新たな菩薩の誕生物語

「病気が再発したけど、また治すから」とHiroa さんから報告を受けたのは、

わずか3週間かそこら前だった、と思う。

 

その時、僕は「ああ、じゃあまた治療(タオ指圧)再開だな。

 

今度、東京に行った時から」と覚悟しただけだった。

(以前も、皆で徹底して治療していた時期があった)

 

本人も明るかったし、

僕らもそんなに深刻には受け止めていなかった。

 

しかし、やがてそれは、

「東京クラスに行けるように体調整える」とか、

ちょっと大変さをにじませるようなメッセージに変わって行った。

 

僕は「もし、クラスに出れなくても、

二階かアパートで休んでいたら良いよ。」と伝えた。

 

しかし翌日には、「コンビニに飲み物買いに行くのがやっとになってしまった」となり、

ついには、「救急車で入院した」になった。

 

それでも、「何がなんでも僕の治療を受けたい」というので、

僕は「家まで行くから」と伝えた。

 

そして、退院して来たHiroa さんの家に治療に行った。

 

治療後は、スッキリした、と言っていた。

 

僕はしばらく養生すれば回復するだろう、

と思っていたし、本人もそのつもりだった。

 

ただ、家を出てから、何だか胸が潰れるような想いになった。

 

ところで、Hiroa さんの家に向かう前に、

東京センターでRimi さんに会って相談していた。

 

それは、センターの近くに住むRimiさんのマンションには、

もう一の部屋があるからだ。

 

僕はRimiさんに、「Hiroa さんを迎えて、ケアしてもらえないだろうか」と

思い切って相談したのだ。

 

Rimiさんは「私もそう考えていました」と言ってくれた。

 

それを、Hiroa さんの家に治療に行った時、それを伝えた。

 

Hiroaさんは、とても喜んだ。

(後でRimiさんに、「言葉にならないぐらい感謝しています」と

メッセージが来たそうだ)

 

ただし、食事がロクに取れないので、点滴する必要がある。

 

そこで看護師の資格を持っているAmiさんが、

近所の訪問医を探して、段取りを付けた。

 

こうしてHiroa さんを迎える用意は整った。

 

あとは、皆でケアーして行くだけだ。

 

皆で何とか回復に持って行こう、と思った。

 

 Hiroaさんは、僕が治療に行った2日後に

Rimiさん宅に移動することになった。

 

移動は、ゆえさんが自動車で迎えに行ってくれる

ことになっていた。

 

ところが前日になって、

「今は車酔いがひどくて自動車での移動は難しい。

電車で行きたい」とHiroa さんからメッセージが入った。

 

そこで、YueさんとAmiさんが、電車で迎えにいくことになった。

 

ところが、朝になっても Hiroaさんと連絡がつかない。

 

YueさんとAmiさんは、とにかく家に向かった。

 

するとやっと連絡がついたが、すでに救急車で病院に運ばれていた。

 

Amiさんたちは、病室にいるHiroaさんに会った。

 

Hiroa さん本人はまだ気力もあった。ポジティブで前向きだった。

 

Amiさんがお父さんと一緒に医者の話を聞いた。

 

すると、もう手の施しようがなく、あと数日だろう、と。

 

Amiさんは、私たちでケアーしたい。

 

退院させたい、本人もそれを望んでいる、と伝えた。

 

医者は週末持てば、それは可能だ、と言う。

 

2人は病院に泊まり込みたかったが、

家族ではないので2時間の滞在が限度だった。

 

やむなく、「迎えに来るのは月曜日だけど、

明日もまた来るからね」

と病室を後にした。

 

このあたりの一連の動きを知らないまま、

僕は、いつものように、京都道場で夜の声明のお勤めをした。

 

1時間半のお勤めの間、

すでに光と温かさに包まれた世界にいるHiroa さんが現れた。

 

Hiroa さんは楽しそうに笑っていた。

(実は、ちょっぴり羨ましかったぐらいである)

 

僕は、Hiroa さんは「有余涅槃」

(肉体から幽体離脱して、魂だけがお浄土に行くこと。

弁栄上人はちょいちょいなっていた)の状態に違いないと思った。

 

