‘旅’

ずっと書いていなかったブログ

2012/08/05 Categories:

ずっと書いていなかったブログ。気がついたら1ヶ月以上たっていた。

さて、休むことを仕事にしよう、なんて思いながらもずっと走り続けてしまった。

 今年に入ってからは、バングラデッシュで活動し、UNIチャリティフェスティバルの開催があり、そしてヨーロッパ一ヶ月のデスマッチ的なツアーもあり、そこで休めば良かったのだが、妙な具合に休めず、、、うぅ。

 あげくに、ようやく身体がTPPや原発の再稼働並みに“絶対反対!”の意を唱え出した。そこで、まゆさんとタイまで来て、1週間ほどバタと休み込んだ。

タイに来たのは、来年のタオサンガ国際大会の準備も兼ねているのだが、本音は、休め休め運動の実施である。かつては、休む方が主体の人生だったのにな。

ところで、タイに出発する3日前のことだけど、ライブハウスで演奏した。

 実は、僕は内面が動きすぎている時など、何も語れなくなる。それでも、ステージで愛想が悪いのもなんだから、話をしようとがんばった。でも、すべってばかり。

理想は、姿が見えていない状態で、まるで何かにとりつかれたように演奏していることなんだけど。

 さて明日は、夜にオーストリアからオリバーが到着する。彼の知り合いのタイ人らの協力のもと、2人で世界大会の会場になるホテルや、バンコクでのパーティ会場などを見つけたり、また交渉したりするためである。 なにせ、前回の世界大会から、10年の月日が経っている。あらためて探したり、交渉したりしなくてはならない。前回は、3回もタイに行って探しまわったあげく、ようやく決めた。今回は1発で決めたいところである。

 

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和田寺の法要ツアーに行く

2012/06/12 Categories:

僕が住職を勤めているのは、島根県の匹見というところにある。自然が豊かな所だ。十畳ほどのお寺には、電気、水道などのインフラは何もなく(実はトイレもない)、よって当然、檀家もない。

それでも村の人々は、このお寺を大切にして来てくれた。昭和38年の豪雪で、一度お寺が潰れたのだが、村のみんなで寄付して今のお堂を建てたという。

ずっと以前(お年寄りの話で、どうも戦前の話みたいだ)、ちゃんと庫裏(お寺の人が住む家)もあった頃、子供が4人いる酒飲みの住職がいた。しかし、借金取りに負われて夜逃げしたという。聞いたときは、つい笑ってしまった。

村の人たちは、今でも、草取りなどの手入れをしてくれている。僕が法要を始めたのは、昨年からだ。村の人たちは、”こういう日が来るのを待っていた”と言ってくれた。今年は、日頃お寺をお世話して下さっているお礼も兼ねて、昼食の接待もした。皆さん、とても喜んで下さった。

<法要のあと。チーズ!でなく、モンキー!と言ったら、みんな笑った>

<昼食の接待/実はお酒も出した>

<サンガの笑顔で、満州にいた時の話を聴く。考えてみたら貴重な話だ>

夜は、タオサンガのみんなでパーティ。昭和歌謡ショーから、コメディ劇「ネオ白雪姫」の出し物まであり、この日の夜は、爆笑につぐ爆笑だった。

<劇のフィナーレ/脚本も演技も、素晴らしかった! 来年のタイ大会で披露して欲しい!>

<二人の”美魔女”に囲まれて、ご満悦の「麻呂」、こと永田氏>

<帰る日の朝は、サンガ式HAPPY BIRTHDAY の儀式をやった。うーん、嬉しそうだな>

さて、ここ匹見の特徴は、「時間が止まったまま」な感じであることだ。こんな感覚は、なかなか味わうことができない。強いて言えば、東エルサレムが、ここの時間感覚に少し近いかも知れない。

 

 

 

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ウィーンの休日

2012/05/24 Categories:

一体、何日ぶりなんだろう? 一日の休みが取れたのは? 日本を発って3週間がたった。今まで一日も休みがなかった。だけど、まあいいや。とにかく、ウィーンでの念仏、タオ指圧、気心道などのワークショップはやっと前日終わったのだ。

それにしても、本当にいろんなことが重なった今回のウィーンだった。大変なこともたくさんあった。実は、先にその内容について書いたのだが、今消去した。事情が複雑なんで。ただ、下記についてだけは残しておいた。

「ご存知の方もいらっしゃるかも知れないが、われわれ日本人のような、アジア地域(仏教文化圏)の人間には想像もつかないことが世界にはある。その1つが宗教に対する感覚である。

教会に行けばお祈りし、神社では柏手を打ち、お寺では手を合わせる。これらの一連の行為は、僕ら日本人には何でもない当たり前のことだ。

しかし、異端者を弾圧したキリスト教や、偶像崇拝の罰が石打ちの刑だったユダヤ教に、そのような精神構造はない。自分の先祖の宗教だけが最高で、他はダメというような考えは宗教カルマだし、そんなことを今の時代に教えるとしたら、僕はそれは罪深いことだ思う。」

