「宗教自身が、真理を破壊する」ってどういうことー!?

顔のカサブタは、1週間〜10日で引きます。

と言われていたが、本当に取れてきた。

 

ただ、「太陽の下に出ないようにしないと

後が黒くなりますよ。」

とも言われていた。

 

”今日は、曇り空だから大丈夫だろう”と思って、

30分近く歩いたら、顔がヒリヒリして来た。

 

やべえなあ……

 

曇り空の方が、かえって紫外線に直撃される

と聞いたが、後の祭りである。

 

もしかしたら、怪物が復活して赤オニだったのが、

今度は、黒オニになってしまうかも知れない。

 

うぅ…….まあ、その時は…….泣こう。。。。

ブログを読んだ何人かの方が心配して、

情報を送ってくれたり、クリームなどを下さったりした。

 

本当に、心に沁みるありがたさである……。

 

ところで、僕の極端から極端に行く性向は、

どこから来ているのか?

 

それは、人生の可能性に挑戦したい、

という、やみがたい願望から来ている。

 

いろんなことを、ホイホイやっているように見えるかも知れない

 

が、実は、人並み以上に小心だし、恥ずかしさを感じる。

 

それを乗り越えてやっていくのだが、

僕にしてみたら、極端に行くのは、

自分の人生への必死の挑戦なのである。

 

さて、『自分の話を聞いている人たちから、

神妙な空気感が漂って来ると、

ついジョークをかましたくなる。』

(その空気をぶち破ろうとする)

 

そう、以前のブログで述べた。

 

それが、一体どこから来るのかを述べると、

実は案外、深い話になる。

 

ところで僕は、坊主でありながら

宗教そのものを批判する人間だ。

 

なぜなら宗教は、

『宗教自身が、真理を破壊する構造を持つ』からだ。

 

えー!?「宗教自身が、真理を破壊する」ってどういうことー!?

と思われるだろう。

 

通常、宗教は、役割分担することで成り立つ。

 

その基本単位は、師と弟子、指導者と信者など。

 

そして宗教内では、その関係性が固定する。

 

問題はこの「関係性の固定」である。

 

お釈迦様の説いた真理は、固定した存在はない(諸法無我)。

そして、瞬間ごとに存在は変化する(諸行無常)である。

 

そして、人と人との関係性は、健康であるほど、固定化しない。

例えば、友人やカップル(親子でも)の関係性では、

その時々で、どちらかが親的になったり子供的になったり、

仲間になったりなど、固定化しないほど健康である。

 

人間関係というのは、その時々によってどこを映し合い、

対面し合っているかだけだからである。

 

そして人間は、仏から地獄まで、十の世界を内面に持っている。

 

社会的な部分などは、

ごく一部の、その時の役割に合わせて出た、

「一時の自分」に過ぎないのである。

 

とっころが宗教内では、

師と弟子、指導者と信者などの役割が、

完全に固定する。

 

しかし、これでは不健康だし、

諸法無我も諸行無常も、生き方にはならない。

 

生き方にはならなければ、人生認識にならない。

 

諸法無我も諸行無常も、

絵に描いたモチに過ぎなくなる。

 

諸法無我も諸行無常という真理に生きれられないのでは、

もはや、宣伝文句に過ぎないインチキである。

 

僕は常に、インチキに陥ることを恐れている。

 

人間が、役割と関係性の固定に入りたがるのは、

エゴにとってはその方が、楽だからだ。

 

 

しかし、エゴの楽は仏性の死である。

 

良寛さんや一休さん、またイエスも釈尊も、

昔から本物の人は、常に役割や関係性をぶち壊していた。

 

僕にとって神妙な空気が危険で、

笑って、ぶち壊したくなるのは、

健康で本物になりたいからだ。

 

<備考>

以前、アミットさんが僕のことを「グル」と呼ぶので、

送ったGiphが表紙。(土下座しているタヌキ?)

This is I am asking not to call me guru 😁

(これは、僕が”グルと呼ばないで”と言っているところ)

というのを付けた。

 

インドでも、ヒンズー語で誰かと話していて、

「グルジー」と僕を呼んだりすると、すかず

”グルじゃないってば”と突っ込んでいた。

 

真理をシェアするのに、

関係性の固定化はいらないどころか、

かえって邪魔だからである。

 

関連記事一覧

PAGE TOP