舐める。

<チョバ氏>

<多少寒くても、ほこりにまみれても、友と少しの酒ばあればよし>

意外かも知れないが、この時期のバングラデッシュはうすら寒い。しかしシャワーは水だけ。身体は土ぼこりにまみれているが、とても水浴びする気にはならない。そのまま丸まって寝る。

朝五時半には、街中に響き渡る大音量のコーランに起されることになるけど、、、。続く

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人間ドラマ「バンコク・ナイトの会場探し」

2012/08/18 Categories:

 パタヤで世界大会の会場探し、ホテルとの交渉、周辺の視察、大会準備の企画書作りと、濃密な時間を過ごした僕とオリバーには、まだ仕事が残っていた。それは、バンコク・ナイトの会場探しである。(というわけで、バンコクに向けて出発!)

<チャオプラヤー河/見えているのは、三島由紀夫が絶賛した暁の寺院>

  さてバンコク・ナイトとは何か? 来年7月19日、タオサンガ大会に参加するため、世界各地から人々がタイに集まってくる。ということは、各国からバラバラの時間に到着するということだ。

 このため別枠の大会前夜祭として、タイの首都バンコクに集まり、わいわいとガーデンパーティの夕食をやる。それがバンコク・ナイトである。                     翌日は、チャーターしたバスで一緒に会場に向かう。もっともパタヤは空港から車で1時間半ぐらいで行ける距離。だから日程の都合で、直接空港から会場に行く人もいる。

<船も生活の交通手段の1つ/船代45円ぐらい>

 また、大会が終わった日に、参加者をバスでバンコクでの夕食(後夜祭)に送り届けるという別枠のプロジェクトも考えた。実は前回もやったのだ。ただ2003年の時、僕は、バンコク観光のツアーガイドまでやってしまっていた。

そして、“来世では、ツアーガイドだけはやらないようにしよう”と固く決心していた。というのは、僕みたいに放浪人生で、集団行動なんてできない人間が、おこがましくもツアーガイドをやること自体が、ジョークみたいな矛盾した話だったのだ。

 そういえば、小学校のときの先生に、僕の成績表に「人の世話をやきすぎる」なんて書かれていた。うぅー、案外、当たっていあたかも〜。

<長年、泥で隠されていたのが、ある夜、雷に打たれ本体が顕われたら金だったという「黄金佛」>

 したがって今回は、断固として観光ツアーガイドにはならない。(と、固く決めたもんね)バスとディナー、それに案内役の人をセッテッィングするだけにとどめよう。「ただの通りすがりのものです」と言いながら、つい、世話を焼こうとするのが僕のワルいくせである。

 それに僕自身は、パタヤに引き続き滞在して、国際タオサンガのクリエーション・メンバーと数日間は国際会議をする予定。なので、あわやバンコクまで付いて行って、皆さんの世話を焼こうとする自分を押しとどめて、帰る人たちをバスで見送るということになる。

 さて、このバンコクナイトの前夜祭と後夜祭の会場探しだが、バンコクで2泊3日、汗にまみれて二人で必至に探した結果、それぞれの会場候補が決定した。(交渉はこれからだが)

前夜祭も後夜祭も、とても良い会場になると思う。バンコクの後夜祭はチャイナタウンの近くで、先の黄金佛へは、徒歩で行ける範囲である。

立ち寄ったポー寺院では、激しいスコールに遭遇。あわや、ずぶ濡れ寸前に軒下に飛び込んだ土産物屋で、東京道場のために絵を買った。

 今回バンコクでお世話になったのは、このお二人。ワラポーンさんとそのご主人。2007年にオーストリアで開かれた世界体育大会で、その運営を手伝っていたオリバーと知り合ったという。

<僕らがバンコクでお世話になった、ワラポーンさんとご主人>

夕食から宿泊まで様々なことをお世話して下さり、大感謝である。ワラポーンさんは会場候補のホテルにも電話してくれた。

またコンビニに寄ってもらったら、わざわざご主人が車から降りて付いて来てくれ、水まで買ってくれるという、お世話のして下さりようである。

 バンコク1日目の夕食後、ワラポーンさんに“ちょっと寄るところがあるので”と言われて連れて行かれたのが、一階にショッピングセンターが入っている高層ビルの屋上。

 バンコクの夜景が美しい屋上には、プールがあり、中国系の穏やかそうな老人と孫らしき青年が、ベンチで静かに夕涼みをしている。

 紹介されたら、ご主人のお父さんとのことであった。そしてその後、帰りの車の中でさりげなく言われたのが、「父は、あのビルのオーナーなんですよ」であった。

お二人ともタイ王国への忠誠心が厚く、王様をとても尊敬していた。アジアの中で、唯一日本とタイだけは植民地にならなかった。そしてタイの場合は、当時の王様の外交手腕に依るところが大きかった。

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タオサンガ世界大会2013の会場決定!

