観音さまの力で、魔から護られるには?

これはあまりしたくない霊界話なのだが、

思い当たる人もいるかも知れないし、

人によっては有益な情報かも知れないので、

あえて述べることにした。

 

何の話かと言うと、

「魔」についてである。

(あぁ、やだなぁ。こんな話……,)

 

仏教では、様々な種類の魔について説いて来た。

 

、お釈迦さまがどう魔と対決して退けたか、

という原始仏典があるぐらいである。

(岩波新書から出ていたと思う)

 

それから、昔から「好事魔多し」

という言葉が使われて来た。

 

これは、“人や世界にとって良いことをしようとすると、

魔がたくさん来る。(それこそ邪魔しに来る”)

という意味である。

 

要するに、修行者や、

世界をより良いものにしようと

活動する人たちには、

魔がたくさん邪魔しに来るのだ。

 

「それって本当?」と言われるかも知れない。

 

が、本当なのである。

 

”ウソ、冗談!”と言いたいのは山々なのだが。

 

そんなんで、脱落した人たちは、

古の昔から無数にいる。

 

世界を良くするための運動は、

対立したり、分裂することは、

今も昔も無数にある。

 

で、魔はどんな風にやって来るのか?

 

……というよりも、

こんな症状が起きた時は、

魔の働きだと思った方が良いという、

いくつかの典型的なものがある。

 

怒りは一番、分かりやすい。

 

妙に腹が立つなんている時は、

魔が働いていたりする。

 

怒りや不調が起きたら、

ああ、これは魔の働きだな、と思って、

簡単な、魔の消滅作法をして、鎮めることは、

僕にも時々ある。

 

(なので、これらを知っておいて損はない、と思う)

 

何か志を抱いても、

「無理だからやめておきな」と囁かれる。

 

また、たとえ一見、ポジティヴなことでも、

心が執着的な場合は、魔が働いているのかも知れない。

 

それから、異常な疲労感の場合もある・

 

身体症状や、

得体の知れない悲しみや苦しみなどの場合もある。

 

ただし、悲しみや苦しみは、

救われない諸霊が来ているからなのかも知れない。

(その辺の判別は、分からない時がある)

 

いずれにしても、魔が来ていると、

心身は平和でなくなる。温かさなどまるでなくなる。

 

時には、消え入りなくなったり、

死んでしまいたくなったりもする。

生き霊(生きた人間の怨念のエネルギー)の場合は、

眠れなくなるのが特徴で、これはちょっと厄介である。

 

では、どうしたら良いのか? (ここからが本題である)

 

というのは、実は僕は、

第二次世界大戦のカルマを引っくり返そうという、

あるプロジェクトを準備している。

 

それを実現させまいとして、魔が来ること来ること。

 

このところ、ずっと集団攻撃を浴び続けて来た。

 

あまりにも辛いので、何度も、

「もうやめようか……」と思った。

 

魔は弱いところを突いて来る。

 

家族問題として来たりもする。

 

このプロジェクトに関わる人は、

火傷をしながらやっている。

 

この「火傷」は象徴的な表現だが、

実は、僕は実際、本物の(しかも、かなりの)火傷を負った。

 

3週間経ってもまだ完治していない。

指にはバンドエイドを巻いて、毎日薬を塗っている。

 

母親の状態(杜子春の話をプログで書いた)も、

メチャクチャ気になる。

 

まったくトホホである。

 

ところが、だ。

ふと僕は、思い出した。

 

それは、1年目のアースキャラバン世界巡礼を

準備していた時のことだ。

 

いくつもの「ミッション・インポッシブル(不可能な使命)」

があった。絶対無理だろうと、誰もが思った。

 

準備期間は1年しかなかった。

 

特に、原爆の残り火をエルサレムまで運ぶことは無理案件だった、

 

何せ、9・11以降は、

広島市が海外への空輸を頼んでも、

航空会社に拒否られたそうだ。

 

その他、ロクな知り合いのいない、

広島とパレスチナでイベントを開催することなんて、

1年しかないなら無理っぽい。

 

しかし、アースキャラバン世界巡礼は

実現した(詳しくはこちら→

 

もちろんこの時も、様々な魔が邪魔しに来た。

(それが証拠に、毎年やっている内に、

多くの人が去って行った。)

 

話を戻すと、1年目の僕は、

どのようにして、魔の猛攻を切り抜けて、

プロジェクトを実現したのか?

 

ふと、思い出した。

 

その時、僕は生命を捨ててかかっていたのだ。

 

”死んでも良い。実現するかしないかも考えない。

 

「ただ、ひたすら可能性のあることは何でもやる」”

 

シンプルにそれだけだった。

 

昨日、その時と同じような気持ちに、

ふとなって、驚いた。

 

何と、そんな気持ちになって気づいたら、

僕は、観音様に護られていたのである。

 

この感覚は、表現が難しい。

 

本当に、観音様に護られていた(いる)のだ。

 

”死んでも良い。何でもやろう”と、

シンプルにそれだけになったら、

観音様に護られ、スキさえなければ、

魔も手出しができなくなる。

 

言葉を換えると、

「観音様に護られ、魔に手出しできなくさせる」には、

実現したいこと(精神的なことであれ、現象的なことであれ)

のためには、「生命を捨ててかかること」

ということなのかな。

 

世界は思ったより

シンプルなのだろう。

 

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