霊的存在と生きる(11)すぐ近くに光はあるのに

希望の火が提供する気の世界の学びでは、

様々な霊的体験が得られるが、

その内の一つについて述べておきたい。

 

人には、目には見えない気のからだというものが存在する。

 

実はその気のからだには、

それこそ毎秒と言って良いぐらい、

様々な因縁を伝わって諸霊はやって来ることが体験できる。

 

(この様々な救霊の求めに対して、

アイヌ文化は

「人間の使命が諸霊を天に送ること」としたのだろう)

 

もちろん、諸霊はやって来ていることを、

ほとんどの人は気づかない。

 

だから、”ああしんどいな、疲れたな。

 

まあこれが生活(人生)というものだろう”と

無意識に諦めている。

 

それは年齢と共に積み重なっていく。

 

そして、心身の不調や重さ、苦しさとなっていく。

 

やがて病気になる。

 

人はまさに、「生老病死」を迎えていくのである。 

 

先に述べたように、

様々な因縁を伝わってやって来た救われない諸霊には、

悪霊が随伴している。

 

そして、これら悪霊は、

人が救霊のために霊的回向しなければ、

抱えているカルマと合一する。

 

別の観点から言えば、

人がカルマの重力から脱出しなければ、

カルマに捕まり、

れは諸霊や悪霊を引き込むことになるのだ。

 

だから人は、

カルマの重力から脱出し,

霊的回向を実践するようにならなければならないのだ。

 

一見、人類は文明が進み、

進化したように見えるかも知れない。

 

しかし霊的レベルから言えば、

3才レベルにすら届いていない。

 

(霊的に大人であれば、自分一人の足で立ち、

自分や周囲、

そして世界の未来に対して、

はっきりとした責任を持って生きている)

 

お釈迦さまは菩提樹で悟られたとき、

”どうせ人類は理解しないから、

この悟りの状態のまま涅槃に往ってしまおう”と思われた。 

 

果たして人類は、

その頃からどれほど霊的に成長したのだろうか? 

 

いつまで虚しく「生老病死」を迎えていくのだろうか。

 

すぐ近くに光はあるのに。

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