三日目。夕方までボランティア施術。
その後、ライブハウスにて演奏。

最前列、車椅子から見てくれているのは、ライブハウスのオーナーご子息、由太さん17歳。

彼は、出演ミュージシャンに対して、とても厳しい採点をするとのことだった。

しかしどうやら、彼から合格点を頂いたようだ。場も盛り上がったみたいで、アンコール演奏も行った。

実を言うと、僕は演奏中、音楽以外は周囲の状況がまったくわからない。多分、あまりにも自己の内面に集中して入っているためだと思う。(念仏瞑想中の人を想像して下さい)先に、“場も盛り上がったみたいで”と書いたのは、自分には、場がどうなっているか、全然見えていないからである。

演奏後、夕食を頂いた後に、慌ただしく車に乗り、石巻に向けて出発。11時半頃、何とか薄暗い宿に着く。

石巻の宿泊所は、ほとんどが未だ再開できないでいる状態のようだ。今夜の宿、トイレは壊れていて、近くの公園まで行かなければならない。まあ、公園で寝ることを思えば、どうということはないけど。

0

石巻でのボランティア施術の翌日は、3時間かけてバンド一行全員と気仙沼のからくわ町へ。二カ所の仮設住宅に二手に別れ、総勢6人で一日ボランティア指圧する。

仮設所リーダーの方は、“なるべく休みながらして下さいね”と、こちらを気遣って言って下さったが、そうもしていられなかった。

写真は、脱臼していると連れて来られた幼稚園児の「こころちゃん」。”治ったよ”と、足を上げて見せてくれた。2、3日は、無理しない方がいいと言ったんだけど、治療の後、しばらくしたら、後輪付きの自転車で走り回っていた。

 

0

被災地でボランティア指圧をしながら、音楽のLIVE ツアーをするというのは、かねてよりのアイデアだった。そしてそのアイデアは、不思議な経緯で実現したのだった。

まず、仙台の定禅寺Jazzフェスティバル http://www.j-streetjazz.com/ に出演することになった。

次に、石巻の洞源院というお寺でもライブをすることになった。古くからの友人で、クライブ(東京在住)というイギリス人ジャーナリストを通じて、である。洞源院は、さだまさしさんや南こうせつさんなんかもライブをした所だそうだ。

クライブは、7月2日に、僕らがアースガーデンという代々木公園の野外フェスで演奏した時に、初めてLiveを見に来てくれた。

<クライブ>

<クライブが撮った写真>

そうしたら何だかエラく興奮して、“俺が被災地でのライブをセッティングするから絶対行け”と、言い続けていた。(彼は、震災直後から救援物資を届けに、何度も石巻に車で通っていた)

CDアルバム「AMIRITA」も気に入ったようで、その夜は酔っぱらって、二度も絶賛の電話をかけて来た。(彼とは、いろいろと本気でケンカもしたが、この際、すべて水に流して許してやることにしよう。まあ、恐らく向こうも同じことを考えているに違いないが、、、)

最後に決まったライブは、気仙沼の唐桑(からくわ)町のライブハウスである。からくわ町には、震災当初からNPOユニとして様々生活物資や、洗濯機や冷蔵庫10台送るなどの支援をして来た。ご縁ある場所である。僕が3月下旬に、ボランティアに行った所である。

こうして、三カ所のライブツアーが実現することになった。それにしても強行軍である。バンド一行は、京都から車で12時間かけて仙台まで来て、一泊。

翌朝、三時間半かけて気仙沼へ行き、一日中ボランティア施術。(それにしても、バンド全員が指圧できるというのは、便利なものである)

さらに、その翌日も夕方まで施術し、夜はライブハウスで演奏した後、遅くに石巻に移動。

翌日の昼に石巻で演奏した後、夕方の出演に間に合うようにと、ダッシュで仙台に向かうのである。

石巻では演奏のみで、ボランティア施術する時間が取れない。それで、僕がバンド一行よりも一足先に東北に来て、石巻だけ前もって行っておくことにした。

というわけで、仙台に来た僕は、一人で、石巻の仮設住宅に向かった。ここは洞源院というお寺に避難していた人たちがいる所である。

午後、腰痛や膝関節痛のお年寄り等の施術をさせて頂いた。膝が曲がらなかったのが、曲がるようになった等で、喜ばれた。

ところで洞源院は、そんなに広いお寺というわけではない。でも、一時は400人もの避難者がいらしたそうである。

このスペースにどうやって、そんな人数でいられたのだろうか? と思った。 さぞかし、大変なことだっただろう。今は、全員が仮設住宅に入られた。

石巻は、広範囲で被災しているので、まだまだ津波の傷跡が、街のあちらこちらに残っている。

 

