今の時代、あまりにも多くの人が、
ネガティブな魔(悪霊)のエネルギーに負けてしまうのを見て来た。
修行者たちが魔エネルギーに負け、
ネガティブになり、志を落とし、
エゴを優先していく姿を見るのは、心が痛むことだった。
(僕の心がその度に辛くなるのは、
その人の先祖や守護神の方々の気持ちが、
心に入って来てしまうからではないか、と思う)
それは、まるで、崖に向かって歩いていく人の背中に、
いくら大声を出しても届かない、
そんな、悪夢を見ているような気分だった。
そんなとき、僕は決まって自分を責めた。
そして、”こんな辛い思いをするぐらいなら、
いっそ法をシェアするなんてことはやめてしまおう。
自分は一修行者としてのみ生きよう”。
そんな風に思うほど苦しみ、のたうち回り、
何度も精神的な危機に瀕した。
しかし、このゾンビのような世界に、
人類のために、純粋にひた向きに活動する修行者たちが、
魔の猛攻に耐えながらも、まだ生き残っていた。
彼らの存在に、僕自身がどれほど救われたことか……。
そこで、”純粋な修行者たちのためにも、
もはやこれ以上、霊的世界を対処する方法を、
封印し続けることはできない”と、覚悟を決めたのだった。
そうして僕は、
「諸霊や諸魔を対象化して認識し、回向する」という、
大乗仏教の空思想とは、
真逆の方法論をもってその行法とすることにした。
それまでは、霊的救済や諸魔浄化は、
あくまでも、副次的に起きるものとして来た。
それは、従来の大乗仏教が目的として来たのが、
(恐らく、キリスト教神秘主義なども)
「三昧」(宇宙大霊との合一)だからだ。
そして、そこから一歩進め、
悟りの体感をシェアするまでが、
僕としては、伝統から逸脱しないギリギリの線だったのだ。
行の目的自体を霊的回向とすることは、
かつて、師と仰いだ人が禁じたことだったし、
僕自身も、それは空思想から離れる行為に思えて、
どうしてもためらいがあったのだ。
しかし、”もう法のシェアをやめたい”と思うほど苦しみが深くなったら、
もうそんなことは言っていられなくなった。
僕は、「もはや、霊的存在と真摯に向き合わざるを得ない」と判断した。
そして、長い間封印して来た、
諸霊救済などの霊的回向の具体的方法を明らかしたのだ。
人様にシェアする前に、まずは自分自身が始めた。
人生かけて最終的にまとめ上げた、行法メソッドにしたがい、
「あからさまに」魔の浄化や救われない霊の救済などの
霊的回向を目的とした声明行を始めたのだ。
……それは驚くほど、自分の心身を楽にした。
行法の結果、心身の快さや浄化された静謐な場が生まれた。
そこで僕は、深い安堵のため息をもらした。
”ああ、やっと楽な世界に帰ってこれた”と。
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