<写真はガンジス川の野辺送り>
母親が亡くなったことを人づてに聞くと共に、
姉からの通告を文書で受け取った。
そこには、葬儀の日時と、
丁寧な言葉だが、
「家族以外の人間を呼ぶな」、
「質問などするな。話しかけるな」
という内容が書いてあった。
(その理由は、後で判明した)
道場メンバーのゆえさんに、
遺体の場所を探してもらった。
その結果、判明したのは、
葬儀屋さんの霊安室だった。
(「最後まで家で過ごしたい」と言っていた母親は、
最後を過ぎてさえ、家に帰してもらえなかったのだ)
「予約すれば、30分間、
他の人を霊安室からシャットアウトしてもらえる」
ということで、
介護に行って頂いていた道場のメンバーを含めて、
6人で音楽声明を唱えに行った。
救いは、母親の顔がスッキリと綺麗だったことだ。
そして、母親のために涙を流してくれる人たちがいたことだ。
しかしその翌日、僕には、さらなる衝撃が待っていた。
文書に「家族葬」と書いてあった場所に行ってみたら、
そこは葬儀場ではなかった。
何と火葬場!(坊さん用語で言えば、「直葬」)である。
ネアンデルタール人ですら、
葬送の儀式をしていた痕跡がある。
しかし、母親はただ焼かれるだけで、
葬儀すらしてもらえないのだ。
母親が死んだことを僕に知らせず、
全て姉が仕切ったのは、
葬儀費用をかけずに済ませたかったのだろう。
親戚すら来させなかったのは、
お通夜も葬儀もなかったからだ。
姉から母親が取り上げられた携帯にメモリーされている
母親の友人たちも、何も知らされていないままだろう。
「質問などするな。話しかけるな」
と文書で通告してきたのは、
葬儀すらやらないことに、
僧侶の僕から、
文句を言われたくなかったに違いない。
僕は、その冷たい計算高さと、
あまりの我欲の汚さに、
しばし呆然とするしかなかった。
実の娘に、生前も死後も、
ぞんざいに扱われている母親が、
不憫でならなかった。
”こんなに心が冷たく、
我欲にまみれた人たちがいるような世界には、
もう住んでいたくない”とすら思った。
あまりの衝撃に打ちのめされながらも、
僕はただ、ひたすら耐えるしかなかった。
母親が焼かれている間、焼き場の前で
僧衣姿のまま、ずっとお経を唱え続けた。
前日の霊安室。
その夜、道場に皆さんが集まってくれて唱えた音楽声明。
そして、焼かれている間、ずっと唱え続けたお経。
この3つが、僕にとっては、母親の野辺送りだった。
せめて、心の温かい道場の人たちに送ってもらって、
本当に良かった、と思った。
<付記>
母親が死んだことを人づてに聞いた日の夜、
道場で90分の声明念仏の行があった。
実は、僕は、あまり霊界とかは観ない方なのだが、
何かの折には観ることがある。
(海外メンバーには観る人が結構、いる)
この日は、特に最後の方で、
菩薩様がはっきりと現れた。
(お顔は覚えている方だが、
お名前はよく思い出せなかった)
それで、母親を連れて往ってください、
とお願いした。
すると、快諾して下さった。
そして、美しい世界へ連れて往って頂いた、と思う。
「…..と思う」というのは、
その後の展開が、記憶から欠落しているからだ。
(まあ言わば、夢の記憶が、一部欠落するような感じである)
菩薩様のお名前も、
声明修行が終わってから思い出したのだが、
うぅ、また消えてしまった。
まあ間違っていたらワルいので、
推定でここに書くのはやめておこう。
……というわけで、
母親を美しい世界へ連れて往って頂いたという
浄土の情景の記憶は、はっきりしていない。
しかし、霊安室で見た母親の顔が、
生きている時よリも綺麗だったのは、
きっとその証なのだろう。
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