2012/08/16 Categories:

 タオサンガ世界大会の会場探しのために、一応は、めぼしいホテルをすべて巡った。そして2003年の時の会場、シグマリゾートに来た。8年ぶりである。そして僕の直感は確信した。“やっぱり、ここだ、、、”、と。

 全体がリニューアルされ、ホテルのランクとしても星一つぐらいは上がっているだろう。とてもきれいになっていて、びっくりした。

<シグマリゾート>

すべての部屋から海が見えるし、設備も申し分ない。会場の広さも十分である。(唯一の欠点が、他の大型ホテルに比べるとプールが少し狭いことだが、20人以上の子どもたちが来ても、ゆったり遊ぶぐらいは十分あるだろう)

そして前回から顔見知りのカムアン氏とも再会。おおっ! といたく喜んでいる。                     それにしても、タイ人は、なにごとものんびりしている。実は、来る前にメールで多少やり取りしたのだが、一回返事が来ただけで(それも10日以上たってから)、その後のメールにはまだ返事が来ていなかった。

そのため、他も見ておこうか、といろいろ回ってしまった。まあ、オリバーがさんざんネットで検索して来たらしく、他の会場候補をいくつも上げているので、それを無視するわけにもいかなかったということもあったが。

ホテルはすっかり模様変えしたが、カムアンは全然変わっていなかった。“あなた全然変わっていないねー”と言ったら、“そっちこそ”と返されてしまった。

 どうやらカムアン氏の地位は、アシスタントマネージャーで、これまた前回から変わっていないようだ。今回の交渉は、主に、6年前にジェネラル・マネージャーに就任したという、ピッシット氏と行い、細かいことはカムアンと話し合った。                                        シグマリゾートに2泊し、何度か話を詰めていく。他の時間はオリバーと、交渉内容の確認、プログラム、大会ホームページのコンテンツなどをディスカッションしながらまとめていく。近くの観光スポットなんかも探索。家族連れのために、子どもの遊び場も調べた。

 

<ジェネラル・マネージャーのピシット氏。僕は、彼が気に入ってしまった。というのは、僕も服装がだらしないし、よく食べ物で服をよごすから>

 

<だらしなブラザース>

 

<下の写真は、“ミスター エンドー!” と、僕が来たんで、びっくりして声をかけて来た、レストランのシェフ。他のスタッフでも、こちらを覚えてくれている人たちがいた>

 

夜は、カムアン氏を食事に連れ出す。実は、彼とはサメット島に一緒に行ったりもしていたのだ。奥さんは、まだパタヤでコックをしていて、中学生だった息子さんは、大学を卒業してエンジニアとして就職したという。“ちょうど3日前に、タオサンガ大会の時の写真を見ていたんだよ”とカムアン氏。以前の大会の話などで盛り上がる。

2013年の大会の内容をオリバーと話し合っていて、すっごく楽しくなるようなアイデアがたくさん出てきた。タオ指圧門下の人はもちろん、誰が参加しても、学んだり楽しめるような内容になると思う。

 

<下記、観光スポットのチェック。寺もリニューアルされいていた>

<会場からも遠くない大仏さまは、大会中のパタヤツアーに組み込むつもり>

 

<丘の上にある寺院からの眺め>

 

<中国系の寺院なのか、観音さまも祀られている>

 

<このおばあちゃんの食堂は、とってもおいしいのでお勧め! 僕は、けっこう仲良しになってしまった>

 

<屋台のチキンなんかも、うまいんですよねー。これに、パパイヤサラダともち米を付けてもらうと最高!>

さて、タオサンガでは、今や伝説として語り継がれているタイ大会である。何せ参加した人は、いつまでも、このときの体験を話し続けているほどである。そして、今度はいつあるんですか? と心待ちにして聞く。