ちょうどAmiさんから、「臨死体験でお花畑に行ったけど、

帰って来たら治っていた」という人の話を、聞いたばかりだった。

 

なので僕は、戻ってくるだろう、と期待していた。

 

…….ところが翌朝である。

 

Hiroa さんは逝ってしまった。

 

呆然とした。実感がなかった。

 

バタバタとした中で、Amiさんが病院に行ったり、

お父さんをケアしたりしてくれた。

(その間の僕の記憶は途切れている)

 

僕ら和田寺で、葬儀を勤めることになった。

 

 

…….数日後、葬儀場についた。

 

僧衣に着替え、お父さんや親戚の方に

「今日は精一杯、勤めさせて頂きます」とご挨拶した。

 

そして、そのまま控え室に引き上げようと歩きかけた。

 

しかし、再びお父さんや叔父さん、叔母さんを見た僕の足は、止まった。

 

今、お父さんの中にあるのは、

「不幸な娘が亡くなった」という物語だった。

 

しかし、僕にはどうしてもお父さんに伝えたいことがあった。

 

それは、Hiroaさんの人生が、どれほど意義深いものであったか。

 

いかに彼女が人々に愛されていたか。

 

そして、いかにこの世界に良いものを残して行ったかなどだ。

 

僕は思わずお父さんの近くに行き、身体をかがめた。

 

そして落ちたお父さんの肩に手を当てた。

 

そして、はっきりとした声で言った。

 

「とても意味ある人生でした」と。

 

お父さんは、最初、よく意味が分からないようだった。

 

僕は、お父さん、叔父さん、伯母さんと向き合うように座った。

 

僕は何度も何度も、具体的な例をあげながら、繰り返し言い続けた。

 

Hiroaさんの人生が、どれほど意義深いものであったか。

 

いかに彼女が人々に愛されていたか。

 

そして、いかにこの世界に良いものを残して行ったかを、伝え続けた。

 

彼女は人生を十全に生き切ったのだ。

 

人生(という作品)を完成させたのだ、と。

 

さらに、すでに光と愛の世界にいるから、

お浄土の入り口で待っていてくれるのだ、とも。

 

やがてお父さんは、

「そうか、、、短かったけど充実した意味のある人生だったんだ。

人の何年分も生きたんだ」とつぶやかれた。

 

実は、友人の秀海さんに、伝統的な葬儀のやり方を教えてもらって

前夜から練習していた。

(僕は仏式結婚や得度式をやったことは何度かあるが、

葬儀は2度目である。

秀海さんは、事細かに親切に教えてくれて、本当に助かった)

 

結局、僕が執り行ったのは、

ほぼ独自のスタイルだったが。

 

伝統の中にある空気感は、

不幸にして亡くなった霊の弔いである。

 

しかし僕は、Hiroa さんの新しい門出にふさわしい、

荘厳で美しく、明るいものにしたかった。

 

新たなスピリットの誕生の物語を、

人々(特に残されたお父さん)の胸の中に刻みたかったのだ。

 

だからいつものように、音楽法要を行った。

 

んな仲間たちが20人近くも集まってくれていた。

 

全員で合唱した。美しい音声が、会場に鳴り響いた。

 

そこはまるでコンサート会場のようになった。

 

そう、それはHiroa オンステージだったのだ。

 

ところで和田寺のお勤めは、ちょっと通常とは異なる要素がある。

 

それは、諸仏菩薩や諸天善神をお迎えし、

浄土の聖なる方々に、様々な諸霊を救済して頂く、

ということをやっているからだ。

 

それはともかく、いつものように、

諸仏菩薩や諸天善神をお迎えし、

諸霊救済の祈願をして、音楽声明を唱えしていた。

 

すると何と、Hiroa さんが

菩薩の一方として現れたではないか! 

 

そして楽しそうに諸霊を救っているのだ! 

(一体、これでは、誰の葬儀だか、分からないぐらいである)

 

伝統的には、「本日弔う霊は……」なんていう文言があった。

 

しかし、それを僕は、

儀式の最後に「本日誕生の菩薩は……」という宣言に変えていた。

 

まさにそれがピッタリとあてはまったのだ!