マジメな文化論なぞを、ぶってしまいました。以下は、ただの日記に戻ります。

<“気心道って、なんて楽しいんでしょう!”とアリス。今回の念仏ワークショップでは、深い霊的体験をした。西洋医でもある。>

 <ウィーンの街並>

 <日本アニメをテーマにした「漫画バー」>

来年、タオ指圧国際大会をタイで行うので、大会の協力を仰ぐため、気心道ワークショップの後に、タイ人の女性と結婚した、オリバー(サンガメンバー)の友人に会いに行った。(例えば、会場の紹介や、チャイルドケアのため、子守りの紹介など)

<左上が奥さんで、右上がご主人である>

夜は、オリバーとアリスがJazz クラブに連れて行ってくれた。

ところで、これまで連日やって来たことはサンガのことばかりで、日本でやっていることと基本的には変わらない。

ウィーンに来ても、いつも、タオサンガセンターとホテルとレストランしか行かない。(時間がなくて)だから、どこかへ行ったという感じは全然なかった。この夜は、はじめて、どこかへ来たという感じがした。3人で飲みながら、二軒もハシゴしてしまった。感謝!である。

やっと来た休日。午前中は少し眠り、午後いっぱいは洗濯に当てた。さんざん探しまわって、コインランドリーにたどり着く。

どうやったらいいか、わからないので、インド人らしき中年の男性に、いろいろ親切に教えてもらいながらやった。アジアの同朋よ! ありがとう! ところで、洗剤は無料だそうだ。

哲学者のような風貌のインド人らしきおじさんは、荘厳な雰囲気で、黙々と洗濯に励んでいた。きっと故国では、こんなことしないのであろう。背中の哀愁がまた良かったぜい。

翌日は、オーストリア仏教協会の人やら、韓国の坊さんやら、ネパール人とで会う。タオサンガセンターで、展覧会や講演会をするとのこと。

法華経と日蓮上人について話し合った。ネパール人は鈴木大拙博士の書を持っていると言っていた。またエリザベスという仏教協会のオーストリア人女性が、かつて藤井日達上人と日本を旅しました、と言っていたのが興味深かった。

オランダに発つ前日まで、なかなか忙しい。アムステルダムのワークショップの内容も考えなければ、、、、、。

ウィーンでは大変だったと書いたが、実を言うと、多くの人が念仏ワークショップで深い霊的体験をし始めたので、結論を言えば、「いやー良かった、良かった」。

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UNIチャリティ・フェスティバル2012を終えてイタリアへ

2012/05/04 Categories: 日記

フェスティバル、祭りの本来の目的は何だろう? 神さまをお祀りすること。それを、お祝いすること(祝祭)。それによって、人々の絆を深めることだろう。

ユニフェスも、本来の祭りに少しでも近づけたいと思っている。でもまずは、フェスをビジネスの全くからまないものとして行う。そこでチャリティフェスだ。みんなで、利他の温かい空間を共有するコンセプトが、その特徴である。

だから収益は、基本的にすべてチャリティ。今年は、会場費をユニで負担したから、ユニにとっては持ち出しではある。また実行委員の皆それぞれも、あれだけの大変な労力を注いでいる上に、随所で自分のお金を出している。それでもやっているのは、なぜか?

それは、人々の利他の心に触れることで温かい気持になれるからだ。それを感じるのは、主催しているユニのスタッフだけでない。来場者の皆さんやブース出店者の方々にも、また出演アーチストの方々も感じてもらっていると信じている。(実際に、そういう声を方々から聞いた)

 <集まったのは、40数店舗。今年は、NHKやFMこころ、また京都新聞でもお知らせしてくれた>

<Mausgruppeドイツ語補習校 のフェイスペインティング>

<友人の竹中あこさんと大森俊之さん夫妻のLIVE>

人の利他心に触れることで、その場に居合わせた人の心が温かくなる。それを感じることができるのは、僕は幸せなことだと思う。一流レストランでごちそうを食べることに幸せを感じる人もいるだろう。でも、僕たちにとっては、人の利他心に触れることが一番のごちそうだ。そして、人のために皆で汗を流した後に飲むビールと、スーパーで買った総菜を持ち寄って食べることに、一番幸せを感じるのだ。

 後片付けは、翌々日の昼過ぎまでかかった。ゴミの山もあり、借りた机も返しに行かなければならない。こうした、地を這い回るような下座の仕事があって、フェスティバルはできる。できたら来年からは、一連のすべてプロセスを、皆さんと共にできたら、さらに幸せだろうな、と思う。

さて、後片付けが終わった日は、ヨーロッパ一ヶ月行脚の前日だ。イタリア、ウィーン、オランダの各地で、念仏やらタオ指圧の講習やらがあるので、出発しなければならない。

出発前日の昼過ぎから、やっと旅の準備開始。一日かかって準備が終わったのは夜中の3時。6時に起床して関空に向かう。フランクフルト、ローマと乗り継いで、やっとベローナに辿り着いたのは、関空出発の24時間後だった。アントニオとロリダナが迎えに来てくれていた。ボンジョルノ! (イタリア語で”こんにちわ”)

<ローマからベローナ行きの飛行機に乗るところ>

<ベローナの空港に迎えに来てくれたアントニオとロリダナ。イタリア人は情熱的である>

 

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ダッカへ移動する/バングラデッシュ最終日

2012/02/12 Categories:

 以前は、夜のミニバスで12時間全力疾走し、ダッカとコックスバザール間を行き来していたものだ。しかし今回から、バングラデッシュ国内便の事情も良くなったのか、飛行機で行けるようになった。おかげで時間が短縮できた分、現地での活動内容を増やすことができた。

