捨て身で生きれば、人生は輝く

<写真は、祖牛さんのヒゲで遊ぶラトナシュアさん>

 

フォームに参加した僧侶の数は約200人。

 

インド、タイ、ベトナム、スリランカ、チベット(ダラムサラ/インド)、ブータン、台湾などからだった。

 

カンボジアやネパールから参加した僧侶もいたかも知れない。

 

しかし、今回は知り合いにはならなかった。

 

戒律というお堅いテーマのフォーラムだが、日本仏教のお

エライ方たちといる時ほどの堅苦しさはなかった。

 

(日本では、かしこまっていないと叱られそうで緊張するし……)

 

お堅いテーマのテーマのこのフォーラムで楽しく過ごすことができたのは、

特にこの2人の存在に負うところが大きかった、いと僕は思っている。

 

<右から2番目がラトナシュアさん(インド僧)

一番左がソナムさん。ブータン僧>

 

一人目のラトナシュアさんはインド僧だが、1956年以降にアンベードカル博士によって生まれた、近代のインド仏教の僧侶ではない。

 

仏教が滅びたと言われているインドにも、伝統的な仏教の信者が10万人ほど残っていた。

 

インドのミャンマーに近い地域だ。

 

(それは例えば、パレスチナの一部に現存する、イエスの時代からの本物のユダヤ教徒たちみたいな感じだ。

 

余談だが、アシュケナジーと呼ばれる白人系のユダヤ教徒は、元々ロシア=ハザールにいた人たちで、2000年前の中東にはいなかった)

 

さて、フォーラムの会場となった菩提樹の近くに非常に大きなタイの寺院。ラトナシュアさんは、この寺院のNo.2のような存在と僕らはみている。(寺院長も、インド僧みたいだ)

 

ところで僕は、かなり常識からかけ離れた、ぶっ飛んだ人間だと自認(仕方なく)している。

 

しかし彼は、その僕よりもはるかにぶっ飛んでいる。

 

例えば、音楽的なマントラ唱和は、在家の人や一部の僧侶たちには、熱く受け入れられた。しかし懸念を示す堅い僧侶たちだっていないわけではなかった。(”僧侶が音楽なんてやったら良くない”みたいな)

 

それなのに、フォーラムを仕切っている彼が、「ギター持って来てまた音楽声明やんなよ」とか、「いつもギター持ってなきゃ、ダメじゃん」と僕にハッパをかけてくるのだ。

<そう言われて、休憩時間に音楽声明をやってしまった。

喜んでいる僧侶たちもいるけど>

 

ラトナシュアさんは、ステージの上で、誰かがスピーチしているのに(!?)、ステージのハジで在家の人と記念撮影している。

 

それが、あまりにも自然で無邪気なので、全くイヤな感じがしないのだ。

休憩時間には僕らに音楽声明やらせたり、また僕ら4人に順番にファッションショーみたいな写真を撮ったりして遊んでる。

 

「よしそこで歩いてくれ」とか。「自然にお茶を飲んでくれ」とか注文までつけて、写真を撮ってはSNSにアップするのである。

<寺でファッション・ショーって!?>

 

ついに僕は、彼のことを思い出すたびに笑みがこぼれるようになった。

 

極めつけは、ある日、帰りがけに、あみさんのお腹が痛くなり、うずくまって動けなくなった時だ。(冷えた本堂で一日座っていたためだ)

 

そこにやって来たラトナシュアさん。状況を聞くと、車を手配してくれた。

 

しかし、次には「これは大事な瞬間だ」と言って、うずくまっているあみさんにカメラを向けた。

 

そして、「よし、スマイルセラピーだ。こういう時こそスマイルだ。」と写真を撮りだしたではないか!

<腹痛でうずくまったアミさんももはや笑うしかない>

 

いくら僕でも、写真スマイルセラピーって(!?)、

そこまでやる勇気はさすがにない。

 

もう、完全に脱帽。

 

「弟子にしてください」である

 

もう一人は、ソナムさんという、ブータンのおそらく高僧だろう。

 

45か国に行ったことがあり、秋田に一年いたことがある。

 

べトナムにも信者さんたちがいて、お寺のようなものもあるそうだ。

 

しかしソナムさんも、高僧だなんてことは微塵も感じさせない。

 

フレンドリーで人柄が温かく爽やかなのである。

 

ところで祖牛さんや僕のスピーチはどうだったのか?

 

 

一応、ご報告すると、まず祖牛さんのスピーチは、

比叡山や禅堂における厳しい修行生活について、

自身の体験を元にまとめてもらったものを僕が通訳した。

 

祖牛さんのスピーチ通訳終了後に、

僕たちは今後に繋がる極めて重要な人物との面会があった。

 

そのため、フォーラムを退席してしまった。

 

しかし、スピーチ後に質問が殺到したそうだ。

 

(ただ、僕がいなかったので答えられなかったとのこと。

申し訳なく思った)

 

僕の方のスピーチは、真意が伝わったのかはわからない。

 

幾つか質問が出た。

 

その1つは、「なぜ音楽声明なのか?」である。

 

僕は、「音楽が戒律に反することは知っています。

 

だから僕も、実際に始めるまでは10年間、考えました。

 

でも逆に、あなたたちに聞きたい。

 

あなたは戒律を守ることと、

人を救うことのどちらを優先しますか?

僕は人を助けることを優先します。

 

もし、音楽声明が人を浄土に導くための助けになるなら、

僕は戒律よりもそちらを取ります。

 

あるいはこれは間違った方法かも知れない。

 

そしてかえって悪いカルマを作る

ことになるのかも知れない。

 

僕もその可能性については考えました。

 

そして、もし音楽声明が間違った手法であり、

その実践がカルマを作るなら、

その責任は全て自分が負う覚悟をしました。

 

僕の導きで音楽声明を行ったことで、

人が悪いカルマを作ることになったらどうするのか?

 

それらのカルマも誰にも負わせることなく、

全て自分が引き受ける覚悟も決めました。

 

その上で始めたのです。

 

自分にとって人々が浄土に往くことは全てに優先します。

 

そして僕は音楽声明が人を浄土に導くための助けになると信じて人に勧めているのです」そう答えた。

 

一瞬だけだが、会場がシーンとしたようにも感じた。

 

けど、自分のありのままが言えたから、まあ良いや……。

 

石を投げられる覚悟で行った割には、とにかく3日間、楽しく過ごすことができた。

 

かけがえのない繋がりもできた。

 

あ! 近日発行予定の僕の本のチベット語の翻訳者(僧侶とは知らなかった!)

に会うこともできた。

 

 

3日間のフォーラムを通して、今の世界の仏教の状況や問題点、

そして「希望の火」(声明やメソッドを含めて)の大きな役割、

また今後、世界の仏教会に向けたアプローチの方法などが、はっきりと見えた。

 

それらは最大の収穫だった。

その2か月前には「寒いしなあ。ブッダガヤに行こうかどうしようかなぁ」と逡巡していた。

しかし、保身に生きなくて良かった!

捨て身で生きれば、人生は輝くのだ。

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