僕も、タオサンガ各地の代表たちと、毎年のように“来年はタイ大会をやろうね!”と言い合って来た。なにせ普通の人生では、まずできないような体験が待っているのが、タオサンガ世界大会なのだから、、、。

 <ナイト・レストランになる、シグマホテルのビーチ前の道。夜のディスカッションや共同作業を終え、潮風に吹かれながら飲むビールは、また格別な味だった>

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タオサンガ世界大会2013の会場探し

2012/08/14 Categories:

 8月6日の夜。オーストリアからオリバーが、今僕がいるタイ・パヤタに到着してから、「休めやすめ運動」は終結した。そりゃまあ、そうだ今日はHiroshima day だしな、、、。

エルサレムのバヌヌ氏からは、彼が毎年エルサレムで広島の日に行っている、核廃絶スピーチの映像が届いた。

<原爆ドーム>

 スピーチと言っても、路上デモなんだけど、、、。というのは、イスラエルで核兵器の開発に従事していた彼は、その驚愕の事実をBBCで世界に向けて発表した。その結果はどうなったか?

 18年間独房に幽閉され、虐待もされていたという。現在も移動の自由を奪われており、ほぼ軟禁状態である。

 どのように? イタリアで、モサド(イスラエル秘密警察)が放った、おとりの金髪美女に誘惑され睡眠薬を打たれた。(男はいつでもバカなのだ)そして、小舟でイスラエルに拉致されたのである。

 昨年、ドイツの団体が世界平和に献身した人ということで、彼を表彰しようとしたが、出席できなかった。スーチーさん並に有名になっても良さそうなのだがな。戦争を商売にしている人たちが、そうはさせない。ウランを商売にしている人が、原発を止めようとしないのと一緒である。

今、来年のタイ大会の準備でパタヤにいるのに、なぜまたこんな中東の話が出るのか? というのは、2、3年前にパレスチナの平和教育会議等でワークショップをしたり、エルサレムの路上でボランティア指圧したり、デモに参加して催涙弾を打たれたりとかをやってた。

 

<パレスチナの理学療法学校でのチャリティ・ワークショップ>

※写真の上段の右から2人目は、2003年に開催された第一回タオ指圧国際大会に参加したアクラム氏。彼は、スピーチで、「まったく新しい人間関係のあり方を体験しました」 と言っていた。

さて、このときのパレスチナ訪問で出来たつながりで、「五つのカメラ」という、僕がデモに参加した“ビリン村の民衆抵抗運動”の映画を撮影した監督2人(イスラエル人とパレスチナ人)の日本窓口から、NPOユニへ依頼があった。

<イスラエル兵が撃って来る催涙弾に備えてマスクをし、ビリン村デモの参加準備。実は内心、緊張しまくりである。右は、僕が、ビリン村行きのバス停への道案内を頼んだ、アラビア語勉強中のさとしさん。結局、僕と一緒にビリン村まで来て、デモに参加することになってしまった、、、>

「五つのカメラ」がNHKで放送されるのを機に、日本でキャンペーンや上映会をやるので、渡航費の1部を援助して欲しいということである。UNIインターナショナルで相談した結果、1000ドルの援助をすることになった。

 それで、9月1日の10AMから中野の公民館で、映像の部分上映とトークをすることになった。僕はその通訳を勤めることになっている。

 だが、日本語ですら自信があるわけではないので、実はもう一人(ボイスのあこさん)お願いしているところである。何とか来てくれますように!

(ところで、イベントに参加ご希望の方は、03-3385-7558 タオサンガ東京までご連絡下さい)

さて、休めやすめ運動に終わりを告げられた僕は、翌日からタクシーをチャーターし、翌来年の世界大会の会場を探して、ジョムチェン・ビーチを片っ端から回りはじめた。

<ここは、どうかな? うーん、、、会場も小さいし部屋がねぇ、、、。とか、相談しながら、次々とホテルを訪問。部屋を確認したり、マネージャーと話したりしていった>

<暑い中、荷台バスを乗り継いで延々歩き回るのに疲れ、とうとう屋台のおっさんの白タクをチャーターする。遠くのホテルもチェックできたから良いけど。>

 その結果、最終決定したホテル側との交渉やら、プログラム創りのディスカッションやらの毎日を送っている。

 

 

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