 今日は、1時に空港に行くことになっていた。“ならば、、、”と僕は、午前中に仏教協会との会議を設定してもらった。朝、タオサンガセンターで数名で集まり、まずは念仏のお勤め、その後、ミーティングに入る。内容は、ラカインUNIと仏教協会の今後の調整である。

 なにせ人間が集まってのことなので、いろいろある。途中僕は、星一徹のように、ちゃぶ台を引っくり返そうと思った。しかし、ちゃぶ台はなく、最後は和気藹々の握手で終わった。ふうー。

 その後、再び仏舎利塔へ登り、次の整備に向けた確認作業を行った。すると、念仏堂に仏像を奉納に来られた方がいた。尊いことだな、と思った。

<仏舎利塔>

<仏像の奉納にいらした>

 ラジョーさんの家にランチを食べに帰る。ラジョーさんには、生まれて間もない娘さんの日本名をつけて欲しいと頼まれていた。それで数日考えた上、れいや(零弥)という名前にした。弥勒菩薩(マイトレイヤ)のレイヤは、たしか友情という意味だったと思う。

 零は0だから空を意味し。弥は、阿弥陀さまからもらったから、空=阿弥陀という意味だよ、と説明したら、とても深く神妙に喜んでくれた。

<奥さんと、れいや(零弥)ちゃん>

 1時になり、空港へ向かう。何ヶ月にも感じたこの6日間だった。それにしても、寂しそうなラジョーさんがいる。僕はつい何度も“ラジョーさん、大丈夫ですか?”と言ってしまった。

 ダッカの空港に迎えに来てくれるラカイン人の学生さんを、ラジョーさんが手配してくれた。ホテルも探しておいて、そこまで連れて行ってくれるという。期待していなかっただけに、親切が身に沁みた。

 心の通い合う人との別れは、いつもさみしいものだ。ラジョーさんも、日本に来れるようにして、差しあげたいものだなぁ。そう思いながら、空港ラウンジ(と呼べる感じでもないのだが)に入る。ラジョーさんは、日本式のおじぎをした後に、見送ってくれた。

 ダッカの空港に着いたら、三人のラカイン人の学生が迎えに来てくれていた。そして、みんなで探したという、安いホテルに連れて行ってくれた。

 荷物を下ろし、ダッカ観光ということで、バスに乗って建築物を見に行く。しかし、あえなく渋滞。何でも、一ヶ月続いた祭りをこの先でやっている。その祭りの最後の日が今日だからという。

 30分以上動かなくなったので、諦めてホテルに戻り、みんなで早めの夕食に行くことにする。カレーや豆スープなどのベンガル料理をおいしく食べた。

 彼らが、科学専攻の学生さんたちだと聞いた僕は、“チェスとか、そういう考えたりするゲームって好き?”と聞く。すると、“チェスとかやりますよ”という。

 すかさず僕は、“実はこれ、僕が発明したゲーム。近く、オンラインでできるようになる予定なんだけど、やってみる?”と聞く。すると彼らは、“おおっ!”と目を輝かす。

<写真は、タオサンガセンターでゲームをやった時のもの。ダッカでは、電池切れで写真が撮れなかったので>

<真剣勝負!>

 さっそく教えて、ゲームを始める。いやー、実に盛り上がりましたねぇ。確かな手応えを感じましたよ。  笑ってしまったのは、じっと観戦していたレストランのウエイターが、“おい、この戦車もっと進ませた方がいいぞ”とか、口出しして来たことである。ふふふふ。

 二、三戦やった後、“このゲーム、1つしかないんですか?”と名残残惜しそうに言う。それで、“上げるよ”と差し上げて来た。みんなで楽しんでくれぃ。

「将来は、学校でトーナメント戦やろう」とか、「そんなら優勝者には、僕が賞品出すよ」とか、「僕、絶対それもらうから」との話で盛り上がる。

 僕は、“万国のタオチェスゲーマーよ、団結せよ”の気分である。(マルクスの友だちのエンゲルスという人の書いた“共産党宣言”の最後の一節をもじったもの)

 学生さんたちが帰った後、一人僕は、夜の街を散策に出かけた。大通りには、信号もない。これを渡るのは、命がけである。例えて言うならば、東京の環状七号線に信号がなく、そこを渡るようなものである。

 しかし僕は、現地の人を真似して、必死に道を渡り、夜の街に繰り出す。一体、何のために? ダッカの街を見て回りたいという、ただそれだけである。単なる好奇心のために、命がけで道を渡るのだから、実にアホなのである。しかしアホは、アホなりに存在意義があるのだ。

 たとえば、コロンブスだって、そんな人間だったんじゃないかなあ。まあ、彼がアメリカ大陸を発見したために、インディアンはひどい迷惑を蒙ったのだけど。

  さて、夜の街やバザールなんかを散策した後、ようやくホテルに戻る。(帰りは陸橋を見つけたので、命がけではなかった)部屋に戻っても、途中に出会った「本物の乞食」の残像は、なかなか去らなかった。ニセモノには、余裕をもってお金を上げたりできるんだけど、本物の気迫には、いつも圧倒されてしまい、決して慣れることができない。

