別にサボっていたわけじゃない。
とにかく凄まじい日々が続いている。
ちょっと前まで、まる1ヶ月もの間 、没頭していた。
なんと 英語の 仏教論文を書いていたのだ。
「こんなこと、 高校中退のやる仕事じゃないよな」
とかブツブツ言いながらだ。
時には朝4時や5時から起きて遅くまでやっていたのである。
一体、 どうしてまたこんなことになったのか…
実は昨年末 インド・ブッダガヤで道を歩いていたら、
後ろから声をかけられた。
「 先生、こんばんは〜」….. “日本語だ ….女性だ…. 怪しい物 売りに違いない”
ーという風に、僕の頭の中で変換/解釈した。
それで返事をしないで歩いていたら、何度も同じ人から声をかけられ続けた。
さすがに何だか申し訳ない気持ちになって振り向いた。
すると ベトナム人らしき 尼僧さんが 立っていた。
彼女が言うには、 去年のブッダガヤ で僕のスピーチを聞いて感動した、と。
僕は 「実は、僕の本をベトナム語に訳してくれる人を探している」
という話をして名刺を渡した。その時はそのまま別れた。
2週間後ぐらい経った時のことだ。
バンコクからの帰りの飛行機に乗る直前、その人からメールが来た。
国連の世界仏教徒の日、 ベトナムに世界中の仏教徒たちが集まる 大会が開催される。
そのテーマは、 希望の火の活動に ぴったりだから講演 しないか、と。
ただ、論文を提出して選考に入らなければいけないんだけど、、、ということだった。
僕は3回の国際会議でのスピーチ体験から、まあ できるんじゃないかな、と考え、
スピーチ原稿を3週間後に提出した。(締め切り2日ぐらい前だったかな。相当大変だったけど)
スピーチ原稿だから、 どんな風に みんなを楽しませるかを考えた。
映像を見せたり、 デモンストレーションしたりなども書いておいた。
(この時、僕は調子に乗っており、どちらかといえば楽勝 気分だったのだ)
数日後、大会主催者のお偉いお坊さんから返事が来た。
「ちゃんとアカデミックな内容に変えて、再度提出してください」
ものすごく大変な努力をして 書き上げたのに〜。
イラストや 映像 もつけて、
見るだけ聞くだけでも楽しいものに仕上げたつもりだった。
ところがだ。
彼らが求めていたのは、学術論文 だったのである。
「けっ、そんなこと、誇りある高校中退のすることじゃねえぜ」と 一瞬思った。
だけど、諦めが悪い僕は、何と、学術論文を書き出したのである。
書いてるうちに何やらとメラメラ燃えてくるものがあった。
というのは、昨年末、ブッダガヤで行われた坊さんたちのフォーラムのスピーチで、
僕はアジアの坊さんたちに問いかけたことがあったのだ。
『果たしてあなたは、戒律とを守ることと、
人を 浄土に導くことのどちらに 比重を置いているのですか? 』と。
何せ、東南アジアのお坊さんは、日本と違って戒律が大きな 比重を占めている。
禁酒どころか、昼12時以降は何も食べないほどだ。
坊さんが音楽演奏するというのは戒律破りで、
石を投げられる覚悟でインドに行った僕は、彼らとそう向き合ったのだった。
僕にとっては、たとえ戒律を破り、伝統を破壊し、そのカルマを自分が負って地獄へ行ってでも、
人を 浄土に導くことの方が大切で、その覚悟でやってい来たのだ。
それをそのまま伝えた。
実際のところ、10年ぐらいかけてその覚悟を決めてから、音楽念仏を始めたのだ。
まあ、その話はいいや。
とにかくベトナムのエライお坊さんたちが、
僕の論文を完成させるように、色々と厳しい注文を付けてくださった。
例えば、ネパールにいる時に、突然、「全部、経典の根拠つけてね。締切は5日以内だからよろしく」とかだ。
とほほ….。僕は、ルンビニのゲストハウスの食堂で、深夜に薄暗い中で作業していたのだ。
それで、最終的には、「経費、全部出すから来てね。」というご招待を頂いた。
1000人ぐらいの応募の中から英語は75の論文が選ばれたとのことで、
どうやら本になるらしい。
でも、果たして世界仏教大会でスピーチすることになるのかは、未だにわからず、
そこは全くの謎である。(現地で突然、「やれ」と言われても困るな)
ただ、伝統を壊すような僕のスピーチは危険だからなぁ、
躊躇するだろうなぁ…..というのもある。
というわけで、高校中退の論文が、ルンビニ仏教大学教授など、
世界に名だたる博士等と肩を並べるというのだから、人生わからないものである。
最近のコメント