中東に向けての出発準備、、、、。
これを説明するには、一体僕が何のために行くのかを、ここで再び説明する必要があるだろう。
、、、昨年の夏、タオサンガ世界大会を10年ぶりに行った。
タイのジョムチェン・ビーチで世界各地から総勢183人が集まり、二週間に亘って、まあワークショップのような、お祭りのような、修行のような、遊びのような、それらを全部合わさったようなものを行ったのだ。
※詳細は昨年のブログ「タイ大会はハチャメチャ楽しいぞ」http://endo-ryokyu.com/past_blog/?m=201308 をご覧下さい
この大会の最終日に、ヨーロッパのタオサンガが、あるプロジェクトを発表した。
それは、終戦70年目の2015年、ヨーロッパの各地で音楽念仏の法要やらワークショップやらフェスティバルのようなものをツアーで行う“ピース・キャラバン”のプロジェクトである。
この時、僕は「おお! いいじゃん、それ。ヨーロッパのみんな頑張ってね!」とだけ、言っておけば良かった。
、、、しかし僕はつい言ってしまった。「それって、さぁー。もし“広島からエルサレムまで”っていうのを付けたら、もっとかっこいいんじゃない?」、、、この瞬間、僕の運命は決定した。
というのは、イスラエル / パレスチナにつながりがあって、エルサレムでイベントをやる話をつけに行く人間は僕しかいない。
そして日本に住んでいて、広島でイベントやれるように動くのも僕しかいない。なら、そのどちらも自分がやるしかないのである。
ひぇ〜。こうして、どんな重力をも乗り越えて成層圏を飛び出すロケットのように、あらゆる自分の状況には目をつむって、僕は動き出さなければならなかったのである。
そして今は2014年夏。この時にプロジェクトをスタートさせなければ、機を逸する。タイミングをはずせば、ものごとは起こらないことを僕はよく知っている。
それから、自分1人でやる覚悟がなければ、どんなことも成就しない、ことも。
「言ったのにやらなかった」などというのでは、ハラきりものである。
というわけで、広島や日本のことで動き出したのが、7月初旬。中東の日程を決めたのもその頃というぎぎりぎりのタイミングだった。そしてそのギリギリのタイミングとは、まさにイスラエル軍のガザ空爆が始まるのでは、とうわさされている時でもあった。
しかし僕が一番恐れていたのは、危険性についてではなかった。もちろんガザ市民のために空爆は恐れてはいたのだが、僕においての恐れとは、イスラエルに入国拒否されることだった。
これは事情を知らないとわかりにくいかも知れない。
パレスチナはイスラエルの完全占領下にあり、直接入ることはできない。パレスチナは、ヨルダン河西岸とガザ地区とに分かれているのだが、ガザはイスラエル軍に完全封鎖されていて、イスラエル当局の特別な許可がない限り入れない。(かつてはガザ国際空港があったらしいが)
マスコミは、イスラエルとパレスチナの対立とか紛争とか言っているけど、それ自体、いかにマスコミが情報操作されているかの証明である。
考えてみて欲しい。日本が朝鮮半島を占領していたとき、独立抵抗運動が起こり(そりゃそうでしょうよ。不当に自由を奪われて抵抗しない人間がいるはずがない)、それを対立とか紛争と言うだろうか? (←言うはずねーだろ)
でも、まあテロとは言うだろう。でもその前に日本がテロをやって占領したのだ。それをイスラエルとパレスチナに当てはめて考えてみたら良い。抵抗運動を弾圧し、民間人を殺しても、それを対立紛争と言い、そして戦闘と呼んでいるのは、言葉のマジックである。
なんせ、みんなイスラエルとパレスチナは対立し、紛争し、戦争やっていると何となく思っているのだから。
さて一方のパレスチナ西岸地区は、イスラエルのベングリオン空港から行くか、ヨルダンのアンマンから陸路で行くかなのだが、どちらから入るにしてもイスラエルの厳重なチェックを通り通らなければならない。
もちろん、ただの観光客というだけなら、テルアビブに向かう飛行機が出発する空港で、イスラエルの面接官に面接を受け、普通に受け答えをすれば入国拒否されることはない。(パレスチナ側に行くとでも言わなければ)
しかし半年前、オリバーの知り合いの医者20人がパレスチナの人道支援のために向かい、ベングリオン空港で全員が入国拒否にあったという。
また昨年、パレスチナでは、占領反対のための国際的な平和ウォークを企画した。これは元アウシュビッツ収容所にいたというおばあちゃんまでニューヨークから参加するというほど盛り上がりを見せ、相当数のインターナショナルな活動家が向かったものの、やはり空港で多数が入国拒否されたという話も聞いた。
いや、何としてでも入国を果たし、プロジェクトを成就させたい。僕はどんな手段を使ってでも入国するつもりだった。
普通に観光客を装って入国すれば良いではないか、と思われるだろう。しかし僕が心配するのにはわけがあった。というのは5年前、イスラエル側にはまったく行かず、パレスチナの各地で活動した。そして出国の際に、空港で止められた。
空港で聞かれても、パレスチナにいたことは口にしないこと。写真データなど、パレスチナにいたことを証明するようなものは事前に郵送しておくこと。イタリア人ジャーナリストから、事前に情報を得ていた僕は、すべてその通りにしていた。
しかし面接官の質問のところで「あなたは、テルアビブの友人のところにいたと言いましたが、その奥さんの名前は何ですか?」
げっ!
事前に友人を語ってくれる人の名前と電話番号は用意していた。しかし、奥さんの名前までは聞いていなかった。「いやー、風邪ひいていて出てこなかったんで、名前わからなかったですねー」
、、、そしてその刹那。僕は、あっと言う間に5人の保安要員に取り囲まれ、別室に連れて行かれたのだった。