 ホテルは安くて良かった。しかし、大通りの車の騒音が大変うるさい。果たして眠れるかなぁ、と思ったが、いつしか、まどろむことができた。

 明け方、うす暗い部屋で咳をしていたら、とうとう真っ赤な血タンが出た。(うす暗いので、まっ黒く見えた)。ずっと、咳しながら活動していたが、実は3日ぐらい前から、タンに血が混じり始めていたのだ。

 一瞬、“結核にでもなったかな?”、何て思った。その瞬間から、すでに心は、梶井基次郎とか立原道造みたいな昔の文士である。“こりゃ、さっそく詩か小説でも書かなくちゃいけないな”なんて、、、。

 そこで僕は、“けっ、これぐらい何だ!”と、まだ暗い寝床で無言で吠える。「旅に病んで、夢は枯野をかけめぐる」(松尾芭蕉)だ。旅するバックパッカーは、これぐらいではめげんのだ。今年のバングラデッシュ、最後の日の明け方、、、。

<後記:心配される方もいらっしゃるかも知れないので、記しておきます。この時は、ホコリのため咳をし過ぎて、喉が切れたみたいです。ダッカの後はタイで休憩しました。お陰さまで、今はすっかり治っています。もう大丈夫です>

 

 

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ミャンマー国境近くの村へ/5日目の疾走

2012/02/10 Categories:
 ラカインの子供たちの将来を心配する80歳を超える老僧が、私費で運営しているラカイン小学校が、ミャンマー国境近くの村にある。

 この学校のあるチョドリバラ村は、ラジョーさんの奥さんの出身地でもある。そしてユニは、この老僧の心意気に応じて、さらなる支援をするようになった。

 支援を始めたのが4年前。2年前には老僧に、“私が死んだ後も、子供たちをどうかよろしく”と言われて、引き続きの支援を堅く約束している。

 話は変わるが、ミャンマーの自由化運動に身を投じた学生活動家たちは軍事政権に追われ、バングラデッシュ国境のジャングルに逃げ込んだ。ラジョーさんのことを先日のブログで、僕はお坊ちゃまと称した。しかし本人は言わないが、彼はかつて、この国境近くのジャングルで、活動家たちを支援していたのだ。お坊ちゃまとはいえ、なかなか根性がある人なのである。

 さて、この小学校に行くため、総勢6人で朝から出かけた。しかし、出発したとたん車がエンスト。街角で、しばらく立ち往生することになった。

<エンスト>

<道で>

<道で見たポスター。空中浮遊の尊師は、どこにでもいるらしい>

 走れば車で2時間半の距離とは言うが、これはバングラデッシュ的表現で、不動産屋の「駅から徒歩15分」みたいなものだろう。なんせ、いつ行っても“遠いなあー”と思う。時計みないから実際にどれくらいかかっているのかはわからないが、まだか〜?、と思うのを諦めた頃にやっと着くのである。

 さて、ようやく昼前に到着し、子供たちのお出迎えを受ける。老僧に案内されて教室へ行き、みんなに話をして欲しいと言われて話した。

<出迎えてくれた>

<教室に向かう>

 「皆さんはラカインの未来です。そして皆さんの未来を明るくするのは、お互いを思い遣る心と行動です。皆さんがこの学校で、“すべてのラカインの人々の明るい未来のために”という気持で学んでくれたら、老僧もラジョーさんも、そして僕たちも嬉しい」。

 この後、日本からもって来た鉛筆なんかを配った。老僧からは、夜クラスも始めたいので、先生をもう1人増やしたい、と相談された。これは、ラカインUNIが検討して決めることになる。

<老僧のお話>

<教室の風景>

<賢そうな子>

 その後、30分かけて国境の町まで行き、昨夜招待してくれた人の家に案内され、昼食をごちそうになる。魚料理や、今やめったに飲めないミャンマービールなど、いろいろと出して歓待してくれた。

<ミャンマービール>

<ごちそうが並ぶ>

<写真/家の中を案内してくれる>

 昼食後は、町を散策。

<街の様子>

<ラカインの家も数件ある>

<子供の背中が語りかけるもの>

 午後遅くなってから、帰りの車に乗る。再び乗ること2時間半?(多分、もっとだろうなぁ)。夕方、暗くなる前に、ようやく帰りついた。

 明日はダッカに移動しなければならない。夕食後は、荷造り。しかし少しでもプロジェクトを進めたい僕たちは、夜9時頃、近所の女医さんに会いに行く。ラカインの学生や女性たちを支援するNGOを主催している人だ。まゆさんの発案で、ラカインUNIの委員の一人になって欲しいという話をするためである。

 女医さんとは、夜の診療の合間に会った。お互いの活動について話し合う。そして、ラカインUNIの委員会参加を受諾してもらった。

<診療所>

<女医さんと>

 その後、ラジョーさん、まゆさんん、僕の3人で最後の夜のミーティング。ラジョーさん、僕たちが明日帰るのが、何だか寂しそうだなぁ、、、。続く

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ラカインの村々を巡る/視察と調査の4日目

2012/02/09 Categories:

 4年前からNPOユニが運営を始めたのが、クルスクル/ユニ小学校だ。以前は、ワールドビジョンという世界的に有名なNGO団体が、10年ほど運営していた。

 しかし、支援を打ち切り先生たちの給料がストップ。先生たちは、他へアルバイトに行き、永らく閉鎖されていた学校だ。

 ”何だよワールドビジョン、そんなつれないことするのかよー”と、ぶつぶつ言いながら、NPOユニで再開した。(大きな団体の支援は、期限付きということらしい。大きな団体には、つい無意味な対抗意識を持つところが、僕の大人げないところである。もしかしたら、教室を建設したのはワールドビジョンかも知れないのに、、、)