1

「秋、悲しみは空の向こうへ行き、そして静かになった」
これ、立原道造の詩だったと思う。うろ憶えで恐縮なんだけど。
いつの間にか季節は秋。またしても僕は夏に裏切られた想いで、

ひとり取り残されている。
レンタカーが満車で立ち往生。被災地に向かうため、5か月ぶりに来た仙台の空、、、。

2
Posted in 日記 |

今日、四歳ぐらいの子どもが祖母らしき人に叱られ、救いようもなく追いつめられているのを見た。子どもが大人に傷つけられているのを見ると、いつも胸が痛む。

ふと僕は、「なぜこの人は孫に感謝しないのだろうか?」 と不思議に思った。

何があって叱っているのかはわからない。しかし、自分が祖母でいられるのは、この孫のおかげではないか?

子どもは親に感謝すべきだという儒教思想がある。でも、何ごとも逆転の発想をするアマノジャクな僕としては、逆に考える。

親は、子どものおかげで親になれた。言わば、子どもに親にしてもらったんだから、子どもに感謝するのが、むしろ自然ではないか? と思うのだ。

ついでに、すべて逆転の発想でいこう。NPOユニは、「おかげで自分たちの存在意義があります」と支援先に感謝する。先生は、「おかげで、先生でいさせてもらえます」と生徒さんたちに感謝する。

感謝にこそ、逆転の発想が必要だ。

それはなぜか? 感謝は人の心を最も豊かにする感情の一つである。しかし、私たちの無意識は誤解しているのだ。

どう誤解しているのか? 私たちは、「エラい人に対して感謝する」のが感謝だという風に、心のどこかで思っている。

それは、長い間の人類の刷り込みによる、思い込みというものである。

おそらく、権力者が下層階級の人間に「おまえたち感謝しろよ。おまえ達は王様のおかげで暮らせるんだから」となどとノタマワって感謝を強いて来たからに違いない。本当は、下層階級の人間の働きによって、王様は生かされていたに過ぎないのに。

旧ソ連でも、子どもが幼稚園で最初に覚える言葉が、「同志スターリン、ありがとうございます」だったというから、権力者という奴は、常に民衆に感謝を強いるものなんだろう。それだけ不安ということなんだろうが、全くしょーもない。

言うまでもなく人類は、一握りの権力者とその周辺の貴族以外は、みな下層階級の人間だった。だから人類一般の無意識は、“お上に媚びへつらうのが感謝である”という風に思い込んでいるのである。

そこで、だ。親や教師など立場の強い者が、子どもや生徒など立場の弱い者に対して感謝する。そんな風潮が生まれれば、誰もが感謝できるような、豊かな社会が生まれるのではないかと、何となく思うのである。

僕はそこで、ようやくわかったのだ。なぜ、インドの乞食があんなに威張っているかが。

インドで乞食にお金をあげても、「少ないからもっとよこせ」と当然のような顔で言われることも、平気でよくあった。そのたびに、腹を立てていたワタクシが間違っておりました〜。

いやー、やっぱりインドは深い!

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
25年ぐらい前のもので申し訳ないが、写真は、

毎日会っている内に友だちになった、乞食のおじさん。
けっこう人気者で、足が不自由で歩けないのに、なぜかインドやネパールを旅していた。
「返すからお金貸して」と言われて貸したら、本当に返ってきた。
まさに、インド人もビックリ!
0
Posted in 日記 |

心があまりにも内面に向かっていると、ブログを書くという気になれない。それどころか、ブログの存在すらもすっかり忘れている。

先週、新曲の仮レコーディングをしてみた。

その翌日は、地元京都のフェスに出演。


<楽屋で演奏前のひととき>

 

