内なる太宰治は語る(1)

前回のブログで”太宰治っぽい”

という言葉が出たが、

そもそも僕は、太宰治っぽいところがある。

 

もっとも太宰の小説の本質は、ユーモア小説である。

破滅的な無頼派の作家というのは、表向きなのだ。

 

僕に言わせれば、

太宰の小説は、その天才的な筆運びと相まって、

破滅とユーモアという、2面性が魅力なのである。

 

僕が、前回述べた”大宰っぽさ”は、

代表作の「人間失格」的なところである。

(最高に面白い短編、

畜犬談」的なところではない。

※この小説は深い。

犬のことを書いているようでいて、

実は人間のことを書いているのである)

 

さて、「人間失格」の主人公である葉蔵は、

押し黙っている人が怖い。

 

それで、つい道化をして、

周囲を楽しませてしまう。

 

その苦悩を(実は面白おかしく)書いているのが、

この作品である。

 

実は僕も、押し黙っている人が怖い。

 

相手が女性だったら、

”あんたたちホストは、

どう私を楽しませてくれるのよ”と、

周囲を睥睨する金持ちマダムに見える。

(年齢に関係なく)

 

男性だったら、

”そんでキミは、

どう私を楽しませてくれるのかね”と、

接待先の社長とでもいるような気になる。

(こちらも、年齢に関係ない)

 

タバコでも出されたら、

つい火をつけてしまうかも知れない。

 

やれやれ…… 実に羨ましい限りである。

 

ところで、前ブログで述べた、

”自分の欲求は叶えられて当然とする空気感を

漂わせている人”と、

押し黙って、

誰かが場を盛り上げてくれるのを待っている人は、

どこか共通している。

いや、確かに共通している。

 

……..というところまでが個人的な感想である。

より正確に言えば、

彼らがどうだ、という問題ではない。

 

内なる太宰としては、そうなってしまうのだ。

 

とはいえ、押し黙って、

誰かが場を盛り上げてくれるのを待っている人は、

仏さまのスポークスマンたる、

大乗(仏教の)修行者としてはどうなんだろう?

 

……という観点について、次回のブログで述べてみたい。

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