 学校の再開とはいえ、机や椅子、その他、黒板などの備品もすべてユニで揃え、雨漏りする屋根の修理をした。そして5人の先生たち(現在は4人)の給料を払っている。

 午前中、まずはこの小学校の様子を見に行く。年代ものの三輪ミゼットタクシーに、三人で乗り込む。三輪は、アクロバット的なゴーカートの動きをしながら、海の見える田園風景の極細の小道を疾走する。”よく車が倒れないなぁ”と感心するやら、ひゃひやするやら。写真を撮る余裕はあまりない。

 

<田園風景を疾走する>

 

<車が傾斜して、水面が迫る。あわや!>

 

しばし走った後、ようやくクルスクル村のラカイン仏教寺院に着く。隣にあるのがユニ小学校だ。

 

<授業参観>

 

<つい、カメラが気になってしまうみたいだった>

 

<英語の先生/ラカイン語を教える校長先生>

 

 子供たちの授業風景を参観し、その後、先生たちとミーティングした。僕はPTAを作ることを提案する。
 僕が語ったのは、将来は、より多くのラカインの村の小学校を再開させるつもりであること。(全部で17あるが、現在、開校しているのは3つ。しかし、すべての小学校を開校させるための「秘策」は、すでに練ってある。ふふふ)

 そうなったら、コックスバザールのタオサンガセンターに、PTAの代表が先生方の給料を取りに来るためなどで定期的に集って欲しい。そうして、いろいろな村の代表と交流して欲しい旨を話した。彼らも乗り気になった。

 実はそれは、すべてのラカインの村でネットワークを結んでいくという、ユニの構想を実現するためである。
 あるいは、各国のユニから、定期的にリサイクル品や英語の本、教材などをを、コックスバザールのタオサンガセンターに送る。そしてそれを、各村のPTAの代表が定期的に取りに来る、ということでもいいかな、と思っている。(でも、これの実現は、まだ先だろうから、今の段階では黙っていることにした)

 小学校の視察が終わったところで、ラジョーさんにこれからどうしますか? と言ったら、一度家に帰ってお昼を食べに帰りましょう、という。

 しかし僕らは、”仏教協会が言っていた教育センターの村は、ここから30分ほど行った先、というじゃない。だったら、今からそこに調査に行っちゃおうよ、ラジョーさん” と提案。それで、そこに行くことになったのだが、結局、さらに三つの村を巡ることになった。

 まずは、再び三輪に乗り込み、その後、小舟に乗って海を亘る。ヤギやら羊やら、オートバイやら、いろいろと乗り込んでいる。少年が船頭のアシスタントだ。

 

<えいや!と舟に乗り込む>

 

<オートバイまで乗り込んで来る>

 

 さて、30分先の別の村に着いら、すでに、僕らのことを村の人が待っていてくれたのだが、”仏教協会で協会で支援して欲しいと言っている教育センターってどこですか?”と聞いてもあまり要領を得ない。”これから建物も作らなきゃならないし、、、”とか言って、何だかわけのわからない話になってる。

 

<政府系の学校>

 

 でも、”僕らは見に来たなんだから、とにかく、その教育センターらしいところに連れて行って下さいよ”と半ば強引に連れて行ってもらった。それで行ってみて、ようやく話が見えて来た。

 ようするに、”仏教協会で3人の先生の手当の支援を要請したいだけど、、、”と言っていたのは、”3つの村に1人ずつ、ラカイン教育の先生を配置したいから、それを支援して欲しい”ということだったのだ。

 1つ目のラカイン村には、バングラデッシュ政府系の学校があった。そして、「その一角にある小さな建物を、ラカイン教育センターに」ということだった。

 というのは、子供たちにラカイン語などを教えないと、ラカイン文化が途絶えてしまう。また、政府系の学校だけでは、ラカイン村の子供が高等学校に進むことが難しいのだ。そんな、バングラデッシュの教育システムの問題もあるのである。

  ”では次へ”と、その後、他の2つの村のラカイン教育センターにも巡って行った。各村の人に挨拶し、説明も聞かせてもらった。ユニで検討することを約束する。

 

<各村で話を聞いて巡る>

 

<青空教室を予定している村もある>

 

<どこの村でも、仏教は大切にしている>

 

<村々は人力車で巡る>

 

 その後の3人のミーティングで、ラジョーさんが後日、各村すべてを再調査することになった。ラジョーさんは先生の候補者とも会い、村の委員会とも話し合い、支援を始めてもちゃんと子供たちの教育という使命を全うするかを、克明にチェックするという。

 僕がそこで感じたのは、ラジョーさんは、自分が責任を持って、単なる支援の垂れ流しにならないようにしているのだ、ということである。

 彼は、ちゃんと責任感をもって、真剣にユニの支援活動を展開しているのだった。ラジョーさんのようなスタッフを持って、ユニは本当にラッキーだと僕は思った。

 さて、その後再び、船に乗り込むが、いくら待っても出航しない。どうしたんだ? と思ったら、船頭さんが弁当を食べているからということだった。そういえば、お昼どきはずいぶんと過ぎているけど、バングラデッシュではご飯が遅いからなあ。一般の夕食は夜10時だそうである

