場にも未来にも無責任なグルイズムについて述べた。
これとは根っこは同じだが、
一見、真逆に観えるものがある。
それがナルシズム案件だ。
グルイズムの場合は、
誰かに自分の理想を投影し、
自分もそうなろうと真剣な努力はせず、
ただ崇めることで満足する。
ナルシズムの場合は、二つのケースがあるので、
ちょっとややこしい。
まず一つは、グルイズムの延長として出る。
これは自分が属しているグループに自我を投影し、
優越感に浸るのが特徴である。
それはミニカルトのように小さいものから、
国家のような大きな場合もある。
“XXに属している僕たちは特別ですぅ”という匂いを
周囲に撒き散らしているので、
僕などは、見ていて気分が悪くなり、
逃げ出したくなる。
そしてもう一つは、これとは全く真逆に出るケース。
こちらは、もっぱら「お一人さま」を主張する。
このタイプの人を合宿修行などに誘うと、
“修行なら、私は一人でするのが好き。
私は宗教団体はイヤなの”と、
ナルシズム臭をほのかに漂よわせながら反応する。
「何が団体だ!
こっちは宗教をぶっ壊してるんじゃあ!!」
と怒鳴りたくもなる。
グルイズムを否定し、
ナルシズムとも対決しなくてはならないのだ。
しかも、まだある。
これまで、”人類に新しい時代(無我と利他の時代)をもたらそう!”と願って、
様々なメソッドを分かち合って来た。
人が、”この素晴らしいメソッドを、
自分も人類のために分かち合おう”
という志を発てることを願って。
そうなれば、グルイズムにもナルシズムにも陥ることなく、
共に人類に良きものをもたらす活動ができるはずだ、と。
しかし未だに、
それらを「自分のために良いとこ取りをしよう」
と思う人は多い。
ワークショップの感想も、
”素晴らしい体験でした。
これから自分の人生のために役立てたいと思います”が、
その典型。
一瞬、”オレはあんたのエゴを満たすために、
こんなに苦労したのかよ!?”と嘆きたくなるが….。
しかし、よく考えたら、昔のワークショップでは、
僕の言っていることが全く伝わらなかったのだ。
まだ全然マシだと満足すべきかも知れない。
それでも思う。
”自分も人類のために分かち合おう”
という志を発てる人たちが、
続々と現れるまで、
あと何年、待てば良いのだろう。
皆んな、いつまでエゴに生きるのだろう?と。
ところで、もし様々な宗教の人たちが、
霊的・法界回向のメソッドを行じるようになれば、
概念上あった宗教の違いは消滅していく。
それは、宗教が解体されていくということでもある。
そこに人類の霊性が育つチャンスがある。
しかし宗教者に、もし先に述べたような
「良いとこ取りをしよう」とするエゴの克服がなければ、
単に世間に魂を売り渡した『インチキ野郎』
(「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデンのセリフ)
になってしまうだけかも知れない。
考えてみたら、自分はまさに、
綱渡りみたいなことをやっているのである。
グルイズムだけ述べて、
他について述べないのはフェアではないので、
ついでにと言ってはナンだけど一応、
この辺のことを述べておくことにした。
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