人が大切にされない世の中に心を痛めて来たら、 捨てることができない信念がある

法話を再開し、

その長いサマリーをここに書いた。

 

しかし、超ドジな僕は、

間違ってすベて消去してしまった。

(このような時は、嘆くと運が悪くなるので、

僕は明るく対処することにしている)

 

サマリーは僕が属している、

というかやっているタオサンガに関すること。

 

”どうしたら、霊的修行の道が宗教にならずに済むのか?”。

これは、ずっと悩みの種だった。

 

そもそも、タオサンガのコンセプトは極めてシンプルなものだ。

 

「利他の氣で、宇宙大霊如来の光明や大愛をふり向ける」というもの。

修行中はもちろんのこと、

他の人に相対している時も、もちろんである。

 

”それは人の運気を上げ、

世界を変え、そして諸霊も救済する。”

 

ただし、それは絶え間なくエゴに打ち克つことが

前提になる。

 

「利他の氣で、

宇宙大霊如来の光明や大愛をふり向ける」というのは、

一つの心の状態(境涯)であり、また生き方である。

 

しかし、その心の状態(境涯)や

生き方になっていない場合、

どうしても修行の場を『対象化』して捉えてしまう。

 

そして、エゴの許容範囲では

”やる”ということになるが、

自分の心への直面が、

エゴの許容範囲を超えると、

”やめる”という話になる。

 

これは、より正確に言えば、運気を上げ、世界を変え、

そして諸霊を救済すると言う、

その心の境地や生き方を「目指す」のをやめる、

と言うことである。

 

これは元々、修行の場を”人生そのもの”とか、

”人間界”という風に捉えていなかった、ということだ。

 

だから、対象化していた修行の場、

AさんとBさんとCさんたちのいる”コミュニティをやめる”

という認識になってしまう。

 

もし、真にエゴに打ち克つ、

利他の氣の状態(境涯)や

生き方になっていたなら、

自分の足で立っているから、

自分一人だってやっているはずだ。

 

利他の氣の状態(境涯)や生き方を、

自分一人だってやっているなら。

”やめる”とか”やめない”と言う話にはならない。

 

つまり修行の場を対象化して認識し、

何かグループがあるかのように錯覚して、

集団があるかのような幻想に陥っていたということだ。

 

修行の場が宗教になってしまうかどうかは、

人が”自分の足で立つか否か”にかかっている。

 

自分の足で立っているなら宗教にはならない。

 

自分の足で立たないなら、

それはお客様か信者である。

 

そしてお客様(趣味)と信者(宗教)の違いは、

単に、のめり込みの度合いの違いに過ぎない。

 

エゴに打ち克つ、

利他の氣の状態(境涯)や生き方は、

本人をや人を幸せにする。

 

それだけではない。

それは、他者の幸せに責任を持つ、

という生き方だから、

ヘレン・ケラーが言ったように、

世界を変える。人類を幸せにする。

 

だから、

「エゴに打ち克つ、利他の氣の状態(境涯)

や生き方を目指すのをやめます。」

(ご本人は単に”やめます”としか言わないが)

と言う人を見るのは、人類の幸せが、

また一歩遠くなった気がして、正直辛い…..

 

その人のご先祖や守護神様方も、

きっとそんな気持ちだろうな、と思う。

(その気持ちまで、自分の心に入って来てしまう)

 

もう一度言おう。

 

この氣の状態(境涯)や生き方は、

本人や人を幸せにするだけではなく、

世界を変え、人類を幸せにする。

 

自分のことよりも、

人が大切にされない世の中に心を痛めて来たなら、

この信念を捨てることはできない……

 

プライム法話「サンガとは心の状態のこと」(10分) 音楽:aminadabu

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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