 


<優等生の兄とワルガキの弟か? 船頭のアシスタントは兄だが、僕は弟の目が気に入ったぜい>

 

 待ちくたびれて見に行ったら、カレーやダル(豆スープ)にご飯、チャパティなどで、なかなか美味そうでである。昼飯抜きの僕らは、指をくわえて待っているしかなかった。

 

<船頭と息子たちが弁当を食べている。美味そうだった〜>

 

 ようやく出航して対岸に着いた後は、再びアクロバットのゴーカートが待っていた。途中、車から降りて、車を押すという一幕もあった。そしてやっと帰りついて、昼めしにありついたのが3時前だった。

 夜は僕らで、たまには夕食にベンガル料理を食べに、レストランに行かないか、とラジョーさんを誘った。(昼間見た弁当、ウ美味そうだったしー)そうしたら、初めて奥さんも連れて来た。そして、4人でタクシーに乗ってレストランに出かけた。

 なかなか豪華な料理である。おかげで初めて奥さんとも少し話をすることができた。タクシー代を出してもらっていたので、食事の支払いは僕らがするつもりでいたが、ラジョーさんは”僕に払わして下さい”と言って、断固として僕らには払わせなかった。

 

<昼間見た弁当に刺激されて、ベンガル料理を食べに行く>

 

 夕食後は、仏教協会の中で、ユニとラジョーさんに味方してくれそうな人を、ラジョーさんが家での酒席に招待したそうだ。僕がおみやげに、バンコクの空港免税店で買って来たウイスキーで、彼らを接待するという。

 そうか、ラジョーさんもいろいろと気を遣って大変だな。僕らも酒席に参加して、一緒に飲んで盛り上がる。何ごとも、根回しである。

 ラジョーさんには、”日本のお寺を回るジャパンツアーができないですかねぇ。みんな雑魚寝でも大丈夫だし。ラカインでお金のある人が10人以上は集まると思うんだけど”と、相談されている。

 面白そうなので、何とか実現したいと思っている。酒席に、ヤンマージーゼルの会社の研修で日本に行った人がいたので、日本ツアーの話なんかで盛り上がった一席であった。

 明日は、ユニが支援している、ミャンマー国境近くのチョドリバラ小学校に行く予定だ。同席の2人も、一緒に行く、と盛り上がっている。

 その内の1人の家は、そこからさらに30分ほど行った国境の村である。彼に、”ぜひそこまで来て欲しい。家でお昼をごちそうしたいから。” と誘われ、ありがたく申し出を受けることにした。

 こうして、明日は5、6人で出かけることになり、あとはラジョーさんとまゆさんに任せて退席した。微熱が抜けたばかりなのに、酔っぱらってしまったんで。続く

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バングラデッシュ、二日目の驚き

2012/02/05 Categories:

 まさか2日目に、こんなに驚きの一幕が用意されているとは思わなかった。

 UNIは、和田寺という仏教のお寺が運営している。しかし、キリスト教の援助団体のように、援助を通して伝道するという発想は皆無である。

 これはUNIの理念というよりも、そもそも大乗仏教というものが、そんなゆるいものだからである。

 これがどこから来るのかというと、キリスト教と大乗仏教の時間の概念の違いではないか、と思う。キリスト教神学には最後の審判というものがあり、この時までにキリスト教に改宗していなければ「地獄に堕ちてしまう〜」ということになっている。(意外に思われるかも知れないがホント)

 だから、「キリスト教でない人たちは地獄に堕ちてしまう。可哀想だから、何がなんでも伝道しなきゃ〜」と、思いやりの深い人ほど、焦る気持になるだろう。

 しかし仏教では、「生まれ変わり死に変わりにながら、いつかは仏縁に恵まれてお浄土に救われるチャンスもある」というわけ。だから焦って伝道しなくても、“まあ今回の人生ではダメでも、またいつかの人生でご縁があった時にね。では、また〜。(バックには、尾崎きよひこの”また会う日まで”が流れている←古い!)”という風に、あっさりと見送ることができる。

 というのは仏教的な感覚では、永遠の先と思えるような遠い未来であっても、それは”今ここ”に内包されている。だから、「あの人だって、この先、何百回か生まれ変わったら救われるんだから、まあいいか。それもまた今だし」というふうになるのである。(これは理屈でなく、感覚の問題である)

 もっとも自分に対しては、「今回の人生で修行して目覚めなければ、いつまた人間に生まれて修行するチャンスがあるかはわからないぞ!」と厳しく迫る。人にはゆるく、自分や弟子には厳しいのが仏教である。

 さて、前置きが長くなってしまった。2日目。ラジョー氏に「よかったら、タオサンガセンターの朝のお祈りにイキマしょう。終わった後で来てもいいけど」と言われた。それで出かけて行ったら、すでに学生たちなど、人も集まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 <写真/”ちゃんと皆さん布施していますよ”と、見せてくれた。ラジョーさんは面白い。>

 てっきり僕は、ラカイン仏教式の礼拝でもするのかと思っていた。しかし、いつの間にかラジョー氏は、念仏のお勤めテキストをみんなに配り、ナンとみんなで、念仏唱和が始まったのである。これには心底びっくりしたぞ。