 

法要が終わった後、まず僕が話した。

 

話は、戒名の意味を説明するにとどめた。

 

実は、僕がHiroa さんに付けたのは、

戒名どころか、〜比丘尼という尼僧さんの名前である。

 

何せ、すでに数日前から、

お浄土という光と愛の世界で、楽しくしていたHiroaさんである。

 

だから、「常楽院光愛弘葵比丘尼」という僧名にしたのだ。

 

その後、皆さん1人1人にも、

それぞれ、Hiroaさんへの感謝の言葉を

述べてもらった。

 

その後、海外メンバーたち7、8人からもらったメッセージを、

Mayuさんに読み上げてもらった。

 

そして、合唱する中、

皆で花をお棺にいれ、ふたをしてから焼き場に向かった。

 

焼き場では、窯入れのセレモニーを行った。

 

その後、上の待合室に行き、お食事を頂いた。

 

お食事を頂きながら、

お父さんから「良かった…..」という呟きが何度か聞けた。

 

(「みんなに愛されていたんだなぁ」というつぶやきを、

Eikoさんは何度か聞いたそうだ)

 

僕は、心からホッとした。

 

また、Amiさんは、

Hiroaさんが楽しそうに活動している

パレスチナやタイでの写真をアルバムにして、

お父さんにプレゼントした。

 

編集した映像も持って来て、見せていてくれた。

 

その他、東洋医学のマガジンに掲載されていた、

Hiroaさんが書いたタオ指圧エッセイ集などまで、

持って来てくれていた。(素晴らしい!)

 

その後、お骨を拾うセレモニーを行った。

 

やがてHiroa さんのお骨は、白木の箱に収まった。

(本人は、すでにお浄土だけど)

 

葬儀場の人に、出口のところに送り出され、

「これで終了しました。散会です。」と言われた。

 

しかし、僕たち全員は、お父さんたちの迎えの車が着くまでの間も、

お父さんたちと共に居続けた。

 

温かくお見送りしたかったのだ。

 

車が着いて、4人が乗り込み、

車が見えなくなるまで、僕たちは見送り続けた。

 

その後、僕たちは、中野の道場に移動し、お勤め声明をした。

(このお勤めには、新たに4人が加わった)

 

声明終了後、僕は全員に輪になってもらった。

 

そして、Hiroaさんへの想いを語ってもらった。

(それを録画してもらい、お父さんに送ってもらうことにした)

 

このとき僕は、Hiroaさんの人生にサンガがあって

本当に良かったと思った。

 

Hiroa さんさんは、世界各地で、仲間たちと、

様々な素晴らしい、楽しい体験をした。

 

よく修行もした。

 

最後まで面倒見てくれる仲間もいた。

 

そして、今もこうして集まっている。

 

何と幸せなことだろう。

 

サンガによって、Hiroa さんは、

充実した素晴らしい人生を送ることができたのだ。

 

そのことだけでも、

僕はこれまでやって来たことの全てが報われる気がした。

 

一人でも、その人生をより良いものにする手助けができたんだ、

僕は心から安堵した。

 

自分がやって来たことは、

決して無駄ではなかったんだ、と思った。

 

それは、僕の人生も意味あるものにしてくれたんだ、

そう思って僕は感謝した。

 

当日、叔父さんからは、僕らが葬儀で行った一連のことに対して、

「今まで、こんな明るく温かい葬儀を体験したことはありません。

とても感動しました。本当にありがとうございました。」

と言われ、深々とお辞儀をされた。

 

翌日、僕はお父さんに手紙を書き、

いとこの克也さんにメールを送って、伝言をお願いした。

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克也さん

 

お使いだてして、誠に恐縮ですが、

お父さんに以下、ご伝言をお願いできますでしょうか?

 

「昨夜、お勤めで声明を上げていたら、

ひろあさんが、数多くの菩薩さまや諸天善神の方々と共に現れました。

 

それは荘厳で、美しいお姿でした。

 

ひろあさんは今、そんな美しく荘厳な世界にいらっしゃいます。

 

僕は、“今のひろあさんに恥ずかしくないように生きよう”と思いました。

                      合掌 

                  遠藤喨及拝

 取り急ぎ、用件のみで失礼します。

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