その後、片道7時間半をかけて、島根県の和田寺に行った。それは、お寺をお世話して下さっている集落の方と、法要の打ち合わせをするため。二泊した後、帰京。


<住職を拝命している和田寺は、町の史跡になっている>

それでも心は内面に向かい続ける。目まぐるしく動いている日々なのに、心がひたすら沈静し続けていることだってあるのだろう。

秋に新刊発行の予定。DVD付きになるので様々な準備をしている。もしかしたら、この新刊がくせ者なのかも知れない。

唐突で申し訳ないが、職業病というものがあるように、職業カルマ、あるいは文化カルマというものがあると、僕は思っている。

例えば、居合道なんかやる人が本物の真剣を購入して、病気になったりすることがある。これは、居合道をやっている人に聞いた。
武道カルマというものの為せる技かも知れない。
ここでいうカルマが何かと言えば、それは、ある職業なり文化に染み付いている「垢」みたいなもの。
はるか昔から、それに従事して来た人たち特有の心の傾向の中に潜む闇のエネルギー(気)。僕はこれを、仮に職業カルマ、あるいは文化カルマと呼んでいる。
その前提で言えば、医者カルマもあるし、お寺カルマなんかもあると思う。その他、記者カルマ、カウンセラーカルマとか、警官カルマetc
。(まあ、人の弱い部分と関わるとか、立場上、人の上に立つような仕事は、闇のエネルギーが潜みやすいわけです)
そして、指圧やら鍼やらの、いわゆる東洋医学カルマにも、もちろんそれはあるわけで、今度の新刊は、それと真っ向から対決する内容なので、どうやら闇のエネルギーの抵抗を受けるようだ。

だから、書いている時は大変しんどかった。まるで、何者かに邪魔されているかのようだった。毎日、南禅寺奥の院の滝に打たれに行きながら書いていたけど、それでも最後には、とうとうダウンしてしまった。その時は、神経が参って毎日2時間しか眠れない日が続いた。
まるで力石のパンチをくらってダウンした明日のジョーのようなもの。あるいはそれではカッコ良すぎるから、ひからびたグレゴールザレム(虫)のようであった。<注:グレゴールザレムというのは、ある朝起きたら虫になっていたという、カフカの小説に出てくる主人公のこと>
だから脱稿した後も、いろいろと大変だった。果たして原稿は、無事に発刊されるのだろうか? 今は天に任せて、皆さんにお手伝い頂きながら、粛々と作業を進めている。

明日は、ライブハウスで数曲ほど演奏の予定。ライブハウスに出演するなんて、随分と久しぶりである。
そういえば、はるか昔、「拾得」という京都の老舗ライブハウスで、今は亡き詩人ナナオとのジョイントで、演奏したことがあったな。

2
Posted in 日記 |

国連でパレスチナが国家として承認される可能性が出てきたことを、カナダ在住の茂木さんからのメールで知った。
そこで、慌ててそのお知らせメールを知り合いに送った。

二年前、パレスチナから帰ってきた時の僕は、二、三か月もの間、パレスチナ問題だけが頭の中を占領していた。
毎日のように、ネットで迫害されるパレスチナ人の映像を見ては、そこにいた自分を思い出し、熱く義憤にかられていたのだ。

イスラエル軍に家を不当に追い出されて、ホームレスとなり、僕が路上でボランティア指圧した東エルサレムの家族がいる。
彼らは、アメリカのクリントン国務長官が「イスラエルのあの家族への人権剥奪は、遺憾である」と言及するほど、
いつの間にか国際的にも有名になっていった。

やがてその路上は、インターナショナルの支援者とイスラエル警察の小競り合いの場になり、
催涙弾が飛び、支援者は逮捕され国外退去させられていった。

あの家族のお父さんは、僕に語った。
「宗教や国籍の別なく、こうして私たち家族を気遣ってくれる海外の人々がいてくれるから、私たちはまだ人間を信じることができるのです」、と。
あの時のお父さんの、泣き笑いのような顔が忘れられない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ご縁の皆様へ

僕は二年前に、パレスチナでワークショップやボランティア活動、また非暴力抵抗運動のデモに参加して、
現地の人々の苦しみの実態を体験しました。

そして、永年イスラエルの占領下で苦しんで来たパレスチナ人たちが、一方的に狂信的テロリストという、
イメージの烙印を押され、これによって、パレスチナ人の土地を奪い、人権を奪い、自由を奪うイスラエル占領政策の実態が、
世界から隠され続けていたことを、自分の目で見て知りました。

例えば、ナチス占領下のヨーロッパで「正義のレジスタンス」と呼ばれていたような抵抗運動が、イスラエル占領下のパレスチナでは「狂信的テロリスト」の行為として、
世界に報道され続けて来たのです。

しかしここで、パレスチナが国として承認される可能性が浮上しました。7月29日に国連安全保障理事会で、イスラエル—パレスチナ問題が話し合われることになっていますが、パレスチナ独立の承認決議が為されるかも知れないのです。

Avaazとというボランティア団体が嘆願書への署名を集めています。

http://www.avaaz.org/en/independence_for_palestine_uk/?fpla

(このページの日本語版を探したのですが見つかりませんでした。署名の仕方は、右側にFirst
time here? と書かれているところの下にName, Email, Postal code(郵便番号)を書き入れ,
CountryでJapanを選んでSENDを押すだけです。)

ぜひともパレスチナの民衆の苦しみを救うため、急ぎの拡散をお願いします。
国連の理事会が7月29日なのです。

NPOユニ 遠藤喨及

 

————————————————————————————————

 


