霊界話の続き(3)それは驚くほど、自分の心身を楽にした

今の時代、あまりにも多くの人が、

ネガティブな魔(悪霊)のエネルギーに負けてしまうのを見て来た。

 

修行者たちが魔エネルギーに負け、

ネガティブになり、志を落とし、

エゴを優先していく姿を見るのは、心が痛むことだった。

 

(僕の心がその度に辛くなるのは、

その人の先祖や守護神の方々の気持ちが、

心に入って来てしまうからではないか、と思う)

 

それは、まるで、崖に向かって歩いていく人の背中に、

いくら大声を出しても届かない、

そんな、悪夢を見ているような気分だった。

 

そんなとき、僕は決まって自分を責めた。

 

そして、”こんな辛い思いをするぐらいなら、

いっそ法をシェアするなんてことはやめてしまおう。

 

自分は一修行者としてのみ生きよう”。

 

そんな風に思うほど苦しみ、のたうち回り、

何度も精神的な危機に瀕した。

 

しかし、このゾンビのような世界に、

人類のために、純粋にひた向きに活動する修行者たちが、

魔の猛攻に耐えながらも、まだ生き残っていた。

 

彼らの存在に、僕自身がどれほど救われたことか……。 

 

そこで、”純粋な修行者たちのためにも、

もはやこれ以上、霊的世界を対処する方法を、

封印し続けることはできない”と、覚悟を決めたのだった。

 

そうして僕は、

「諸霊や諸魔を対象化して認識し、回向する」という、

大乗仏教の空思想とは、

真逆の方法論をもってその行法とすることにした。

 

それまでは、霊的救済や諸魔浄化は、

あくまでも、副次的に起きるものとして来た。

 

それは、従来の大乗仏教が目的として来たのが、

(恐らく、キリスト教神秘主義なども)

「三昧」(宇宙大霊との合一)だからだ。

 

そして、そこから一歩進め、

悟りの体感をシェアするまでが、

僕としては、伝統から逸脱しないギリギリの線だったのだ。

 

行の目的自体を霊的回向とすることは、

かつて、師と仰いだ人が禁じたことだったし、

僕自身も、それは空思想から離れる行為に思えて、

どうしてもためらいがあったのだ。

 

しかし、”もう法のシェアをやめたい”と思うほど苦しみが深くなったら、

もうそんなことは言っていられなくなった。

 

僕は、「もはや、霊的存在と真摯に向き合わざるを得ない」と判断した。

 

そして、長い間封印して来た、

諸霊救済などの霊的回向の具体的方法を明らかしたのだ。

 

人様にシェアする前に、まずは自分自身が始めた。

 

人生かけて最終的にまとめ上げた、行法メソッドにしたがい、

あからさまに」魔の浄化や救われない霊の救済などの

霊的回向を目的とした声明行を始めたのだ。

 

 ……それは驚くほど、自分の心身を楽にした。

 

行法の結果、心身の快さや浄化された静謐な場が生まれた。

 

そこで僕は、深い安堵のため息をもらした。

 

”ああ、やっと楽な世界に帰ってこれた”と。

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