去年の夏に書いた、まるで独り言のような
文章が出てきた。
“ああ、あの頃は、こんな風に苦しんでいたんだなぁ。
でも、この時の苦しみは、今に生かされているなぁ”と思う。
もう少し先には、もっとそう思うに違いない。
眠れぬまま朝5時に、こんなことを書いてみた
人類が利他の存在になるためのプラットホームを作る。
自分ではまるで気づかなかったこの使命のために、
一人、タオ指圧からスタートし、ここまでやって来た。
……そして今、この40年の集大成にかかっている。
しかし、これを全うさせたくない、闇(魔)の力は強い。
今や暴風雨の海に翻弄されている、ヨットのような状態である。
僕は、まるで今にも折れそうなマストをかろうじて支え、
転覆されまいとしている航海士のようだ。
”お前は本当に、人類の未来のためにやるつもりでいるのか?”
そう問われているかのようだ。
暴風雨は様々な声となって、僕の意志を挫こうとしている。
”お前になどその資格はない。こんなこと辞めてしまえ。
お前は間違っている。そんなことは無理だ。”
まるで、こんなことをずっと、誰かに耳元で、
大声でいわれ続けているかのようだ。
その声に気づく度に、僕は自問自答する。
”本当は、そうなのではないのか?
自分が間違っているのではないのか?
やはり自分は諦めた方が良いのか?”と。
そうして、すべてを放り出すことを考えてみる。
そして、どこか遠くへ行ってしまうことを考える。
”自分みたいなダメな人間は、それで良いのだ”、と。
……今僕は、かろうじて踏み止まっている。
そして、”これは自分という人間の「良し悪し」の問題ではないのだ”と思う。
確かに僕は悪い人間かもしれない。
僕が今、やろうとしていることを辞めてしまう人間の方が、
僕なんかより、よほど良い人間なのかも知れない。
彼らの方が、僕よりも、よほどまともなのかもしれない。
僕はどうしようもなく、間違っているのかもしれない。
「この世を天国にしようとした試みは、常に地獄を作ってきた」
という言葉だってある。
僕はこの世を天国にしようとして、地獄を作っているのかもしれない。
しかし、もしかしたら、この暴風雨の先に、天国があるのかもしれない。
世界が光になる、わずかな可能性があるのかもしれない。
17才の頃、〝こんなに苦しいのに、なぜ自分は生きているのだろうか〝
と、よく思った。日々、生きることに、かろうじて耐えている自分がいた。
ある晩の自分の体験を人に話したら、その人に
「自分なら、そんな状態なら即死ぬね。
そんな人生なら未練なんかないね。即飛び込むね。」と言われた。
しかし僕は、〝もしかしたら自分も、
いつか未来には幸せになれるのかもしれない〝
という、そのわずかな期待を捨てきれなかった。
そのわずか1%の可能性だけを支えに、僕は生を繋いでいた。
今の僕は、再びそんな状態だ……。
もしかしたら、この暴風雨を耐え抜いたら、
この世が少しでも天国に近づくのかもしれない、と。
この暴風雨で僕は、
”お前は、本気で人類の未来のためにやり続けるのか?
たとえそれが見果てぬ夢だったとして、もやり続けるのか?”
そう、問われているのかもしれない。
それに、この暴風雨を耐え抜いたら、光に出会えるのかもしれない。
そんな可能性だって捨てきれない。
その光は、自分だけを照らす光でなく、人類を照らす光かもしれない。
何よりも、僕のように苦しんだ人間を救う光かもしれない。
それは、この世を天国に近づけることにつながるはずだ。
それならば、暴風雨の海の中でマストを支え、
新しい大陸のある向こう岸に向かって進んで行くしかない。
新たな大陸に着いた時、初めて、他の人が否定した、
しかし、自分がやろうとしていることの
意味や価値を、感じることができるはずだ。
舟が沈んだら、泳いででも行こう。
頭が沈んだら、手だけでも進もう。
身体全部が沈んだら、魂だけでも進もう。
志しなどという立派なものではないが、
たとえすべてを失ったとしても、
またどれほど、自分への否定の声を聞いたとしても、
自分の存在がどんな形態になったとしても、想いと意志だけは捨てない、、、。
どの道、自分は捨てられやしないのだ。
自分は人から捨てられたとしても、
自分には捨てられやしないのだ。
人類の未来の光のわずかな可能性を夢見ることを、
捨てられやしないのだ。
たとえ自分が悪い人間だったとしても、
お前にはそんな資格はない、とか、
お前はふさわしくない、と言われたとしても、
僕は闇の中で光に出会う可能性だけにかけて、
生を繋いでいくことしか出来ないのだ。
眠れぬまま朝5時に、こんなことを書いてみた……
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