【いきなりホームレスになった子ども。家の前には、自動小銃を構えた兵士がいて入れない。】


【お母さんは、「あなたが世界の人々にこの実状を知らせて欲しい」と僕に訴えた。】


【、、、、、涙なしにはできなかったスよ。】

 

0
Posted in 日記 |

西洋人には、便利なことにミドルネームというのがある。
例えば、マーティン・ルーサー・キングだったら、ルーサーがミドルネームである。
もっとも便利と言っても、せいぜい”どっちか好きな方を呼び名にできるから選択肢が増える”といった程度のことに過ぎないのだが。

さて、西洋人の念仏者の中には、このミドルネームに、東洋的な名前を付けたいという人がいる。 実を言うと、「えんどう」くんというミドルネームを付けられてしまった子もいる。 それは、突然かかってきた国際電話で「”ミドルネームにえんどう”って、付けていいか?」と 聞かれて、冗談かと思ってOKしたら、、何と本当だったということである。
自分の息子に”えんどう”というミドルネームを付けたのは、中東の、とある小説家。
かつて、タオ指圧と念仏をしていた人である。 お父さんの彼の名前は、”ウジー”。
実は、同じ名前の機関銃があり、それがいやだと言っていた。 「えんどうくん」、今ごろどうしているかなあ。

さて、「ミドルネーム何にしたらいいかな〜?」と聞かれると、今は菩薩名を提案したりする。
西洋だって、大天使ガブリエルとかの名前を付けるから東洋は菩薩名で、と単純に考えただけだが、、、。
5月のブログに登場した”観音くん”は、こうして決まった名前。
そして写真が、先週生まれたばかりの、”文殊くん”。
「ミドルネーム何にしたらいい?」と聞かれ、”智慧深くあれ”ということで提案した。
そうしたら、あっけなく文殊に決まってしまったのである。
原発にも同じ名前があるが、なに、かまうもんか。
どうせ原発はすべて止るんだから。でないと、未来ないもんね。

 

ところで、お母さんのハイケという人は、念仏で霊的な体験をした人。
念仏の波動は胎教には最高だから、どんな子に育つか、今から楽しみである。
観音くんも、一日中ニコニコしているような子である。

どんな子どもも、笑顔でいられるように。
いつも、いつもそう思う。

0
Posted in 日記 |

一緒に写っているのは、東洋医学の出版社、「ヒューマンワールド」社長の石井利久さん。無料メールマガジン「週刊あはきワールド」も発行している。
石井さんは、「医道の日本」という東洋医学の老舗出版社の編集長だった人である。「医道の日本」の時代から、僕とタオ指圧の良き理解者であった。
久々にお会いしたのは、新刊「タオ指圧、東洋医学の革命」の打ち合わせのため。遅くとも、秋までには刊行される。
それにしても、縁とは不思議なものである。なぜ、石井さんのところから、僕が心血を注いで執筆した一冊が出ることになったのか?
東京センターの近くの「モツ煮込み」の店で、一緒に一杯やっている内にわかった。
なにせ彼も僕も、同じバックパッカーで、インドやアジア諸国などを貧乏旅行していたのだ。ほぼ同じ時期に、カルカッタのサダルストリートにある「パラゴンホテル」という、一泊数百円の安宿に泊っていたことも判明。
旅人同士なら、つながるのは当然である。なにせ85年—87年頃のインドでは、同じ旅人というだけで、どこの国の人間だろうと、すぐに友だちになったのだ。(今、そんな雰囲気があるのはパレスチナ)

2
Posted in 日記 |

“楽器ができて良いですね”と言われることがあるが、実は、喜びは苦しみを内包している。
そしてその苦しみは、「一体なぜ自分は、こんなに激しい音楽への衝動を背負って生きなければならないのか?」を、僕によく考えさせた。
曲を生むことでしか救われない想いに陥っている時、曲が生まれる。
少なくとも僕自身に限って言えば、創造は、自らの心の負の要素を土台としている。

でも、最近気づいたことがある。それは、僕の音楽への衝動が、人にスピリチャルな体験をもたらしたいという想いと、交じり合っているということだ。
音楽は、神秘への扉である。人々の心に潜む、その神秘の扉を開きたい。
僕は、そんな激しい衝動を背負っている。これに気づいた。自分のキャラでもないのに、念仏サンガなどをやっているのも、きっとそのためだろう。
そして僕は、誰がいても、それがどんな場所であっても、まるで音楽の神の前に、投身するかのような想いで演奏する。
さて、アースガーデンという、東京の代々木公園で定期的に開かれているイベントで、演奏させてもらった。
主催者の南兵衛さん、ありがとう。

1
Posted in 音楽 |