果たしてこれ以上の自分への挑戦があるんだろうか?

<写真はブッダガヤに行くことになった祖牛さん>

 

「”仏教はロックだぜ!” 何て言ってる僕が、

果たして、お釈迦さまが悟りを開いたブッダガヤで開催される、

戒律をテーマに僧侶たちが語るフォーラムで、スピーチをするのか!?

 

このフォーラムを企画しているチベット僧のタブケと

やり取りしている内に、何だかそんな流れになってしまった。

 

(そう言えば、彼は「ゲッシェ」という

何だかエライ特別の称号を持っているヤツだったな)

 

そんなとこにいるだけでも

僕は場違いで浮くような気がするのに、

スピーチまでするなんて、

できれば、「ちょっと用事を思い出したもんで…..」

と言って逃げたいほどである。

 

果たして、これ以上の自分への挑戦があるんだろうか?

 

何せ僕は、人を規則で縛ることが

霊的成長をもたらすと信じていない。

 

人は、内省によって自らを戒め、

エゴを滅することで、

はじめて言葉を超えた内在の仏が

自然に発現すると信じている。

 

僕にしてみれば、宇宙の理法が、

外からではなく、内から発現するのが

本当の「戒律」なのだ。

 

そして今まで、そのメソッドを

人と分かち合って来たのだ。

 

ただ今まで、その成功率は低かった。

 

人類の中でエゴを内省して、

自ら抑えたり滅することができる人は少なった。

 

多くは、エゴを抑えきれなかった。

 

抑え切れないエゴはやがて暴走する。

 

そして僕や周囲に、ネガティブなものを投影し、

外を悪者にすることで、

自らのエゴを守ろうと必死になる。

 

これまでの人類はそうだった。

まあ、だから外から縛る戒律が必要だったのだ。

 

しかし僕は諦めたくない。

 

人に内在する仏が顕れる可能性を

常に見ていたいのだ。

 

さて話を戻そう。

 

とにかく、このフォーラムの登壇者として

僕が適任であるかどうかは、

ひとまず置いておくことにした。

 

とにかく、禅堂などでギチギチに厳しい生活をしていた僧侶

(英語のスピーチができる)を見つけようとして動いた。

 

3人目に電話しのは、

元比叡山の坊さんで大徳寺で禅堂生活をしていた

祖牛さんと言う友人だ。

 

それで祖牛さんに教えてもらったお寺に

電話したりしていた。

 

だが、ふと気づいた。

 

「あ、僕が通訳するなら、

祖牛さんがスピーチすれば良いじゃん。」と。

 

それで祖牛さんに電話して話したら、

ご本人もけっこう乗り気になり、

彼もブッダガヤに行くことになった。

 

フォーラム側に送るため、

祖牛さんの僧衣姿の写真を送ってもらった。

 

そして、僧衣姿もなかなかキマッている

祖牛さんだった。

 

タブケは僕にもスピーチしろ、

と言っているが、

さてこの挑戦。

 

僕はどうするかな……?

 

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