 あとで聞いたら、毎週金曜日はタオサンガセンターの念仏だという。そうか、お互い何ひとつ話さなかったのに、ラジョーさんは、ここを本当のタオサンガセンターにしようと努力しているんだ。

 さらに僕を感激させたのは、ラジョーさんが、みんなの利他の心を育てようとしているように僕には感じられたことだった。

 これまでラジョーさんと話合って来たことは、すべてラカインユニのプロジェクトに関することのみである。サンガのことなど話し合ったことはなかった。

 なのに彼はサンガの本質を理解しているように思える。これは本当に嬉しい驚きだった〜!。まるで、前世からの友を発見したような気持である。

 UNIの目的をみんなに話して欲しいと言われて話した。学生さんが中心だから、今日は英語。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下は僕が話したこと。「 一体、われわれUNIは、バングラデッシュで何をやろうとしているのか?」

「仏教徒ラカイン人は、バングラデッシュでは少数です。少数ということは社会的に弱者であるということです。でもこのままで良いのでしょうか? 少数民族であっても強くなる方法はないのでしょうか?

 UNIはその方法が2つあると思っています。

 まず、ラカイン人がお互いの未来を思いやり、団結するためのネットワークを造ることです。たとえば2万人いるラカイン人すべてでネットワークをつくり、誰がどんなビジネスをしているのかをリストアップする。

 そして、買い物はラカインから、仕事はラカインから、という風にお互いの経済ネットワークを作ることです。仕事を探しているラカイン人は、ビジネスをしているラカイン人が雇えます。団結することで強くなることができるのです。

 もうーつは、教育の充実です。もしすべてのラカイン人が収入の一部を定期的に布施して、これを子供たちの教育の充実や、優秀な子供が高等教育を受けるための援助に回せば、ラカイン人ははるかに社会的に向上していきます。

 そして、貧しくても優秀な学生が、援助を受けることで大学を卒業することができるようにする。そしてその学生が働くようになったら、今度は同じように収入の一部を布施して、他の学生の援助に回るようにする。

 UNIは、こんなシステムを創りたい。そしてそのための受け皿として活動するため、タオサンガセンターができたのです。

 ラカインの明るい未来は、お互いがみんなのことを考えることで開けて来る。UNIはそう信じているのです。」ちょっと疲れたけど、夢遊状態で咳しながら、がんばって話した。

 午後は、結婚式に参加。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<花嫁さん>

2−3時間はいたかなー。ラカイン人の結婚式は一日がかりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  <何やらいろいろと質問攻めに遇っているまゆさん。左の男性は、「僕はラカインの医者です」と自己紹介していた>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<うぬ、これは新手のピンポンパン体操か?>

 その後は、UNIで修復している仏舎利塔の視察。明日の儀式のために、多くの人が働いていた。皆ニコニコと嬉しそうに挨拶してくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<写真/ラジョーさんが雇って、仏舎利塔の世話をしている人。笑顔がすてきである>

 僕はと言えば、まだ、頭がぼーっとしている。やがて2日目も暮れようとしていた。夕日が沈むのを、修復してきれいになった、仏舎利塔の丘の上から眺める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<修復して、見違えるようにきれいになった仏舎利塔群>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<仏舎利塔はラカインの信仰の象徴だから、ラカインのみんなが気にしている。写真は、仏舎利塔の念仏道場の前で>

 続く

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初日のバングラデッシュ

2012/02/04 Categories:

 その背中は、どんな同情も宇宙の彼方に追いやるだけの力を持っていた。10歳ぐらいだろうか?

 場所は、生ゴミ捨て場らしきところ。(街中にゴミは捨てられているが、特にそこには残飯が捨ててあった)

 家族のためだろう。彼は、明確な意志と責任感を持って、拾うべき食べ物を探していた。そのきびきびした動きにはまるで無駄がなく、まるでベテランの熟練工のようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  <写真:小さな店の小さな店主。本文とは関係ないけど>

  そして僕はふいに思い出したのだった。インドを旅していた頃、胸が張り裂けるような想いで過ごしていたことを。いや正確に言うと、その時、自分が押し隠していた自分の心に気づいたのだった。

 かつてインドでの僕は、洪水のような圧倒的多数の物乞いと、今日一日を食うや食わずやという人々の群を見て打ちのめされていたのだ。

  無力感。そしていくら貧乏旅行者とはいえ、金満日本からやって来たという、持てる者としての罪悪感。さらにやっかいなことに、僕は乞食や路上生活者を見ては胸を痛める自分を、“なんて女々しい奴”という風に、自分自身を恥じてもいたのだ。

 張り裂けそうな胸の痛みと、そんな自分を恥じる想いとの葛藤。そして、常に最下等の宿と食事で過ごそうとしていた。それが、まだ25歳だった僕のインドの最初の旅だったのだ。(今のインドは、きっと全然違う風景なんだろうけど

 彼の背中が自分のイメージ残像がある間に、“そうか”とバングラデッシュにいる自分に気づいた。コックスバザールに着いた初日。身体はまだ宇宙に浮いているようだった。

 というのは、途中寄ったバンコクで、僕は実に久しぶりに熱を出して寝込んでいた。今まで、風邪を引いて食べなくなる人がいるのを見ては、不思議に思っていた。

 そしてその僕が、バンコクではまる2日間寝込み、その間ずっと絶食状態だった。バングラデッシュに着いてもまだ食事が取ってはいなかった。しかし、寝込んでいるわけにはいかない。

