「イエスは罪人として死んだ」
一体、なぜ宇宙大霊(阿弥陀如来)は、
このような物語をアレンジメントしたのだろうか?
僕の無意識の中には、長い間、そんな疑問があった。
例えば、イエスは、群衆によって
崖から突き落とされそうになったことがある。
常不軽菩薩も、石を投げられたりと散々だ。
悲しいかな、人間界では、
純心無垢な気持ちでやっていればいるほど、
様々な目に遇うことがある。
それは、人のネガティブなカルマを刺激する
という面があるからだ。
そこまでは、まあ良い。
しかし、利他の道を教えるとなると、
もうお手上げである。
人はキャパを超えた利他をすると、
反動でカルマが噴出する。
その結果、その道を教えた人間を
断罪するようになるからだ。
イエスが罪人として死んだのはなぜか?
あの物語は、なぜあんな結末になっているのか?
それは、「利他の道を教えるなら、
イエスみたいに断罪され、
十字架に磔にされるんだよ。
それを覚悟しておきなさい。」
という、宇宙大霊のメッセージだったのだ。
とほほ……..。
利他がなければ、気の融合はなく、
タオ指圧も声明念仏の成り立たない。
だから、利他の道は教えざるを得なかった。
(その結果、いろいろ断罪されて来た)
辛いと放棄したくもなるが、
利他をしない人生は、僕にとっては生きるに値しない。
だから、生きている限り、
利他の道は教えざるを得ない。
だから僕は、
これからも断罪され続けるのだろう。
…….いい加減、この役割、誰か代わってくれい。
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