前回のブログで”太宰治っぽい”
という言葉が出たが、
そもそも僕は、太宰治っぽいところがある。
もっとも太宰の小説の本質は、ユーモア小説である。
破滅的な無頼派の作家というのは、表向きなのだ。
僕に言わせれば、
太宰の小説は、その天才的な筆運びと相まって、
破滅とユーモアという、2面性が魅力なのである。
僕が、前回述べた”大宰っぽさ”は、
代表作の「人間失格」的なところである。
(最高に面白い短編、
「畜犬談」的なところではない。
※この小説は深い。
犬のことを書いているようでいて、
実は人間のことを書いているのである)
さて、「人間失格」の主人公である葉蔵は、
押し黙っている人が怖い。
それで、つい道化をして、
周囲を楽しませてしまう。
その苦悩を(実は面白おかしく)書いているのが、
この作品である。
実は僕も、押し黙っている人が怖い。
相手が女性だったら、
”あんたたちホストは、
どう私を楽しませてくれるのよ”と、
周囲を睥睨する金持ちマダムに見える。
(年齢に関係なく)
男性だったら、
”そんでキミは、
どう私を楽しませてくれるのかね”と、
接待先の社長とでもいるような気になる。
(こちらも、年齢に関係ない)
タバコでも出されたら、
つい火をつけてしまうかも知れない。
やれやれ…… 実に羨ましい限りである。
ところで、前ブログで述べた、
”自分の欲求は叶えられて当然とする空気感を
漂わせている人”と、
押し黙って、
誰かが場を盛り上げてくれるのを待っている人は、
どこか共通している。
いや、確かに共通している。
……..というところまでが個人的な感想である。
より正確に言えば、
彼らがどうだ、という問題ではない。
内なる太宰としては、そうなってしまうのだ。
とはいえ、押し黙って、
誰かが場を盛り上げてくれるのを待っている人は、
仏さまのスポークスマンたる、
大乗(仏教の)修行者としてはどうなんだろう?
……という観点について、次回のブログで述べてみたい。
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