 微熱のせいか、まるで夢遊病者のように現実感がわかない。宙に浮いたような状態のまま、宿泊しているラジョー氏の家から歩いて数分のラカイン仏教福祉会館に向かう。ラカイン仏教協会の面々と会議をすることになっているからだ。先の少年の背中を見たのは、その途中のことだった。

 はじめて見るタオサンガセンター/ラカイン•ユニ事務所は、仏教福祉会館の中にあり、広くきれいだった。建設して1年半。仏教徒学生たちのためのネットカフェとしても機能している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中には、タオサンガセンターらしく、ちゃんと阿弥陀如来がお祀りしてあり、ラジョー氏の心意気が伝わってくるようだった。

 そして仏教福祉会館の会議室へ移動。すでに仏教協会の面々はそろっていた。ユニ側は、僕とまゆさんとラジョーさん。向こうは6人。そして僕は夢遊病状態のまま話し合うこと1時間半。英語が得意でない人もいるので、ラジョー氏に日本語通訳してもらいながらの話し合いである。

 で話し合いの内容は、というと、、、実は細かくは覚えていない。何せ夢の中みたいな状態だったし。僕はひたすら“お互いの目的は同じです。バングラデッシュにおける、仏教徒ラカイン人の社会的向上のための教育の充実です”を繰り返していたような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 話し合いの途中、教育センターを1つ増やしたいという要請を受けた。まずはその村を調査に行くことを約束する。それから、“UNIと仏教協会で委員会を創って、みんなで話し合いながらやって行きましょう”と提案され、これはすぐに受諾する。

 その後、近所のラカイン結婚式前夜祭に行く。おつまみを食べながら酒をチビチビ。おお! 久しぶりに胃に何か入った。

 ところで、イスラム教国のバングラデッシュで、酒の取り締まりが最近ますます厳しくなっているらしい。(酔って道でうろうろしていると逮捕されるそうだ)が、ラカイン地域では認められているとのこと。

 そういえばパレスチナでも結婚前夜祭に行ったけど、何だか似たような雰囲気だったなあ。もっとも、あっちは紅茶と御菓子だけだったけど。ゆるい仏教徒で良かったぜぃ。

 UNIの活動でコックスバザールを訪れるのは、今回で4回目。すでに顔なじみになった面々とあいさつしながら、初日の夜は暮れて行った。バックパッカーは、風邪ぐらいではめげないのだ。(2日目へと続く)

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バングラデッシュに向けて出発したが

2012/01/24 Categories:

僕はよく旅でドジを踏む。そういえば、去年のブログでも同じセリフをつぶやいたなあ。あのときは、ローマからバンコク行きの飛行機の日にちを間違えて予約したんだっけ。今回のドジは、ダブルである。話は以下である。

ところで今僕は、バングラデッシュに向かう途中で寄ったバンコクで、このブログを書いている。で、昨日無事バンコクに着いたのが奇跡みたいな話であった。というのは、いつも僕はマイレージを使ってバングラデッシュに行く。その場合、燃料代なんかを払ったカードを持って行かないと、ロックがはずせないので飛行機に乗せてもらえない。

ところで、マイレージのフライトでも、今は燃料代等で数万円かかる。(セコい話して申し訳ないけど。まあ根が、たった10円をめぐって、インドの人力車とプライドをかけた言い合いをして来たバックパッカーなもんで、、、)

で、話を戻すと、何とそのカードと間違えて、別のカードを空港に持って行ってしまったのである! しかも、いかにも旅慣れた風に、気取ってインターネットチェックインというのをやったもんだから、空港に着いたのも出発1時間前。タイ航空のカウンターでは、「では30分だけ待ちます。誰かにカードのコピーをfaxしてもらって下さい」と言われた。、、、いやーさすがに焦りましたね。

「30分でカードをコピーしてFAXなんて無理よ」というまゆさんを、横目でじろりと見た僕は、「大丈夫!」とカウンターの前で怒鳴る。(わりい、わりい)そして京都センターの皆さんに、焦りまくりながら電話しまくった。そんな簡単には諦めんぞ、と飛行機止めて待たすぐらいの覚悟。(←あとで考えたら、「もうちょっと、有益な覚悟しろよ」と自分に言いたくなる気もするが)

でまあ、奇跡は起こったのだ。僕のバックパッカー的な勢いに気圧されたのか、カウンター嬢も「今回だけは特別に、番号だけ教えてもらえばいいです、、、」と態度を軟化させてくれた。

そして、電話したら運良く家にいたゆうこさんが、恐らく超スピードでセンターにカギを取りに行ってくれたのだ。そして、これまた恐らく、超スピードで拙宅に入ってくれた。僕は即座に、カードの場所を教えた。そして、カウンター嬢に番号を伝え、カウンター嬢が入力完了してロックをはずすのが、カウンターが閉まる期限の約2分前だった。助かった〜。ゆうこさん、ありがとう! タイ航空のカウンター嬢も〜。

バックパッカーは、容易に諦めてはいけない。しかし、ドジ話はこれでは終わらない。さらにまた、続きがあるんですよ〜。

着いたら旧正月のバンコク。(年々近代化されて行くな〜) 続く

          ↓

 

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